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見上げた先にいた桐生は、初めて会った伊織君みたいだった。
第二ボタンまで開けれられたカッターシャツに緩んだネクタイ。
ほんのりと感じる、男の色気。
はだけた襟元からのぞく鎖骨には、紅い痕がうっすらと見え隠れしている。
この階段の先にあるのは、屋上のみ。
どれだけ勘の悪い人間でも、大体のことは察しがつく。
彼がいったい屋上で何をしていたのか、なんて。
そしてそれを決定づけるかのように、甘く囁くような声が耳に入った。
「待ってって言ってるじゃない。いっつも先に行っちゃうんだもん」
そう言った声の主は、桐生の腕に当然のように自分の腕をからませる。
そして極上の笑みを桐生に向けてから、私がいることに気が付いたのか、目を丸くして私を見た。
そしてふふっと、勝ち誇ったような笑みを私に向ける。
「‥片岡、先輩」
腕を組んで隣り合う2人は、お似合いのカップルだった。
それこそ、つけ入るすきのないくらい。
「元カノさんが彼に何の用?」
「先輩、たまたま会っただけですよ」
絡められた腕を振り払うことなく、桐生は笑顔でそう答える。
「神崎、授業は?」
あんたもでしょ、という言葉を呑み込んで、私は桐生から目をそらす。
「僕も教室に戻るから一緒に戻ろうか」
「…え、」
「送ってくよ」
さも当然とでも言うように桐生は私に手を差し伸べる。
もう一度見た桐生の顔は、さっきと同じ笑顔を浮かべている。
桐生の後ろにいる先輩も呆気にとられているようで、せっかくの綺麗な顔が台無しになっている。
「いいよ、別に」
「そう?でもこのままじゃ教室に帰らないでしょ?」
「いいの。教室に戻る気なんてないから」
サボるためにここまで来たのだ。
「教室、戻るんでしょ?ほら、はやく行かないと」
遅れれば遅れるほど、理由がつけにくくなるでしょ。
しっしっと追いやるような態度をとると、桐生も諦めたのか、困ったように笑ってから私と先輩の前からいなくなる。
もう関係ないと、縁を切ったのは向こうなのに。
どうしてそんなにも優しくするの。
だから勘違いするんじゃない。
「いい加減にしてよ」
桐生が行った先を眺めていた私に、先輩が低い声で言った。
さっきまで桐生にかけていた甘ったるい声はどこへやらだ。
先輩の方に振り返ると、鬼の形相をした先輩がいて、私を睨みつけていた。
「あんた本当に迷惑なんだよね」
私より数段上にいる先輩は見下すようにして言葉を続ける。
「桐生君があんたみたいな子ども相手にするわけないじゃない。そんなのもわかんないの?」
「子どもって‥桐生も私も同い年です」
「だから子どもって言ってんのよ。桐生君は大人な女がタイプだって言ってたの」
そう言った先輩は勝ち誇ったように私を見る。
まるで自分は大人の女だと言わんばかりに。
たった1つしか歳も変わらないのに。
「ねぇ知ってる?彼がどんなふうに女を抱くのか。あんたは知ってるの?」
「それは、」
「私は知ってるわ。だって今も彼とシてきたんだもの」
そんなの、桐生の鎖骨についた痕と、あの姿を見ればすぐに察しはついた。
「諦めなさいよ。あんたみたいな二股もかけるような女、桐生君が相手にするわけないんだから」
片岡先輩はそう言うと、ドンッと私にぶつかってから3年生の教室がある方へと歩いていった。
その姿を茫然と見るしかなった私は、しばらくそこに立っているしかなくて。
何も考えたくないと頭は拒否しているのに、心の中は喚きたてている。
「神崎、」
「ど、して、ここにいるの、」
ひとりになったと思っていた私の前に現れたのは、教室に行くと言っていなくなった桐生だった。
さっきと同じ姿のところを見ると、教室の方には行ってないのだろう。
ということは、もしかしなくても、さっきの会話の内容を聞かれていた…?
「先輩が何か言うのは目に見えてたから、」
「…そう、」
「神崎?」
「別に大したこと言われたわけじゃないから」
あんたと私が付き合っていたら、それは大したことだけど。
今のあんたと私にとっては、それは大したことじゃない。
そうでしょう?
大したことじゃないから、お願いだから、優しくしないで。
その優しさが辛い。
「でも、」
「先輩、なんか勘違いしてるみたいだったから」
「勘違い?」
「‥だって、私とあんたは、好きあってなんかなかったでしょ?最初から」
この関係に、恋愛感情はいらない。
「そう、だったな」
桐生はそう言って、何もない天井を見上げた。
そしてまた、私の方を見る。
「五十嵐のこと、ふったんだってな」
「そういう情報は早いんだね」
相変わらず。
どうしてこうも他人の恋愛事情が、本人の知らぬところで漏洩してるんだか。
「また、あんたのところにでも来た?」
「諦めませんって言ってた」
「そっか。五十嵐君って一途なんだね」
良く言えば、だけど。
悪く言えば…そうだなぁ、諦めが悪いっていうのかな。
「…五十嵐なら、幸せにしてくれると思うけど?」
「本当にそう思う?」
「……ああ。少なくとも、俺よりは」
また、そういうことを言う。
そうやって、自分っていう選択肢をすぐになくしちゃうんだ。
本当に、桐生は、
「ずるい人だね」




