第4話「空洞を埋めるのは」
悪夢を見た。
そこにあったのは賞賛と畏敬の声と
悪意の声しか聞こえないその場所で
私が玉座に座らせられてずっと。
ああでもこれでは現実と変わらないじゃないか
とわらった。そう変わる事はない。これからも。
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ハッと我に返った時にはもうすでに夜の帳が開けようとしていた。空の白み具合から察するに早朝六時あたりだろうか。爽やかさを感じる時間帯だ。
「爽やかさ……ね」
自分の独白にグラスは自嘲の笑みを浮かべた。
目の前に倒れているのは中々巨大な熊だった。森の主というところだろうか。それが血塗れで倒れている。まるでいたぶって殺したかのような悲惨な状態だった。
「神に逆らうからそうなる。……自業自得だな、少しは同情するが」
森の主だったモノに向かってグラスは冷たく言い捨てる。
「安らかに眠るといい。来世は幸福であるといいな」
グラスは巨大な熊に右手を翳す。そして蒼い光が辺りを覆った。
光が止んだ時はもう巨大な熊の死体はなかった。血溜まりすらも残っていない。まるであの惨劇がなかったかのように綺麗に元の状態に戻っていた。
神の力の行使である。ウェルネス帝国の皇帝は代々、神に何か一つ力を賜っていた。例えば、神の知識、神の裁きの力等である。グラスは初代皇帝と同じ力、“神の力”そのものを賜っていた。さっきの力は魂を神の力を使って輪廻の輪に乗せたのだ。
グラスは大きくため息を吐く。
「とても面倒だ。……本当に」
グラスは神の力を平然と使う自分に自己嫌悪した。ついでに言うならば神に体を乗っ取られたのも原因の一つだ。負けた気がして嫌だ。吐き気がする。
グラスはグッと眉間に皺を寄せ、少し考える。とりあえず、
「此処は何処だ?」
あの呑気な少女の元に戻ろうか。ああでも結構法衣が泥まみれだし、近くの湖か川で洗おうかグダグダと考えながらグラスは水の気配がある方へ足を進めた。
黒い木々で遮られた夜明けの空にあの憎たらしい神の笑い声が聞こえた気がした。
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ふとマリアが目を覚ました。隣を見てみると隣で寝ていたはずのグラスがいない。彼が身を横たえていた場所に手を置くとひんやりとした感触しかしない。ここを離れて随分経っているのを示していた。だから水を飲みに台所に行ったとは考えにくい。
マリアはそこまでぼんやりと考えて近くの窓が開いているのに気づいた。
「あれ?全部しめたんだけど……。ハッ!ま、まさかグラスさんあそこから?」
脱走したのだろうか?と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
その可能性に気づいてしまってからマリアは頭の中で血の引く音を聞いた。
召還された者のほとんどは故郷の世界に帰りたがっているという。そしてこの屋敷がある黒の森は異世界との扉が所々にあると叔母に聞いたことがある。
帰ってしまったのだろうか。彼は。マリアが初めて召還に成功した青年は。
そう思ったらマリアは泣きたくなった。ようやく家族が出来たと思ったのだ。数年焦がれた家族に。いつでも側に居てくれる存在に。
マリアは上着もろくに着ず、そのままの格好でグラスと同じように窓から出て行った。元々寝巻きに着替えていないので直ぐに決心はついた。それに土足での生活なので靴も大丈夫だ。
どこに行けばいいのかなんて考えられるほどマリアは落ち着いてもいなかったし大人でもなかった。簡単に言えば直感を信じて突き進む事にしたのだ。
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マリアはただ走った。自分の足が大丈夫な限り。木の根に足をとられて転んでも、獣道を走って背が高い野草の葉に肌を切られてても。
走るのは間に合わせる為だ。グラスが元の世界へ帰ってしまわないように。
何故そこまで必死になるのか、他の人が見たら疑問に思うだろう。
マリアの姿はもうボロボロだ。髪はぼさぼさ、膝と手や肘などあらゆる所は転んで擦りむき、足や顔には野草の葉で切られた裂傷が幾つもある。スカートも泥だらけで見ていて痛々しい。
