お嬢様と老人10
何日かの準備の後、ヘーリアンティアはヘキを使い魔にする事に無事成功した。
幻獣を使い魔にするという事で、ウェネーも相当な触媒を用意して入念に準備してくれた様だが、それを使うこともなく思いの外簡単に契約を結ぶ事が出来た。これはヘキが高い知能を持っている事に加え、ヘーリアンティアが自分の魔力で卵を孵した事が影響した 様だ。
蛙に成ったヘキはたまに体を湿らせる為に水に入る以外、常にヘーリアンティアの頭に乗っている程の懐き様で、お互いの魔力も非常に親和性が高いと感じられる。あまりにすんなりと成功したせいで、ウェネーなどは疑り深く首を捻っていた。それだけ幻獣を使い魔にするのは難しいという事なのだろう。なかなか幻獣の卵を手に入れるという幸運には恵まれないのだ。
ただ、使い魔にする事自体には成功したとはいえ、現状は魔力の繋がりが出来ただけでこれといった事が出来る訳ではない。ヘーリアンティアもヘキと魔力が繋がった状態に体が馴染んでいない為、基本の知覚共有さえ使えないし、ヘキも産まれて日が浅い為幻獣としての能力の大部分は目覚めていないだろう。言わば、使い魔とその主として、最初の一歩を踏み出したに過ぎない。
しかし、これからはお互いの成長に従って様々な事が可能に成って行くはずだ。特に幻獣は『空間』『言語』『時間』などに係わる特殊な能力を持つものもいて、魔力的に繋がった主もその能力属性を得る事が出来る場合がある。ヘキがどういった能力を開花させて行くか楽しみだった。
そして、遂にゲルマニカ公から城を出る許可を貰った。
『転移』の方術を習得した事と使い魔を得た事から一人前と認めて貰えたのだ。冬に初陣を経験した事も好材料だった。一緒に戦った騎士達、特にエクエスが随分と父を説得してくれたらしい。
「君はまったく生き急ぐものだね。その年で六層方術を修めるなんてアリストテレスやプリニウスみたいじゃないか。
父親としては喜んでいいのか悲しむべきか」
ゲルマニア公は複雑な笑いを浮かべてヘーリアンティアの頭を撫でた。
「この街を出るのに不足はないのだろうけれど、もう少し待ちなさい。
僕の方でも幾つかの学園や修道院に問い合わせてみたが、何処で学ぶかというのは中々難しい問題だね」
ゲルマニア公は『転移』の練習を始めたあたりで手を回して、各地の学園や修道院の情報を集めてくれていたのだ。
「サレルノ医学校は非常に有名だし、パリ大学やボローニャ大学にも医学部はある。各地の修道院にも医術を重視する場所は多い。だからこそ、この選択は重要だ。
人脈を作り世俗で出世を目指すならパリ大学あたりが最善だろうけどね。歴代の教皇にもあそこで学んだ者は多い。
しかし、純粋に医療方術を極めたいなら修道院に隠棲している達人に師事する方が良いかもしれない。悩ましいね。
実は家の方術士達にも見解を出させたのだけれど、まさに議論百出と言ったところでね」
ゲルマニカ公が苦笑する。
「この街の大学でも医者を集めて研究させてはいるが、如何せん歴史が浅い。どうしたって著名な者は有名処に取られてしまう。
虎の子の君を出すのは、優れた医者を排出する教育機関と縁を結んで人材を勧誘したいという思惑もあるんだ。
言ってはなんだが、君位の立場の者が直接学びに行くなんて滅多にないだろうからね。それなりに効いてくるのは確実だ。ヘーリも上手く立ち回っておくれ」
「勿論です。
能力さえ有れば、待遇は最高だという事で宜しいのですよね?」
「うん、この際身分も素性も一切問わない事にしよう。
犯罪歴やらのややこしい事情は此方で調べるから、君は目ぼしい者に声を掛けてくれればよい。
とは言え、決定にはもう少し掛かりそうだ。僕も検討してみるから、ヘーリも考えておきなさい。
その間に冒険者として登録して、皆に挨拶を済ませればよい。
君は市井にも友達が多いのだろう?」
冒険者組合『腸詰と麦酒亭』は、商業区の川沿いの一角を占める宿屋街に非常に立派な石造りの建屋を構えている。
目の前を流れる川には広くて頑丈な石造りの橋が架かり、その下を多くの川舟が行き交っている。川岸では停泊した舟から荷を下ろす男衆の威勢の良い声が響く。道には荷馬車や荷車が行き来し、上半身裸の逞しい人夫達に加えて武装した冒険者の姿も目立つ。こういった様々な地域の者が集まる貿易拠点では揉め事が頻発するし、川を伝って魔獣が入り込む事も有る。その為の警護に雇われているのだろう。
古来より川は貴重な資源である水を大量にもたらし、少ない労力で多量の荷を運ぶ交易の要として人々の生活になくてはならないものだった。川沿いに宿屋、倉庫、商店が集まり都市の流通を担うのは自然の成り行きだ。そうして交易が活発になれば、水を大量に必要とする鍛冶職人や染物職人、皮なめし職人なども集まり職人街が形成される。ただし、彼らは水を汚しお互いの仕事に悪影響を与え合うので、川の下流側の決められた区間に集まって仕事場を作り、方術で汚染を取り除いた水を流す事が義務づけられている。でなければ互いの権利を巡って百年単位で揉め続けるし、下流に住む者も妙な色に染まった水を飲む羽目になる。
この様に川沿いに宿屋街が在り、宿屋を発祥とする『腸詰と麦酒亭』が其処に在るのは当然と思えるのだが、調べてみると少し違う理由も有るらしい。大昔、この一帯の川は迷宮と化しており、水棲の魔獣が潜む船乗り達に恐れられた難所だったそうだ。最盛期には船を丸呑みにする程の巨大魚も存在したと云う。『腸詰と麦酒亭』は川の迷宮攻略の前線基地兼宿泊施設が大元の姿だったらしい。人が集まれば利に聡い者達も工夫をする。そういった者が開いた酒場兼宿屋だったのだろう。実はヘーリアンティアの住む城も、かつて存在した迷宮の勢力圏が交わる中心付近に造られたローマの軍事駐屯地が起源らしい。幾多の犠牲を払って迷宮核を取り除き、迷宮を滅ぼした今となっては、丘の上の城と川沿いに在る冒険者組合だけが当時の名残を伝えている。現在この近辺に残る大規模な迷宮は『水晶山脈』のみである。
ヘーリアンティアは『腸詰と麦酒亭』の古ぼけた色合いの木製の扉を開いた。扉に取り付けられた鐘が鳴る音を聞きながら中に入ると、昼間にもかかわらず様々な人種の者達が騒がしく酒を飲む、非常に雑然とした空気に出迎えられる。こういった宿屋は大体一階部分が酒場になっているもので、『腸詰と麦酒亭』もその例に漏れない。ほの暗い部屋の中は相当に広く、十を超える食卓が在るのに加えて食事や酒の世話をする店員の前にも長い机が設えられ、客達が店員と向かい合って一杯飲んでいる。食卓も概ね埋まっており、一仕事終えた後だと見える武装した若い集団が今日の戦果について元気良く話し合っているかと思えば、楽な服装の壮年の冒険者達が落ち着いた雰囲気で何事か話し込んでいる。特徴的な外套を羽織った方術士の姿も幾つかある。希少な方術士がこんな時間帯に何人も見られる事から考えて、全体では相当な数の術者が所属しているのだろう。流石は千年を超える歴史を持つ組合だ。
冒険者に加えて身なりの良い商人や職人風の者達も幾らか見られる。此方は仕事の依頼をしに来たり、何事かの打ち合わせを行っているのだろう。あるいは単なる社交目的かもしれない。各地を旅する冒険者が集う組合は、鮮度の高い情報が行き来する金の卵でもある。一端の商人ならば、組合に日参して冒険者たちと語らう習慣を死ぬまで止めないという。そうして情報を集め、有力な冒険者と親交を結んで囲い込み、護衛に伴って儲け話に飛び込んで行くのだ。
そんな喧騒と熱気が満ちた酒場の中に在って、一際強烈な存在感と人相の悪さを誇る集団が麦酒片手に此方を睨め付ける。貫禄と周囲の人間の態度から言っても、明らかにこの場で頭立つ一団だ。
「何だい、子供が来るところじゃあないぞ、蛙を乗せたお嬢ちゃ……、姫様?」
熊の方がまだ愛嬌の有りそうな、髭面の最後の民の大男が目を丸くする。
「おお、よく見りゃ姫さんじゃないですかい?
