第8話
「昨日の話、撤回してください」
アルベールと一夜を過ごし、唐突にプロポーズされた衝撃の翌朝。あたしは再び王宮を訪れ、彼と向かい合っていた。
「昨日の話というのは……婚約のことか?」
「はい」
あたしは頷き、アルベールを見据える。
本当なら、こんな展開あり得ない。だってアルベールが本当に愛するのはイリス・ヴァレンティナのはず。悪役令嬢であるあたしに心を向けるなんて――。
昨日はついアルベールの勢いに流されてしまったけれど、今日こそは婚約をはっきり撤回してもらわないと……!
あたしは顔を上げ、ソファに腰を沈めたアルベールを見た。
「アルベールさまのおっしゃるとおり、先日のわたくしの行いは、とても浅はかで愚かなものでした。心からお詫びいたします」
素直に頭を下げると、頭上からアルベールのくすりと笑う声が降ってきた。
「詫びる必要はない。夜会の夜のことは、お互い同意の上での行為なんだから」
『同意の上』という言葉に一瞬怯みかけるが、あたしはぐっと奥歯に力を入れる。
ダメよ、ミレイユ・ルミエール。こんな言葉に流されちゃ。
「……申し訳ありませんが、アルベール殿下。はっきりと言わせてもらいます。わたくしは、殿下とこの先の未来をともにするつもりはございません」
「……ミレイユ」
「もちろん、もし万が一、わたくしに殿下との子どもができていたらべつです。そのときはちゃんと責任を取りますわ」
だが、さすがにたった一夜の行為で子どもができているということはないだろう。もしそうなれば、小説の『断罪ルート』とまるきり違う話になってしまう。
ふと、沈黙が落ちたことに気付き、あたしはハッとする。アルベールは自身の指先を見つめたまま、黙り込んでいた。
もしかして、怒らせただろうか……? やり過ぎた?
いや、そんなことはない。あたしがアルベールとの婚姻に興味がないと分かってもらうには、このくらい言わなければ……。
アルベールがあたしを見る。
「っ……」
目が合った瞬間、アルベールがどこか傷ついた顔をしていたように見えて、息が詰まった。
「……君は、そんなに俺との婚約がいやなのか?」
アルベールの目を見ていられず、あたしは彼から目を逸らす。
「そっ……そもそも、出会った翌日にいきなりプロポーズされて喜ぶ令嬢はいないかと」
必死に正当性を訴えようとするが、
「そんなことはない。先日の夜会の裏目的は、俺の婚約者探しだ。招待された令嬢たちは、そのことを承知の上で参加している」
アルベールはあたしに、言葉を被せるように言い返してくる。あぁ、もう。
「……わたくしは、付き添いで参加しただけです」
「君がどんな事情を抱えていようと、趣旨を理解して夜会に参加したことは事実。俺には、君を婚約者にする権利があると思うんだが」
「……それは……」
言葉につまるあたしを見て、アルベールが勝ち誇ったように微笑んだ。
「……殿下は、どうしてわたくしにこだわるのですか。こんな変わり者を相手にせずとも、ほかにたくさんきれいな令嬢がいるでしょうに」
「俺は君がいいんだ」
あまりにもストレートな言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「だから、どうして……」
「今は俺のことを好きじゃなくてもいい。少しずつ、視界に入れてくれればかまわないから」
「っ……」
「どうしても君に、そばにいてほしいんだ」
アルベールは、少しの曇りもない眼差しを向けてくる。
「ミレイユ、愛してる」
甘い言葉に、心臓がどくんと跳ねる。
反撃の言葉を口にしようとして、けれどそれは喉に引っかかって出てこない。
唇が小さく震える。
アルベールの真剣すぎる視線に、胸の奥がざわめいて仕方なかった。
せめてもの反抗のつもりで睨みあげると、アルベールが優しくあたしを抱き寄せた。
じわじわと、頬に熱が広がっていく。流されちゃいけない――そう思うのに。
こんな顔をされたら、もうなにも言えないじゃない……。
「…………」
黙り込んでいると、頭上からため息が落ちてきた。顔を上げると同時に、アルベールがあたしから離れていく。
「……仕方ない。そんなに抵抗があるなら、試してみよう」
「え……?」
アルベールがあたしを見て、どこか寂しげに微笑んだ。
「一ヶ月だ」
あたしは眉を寄せ、首をかしげた。
「今日から一ヶ月のあいだだけ、俺たちは婚約者になる。そして、そのあいだに君が俺を好きになれなければ――そのときは、大人しく身を引くとしよう」