マリア自身も不思議に思ったが、直ぐに思い直し納得した。グラスの瞳は優しく、寂しい光を秘めていた。マリアは話している時にそれを発見しこの人なら大丈夫だと安心したものだ。それと何かグラスを独りにしてはいけないと直感が告げたせいもあるかもしれない。
マリアの視界が開けた。木々が生い茂る場所から抜けたのだ。マリアが知っているその場所は水が澄んでいて美しい、森に生けるもの達の聖域の湖だ。マリアの住んでいる屋敷から歩いて一時間で行けるその場所はマリアの秘密の楽園でもあった。いつも森の動物たちしかおらず見ていて和む場所だからだ。
「ッ!?」
マリアは一瞬呼吸をするのを忘れた。
それはとても幻想的な光景だった。まるで一枚の絵だ。
銀の髪は朝光を浴びキラキラと輝いていて湖の水が反射する光も相まって眩しかったし、
見る者によっては不気味にすら見える金緑の瞳は湖の蒼を反射しても色を主張している。何より全身濡れていて白磁色の頬に伝う水滴。少し憂い気に伏せられた睫毛だとか。性別を疑ってしまえる美しさがそこにあった。その頬やら身につけている法衣だとかに泥がついていようとだ。
「ん?そこにいるのは……マリアか?どうした?そんな格好で?」
「……ッぐグラスさぁん!!」
ぶわっと目に涙を溜め、今にも泣きそうな声でマリアはグラスの名を呼んだ。
これには流石のグラスもぎょっとしてざぶざぶと湖から出てきた。
そして屈みマリアの怪我を見て、
「どどうした?! 痛いのか?ってああ、こんなに盛大に転んできて」
近づいた事によりマリアの姿の酷さを確認してグラスは眉を顰める。とりあえず傷口の泥を洗わないと。
「ぐらすさぁあんッ!! うわぁああん!!」
グラスが怪我の対処について思案しているといきなりマリアが泣きながらグラスの首に腕をまわししがみついてきた。
「!?」
子供に抱きつかれるなど今までないことにグラスは目を白黒させた。
「こわかったよぉ!…わたっ…し…ひっくグラスさんが居なくなったらって……グラスさんが家…族にっなったのにぃ」
マリアはしゃくりあげながら言う。グラスはこれ以上にないくらい目を見開き呆然と、
「か……ぞく…?」
「うん、そうだよッ。ここには……グラスさんの家族っ…いないでしょ?」
「それが?」
「だから……ここではマリアがかぞくなん…だよっ」
「ッ……馬鹿な事を」
「ばかじゃないよぉ!マリアかぞくになるもん!」
「ッ!! ばかなことをいうものではないッ」
目をぐしぐしとさすりながら必死に訴えかけるマリアにグラスはむきになって反論した。口調が幼い分思いの丈はマリアの方が大きかった。何よりグラスの反論の声がどんどん震えていって、
「簡単にいうものではないぞ……そのせりふは」
「かんたんにいってないよぉ!しつれいだなぁ!!」
「おまえはほんとうにもう、馬鹿だろ?大馬鹿者だろ?」
「うぇぇえ……」
「ああ、もう泣くな泣くな。分かったから家族にでも何にでもなってやるから泣くでない」
「ほ、ほんと……?」
「ああ、約束してやる」
「うぇぇえん!!」
「だから泣くなと言っているのに」
「だってぇ」
ぐずぐずと嗚咽を漏らしながら泣きじゃくるマリアの頭をグラスはぽんぽんと優しく撫でてやった。
それでも泣きじゃくるマリアにグラスは辟易しながらも何とか宥めようとそっと抱きしめた。そして優しくマリアの髪を梳いた。余ったもう片方の手は震える小さな背にそえた。
これほどこの少女は小さく細い、か弱い体をしていたのか。それを実感するとグラスは胸が苦しくなる気持ちがした。さっきので大分苦しかったのだが。
この小さな少女は皇帝でもなんでもないただの人、「グラス」にいて欲しいのか。
ふとぼんやりそう思えたら急に視界がぼやけた。なんだこれは?
それが涙のせいだとグラスが気づいたのは自分の頬に生暖かい何かが滑り落ちた時だった。ああ情けないそう思いながらもグラスは涙を止めることが出来なかった。せめてもの抵抗にマリアを宥めるという大義名分を掲げ力強くマリアを抱きしめた。
嗚咽を漏らすこともなくただ静かにグラスは涙を流した。マリアに気づかれる事がないように。涙を流しているとなんだか長年心の中に出来ていた空洞が満たされていく、そんな感じがした。
涙が止まったらマリアの傷の手当てをする為にあの屋敷に帰ろう。グラスは満たされていく気持ちに戸惑いならもそう思った。
グラスさんの心が救われる話です。こうやって彼はマリアの行動に救われていくんでしょうね。もちろん、その逆もしかり。