また勉強をさぼって遊びに来たので?」
「蛙なんて頭に乗せて、そういう格好が最近の社交界の流行りなのか?
しかし、餌をやり過ぎだろう。丸いにも程があらぁな」
「スクァーマの旦那も、まあ座りなよ」
実は知り合いなのだ。少々引っ掛かる言い方ながら、欠伸をする猛獣の様な笑顔を浮かべて歓迎してくれる。元はスクァーマの昔馴染みだったらしく、その縁で何かと話を聞かせてもらったりしていた。老人には若造扱いされるスクァーマだが、年齢は四〇近く、現役冒険者の中でもかなり年長の部類に属するらしい。その為に知人も多く、音に聞こえた名声もあって非常に敬われている様子だ。その割に若々しい印象も受けるのは、長命な蜥蜴族ならではだろう。
スクァーマと共に空けて貰った椅子に腰かける。前の食卓には麦酒の杯と、様々な腸詰と玉菜の塩漬けが山盛りになった皿が在る。冒険者達はヘーリアンティアを取り囲んで、ある者は立ったまま、ある者は卓にもたれて肘を突きながら腸詰を齧り、麦酒を呷る。こうして囲まれると、まるで山賊団の集会に参加している気分で妙に楽しい。周囲の若い冒険者達は、厳めしいこの酒場の主達が席を譲って立つ姿を見て、呆気に取られた風な顔で此方を窺っている。確かに、熊と取っ組み合っても捩じ伏せてしまいそうな強面で鳴る男達が、自分の様な子供に丁寧な態度で接すれば驚かれもするだろう。
「実は、今日はお話を伺いに来たのではないのですよ。
お楽しみのところにお邪魔してしまって済みませんね」
「そういう事だ。
この蛙はお嬢の使い魔だ。幻獣らしいぞ」
「ほぉ、幻獣と来たか。
真冬に『冬狂鬼』と真っ向からやり合う方術士は、流石に使い魔も一味違うな」
卓に肘を突いた男がヘキを摘み上げる。ヘキは口を空けて腸詰の方を物欲しげに見つめている様だ。男が腸詰を摘んでヘキの口に放り込むと、ありがとうと言う風に頭を振る。男は無精髭の生えた顎を撫でながら唸った。
「おぉ、確かに蛙にしては馬鹿に礼儀正しいな。
という事は、丸いのも太っている訳じゃないのか?
似た様な格好の魔獣に『悪食蛙』ってのもいるが」
「おお、麗しの『悪食蛙』!
あの蛙様が偶に残す胃袋が笑える位に良い値なんだよな」
「涎が出る様な獲物だったな。今でも夢に見るぜ。
あの迷宮でもうちょっと稼げていれば、今頃嫁でも捕まえて引退してたかもな」
「無茶を言うな、あそこは死ぬ程揉め事が多かったからな。
教会と領主と幾らかの組合が共同管理するとか、あそこでしか見た事ないぜ。
どんな取り決めがされているかは知らんが、毎日何かしらの理由で人間同士も討伐し合っていただろう?
阿呆かよ、死んじまうっての。何の為に迷宮に潜ってるのだか」
「楽して稼ぎたいのは皆同じさ。その為に血を見る事を恐れちゃいけねぇや」
いやはや、実に歴戦の冒険者らしい会話だ。酒場で管を巻きながらこういった事を話す状況には少し憧れてしまう。そうして、右も左も分らない新人が恐る恐るやって来たところを厳めしい顔で煙に巻くのだ。「坊や、帰って童話でも読んでなさい。此処はお子様が来る場所じゃないわ」いたいけな若者に洗礼を浴びせる先輩冒険者。実に渋くて趣深い。
「『悪食蛙』が愛おしいのには同意するが、今日はそんな話をしに来た訳ではないのだ。
お嬢が組合に登録するのさ」
スクァーマの言葉に一同が静まり返る。熊の様な髭面が行儀悪く腸詰を咥えたまま喋る。
「……姫様、まさかとは思うが、お転婆が過ぎて家を追いだされたか?
澄まして座ってりゃあ、王様でもたぶらかせそうな顔で勿体ない」
「生きていればそんな事だってある。失敗の方が多いのが人生ってもんさ。
俺達の小隊に入れよ、方術士は貴重だからな、大歓迎だぜ。
ついでにスクァーマの旦那もどうだ?」
一体自分はどんな風に見られているのか? ヘーリアンティアは思わず遠い目で我が身の行いを省みてしまう。
「いえ、断じて、追い出された訳ではないのですが、遠方へ方術の勉強に行くつもりでして。
組合に所属していた方が色々と融通が効くらしいので、末席に加えて頂こうかと」
「ほぉ、その歳で修業に出るのか。方術士ってのは大変だな。
斬った張ったをしてりゃあ身になる戦士で良かったぜ」
「お前の軽い頭で方術士もなかろう?」
「ぬかせ。俺だって、ぶっ殺しても問題ないか位は考えるさ」
実に剛直、あるいは粗暴な物言いだが、彼らもそれぞれの得物を用いた戦闘術の達人なのだ。先人達の膨大な実戦経験の集大成である武術を学び、研鑽する過程で頭を使っていない事など有り得ないだろう。韜晦が過ぎるというものである。しかし、優れた才能の有る者ならば、ひたすらに実戦を繰り返す内に要訣を自得し、達人に至り得るのも戦士というものらしい。
方術士でそれは有り得ない。才有る者が昼も夜もなく知識を蓄え、優れた師につき魔力を操る公式を学んでも、三人に一人も大成しないのが方術士だ。独学で歴史に名を残した術者など皆無だろう。
「冒険者になるのはよいが、実績を積まないと便宜は図ってもらえないぞ。
いくら姫さんでも組合が特別扱いをする筈がない。
あらゆる者に公正なのが組合の理念だからな」
「まあしかし、『冬狂鬼』の撃破に貢献したんだ。
ある程度の実力は認めて貰えるのではないか?
