ただ在るだけの吾輩
吾輩は花である。
なにかと忙しい存在らしい。
祝う席に呼ばれることもある。
別れの場に置かれることもある。
誰かの門出に添えられたかと思えば、しめやかな沈黙のそばに立たされる日もある。
まことに落ち着かぬ話である。
もっとも、落ち着かぬのは周囲であって、吾輩ではない。
吾輩はただ、そこに在るだけだ。
咲くべくして咲き、
置かれるべきところに置かれ、
黙って空気の中に立っている。
それだけのことである。
騒がしい席だからといって、吾輩まで浮かれるわけではない。
悲しい場だからといって、吾輩がうつむくわけでもない。
それなのに、どういうわけか、吾輩があるだけで空間の気配が変わるらしい。
明るくなったと言われることもある。
やわらいだと言われることもある。
華やいだ、しめやかになった、心が慰められた、などと言われることもある。
ずいぶん忙しく意味を背負わされるものだと、吾輩はときどき思う。
吾輩としては、少々心外でもある。
なぜなら、吾輩は変わっていないからだ。
昨日と今日で、祝福用の顔と追悼用の顔を使い分けているわけではない。
賑やかな場所では賑やかに咲き、静かな場所では静かに萎れるなどという器用な真似もできぬ。
吾輩は吾輩として在るだけで、あとは見る者が勝手に受け取っているにすぎない。
にもかかわらず、人は実に熱心である。
ある者は吾輩に感謝を託す。
ある者は祝福を見いだす。
またある者は、言葉にならぬ別れや、慰めや、祈りのようなものまで載せてくる。
花言葉などというものまで考え出し、この色にはこういう意味、この形にはこういう心、などとたいそう丁寧に読み込んでゆく。人というのは、見つめる対象に意味を与えずにはいられぬ生きものなのかもしれぬ。
まことに働き者である。
意味を考える側が。
もっとも、その熱心さも分からぬではない。
祝いの席に花があれば、たしかに空気は少し華やぐらしい。
別れの場に花があれば、言葉の届かぬところをそっと埋めることもあるらしい。
受付や会場の装花が空間の印象を整える、引き立てる、と語られることも珍しくない。
そう言われると、悪い気はしない。
いや、吾輩とて花である。
愛でられて不機嫌になるほどひねくれてはいない。
ただ、少しだけ訂正しておきたいのだ。
空気を変えているのは吾輩だけではない。
その場にいる者の心が、吾輩を通して自分の感情を見つめ直しているのではあるまいか。
吾輩は鏡ではない。
だが、映すことはあるのかもしれぬ。
祝う者には祝いの気持ちを。
惜しむ者には惜しむ気持ちを。
祈る者には祈りを。
そういうものを、吾輩の姿に重ねて見ているのだろう。
もしそうなら、ますます不思議な話である。
吾輩は咲いているだけだ。
香りを持ち、色を持ち、形を持ち、季節のままに在る。
それだけで、誰かの気持ちの置き場所になるのなら、たいしたものではないか。
いや、たいしたものなのは、むしろそこに意味を見いだす者たちのほうかもしれぬ。
祝う日も、
ひっそりした日も、
悲しい日も、
吾輩は変わらぬ。
変わらぬまま、ただそこに在る。
にもかかわらず、吾輩の周りでは意味ばかりが増えてゆく。
華やぎ、慰め、門出、哀悼、祈り。
そうして人は、そのときどきで吾輩を違うものとして呼ぶ。
忙しいのは、やはり吾輩ではなく人の心だな、とつくづく思う。
それでも、悪くはない。
吾輩の在り方は変わらぬ。
変えるのは、いつだって吾輩以外である。
ならばせめて、さまざまな意味をつけてもらうために在るのも、悪いことではないのかもしれぬ。




