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ハミングバード

作者: 鏑坂 霧鵺

 公園の広場には老若男女、多くの人が集まっていた。球蹴りに興じるこどもたち。ただ走り回るこどもたち。ベンチに腰掛け世間話をする老人たちや、犬を連れた男。

 噴水の前にはちょっとした屋台が出ており、よい香りがこちらの方まで漂ってくる。その脇では母親がベビーカーを揺り篭のようにゆらゆらとさせて、赤子をあやす。なんとも確固として、なんとも儚き日常の姿が見渡せた。

 人の話し声も、木々のざわめきも、路上のヴァイオリニストの演奏も、全部まとめて一個の音楽といえた。どれかひとつ欠けただけで、ひどく味気ないものになるだろう。

 空には雲ひとつなく、広場で過ごすには絶好の休日といえた。本の二、三冊でも持って、日当たりのいい芝生にでも寝転んで過ごせば、あっという間に充実した一日を終わらすことができるだろう。たまに見ず知らずの人に話しかけられたり、何らかの興味を引くものがあって読書の進まぬ日もあるが、それはそれでまた読書とは違う充実を味わうことができるのだ。

 ここでは何もかもがゆっくりと進む。いつもと変わらぬ時間の過ごし方をするのは時計くらいのものだろう。だから、僕は広場に時計を持っていかないことにしている。普段せわしなく時間に追われているのだ。彼らは決して僕たちに追いつきはしないが、いつだって僕らを急かすのだ。こんな気分のいい休日には、彼らの存在を忘れたい。日が暮れたら帰る。それでいい。

 入り口からぐるりと広場を見渡し、今日の隠れ家にするところを僕は慎重に選んだ。願わくば、日当たりと風通しのいい芝生がいい。かといって、ちょっとした静かな木陰もまた、捨てがたい。僕の視線が広場を一周すると、素敵な隠れ家になってくれそうな芝生と木陰が両方見付かったのだった。どちらもまた素晴らしいが、悩んでいるうちに先客が入ってしまうのはなんとも馬鹿馬鹿しいので、僕はポケットからコインを一枚取り出した。


 表で芝生、裏で木陰。


 指で弾き上げられたコインは空中で回転しながら、きらきらと太陽の光を反射した。その間、僕の頭からは人々の話し声も、木々のざわめきも、路上のヴァイオリニストの演奏も全部が消え失せて、そのきらきらとする反射光を追っていた。そして、コインが石畳を叩く澄んだ音と共に、全ての音が甦った。

 裏。木陰。僕は芝生の方を一瞥して、胸中で一言「残念だったね、またの機会」と短く慰安を述べ、そうしたら迷いなく木陰へと向かった。




 木陰の隠れ家の居心地は素晴らしく、仮に芝生を選んでいてはどうだったろうという考えは、実に野暮なものに思えた。どちらも、負けず劣らず素晴らしいのだ。僕は木陰に腰を下ろし、大きな楓の木に寄りかかった。この楓の具合もまた素晴らしく、きっと僕の背を預かるためにそこに生えているのだとすら感じた。

 僕の視線は滑るように文字の上を流れ、指は滑らかにページをめくる。想像以上の素晴らしい時間。誰にも邪魔をされたくはないという思いと、誰ぞ予期せぬ素敵な闖入者の登場を待ちわびる思いの両方抱いて、僕はゆるりと本を読み進めた。

 風にざわめく木々の隙間から零れ射す陽光もまた心地よく、眠気が優しく肩にもたれ掛かってくるのを感じる。このまま一眠りするのも実に魅力的だろう。

 ときたま本から視線を外すと、やはり最初に見た日常の光景が目に入る。幾つか広場の入り口から見た景色と違うのは、僕も日常の風景の一部であるということと、いつの間にか僕のすぐ近くに座っていた、若い女の絵描きだった。

 彼女のいる位置はちょうど僕から逆光で、細かな表情は窺い知ることはできなかった。ただ、知れる表情は物憂げで、まだ大半が真白いキャンバスに静かな視線を投げている。その横顔は真理を追う探求者の如く真剣であり、僕はそれを暫く眺めていた。