その場に居合わせた者も身元が確かで地位の有る人間ばかりだからな。証言を疑われる事もあるまい」
「確か、組合は実力と功績を考慮して階級を与えてくれるのですよね?」
「ああ。方術士なら使える方術の種類と質が重要だな。
術が使えれば良いというものでもないが、使えないよりは勝るに決まっている。
戦の呼吸を知らない坊ちゃんでも、術者が居るだけで取れる選択肢が段違いだからな。俺達が上手く使ってやれば問題ない」
「功績は、要はどれ位組合を儲けさせたかだな。こればかりは姫さんでもまっさらの状態だ。
一番手っ取り早い方法として、組合に金をくれてやるって手も有るがな。
金を積んで名誉階級を持っている金持ちや貴族は腐る程居る」
「金を放ってくれるんだ、名誉階級なんぞやればよかろう」
「奴らも見栄えや思惑に利用したいのだ。無意味な散財をする阿呆が居るものか。
金の力で一端の冒険者を気取る性根が気に喰わん」
「阿呆はお前だ。出資者が居なくては組合など回る筈がなかろう。なぁ姫様?」
「そうですねえ。
直接魔獣と戦う力がなくても金銭面で冒険者を支援し、見返りに便宜を図って頂くとご理解頂ければ。
あくまで建前で、実際は金銭で特権を購入している様なものですがね。
しかし、これが喜捨という形になると、出資者は激減すると思われます」
「聞いたか馬鹿ども。姫様の方がよっぽど大人じゃないか」
「いえ、父も兄達も名誉階級は持って居りますからね。
それで冒険者風を吹かせるのは良くないと思いますよ」
「ゲルマニカの連中は中々に弁えているだろう。
坊ちゃん方も偶に来るし、騎士どもとはよく組んでいるぜ。
あいつらは方術が使えるからこちらも助かっている。
領地によっては、剣を握った事もないお貴族様が組合でも威張ってやがるからな」
外敵と戦う事を存在理由とする貴族の間では、冒険者組合に所属する事を一種の義務であり、名誉だと捉える。極端な話しでは、王が組合の長を兼ねる土地も在るらしい。金持ちや商人達もそれに倣って組合に入り、是非は兎も角として上流階級の社交場と化している場所もあるそうだ。ゲルマニカでも下の兄は軍人であり、戦いを重んじるので組合が肌に合うのだろう。ヘーリアンティアも何度か兄に連れられて来た事が有る。騎士達が所属する理由は、名誉や金銭など様々だろう。娘が結婚するので持参金を用意せねば、などと言って余暇に迷宮に通う騎士もいた。
「功績はぼちぼちと魔獣の素材を売ったり依頼を受けたりして積み上げる事にします。
本格的に冒険者として活動するまでにある程度になればよいので」
「方術士なら巻物やら秘薬やらをこしらえても功績にはなる。どこの組合で得た階級かで信頼の度合いも大きく変わるがな。
件の貧弱な貴族が仕切る組合の階級なんざ、端から誰も信用しない」
「しかし、姫様は本気で冒険者に成るつもりなんだな。
気を付けろよ、冒険者なんざ俺らみたいな悪たればかりだからな。
油断すると取って食われちまうぜ」
熊の様な髭面が殊更に恐ろしい顔を作って忠告してくれる。厳つい顔に似合いの偽悪的な言葉に、ヘーリアンティアは微笑んで頷いた。
男達と別れると、黒い長衣に白い前掛けを身に着けた給仕の女性に来訪を告げ、その案内で奥へと向かう。酒場を抜けた先の廊下には幾つかの個室へと繋がる扉が在る。貴族やら大商人やらの立場が高い者が親睦を深める為に使う他、階級の高い者がくつろぐ為にも利用される豪奢な造りの部屋だ。兄に連れられて入った事が有るが、象牙の軍棋盤や立派な本棚を備えており、蔵書も中々のものである。上流階級の社交場と言ってしまっても通用する部屋だった。おそらく、各方面の者が集まっての如何わしい会合にも利用される事だろう。実績を挙げていずれは自分もそんな会合を開いてみたいものだ。
こんな風に、冒険者組合というものには様々な業界の人間が集まる。一番多いのは魔導器、秘薬職人の組合に所属する者だろう。魔獣の素材を加工し、売るからこそ、迷宮からは莫大な利益が生まれる。勢い、素材の買い取り、製造、販売、それぞれの権利は熾烈な奪い合いになる。領主の力が強い土地では、全てを貴族が独占する。反対に冒険者組合の力が強い土地では、魔導器、秘薬職人に組合を作らせずに利益を吸い上げる。職人や商人の組合の力が強ければ、その方に財貨が流れ込む。ここらの事情は、魑魅魍魎が跋扈する複雑怪奇な世界の話だ。とても素人が視通せたものではない。
事実だけを言えば、ゲルマニカでは冒険者組合が主導しつつも、ゲルマニカ家も製造販売には一枚噛んでいる。魔導器、秘薬の製造というものは難しい。専業方術士の中でもなお適正が分れ、不得意な者も多い。方術が達者なだけでは駄目なのだ。逆に方術の素養が少なくとも、長年鍛えられた職人の中には神業の様な腕を持つ者も居る。こういった者達を発掘し、業を継がせて行くには組織の力が要求される。その意味でも『腸詰と麦酒亭』が持つ力は相当のものだ。
この様に、大きな冒険者組合には人、金、情報の全てが集まる。有力な組合の中には、季節に一度程度の割合で独自の出版物を刊行している場所も在る。素材の買い取り値段や魔導器、秘薬の価格から迷宮情報に軽い読み物も記載された其れは非常に面白く、その組合の情報網の確かさを思わせる物だ。
ゲルマニカ家も情報収集の一環として各地の刊行物を取り寄せている。勿論恣意的な情報操作も為されているのだろうが、そういった事情を抜きにしてもヘーリアンティアは毎回届くそれらを楽しみにしていた。ゲルマニカでも定期的に出版すれば購買する者も多いのではないだろうか? 初期費用と情報網を用意出来るのならば、商売になりそうな気がするのだ。領の発展に貢献するという父との約束を果たす上で温めている案の一つである。各地の紀行文を乗せれば話題性は十分で、字を読める者は情報収集と娯楽を兼ねて結構買ってくれるだろうと考えている。ついでに情報操作で悪さも出来るのだから言う事はない。
目的の組合長の執務室は、個室への扉が並んだ廊下の一番奥に在った。給仕が扉を叩いて要件を告げた後に通される。
