婚約宣言①
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それからしばらくは、真澄さんも関東に戻ってややこしい依頼を片付けるのに忙しそうだった。私が織衣さんに呼ばれて遊びに行くことはあったけど……特に何事も無く平和な日常を過ごしていた。
12月に入って仕事も忙しくなり、あの出来事が実は夢だったのかもなんて思えるようになっていた。
12月最大のイベント[クリスマス・イブ]の当日は、退社後にみんな彼氏や彼女とのデートの予定があるらしくて…誰もが必死に仕事を終わらせて定時でタイムカードを押すと一目散に帰って行った。
勿論、順子や祐介も同じだった。
私も織衣さんと約束をしていたので、帰る支度をしているとスマホが鳴って誰かと思ったら……実家からだった。
「もしもし光ちゃん? 仕事中やった?」
聞こえてきたのは、美郷ちゃんの声だった。
「大丈夫やで、今から帰る所やけど…どうしたん?」
「ごめ~ん。徹哉がどうしても電話しろってひつこいから、電話したんよ……光ちゃんが、真澄さんと二人きりでデートなんちゃうか? って昨日から何回もメールして来て落ち着かへんねん」
…私よりも、自分の嫁が浮気しないかとかをもっと心配した方がええのに…困った変態シスコン兄貴やわ。
「美郷ちゃんが、謝ること無いし…徹兄が阿呆なだけやから……出来の悪い兄貴でごめんね」
私が謝って溜め息を吐いてると、優しい美郷ちゃんは笑っていた。
「大丈夫。徹哉がシスコンってことは、理解した上で一緒になったんやから、これぐらいはどうってことないよ」
「今日は、真澄さんじゃなくて織衣さんに来て欲しいって言われてるんで、これから行くんやけど……真澄さんは、まだ関東やと思うし心配されるようなことはないって徹兄に私からメール送っとくね」
念の為に美郷ちゃんには、私が自分で徹兄にメールを入れておくと答えた。
「もしかしたら徹哉……今夜にでも、新幹線で帰って来そうな勢いやったから気をつけてね!」
美郷ちゃんは、そう私に念を押すと電話の向こうで大きな溜め息を吐いていた。
嫌な予感がするけど……織衣さんが今日は、温泉に入って一緒に食事をしようってわざわざホテルを予約してくれてるし、私も楽しみにしていたから邪魔はされたくなかったので、一応その旨を徹兄にメールしておいた。
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会社を出ると…師匠が車で迎えに来てくれていたので、そのままホテルに向かうことになった。
織衣さんは、昨日から温泉で療養してるらしい。
「お疲れなのにすみません。ご実家で過ごされる予定だったんじゃないですか? いつもいつも母の我儘に付き合わせてしまって……光さんには申し訳ないと思ってるんですが、母はどうも息子よりも光さんと一緒に過ごしたいらしくて…光さんのご両親にも、本当に申し訳ないです」
師匠は本当に申し訳無さそうに苦笑してから、頭を下げていた。
「謝らないで下さい。嫌ならお断りしてますし…父も母も織衣さんが、私を娘のように可愛がって下さることをとても喜んでるんです」
私は、織衣さんへの思いを師匠に話していた。
「父も母も織衣さんがいなかったら、私は生きてはいなかっただろうって言ってました。10歳の頃のことなんで、私も憶えてます。病院で織衣さんが声をかけてくれて師匠と織衣さんが助けてくれたから、私は今ここにいるんです。だから命の恩人は大切にしないとね♪」
私の言葉を聞いて…師匠は凄く嬉しそうに微笑んでいた。
ホテルに着いて、部屋へ行くと…織衣さんが待っていた。
「光ちゃんおかえり! 食事の前に少し温泉入ろう~!」
半ば強引に織衣さんに手を引かれて、温泉へ連れて行かれた。
温泉へ入って織衣さんが、私の背中を流しながら真面目な口調で言った。
「やっぱり徹ちゃんはこの傷のことを…まだ気にしてるんやね。これだけ大きい傷やから感じる責任も大きいんやろな~」
背中に大きく斜めに入った傷跡を…織衣さんは指の先でなぞって何か考えてるようだった。
温泉から出て、食事をしている時に師匠が織衣さんに報告に来た。
「真澄が少し遅くなっても、今日中にはこちらへ帰るそうです。光さんが来られていると話したら、急いで帰ると言っていました」
師匠はにっこり笑って…私の方を見た。
あの日からずっと会っていないので、正直会って何を話せば良いのか困ってしまう。
気持ちの整理と言っても……どう整理するかも判らないままだったので、何か期待されていたらどうすれば良いのか…私は逃げ出したい気持ちで一杯だった。