期せず生まれた交響曲(シンフォニー) 〜三人の敗者は、ループする卒業パーティで足掻く〜
群像劇と恋と愛と現実を書きたかったんです
「イザベラ・エルシェ!!今日この場をもって貴様との婚約を破棄する!」
──いったい何度目の言葉だろうか。
愚かしいほどに張られた声が、シャンデリアの光が反射するホールに響き渡った。軽やかなワルツの音色がぴたりと止み、全ての視線が舞台の中央へと突き刺さる。
──ああ、そうか。今回は記念すべき、10度目の婚約破棄だったわね。
イザベラは、もはや何の感情も浮かばぬ瞳で婚約者である第二王子を見つめた。心の内で、乾ききったため息が一つ落ちる。
今日は王立学園の卒業パーティー。未来への希望に満ちたこの場所で、茶番は唐突に幕を開けるのだ。
──知っている。
この後、自分は王宮から着の身着のまま追い出される。エスコートも、護衛の騎士も、迎えの馬車もないままに夜の闇に放り出された侯爵令嬢という名の極上の鴨。それを飢えた野犬が見逃すはずもない。
路地裏で腹を裂かれる灼けつくような痛み。見知らぬ男たちの下卑た笑い声に嬲られながら意識を失う絶望。ああ、そういえば前回は、橋の上からネックレスを奪われて、突き落とされたのだったか。死のバリエーションだけは回を追うごとに驚くほど豊富になっていく。
──私の人生とは、一体何だったのだろう。
貴族として生まれ、血の滲むような努力を重ねてきた。10歳にも満たない頃から定められた婚約者──少しばかり考えが足りないところはあったけれど、それでも確かに親愛の情を抱いていた相手との未来。その全てが、「一目惚れ」だの「真実の恋」だのという、砂糖菓子のように甘く脆い言葉の前に踏み躙られた。
挙げ句、死んだと思えば、またこの卒業パーティーの朝に巻き戻される。
十度の死。十度の痛みと恐怖。あまりに理不尽な罰。
3度目のループでは父に泣きついた。「夢でも見ているのか」そう一蹴された。4度目のループでは父へ婚約破棄を申し出たいと進言した。結果は「王家への不敬である」の一言で一蹴された。
──証拠がなければ、ただの戯言として退けられる。ならばと証拠を探そうにも、破滅までの猶予はわずか12時間。あまりにも時間が足りないのだ。
分かっている…もっと早く対処すべきだったのだ。彼の隣に男爵令嬢が侍るようになった時点で手を打つべきだった。
──だが信じていたのだ。私達は貴族なのだと。一時の恋に浮かれることはあっても、最後は己の立場と責務を思い出すはずだと。……まさか、こんな形で誇りを奪い、義務を放棄するなど…愚かさの底が知れない。
「この女を外へとつまみ出せ!!!!」
王子の金切り声が、騎士たちへの命令となる──ああ、また「終わり」が来たらしい。騎士たちが躊躇いがちに腕を掴み、引きずるようにして歩き出す。人でごったがえす通路を、晒しもののように連れて行かれる。嘲笑、好奇、そして僅かな同情。その全てが、今のイザベラにはどうでもよかった。
──死の恐怖も、絶望も、とうに過ぎ去った。今の心にあるのは嵐が過ぎ去った後の海のような、静かな凪だけ。抗う努力はした。だが、何もかもがうまくいかなかった。
──引きずられていく。10回目の終わりがそこに来ていた。
「ごめんなさい、貴方とは結婚できないわ」
月明かりが差し込むテラスで、彼女はそう言った。卒業パーティの喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。
──何度目の言葉だろうか。
アルベールは数えるのをとうにやめていた。
アルベール・スミス。
その名は、羨望と畏怖を込めて、こう呼ばれる──千年に一人の『魔法使い』と。
魔術が発火、治癒、魅了などの、やがては科学が追いつき、代替する…いわば自然現象の応用技術に過ぎないものだとするのであれば魔法とは、現段階での文明の力では、いかに資金や時間を注ぎ込もうとも絶対に実現不可能なもの。
──魔術が天に輝く太陽から降り注ぐ『恩恵』を利用するだけの術だとすれば、魔法とは、その『太陽』そのものを掴み取り、奇跡を意のままに操る神の御業。
──そして現代において唯一、魔法を創生できるのがアルベールという男だった。
だがしかし、そんな彼を世間が評する言葉といえば、捻くれ者、根暗、厭世家。