部屋は組合の規模に相応しい素晴らしい造りだ。ざっと見渡してみても、調度品が全て一級の品だと見て取れる。その一方で珍しい魔獣の素材が所狭しと飾られているのが如何にも、といったところだ。この素材の由来を聞くだけで話が弾む事だろう。そんな意味も有って飾られているのではないだろうか。
「姫様におかれましては、態々お越し頂き恐悦至極」
「いえ、こちらこそ一冒険者の登録の為に、わざわざ組合長に出張って頂き申し訳ないで す」
組合長は壮年と言うにはまだ若い男だ。端正な顔立ちと優雅な所作に加えて言葉の調子も上品なもので、明らかに貴族階級の産まれである事が窺える。本人の語るところでは西の国の貴族の三男坊で、身を立てる為に冒険者に成ったのだという。ヘーリアンティアが見た限りでも、西の方の貴族流の作法に則った動きをしている。
「名高いヘーリアンティア姫が登録して下さるのです、係の者に任せて終了という訳には行きませぬ。
先だってお渡しした規約はお読み頂けましたかな?」
「ええ、熟読致しました。
此方で登録した内容が概ね他の組合でも通用すると考えて宜しいのですね?」
「程度の差こそ有れ、その通りです。我らが組合はそれなりに名が知れています。
此処で登録した内容に関しては、後々につまらぬ諍いを起こす事もないでしょう。
無論、他の組合で重ねた実績については保証致しかねますがね」
「了解致しました。
実力の査定は、此方で術を打ってご覧に入れれば宜しいのですか?」
「それには及びません。使える方術を書き出して頂ければ結構。
先日遂に『転移』を修められた様ですな」
「随分早い耳をお持ちですね」
「職業柄、色々と耳打ちしてくれる者が多いのですよ。
『冬狂鬼』との一戦も概ね把握しております。既に術者としては一人前と言って良い腕をお持ちの様だ。真に慶ばしい」
組合長が淡々と言う。ゲルマニカ家内部にまで情報網を持つ様だが、それを誇った風でもない。成る程、若いながらに一癖も二癖も有る冒険者の組合を束ねるだけの風格が感じられる。
「それは、手間を省いて頂いて有難うございます。早速書類を作成致しましょうか」
習得した方術を書き出して行く。こういった契約では方術を用いて虚偽の有無を調べる。地力発動が可能な術と触媒が必要な術に分けて素直に書いて行く。
「使える術の種類は方術士の生命線です。切り札は秘匿されても結構ですよ」
使えない術を記入するのは不正だが、使える術を記入しないのは不正とは限らない。調べ方によってはそういった事まで分るのだが、隠し通す為の方法もまた存在する。とは言え、現状ではそこまでして秘匿する術はない。今後は必要かも知れないが、今やる意義は薄い。
「御冗談を。その様な大層な術が使えるのなら、『冬狂鬼』戦で綱渡りをしておりませんよ」
「魔獣戦と対人戦は別物です。
魔獣には効果が薄くとも、対人においては絶大な効果を持つ術も有ります。一つはそんな術を身に付け、秘匿される事ですな。
いつだって、最後に立ちふさがるのは人間としたものです」
組合長が口元を歪める。厭世的だが、歴史を鑑みれば真理を含んだ言葉でもある。しかし、この場で発する言葉としては些か意味深長だ。本当に忠告してくれた様でもあるし、組合とゲルマニカ家の微妙な関係を暗示した様でもある。ゲルマニカ家の力はやはり強大だ。その力で冒険者組合の権益の拡大を抑え込んでいる事は否めない。
「御忠告、肝に銘じます。
貴方程の歴戦の勇士ならば、さぞや沢山の切り札をお持ちなのでしょうね?」
「有ると言えば有りますが、まず以って切り札を使うという状況自体が頂けません。
決定的な局面に至る前に流れを変えなければ、命など幾ら有っても足りませんよ。
さて、記入は終わりましたかな?
冒険者の階級について説明させて頂きましょうか。ご存知でしょうが、組合は階級に応じて冒険者に特権を与えます。簡単な所では通行税など、各税の免除ですな。
これは各地で数も呼び方も違うのですが、長く冒険者をしていれば階級を聞くだけで大まかな立ち位置位は分かる様になります。
そちらのスクァーマ殿などは上から数えた方が早い階級をお持ちなのですよ」
「異国の組合で得た階級だ。不正に手に入れたものかも知れんぞ。
お前達に判断出来るかな?」
黙して腕を組んでいたスクァーマが口を開く。
「そこが問題なのです。
我々としてもあまり表に出す訳には行かないのですが、組合を跨いだ虚偽、不正とそれを利用した犯罪というものは非常に多いのですよ。
発覚すれば階級に応じた罰金を科し、裁判権を持つ組合では不正を犯した冒険者を即座に斬り捨てる事すらありますが、中々に、ね。
だからこそ我々は、虚偽を見抜く事に長けた太陽術者を歓迎しているのです。姫様に組合がお願いする依頼としましては、契約の場に立ち会って頂き、術を用いて公正を保証して頂く、というものが多くなるでしょうな。
公証人の資格などを取られたら、なおの事宜しいかと存じます」
「なるほど、魔獣とやり合うだけではなく、そういった事務方の依頼も有り得るという事ですか」
「十分な法知識が有る太陽術者はどこでも重宝されますよ。
姫様ならば大概の貴族に位負けしませんので、ややこしい契約の場ではお力を拝借したいところです。
短時間で効率良い稼ぎになります故に、冒険の資金を貯める手段としては有力でしょう。高位の冒険者というものは、装備を整えるだけで常軌を逸する程に金を食います。方術士は特にそれが顕著です。
追々実感される事でしょうが、迷宮攻略の進捗と資金の兼ね合いで皆頭を痛めているのですよ」
「金を食う代わりに金を稼ぎやすいのも方術士というものだ。
階級の話を続けろ。日が暮れるぞ」
スクァーマが釘を差す。どうも脇道に逸れた話にも食い付いてしまうのが悪い癖だ。
「失礼、我々は占い札に因んだ二十二の階級を採用しています。近隣諸国の有力な組合も多く採用している方式ですので、分り良いですな。
姫様はその最初の札、『愚者』から始めて頂きます。無知故の愚かさと白紙故の可能性を示す札ですな。宜しいですか?」
「馬鹿を言うな。
『転移』を使いこなし、『貴族級』の魔獣を撃破する方術士が『愚者』だと?