アルベールの蒼い瞳が、まっすぐにあたしのことを見下ろしている。
「一ヶ月でいいから、俺のとなりにいてくれないか。それでダメなら、ちゃんと諦めるから」
懇願するように頼まれ、心が揺れた。
どうしてこのひとは、こんなにもあたしのことを……。
あたしは、じぶんの保身のためにイリスを利用して、アルベールのことだって……。
アルベールの表情も声も、あたしをからかっているようには、とても見えない。
あたしは目を伏せた。
「……分かりました」
それで気が済むのなら、とあたしはアルベールの提案に頷いてみせる。
「……いいのか?」
アルベールが、わずかに驚いた顔をした。あたしはふいっとそっぽを向く。
「いやだって言っても、離してくれないんでしょ?」
アルベールの表情が緩むのが、視界の端で見えた。
「……あぁ。ありがとう」
「……た、ただし、一ヶ月後にわたくしが望んだら、そのときは必ず婚約を破棄してくださいませ」
「そんな未来は来ないことを願いたいが……ミレイユがそれを望むなら、そのときは、もう二度と君に近付かないと誓うよ」
「……約束ですからね?」
「信じられないなら、誓約書を書こう」
「えぇ、そうしましょう」
……良かった。当初の計画とは少し流れが変わってしまったけれど、これなら、一ヶ月我慢すれば開放される。
あたしは机から紙を取り出して、書き始める。すると、アルベールが背後から回り込み、手をそっと紙に重ねてきた。
「……なにかしら?」
手が邪魔で、文字が書けないのだが。
「誓約書を作るからには……それなりの内容にすべきだよな」
「いきなりなにをおっしゃるの……?」
「重要なことだろう? たとえば――どこまで求めていいのか、とか」
「どこまでって……」
アルベールの手が、あたしの手に重なった。ひやり、と汗が背中をつたい落ちていく。いやな予感がした。
「婚約者なら、手を繋いだりキスをしたり……もちろんあの夜みたいなことも、当然の行為だろう?」
「そっ、そんなこといたしません!」
ぴしゃりと否定するが、アルベールは怯んだ様子もなく、あたしを見下ろす。
「だが、なにもしなければ婚約者とは言えないだろう」
「そ、それは……そうですが」
「なら、どこまで許してくれる?」
アルベールに見つめられ、あたしはおそるおそる答える。
「で、では……その、手を繋ぐまで、で……」
「……手、だけ?」
不服そうな顔をするアルベールに、あたしは喉を鳴らす。少しのあいだ考え、口を開いた。
「じゃあ、キスまで、で」
するとアルベールは、
「うん。それなら分かった」
にっこりとしながら、紙に自身の名前の署名を始める。
なんて都合のいい……。
若干呆れながらも、まぁ一ヶ月だしいいか、と思い直す。とりあえず、じぶんのベッドだけは死守できたのだ。
「さて。これでよろしいですわね?」
「あぁ」
署名が終わると、アルベールは書類からあたしへ視線を移し――不意にあたしとの距離を詰めた。顔に影が落ち、あたしは顔を上げる。
「なに……」
身構える暇もなく、唇に柔らかな感触が触れた。
「……っ!?」
瞼を大きく見開くあたしをよそに、アルベールは軽く唇を離すと、艶やかに微笑んだ。
「悪いけど、期限付きなら俺は本気でいかせてもらうから」
そう言って、アルベールは再びあたしの唇を塞ぐ。角度を変えて、何度も何度も。
「……可愛い」
「~~~~っっ!!」
顔が一気に熱を帯びる。心臓が壊れそうなくらいに跳ね上がった。
許したとはいえ、こんな展開は予想していなかった。あたしは、アルベールの胸を押し返す。けれど、後頭部と腰をがっつりホールドされたあたしには、逃げ場がない。
「……ミレイユ、好きだよ」
アルベールの唇のぬくもりを感じながら、彼のことを見ると――アルベールは、あたしを見下ろしながら、甘くしたたかに微笑んでいた。
こ、この男……!
あたしはヒールのかかとで足を踏んでやろうと、自身の足を上げる。
しかし次の瞬間、アルベールはサッと身をひるがえしてあたしから離れると、爽やかな笑みを浮かべて言った。
「今はきらいでもかまわない。だが、ミレイユ。この一ヶ月……俺のとなりにいるあいだに、必ず好きにさせてみせるから」
「っ……」
そう言い切るアルベールの声音は、強引なのに甘やかで――。
「わ、わたくしはぜったいに、あなたの婚約者にはなりませんからっ!」
あたしの決意を、どこまでも揺さぶってくるのだった。




