盲目な恋
僕は駅で電車を降りた。通勤通学の帰りでホームは混雑している。気を付けないと接触しそうだ。駅のアナウンスで、“黄色い線の内側をお通り下さい”と流れてくるが、一つのホームで上り下り両方の乗客を捌いているので、端に追いやられると、完全に黄色い線を越えずに改札口に向かうのは困難だ。
その中で、僕の前を歩く女性もホームの黄色い線を越えたり戻ったりしていた。
(何か危ないなぁ…)
最近、酔っ払いや携帯電話を操作してホームから転落する事故が多発している。この女性もそんな感じかと思った。その時、前から男が女性に向かって近付いてきた。男は女性に気付いても避ける様子は一切なく一直線に歩いていく。
「キャッ!」
(あっ!)
女性は男にぶつかり、その衝撃で線路に落ちそうになった。僕はすかさず、女性の腕を掴み、手前に引き寄せた。
「えっ…」
「だ、大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます…」
女性が男に…と言うよりかは、男が女性にわざとぶつかってきた感じが強い。男は女性に謝るどころか舌打ちをし、そのまま歩いて行った。
「ちっ、どこ見て歩いてるんじゃ…」
「おい、待て!おっさん。何で避けなかったんだよ!」
「もういいです。私が見えてなかったかもしれないんで…」
あの男は女性が見えていたのは確実だ。女性が避けなければ、自分が避けるのが常識だ。僕は腹立たしさが残った。
女性を救った後、すぐに電車が進入してきた。そのまま見過ごしていたら、どうなっていただろう。
僕は女性の様子がおかしいことに気付いた。女性は僕の顔を見ていない。僕も視線の先を見てみるが、特に注目するものもない。僕は“どこを見てるんですか?”と聞こうとした、その時だった。
(あっ…)
女性が僕と視線が合わない理由が分かった。彼女の手には白い杖が握られている。
「その杖って…」
「ああ、私、目が見えないんです」
女性は笑顔を見せて答えた。僕は初めて、盲目の人と出会った。外見からしても、どこにでも良そうな感じの女性だった。
「改札口まで案内しますよ」
僕は女性に腕を掴ませ、駅の中を歩いた。もちろん、目が見えない分、言葉での声掛けも忘れなかった。
「ここ、階段になってますから、ゆっくり降りて行きましょう」
僕は女性が改札を通る所まで案内した。彼女は反対方向に行くので、僕の案内はここまでだ。僕は女性に背を向けて、離れようとした。
「今日は助けてくれて。ありがとうございました」
「それじゃ、帰りに気を付けて」
「あ、ちょっと待ってください!」
女性は僕の服を掴んだ。すると、女性が顔を赤くして、こう話した。僕はその一言に、呆然となった。
「あの…どうかしたんですか?」
「あなたのことが、知りたいんです」
「そ、そんな、名乗るようなものではないし、どこにでもいるような男ですよ」
女性は首を横に振った。
「もしあなたが私を救わなかったら、電車に轢かれて、この世にはいなかったかも知れないんです。だから、お礼をさせてください」
これも何かの縁だ。僕は彼女の言う事を聞き入れ、近くの公園に足を運び、ベンチに腰を下ろした。
彼女の名は真希。産まれた時から目が見えず、それ以外の感覚を使って生活している。真希は明るくて清楚な感じがして、僕の好みだ。
外を出歩く時は、手にしている白い杖からの感覚が頼りであり、今日みたいによけずにぶつかってきて怒られるのはまだいい方で、“金を出せ”と要求されることがあったり、トラックが止まっていて、避けられたと思ってもサイドミラーに顔がぶつかったり、点字ブロックの上に物が置かれ、どっちに進むか迷ってしまったりと、目が見えないことによる苦労が絶えない。
「けっこう、大変なんだね」
「それで、あなたのことを教えてくれますか?」
「お、俺は…」