愚かなのはお前の方だろう」
「スクァーマ殿、我々冒険者の悲願を忘れて貰っては困ります。
我々は太古より迷宮を滅ぼす事を至上の命題として戦って来た。
如何に高い位に在り、如何に強い術を打てようとも、何らかの形で迷宮の打倒に貢献して頂かなければ階級はお渡し出来ません。
金を、人を、情報を掻き集めるのも、全ては迷宮を打倒する為。我々の全ては迷宮攻略に向いているのです」
激するスクァーマと反対に、組合長はあくまで淡々と言う。だが、その目には固い色合いが有る。信念、情念、あるいは信仰とも言えるものに従う人間の目だ。
「事務屋風情が偉そうに語る。小僧に冒険者の何が分かると言うのだ?」
「スクァーマ、止めて下さい。
『愚者』大いに結構じゃあないですか。今の私に相応しい階級ですよ」
ヘーリアンティアが微笑むと、スクァーマが目を逸らす。だが、罵声を浴びせるのは止めてくれた。
「ご理解頂き、有り難いですな。貴顕の方々はここらでよく我儘を仰る。
無論、金を出して頂けるのならば階級をお渡しするのもやぶさかではないのですがね」
「それは止めておきましょう。私が自由に出来るお金など微々たるものです」
書類の記入を済ませ、先程の話にも出た太陽術士の公証人を呼び出す。
「……真に失礼ながら、御朗読申し上げる必要は……」
「読んで頂かなくても大丈夫ですよ」
震える声で聞いて来る公証人に笑顔で言う。字が読めない者の為に聞く決まりになっているのだが、領主の一族にはさぞかし言い辛い質問だろう。可哀想な程に恐縮し切っている。
「は、では双方契約事項について誤りがない事を今一度御確認下さい。
宜しいでしょうか?」
「問題ありませんな」
「此方も確認致しました」
「では、公正なる太陽の下に、正当なる契約が交わされましたる事を、私めが証明致します。
双方契約に従い精勤為されますように」
最後に公証人が署名をして契約が終了する。今回は大きな金銭が動く契約という訳ではないので簡単に済んだが、大商人同士の契約などでは双方が方術士と公証人を連れて行き、様々な角度から方術による査定と誓約を行い、精査を重ねて漸く契約成立となる。それでもなお、世には不正と詐欺が横行しているのだから、契約の隙を衝く手法は色々と有るものだ。可能か否かは別として、ヘーリアンティアも当然そういった方法の教育は受けている。騙されない為にも、相手を出し抜く為にも、貴族とはそういった方法論を研究せざるを得ないのだ。
「さて、これで姫様も冒険者と相成りましたな。
組合で為す全てにその登録証が必要となりますのでご注意下さい。持ち込んだ素材も受けた依頼も全てそこに記入されるという訳です。
此方でお預かりも出来ますが、持ち帰られますか?」
「近々この街を出る予定ですので」
「では、くれぐれも失われる事がない様に。
冒険者の起こす問題の中でも、登録証の紛失は最たるものです。ましてや、姫様の登録証ともなれば、利用価値は測り知れませんからな」
組合長の言葉に頷いて、羊皮紙の登録証を丸めて紐で縛るとスクァーマに手渡す。
「では、お忙しい中、お時間を取って頂きありがとうございました」
「いえ、有意義な時間でありました。今後とも『腸詰と麦酒亭』を宜しくお引き立て下さい。
では、姫様におかれましては、良い冒険をされん事を」
ああ、と組合長が顎に手を当てる。
「忘れておりましたが、登録の費用は外の給仕にでもお払い下さい」
部屋を出た途端にスクァーマが毒突く。
「気に食わん、何だあの小僧は」
部屋の前で控えていた給仕の女性が震え上がる。見上げる様な巨漢の戦士が悪態をつけば無理もない。ましてや、状況からして自分の組織の長を罵倒しているのが明らかなのだ。
「落ち着いて下さい、スクァーマ。
彼にも若い身空で地位についた気負いが有るのでしょう。抜け目の無さそうな人物でしたし、冒険者にとっては喜ばしい事ではないですか?」
「金勘定しか出来ん事務屋が冒険者を語るなど反吐しか出ぬ。
真の冒険者とはお嬢の様な者を言うのだ。未知を愛し、世界の姿をその目で見んとする気概こそが冒険者の根源だ。それを――」
「スクァーマ、止めなさい」
ヘーリアンティアの珍しい叱責にスクァーマが動きを止める。
「あの者も組織を守ろうと必死なのでしょう。その意思は酌みました。
貴方は私の為に怒って下さっているのですよね?
有難う御座います。貴方のそういう愚直なところは好ましいですよ」
ヘーリアンティアが笑いかけると、スクァーマの顔にも苦笑が浮かぶ。
「分別臭い奴だ。前から思っていたが、実は俺より婆なのだろう?」
「私の様ないたいけな子供を捕まえて、何て事を言うのですか」
顔を見合わせて笑い合う。この世の終わりの様な顔をしていた給仕の顔もほころんだ。
城へと帰る道すがら、まだ高い太陽の下で話をする。ヘーリアンティアの身の丈を越えそうな大剣を背負ったスクァーマは、尻尾を揺らしてゆっくりと歩いてくれる。歩調を合わせてくれる気遣いが嬉しい。
「これで私も勇敢なる愚者の仲間入りですね。いやはや、何だか世界も違って見えますよ。
気のせいか、太陽の光もいつもより柔らかい」
「女の好みそうな詩的な表現だが、気のせいだな」
「私もそう思います。でも、気分が良いから気のせいでも構いません。
スクァーマが組合に入った時は、直ぐに別の土地へ旅立ったのですか?」
「いや、実は登録する金すら無くてな。暫くはその組合で借金返済に励んだものだ。
後で聞けば、大概の新人が最初はそんなものらしいな。
大体、一々通行税など払っていられんから、最初の組合である程度の階級を得なければ動きようがない」
「そうですか、やはり私は恵まれていますね。感謝の気持ちと為すべき義務を忘れては駄目だと、肝に銘じなければなりません」
「人間には要らなくとも持って産まれる物も、いかに焦がれようと手に入らない物も有る。
産まれ育ちのしがらみなど忘れて、好きに生きれば良いと思うがな」
「……今はまだ大丈夫ですが、背負う荷物が多くなり過ぎたら、そう考えてしまうかもしれません。
でも、そう言うスクァーマだって、好き勝手に生きている様には見えませんよ」
「不思議と思った様には生きられんものだ。
俺も昔は放浪者を気取り、世界の果てを見てやろうと意気込んでいたのだがな」
「スクァーマにはもう目指す意味がないのですか?」
「ないのかもな。お嬢に出会ったからかも知れん。俺が見ずとも、お嬢が辿り着くだろう。
俺は酒でも飲みながらその話を聞くだけで十分だ」
「うーん、でも自分の目で見たくないですか?