 彼女の視線は噴水に移り、指は思案を続けるその顔に添えられた。キャンバスと変わらぬほど白いその手の甲には、花のタトゥーが彫ってある。何の花であるか名前は出てこないが、どこかで見たことのある花だ。

「やあ、構図は決まった? それとも、色使いを悩んでいるの?」

 僕は何の気なしに声をかけ、彼女はちょっとびっくりしてからこちらに向き直った。やはり、逆光で表情はよく分からないが、美人であることは充分に知れた。

「両方ね。どちらも決まらないわ。悩んでいるというより、迷っているのよ。あの構図もいいし、この構図もいい。あの色使いも素敵だし、この色使いも捨てがたい、って」

「悩めるのは贅沢だね。僕もついさっき、日当たりのいい芝生か、静かな木陰か迷ってたんだ」

「それで、結局は木陰になったのね? どうやって決めたの?」

「コインを投げた。表が出たら芝生、裏なら木陰、ってね」

 彼女は小さく吹き出すと、ポケットからコインを一枚取り出した。奇しくも、先ほど僕が投げたものと同じ種類のものだった。

「それじゃあ、私もあやかろうかしら? ところでこのコイン、あなたのじゃない? 入り口のところに落ちていたのだけど」

「そういえば、拾うの忘れていたかな? 多分僕のだ。西門のところ?」

「ええ。じゃあ、あなたのね。でも、返す前に少し使わせてもらうわ」

 言うと、彼女はコインを投げた。先ほどと同じく、コインはきらきらと宙を舞った。

 しかし、今度は澄んだ音はしなかった。コインは土の上に殆ど直立になっていた。軟らかな土が受け止めてしまったのだ。

「この場合、どうすればいいんだろうねえ?」

「今日は描くな、ってことかしら?」

 彼女が笑ったので、僕も笑いながら、コインを拾い上げてポケットに収めた。

「今度はちゃんと拾った。大丈夫だ」

「ええ。大丈夫ね」

「うん、大丈夫だ。ところで、その手のタトゥー、何の花? 見たことはあるんだけど、名前が出てこない」

「ああ、これ?」

 ひょいとよく見えるように手を掲げて、彼女は反対の手でその花を撫ぜた。

「私も知らないのよね。どこかで見て、綺麗だと思ったから。この構図も、私が描いて、それを頼んで彫ったの」

「へぇ? 僕も、タトゥーあるんだよ。胸元に」

「何の構図?」

 僕は軽くシャツの胸元をはだけて見せた。小さな鳥がそこにいた。

「ハミングバード、ハチドリだよ。花の蜜を吸う鳥でね」

「花のタトゥーと、ハミングバードのタトゥー。ちょうどいいわね。ぴったりな組合せ」

「うん、そうだね。僕らはお似合いなのかも知れない」

 二人して笑い、そして僕らは日が暮れるまで取りとめなく話したのだった。しかし、どちらも相手の名前も素性も訊かなかった。なんとはなしに、訊いてはいけないような気がしていたのかも知れない。




 太陽が空を横切って、段々と西の方へと歩んでいくに従って、広場からは段々と人がいなくなっていった。そして最後に僕らだけが残ったころには、辛うじて西の空に赤く燃える光の足跡しか残っていなかった。

「そろそろ、僕らもいかないとね」

「そうね、お別れね」

「でも、また会うかもしれないし。僕はまたここに本を読みに来るだろうし、君も絵を描きに来る。だから、そのうち会えると思う」

「その度にお別れするのね」

「そうなるね」

 僕は立ち上がると一歩だけ彼女に寄った。そして、ほんの触れるか触れないかの、短い口付けをした。

「でも、仕方がないね。君は花で、僕はハチドリなんだから。ハチドリは飛んだままで蜜を吸うんだ。蝶々みたいに、花に泊まって羽を休めたりはしないんだから。僕のタトゥーが、蝶々だったらよかったのにね」

「そうね、蝶々だったらよかったのにね」

「でも、ハチドリだったんだよ。だから、行かないとね」

「ええ、さようなら」

「うん、さようなら」

 僕たちは何とはなしに反対方向へと歩いていった。そして、何とはなしに、もう二度と僕らは出会わないであろうと察していた。

 辺りは太陽の足跡すら消え失せて暗くなり、僕らが去ると街灯が二、三度点滅してから灯ったのだった。






―了―


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