ここで、僕は自分のことをどう説明するか悩んだ。説明するのが恥ずかしいからだ。でも、真希のことを知ったのだから、自分の事も紹介することとした。
「俺、真一。大学出て、けっこうデカい会社に勤めてるんだ。周囲からイケメンだと言われるけど、なかなかモテないんだよなぁ…なんてね」
僕はゆっくりと真希の顔を覗いてみた。
「モテないなんて、かわいそうですね。私も、こんなのだから、誰も相手にしてくれないんですよ。だから、彼氏がいるこが羨ましいなぁってずっと思ってました」
真希は笑顔を見せていた。そして、真希の口から思わぬ一言を発したのだ。
「お互い、ない者同士だから、付き合ってみますか?」
「な、何だって?」
なんと、真希は僕に好意を寄せてきた。年齢が彼女いない歴な僕にとって、またとないチャンスだ。
「ぼ、僕で良ければ…」
こうして、僕に彼女ができた。目が見えないことへの配慮を忘れなければ、分け隔てなく付き合えそうだ。
それから、僕と真希は休みが合うと、一緒に外に出た。真希は僕の腕を強く掴む。表情も笑顔が溢れ、嬉しそうだ。僕も彼女を喜ばせる為に、できる限りのことをしている。
僕はごく一部が発する冷たい視線が突き刺さった。その視線のほとんどが女性だった。時には僕に聞こえるようなヒソヒソ話が聞こえる。
「何あいつ、あんな子と付き合うなんて生意気じゃない?」
「あんなキモ男に彼女なんておかしいよね」
「あの子もあんなのと付き合うなんて、性格ひん曲がってるんじゃない?」
当然、僕にも聞こえているなら、聴覚が敏感な真希にも聞こえている。
「誰の事を言ってるんでしょうね」
「きっと、どこかで会った奴の事を話してるんじゃないかな。気にすることなんかないさ」
僕は周囲からどう思われようが構わなかった。やっと僕にも彼女と呼べる人ができたんだ。誰からも邪魔される筋合いはない。堂々と関係を続ける。真希にとって僕は目だ。真希にない部分を補っているようなものだから、怖気づくわけにはいかないのだ。おかげで、僕と真希の関係は良好だった。その証拠に、真希は完全に僕に体を預けている。
「真一さんて、暖かくて、柔らかいんですね」
「そう言われると、照れるなぁ」
真希は目が見えずに産まれてきたことを悲観していない。物心ついた時からそうなのだから、悲観できるはずもないのだろう。真希の両親も、真希を特別扱いはしなかった。そのこともあり、何でも自分でできるようになり、親元を離れて一人で暮らしている。
僕は真希と一緒にいることで、視覚障がい者がどう生きているのかを知ることができた。おかげで街で目が見えない人が困っていると、率先して近付き、声を掛けるようになった。今までそんなことをしなかったからか、同僚も気にしていた。
「お前、そんなことする奴だったか?」
「何言ってんだよ。俺はいつも通りだ」
もちろん、真希と付き合っていることは、誰にも言わなかった。
ある日のこと、いつものように真希と公園のベンチで座っていると、真希がこんなことを言ってきた。
「実は、真一さんのことを、実家にいる親に話したら、一度会ってみたいって言ってきたんです。お会いすること、できますか?」
ついにこの時が来た。と言っても、良い話ではない。真希の両親に僕の姿を見せることは、真希に本当のことを知られてしまうことと同じことなのだ。
「申し訳ないけど、それはできない」
「えっ?どうしてですか?父も母も、あなたに感謝したいと言ってるんですよ」
僕は体が震え始めた。
「実は…君に嘘を付いてたんだ」
「う、嘘…ですか?」
真希は眉間にしわを寄せた。僕を信頼していたのだから無理もない。僕はどんな嘘を付いていたか話した。
「俺は、デカい会社で働いていないし、イケメンでもない。小さな下請けの町工場に勤める、不細工でチビでデブで稼ぎも少ないダメ男なんだ。そんな男と付き合うなんて、嫌だよね。君の両親も、きっと別れろって言われるに決まってるよ」