見ずには死に切れませんよ」
「時を重ねる毎にいつの間にか、そういう心を失ってしまったのだ。
魂が曇ったのか、身の程を知ったのか。
やはり、お前達は良いよ。魂が若いままに生き、死んで逝く。化石の如き我らでは真似の仕様がない事をするのは、いつだってお前達だ」
「若く愚かな心も、戦場を駆けて強くなる過程で失ってしまったのですか?
何だか、まるで老人の様な事を言いますよね」
「さて、あの頃の熱はどこに消えて行ったのだろうな。
お前の言う様に、戦場の霧の向こうに溶けて行っちまったのか。
俺にはもう、お嬢程の元気がない事は確かだな」
「でも、スクァーマなんて私の曾孫の代まで生きるのでしょう?
最後の民で考えたら私と大して変わらない年齢ではないのですか?
まだまだこれから何だって出来るでしょう?」
「そう言われれば、そん気もするがな。
俺達はなまじ長く生きる分、怠け者なのだろう。寒ければ、暖かくなるまで寝ていればよい。食い物が無ければ、獲物が通りがかるまで動かなければよい。
万事そんな調子ではある」
「蜥蜴族は頑丈だから、それでも何とかなるのですねえ」
「良し悪しだな。お前達は脆いが、自分の工夫で何とかしようとする。
おかげで大失敗も多いが、大成功もする。それに比べれば、俺達は停滞しているよ」
「我々が概して浮ついている事は否定出来ません。貴方がたにぶれ幅が少ない事も、必ずしも悪いとは思いませんが。
遺憾ながら、我々がやらかした時には、文明を崩壊させたりしていますからね」
「同胞には、お前達を短慮なこの世界の病理だと言う者も居る。
俺には、活力に溢れた若々しい種族に見えるがな。
国を滅ぼす事だって有るだろうさ。国とて、人と同じで世代交代しながら進むものだろう?
何と言っても、冒険者は動かなければならん。未知に向かって踏み込んで行く気概を失い、何が冒険者か?
そう考えれば、俺も最早あの糞餓鬼と大して変わらんのかも知れん」
「組合長とはどうも馬が合わないようですね。あの方みたいな冒険者は珍しいのですか?」
「いや、ある種の典型ではある。復讐やら妄念に凝り固まった冒険者はあんな風になる。
俺は好かんがな」
「ひたすらに迷宮打倒を目指す。確かに人類には必要な事ですよ。
まるで、お前の様な呑気な人間が居るから迷宮がいつまで経っても無くならぬ、などと言われている様に感じました。
確かに、その通りかもしれません」
「お前達の様な短命な種族がそんな事に縛られてどうする?
それでは何も楽しめんではないか。
大体、迷宮を全て滅ぼすなどというのも奴ら得意のお題目だ。
稼ぎの良い迷宮を滅ぼさず、敢て残す事などざらにある。そうした油断から組合が壊滅した事もな」
「確かにゲルマニカ近辺の迷宮を全て滅ぼしたとして、この領が経済的に立ち行くかは疑問ですね。一体どうしたものでしょうか?」
「簡単な話だ。お前が世界の果てに到達して交易品を見つけてくれば万事解決する」
「確かにそうとも言えるのですが、諸々の条件を加味して考えると、そう上手く行くかどうか……」
「頭の回る人間は考え過ぎる。
考えないのは愚かだが、考え過ぎるのも同じく愚かだ。なあ、『愚者』のお姫様?」
「いやはや、耳が痛いお言葉ですね。どうにも考え込むのが好きな性分でして。
流石に長く生きている人は考え深い事を言うものです」
再び微笑み合う。スクァーマの緑色の鱗が光を反射し、不思議な色合いを帯びている。綺麗なものだ。
「まあ、指揮官は考え過ぎる位でもよいがな。どうせ仲間の考え無しが敵に突っ込んで、お嬢引っ張ってくれる。全体として調和が保たれるという訳だ」
「なるほど、私にはそういう人が必要なのかもしれませんね」
「ああ、振って出る目なんて分らん。やってみて対応して行けばよいんだ。
俺もお嬢が街を出たら、また旅の生活に戻るつもりだ。旅を続ける内に、俺にしっくりとくる何かが見つかるかも知れん。
現状では何を探しているのか、そもそも何かを探しているのかも分らんがな」
「風来坊ですねえ。でもそういう生き方は憧れてしまいすね」
「お嬢は産まれた時から家やら身分やらに雁字搦めだからな。
さすらうのは下賤な者の特権さ。羨ましいだろう?」
「むぅ、そういう言い方をされると安易に頷く事が出来ないのですが、高貴だの下賤だのを抜きにすると確かに羨ましいです。
……私が冒険者をしていれば、また会えますよね?」
「さあな。出会って、別れて、その後どうなるかなんて分らんよ。
だが、お互い生きていれば、お前の子供か、孫か、曾孫辺りとすれ違う位の偶然は有るだろう。
俺は忘れんからな、必ず気付いてみせるさ」
冒険者組合に登録した後は、市井の知人達に挨拶をして回った。皆それぞれに別れを惜しんでくれ、名残惜しい気持ちで一杯になる。確かにスクァーマの言う通り、短命な最後の民の身で再び巡り逢える保証はどこにもない。出会い、言葉を交わして友となった偶然を大切にしよう。そう考えて街を巡る。
夏ももう終わろうとしているが、見上げれば空は高く青く澄んでいる。爽やかな風が吹き抜ける街は変わらずに騒々しく、人々はそれぞれの暮らしを守っている。
思えば、この街でだって目当ての人物と思わずに出くわす事は少ない。訪ねたって、行き違いも入れ違いもある。それが広大な世界の中ならどうか? なるほど、古今の詩人が出会いと別れを歌い上げる訳だ。出会いは喜ばしく、別れは物哀しい。そして、立場も年齢も超えてなれるのだから、友人というものは素晴らしい。
ヘーリアンティアは挨拶回りの最後に老人の露天に向かった。頭の上にはいつものようにヘキが居座っている。名残は惜しいが、これが最後の訪問になるだろう。今日は多少遅くなっても構わない。老人の話を最後まで聞いてしまうつもりだ。
「お嬢さん、よく来たな。『転移』を成功させたのだろう?
街で噂になっていたよ。親父殿から街を出る許可は得られたのか?」
老人は皺と古傷だらけの顔で微笑んだ。己の事のように嬉しげに言ってくれる老人にヘーリアンティアも微笑む。
「こんなに早く出来るとは思わなかったのですが、なんとか成功させました。
お父様も医療方術を学ぶ事を許して下さいまして、今はどこで学ぶかを検討しています。
今日は夜が明けても、おじいさんの冒険譚を最後まで聞くつもりです」
護衛の騎士達をちらりと窺う。いざとなれば、城に遅くなると伝えて貰おう。今は老人との時間を大切にしたい。
一つの試験を超えて、これから新しい生活が始まる。不安もあるが楽しみでもある。目の前には気の置けない友人。彼と会えるのも最後かもしれない。この瞬間を切り取ってしまいたい。今、目に映る世界はそれ程に光に満ちている。
「ふむ、わしらがインディアスに着いて更なる東を目指して旅立ったところまで話したのだったな」
「ええ、伝説のインディアスの更に向こうについて聞けるのです。考え出したら楽しみで眠れませんよ」
ヘーリアンティアは冗談めかして言う。未踏の地を旅する六人の冒険者の物語は、まるで御伽噺そのものだ。
彼らは一体何処までは辿り着いたのだろうか?
遥か昔、ローマの時代には交易があったという絹の国か?
或いは金と銀に溢れた伝説の竜の島にまで到達したのか?
是が非でも続きを聞きたいが、聞いてしまうのが勿体なくもある。素晴らしい本を読んでいる途中の様に、ヘーリアンティアの心は弾んだ。
「いや、冒険はここまでだ。
わしらは敗れ、方術士は死んだ」
「え……」
何を言われたのか理解出来ない。眼に映る景色から現実感が消え去り、足元がふわふわとおぼつかなくなる。ただ、蝉の鳴き声だけが響き渡る。
「魔王級と遭遇したのよ。
人頭蛇身の糞っ垂れの怪物だった。一睨みで大岩を砕き、天変地異を引き起こすほどの魔力を纏っていた。
わしもこの様だ」
老人が暗い目で服を捲り上げる。無数の古傷に埋め尽くされた胴体に一際大きな傷が走っている。胴体を両断されたか、それに近い怪我を負った痕に見える。生きている事自体が奇跡に思えた。
「結局ありったけの冒険者と軍人が当たって撃破したがな。信じられないほど死んだ筈だ。
わしも躯が襤褸のようになっても戦い続けた。自分の女の仇だ。赦す事などできぬ」
息が詰まる。そこで、老人が方術士を語る時にみせる情感の意味にやっと気が付いた。
「結局、無理をし過ぎて戦場には立てなくなった。
仲間の医療方術士に癒しては貰ったがな、腑に溜まった打撃までは抜けない様だ。毒も呪いも無数に喰らった。当然の結果だろうな。
まさかわしもこれほど長く生きられるとは思わんだわ」
老人が乾いた唇を吊り上げる。その暗い笑みに声を出す事も出来ない。
「方術士が死に、わしが戦えなくなって小隊は機能しなくなった。冒険の終わりだ。
わしらはインディアスから逃げ帰って解散した。
その後は放浪を繰り返して今に至るのさ」
「呆気ない終わり方でお嬢さんには申し訳ないのだがな、これがわしの冒険の全てよ。
現実は叙事詩の様には行かないものだ。
……どうした、お嬢さん。泣いているのか?」
気が付けば、ヘーリアンティアの瞳からは涙が溢れていた。
老人の語りは淡々として感情を感じさせない。しかし、その奥に炎のような激情が渦を巻いているのは明白だった。恋人を失った慟哭、戦士として終わった諦念、志半ばで倒れた屈辱、かつての仲間達への親愛、過ぎ去りし黄金の日々への哀愁。
「……さぞや、無念であったでしょう……」
ヘーリアンティアが無理矢理に声を搾り出す。老人が震える声を発する。
「無念だ」
血を吐くように言葉を続ける。
「全てなくなった。
あいつが死んでは、生きる意味すらない。もう、心が奮い立たぬ。
それでも美しい過去を想って無意味に生き永らえて来たが、終わりだ。
もう何日も保たん」
「そんな! お元気そうじゃないですか!」
老人が笑う。穏やかで透明な笑み。生者と死者の狭間にある様な顔だった。
「自分の身体は自分が一番よく分かるなどと言うだろう。あれは本当だな」
老人は古傷だらけの指先でヘーリアンティアの涙を不器用に拭う。
「わしの為に泣いてくれてありがとう。だが、泣くのを止めなさい。
こんな爺に成っても女の泣き顔は堪えるものさ」
おどけたように言う老人の姿が悲しくて、ヘーリアンティアの涙は止まらない。
「お嬢さんには感謝しているんだ。わしの話を聞いてくれた。
あいつが死んで無意味になったわしの人生に意味を与えてくれた。
この年になって思い知ったが、人間は生きた証を残さずにはいられないものだな」
老人が複雑な方陣が描かれた布で包まれた棒状の物を手に取り、丁寧に解く。
「受け取ってくれ」
それは水晶の様に青く透明に輝く杖だった。息が詰まる程に強大な魔導器である事が分かる。まるで陳腐な叙事詩で描かれる、うらびれた露店で使い手を待つ伝説の魔導器のような。
「かつてギルガメッシュの国が在った地方の遺跡を冒険した時に手に入れた物だ。
水竜の牙を削り出した逸品らしい。
お嬢さんなら、きっとこいつに認められ、力を引き出せる」
「これは、もしかして……」
「ああ、あいつの形見だ」
「あいつは好奇心旺盛で落ち着きのない女だった。
少しお嬢さんに似た雰囲気があったのは、良い所のお嬢だったからか。
わしの仲間で一番世界の果てを見たがったのはあいつだ。
今生の願いだ。どうか、連れて行ってやってくれ」
逡巡する。してしまう。資格。意思。覚悟。自分に背負って行けるのか?