真希は黙って僕の話を聞いていた。
「騙すつもりなんかなかった。君は俺にとって初めての彼女なんだ。絶対手放してなるものかって。でも、俺みたいな男って、大抵嫌われるんだ。だから、君が俺と付き合いたいと言ってきた時、目が見えないことをいいことに、かっこよく思わせるために嘘を言ってしまったんだ。本当にすまない」
真希は無言で下を向いてしまった。やはり、騙されたショックは大きいのだろう。逆の立場になれば、僕だって騙されるのは嫌だ。僕は“これで終わりだ”と思った。けれども、真希は意外な反応を見せた。
「やだなぁ。私が、そんなこと気にしてるとでも思ったんですか?」
「えっ?だって、見た目が大事だって言うじゃないか。俺みたいな奴、だいたい嫌われるんだよ」
すると、真希は笑顔でこう答えた。
「そんなこと、私は気にしてませんよ。だって、見えないんだから分かるわけないじゃないですか」
「ああ、そうだよね…」
僕は真希が見た目で判断していないことに安堵した。
「私、あなたに出会えて本当に良かったって思ってるんです」
「えっ?どうして?」
真希は顔をうつむかせてこう話した。
「実は、今までいろんな男の人と付き合ってきました。けれど、私の目が見えないことをいいことに、体を触ってきたり、わざと突き飛ばしたり、財布からお金を抜き取ったりと…思い出すだけで震えがするんです。だから、本当は男の人と付き合うことに抵抗があったんです。でも、あの時、駅であなたが私を助けてくれたから、あなたがどんな人か知りたくて、付き合ってくださいと言ったんです」
どうやら、僕が真希を救ったことが、真希の心を動かしたのだろう。だが、その後、付き合いを重ねた上で、僕の事をどう思ったのだろうか。
「それで、君は俺と付き合ってみて、どうだったかなぁ…。俺、君と付き合うのにふさわしくない男なのか?」
僕はもし、真希が僕を嫌がったら、すんなりと別れようと思った。
「何言ってるんですか?最初から、あなたが悪い人じゃないってことは分かってましたよ。だって、あなたは私の命を救ってくれた、恩人なんですから」
真希は完全に僕に好意を寄せている。更に、真希はこんなことを言いだしてきた。
「あなたとなら、うまくやっていけそうな気がします。これからも、ずっと私の“目”になってくれますか?」
(こ、これは…)
真希は本気のようだ。意外な展開に動揺を隠せなかったが、ここまでされたら、答えはひとつしかない。僕は真希の両肩に手を置いた。
「こんな俺で良ければ…あなたの“目”になりましょう」
真希は満面の笑みを見せ、僕に抱き着いた。この時、周囲の視線が何本か突き刺さるが、そんなことはもうお構いなしだ。
「君の両親にご挨拶しないとね」
「はい。きっと、あなたのことを喜んでくれますよ」
数日後、僕は真希の両親に会った。真希を救ったことを感謝された後、真希と同じことを聞いてきた。
「これからも、真希の“目”になってくれるかな?」
もちろん僕の答えはひとつだ。
「はい!」
こうして、僕と真希は晴れて夫婦となった。出会いから結婚に至るまで、長いようで短いように感じた。
あの時、真希があのまま線路に転落していれば、運転士が真希に気付いて急ブレーキをかけても完全には停車できず、どうなっていたか。惨劇を想像しただけでも背筋が震えてしまう。僕も真希を救っていなかったら、当然、真希はこの世にいなかったことだろう。それだけではない。僕が視覚障がい者のことを理解することもできなかった。そして、真希と家庭を築くこともなかった。
真希との新しい生活は始まったばかりだ。これからも様々な困難が待ち構えている。でも、僕は真希と一緒なら乗り越えていける気がしていた。
真希の“目”として……。
(終)