思いとは裏腹に手が動く。震える手で青く輝く杖を受け取る。握り締める。滑らかな石のような冷たさが手に心地よく、そして重い。背負え。全て呑み込み、最果てに至ってみせろ。
ヘーリアンティアが、泣き濡れた瞳に渾身の力を込める。
「私が、貴方と貴方の大切な人の意志を受け継ぎました。
だから、どうか安らかに在って下さい」
「……かたじけない。肩の荷が降りたよ」
そう言う老人の顔は一気に老け込んだかの様だ。枯れ木の様に見えてその実、強かさを感じさせた躯からも力強さが失われてしまった。張り詰めていたものを手放したのだろう。老人の背丈が自分と大して変わらないのを、ヘーリアンティアは初めて意識した。
「わしの仲間の一人が医療方術士だった。サレルノ医学校で教鞭を取った事もある男だ。今はアスクレピオス派の修道院で院長を勤めているらしい。
偏屈で滅多に弟子を取らん奴だが腕は図抜けている。
わしがお嬢さんにしてやれる最後の手助けだ。この手紙と杖を見せればよい」
老人はそう言って書状を様々な物が入った背負い袋に入れて渡してくれる。初めて会った時ござ一杯に並べられていた品物は、結局殆ど譲ってもらった事になる。
残ったのはヘーリアンティアが贈ったパイプと、傍らに有る歴戦を共に駆けた古ぼけた剣のみ。
「有難う御座います。きっと、世界の果てに到達してみせます」
「気張れよ、お嬢さん。
墓の下で土産話を楽しみにしている。……さ、もう行きなさい。わしも行くよ」
老人が立ち上がり剣を腰に差す。その手が少し震えている事に気が付いてしまう。終わりは、近いのだ。
「もう少し、もう少しだけお話しませんか」
「駄目だ」
老人が力の失せつつある顔で声を張る。
「男が女に死に顔を見せられるか。
そんな事も分からねぇからお前は餓鬼なんだ」
老人の荒っぽい口調に、ヘーリアンティアが泣き笑いを浮かべる。
「男の意地ですか。
……本当に、悪ぶった男性というのはしょうがないですね」
ヘーリアンティアは涙を拭うと、水竜の杖と背負い袋を手に取り、老人に背を向け歩き出した。赤く染まった路地裏に蝉時雨が響く。立ち止まり、振り返ると、老人はパイプを燻らせながら中空に視線を向けている。
おそらく過去の冒険に心をやっているのだろう。
そうして執着や想いを一つずつ解いて終わりを迎え入れる。
老人の穏やかな顔を心に刻んで、ヘーリアンティアは別れの挨拶をした。
「さようなら、おじいさん。
偉大なる冒険者にして、私の大切なお友達」
「それじゃあな、お嬢さん。
良い冒険を」
老人は若い荒くれ者がするように傲然と胸を張り、肩で風を切って裏路地の奥へと歩き出す。
「良い冒険を」
離れ難い気持ちを断ち切り、ヘーリアンティアは背を向けると、今度は立ち止まらずに足を踏み出した。
幾日かして、ヘーリアンティアが旅立つ日がやって来た。
転移門の前には家族のみならず騎士や官吏、市井の者達も大勢見送りに来てくれた。どうにも落ち着かない様子のゲルマニカ公や兄達に比べて、母達はさっぱりとしたものだった。
「良い人が出来たら連れて来ないと駄目よ。
あなたの子供の名前は私だって考えたいのですからね」
第一夫人がおっとりとした調子で言う。
「お母様、私は冒険者に成るべく勉強しに行くのですが」
再会を疑う様子もない母には、ヘーリアンティアも苦笑するしかない。
「いえ、共に学ぶなり戦うなりした男女が親密に成るのは世の常。
これはと思った男は連れて来ればよいのよ。
ヘーリの見る目に間違いなど有ろう筈は無いけれど、恋は盲目とも言わ。
私が性根を試してあげる」
第二夫人は相変わらず勇ましい。
「ヘーリ、君は僕など及びも着かない程に賢いが、世間的に言えば箱入り娘だ。
つまり何が言いたいかといえば、気になる男が出来たら交際する前に連れて来て欲しい。間違っても早まって駆け落ちなどしてはいけない。
いや、無論僕は君を信じてはいるが」
ゲルマニカ公がしどろもどろと言う。
「そうだな、思い詰めてはいけない。
だが仮に、もし仮に君に良い人が出来てしまえば、僕としても試練を与えざるを得ないのを許して欲しい」
「うむ、兄貴の言う事は尤もだ。
いや、ヘーリの選んだ男だ。
俺達如きが与える試練など軽く乗り越えるのは間違いなかろうが」
大ゲルマニカの男達も娘の色恋話には形無しだった。ヘーリアンティアが微笑む。
「舞踏会に行く訳じゃあないのですから。
……そろそろ参ります。今まで有難う御座いました。
皆様が栄光有る大ゲルマニカの誇りと共に在らん事を」
ヘーリアンティアが、教本に載せられる様に綺麗な貴族式の礼をする。
「栄光有る大ゲルマニカの誇りと共に在らん事を」
それを受けたゲルマニカ家一同も一糸乱れぬ礼法で答える。そして、
「良い冒険を」
それは大ローマよりも遥か昔、冒険王ギルガメッシュの時代から続く、旅立つ冒険者へと送る言葉だった。
今やヘーリアンティアは、貴族である前に未踏地の神秘を求める一介の勇敢なる愚者だ。栄光も富も生も死も、全ては冒険の先にある。
始めに目指すはアスクレピオス派の修道士が院を構える『幻獣の湖』。人の領域と魔獣、幻獣が跋扈する未踏地との境界にある神秘の湖だ。
「参りましょうか」
ヘーリアンティアが背負い袋を背負い、ヘキを頭に乗せる。
「このような冒険は『冬狂鬼』と戦って以来。腕が鳴って眠るのに難儀しましたぞ。
卿らもお嬢様に遅れるなよ」
「実に気の利いた演習ですな」
「姫様を守っての旅路とは、騎士の本懐是に勝るものは無し」
同行するのは近衛騎士エクエスと配下の騎士二人、
「お嬢、初めての長旅だ。気負うなよ。
この程度の旅など物の数ではない。
お前はウェネーと共に、後ろで踏ん反り返って居れば良い」
「スクァーマ殿、お嬢様は最早一人前の方術士です。
道中では魔獣の一体も仕留めてもらわなければ困ります」
「師匠とは厳しいものだな」
そしてスクァーマとウェネーだ。
先ずは転移門から最も近い街に転移し、徒歩での移動となる。場合によっては馬車や乗用の獣を借りる事も出来るかもしれないが、道の状態と地形にも左右される。状況を見て柔軟に手段を選ばなければならない。冒険者とはそういうものだ。
ヘーリアンティアと一行は転移門を守る石造りの建造物の入り口に立った。
「御体に気を付けられますよう!」
「姫様、お元気で!」
「姫様に祝福有らん事を」
市井の者達が別れを惜しみ、声を上げてくれる。
振り返れば馬族の石工職人が泣きながら手を振ってくれる。虎族の狩人が赤ら顔で麦酒の入った杯を振り回し、羊族の娘が祈るように手を組んで跪く。テーサウルス商会の者達や露店の店主衆、組合の酒場の顔である厳つい冒険者達の姿も見える。皆交流が有った者ばかりだ。その向こうには組合長が腕を組んで立っている。
家族達に眼をやると、ゲルマニカ公は堪えるように唇を結び、兄達や筆頭執事ケッラーリウスは涙を流している。
母達は微笑み、従者侍女達は皆勢いよく手を振ってくれる。ゲルマニカ家直属の冒険者が何故かその列に加わり、意中の侍女と並んで居る。どうやら宜しくやっているらしい。
騎士達も大勢見送りに来てくれている。南の街の転移門衛士ポルタスの姿も見える。彼らは皆抜刀し、剣の先を遥か彼方に向けている。未知を切り裂けと言わんばかりに。
「皆様に、今この瞬間まで私を形作った全てに無限の感謝を。
必ず世界の果てに到達します!」
ヘーリアンティアは涙を堪え、凛と言い放った。
そして祝福を受けながら転移門へと歩き出す。偉大なる冒険者が眠る街に背を向けて。