──生まれた時から、家族という最初の共同体にさえ恵まれず、そうなってくると他者との心の通わせ方が分からずじまい。
優れた才能を持ちながらも、まともな人間関係ひとつ築けない…その結果、自分自身に価値を見いだせず、人生を楽しむという感覚が、致命的に欠如していた。
言ってしまえば、社会不適合者──それがアルベールという人間だった。
──だが、そんな灰色の世界に生きる彼には好きな人がいた。
リディア・エバンス。
同じ学園の同級生で、貴族の義務を何より重んじる真面目な女性。
出会いは、まさしく衝撃だった。春風に揺れる花の下で、振り返った彼女の姿を見た瞬間──心臓が鷲掴みにされたかのように軋み、呼吸さえままならなくなった。
一目惚れとは、かくも突然な暴力か。その一言に尽きる。
人間関係なんて構築する気なんぞなかった男が、必死になって彼女との関係を求めた。コミュニケーション能力が皆無の男なりに必死で言葉を探し、震える声で話しかけた。
幸いにも、リディアの優しさとコミュニケーション能力の高さのおかげで、二人は友人として良好な関係を築くことができた。
──関われば関わるほど、アルベールは狂おしいほどの感情に襲われた。
彼女の生真面目さが、その凛とした佇まいが、まるで白百合のように気高く見えた。どこまでも真っ直ぐに前を見つめる、海のような瞳が美しかった。
──だが、そんな彼女は明日、結婚する。この卒業パーティーを終えれば…他の男の妻となる。
だから、告白したのだ。どうか自分と生きてほしいと──そして突きつけられた。
「ごめんなさい。私の結婚は、家のために果たすべき義務なのです。」
絶対に彼女はアルベールの手を取らない、あまりに残酷な現実を。
だが、その現実を彼は受け入れられなかった。その「現実」を覆すため…彼女に、義務ではなく自分を選んでもらうため──アルベールは魔法でこの卒業パーティの一日をループさせることを選んだのだ。
「現実を見ろ」「諦めろ」と、そんな忠告をしてくれる友人は、彼には一人もいない。だから、彼は止まらない。誰にも止められない。
ループの度に、彼はリディアの心を動かそうと足掻いた。
彼女が好きな詩の一節を引用して愛を囁き、好きだと話していた宝石を一夜で錬成し、庶民の間で流行っているというフラッシュモブを、無数の使い魔に演じさせたことさえある。
──だが、彼女の答えは決して変わらなかった。
それでも。この想いが叶うまで、彼はまたループを繰り返す。テラスの月を見上げながら、また考えるのだ。
──どうすれば、どうすれば、リディアの心を、手に入れられるのだろうか。
「王太子殿下が……殺害されましたッ!!!!」
誰かの絶叫が、人々のざわめきを切り裂いた。
その言葉が意味を成すより早く、ダミアンの世界から音が消えた。視界がぐらりと歪み、硬い石畳へと崩れ落ちた。
──まただ。
毒殺は防いだ。怪しい食事は全て事前に処理した。暗殺者が使うであろう秘密の通路は、昨夜のうちに塞いだ。
考えうる限りの危険因子を、これまでのループで得た知識を総動員して、一つ、また一つと潰してきたはずだった。
だが、全てを潰し尽くした先に行き着く結末は、いつも同じ。
わかっていた。ここまでやったら王太子の控え室に襲撃が来るから、何よりも早く行かなくてはならなかったというのに。何においても殿下の側へ控え室へ駆けつけなければならなかったというのに。
──だというのに、あの愚かな第二王子が引き起こした婚約破棄騒動のせいで、下劣な痴態を見ようと集まった野次馬の人垣が、彼の行く手を阻んだ。
此度はあの愚か者のせいで。あの身勝手な色恋沙汰のせいだが、それ以外の要因でも、何度、何度、この手から主君がこぼれ落ちるのを見ただろう。
歯が砕けるほど奥歯を強く噛み締める。絶望が、マグマの如き燃えるような憤りが全身を内側から焼き尽くしていく。
──彼の名はダミアン・ウィリアムズ。彼を表す言葉は、「クソ真面目な石頭」だ。
代々宰相を務める母の家系と、代々近衛騎士を務める武門の誉れ高き父の家系。絵に描いたようなエリートである両親は、揃って『真面目』が服を着て歩いているような人間だった。
『ルールは守るためにある』
幼い頃からそう信じて疑わず、ルールを破る同級生を諌めては煙たがられた。若さゆえの過ちを許容しない融通の利かない堅物…それが彼であった。
──ある意味で当然のように、彼は周囲から孤立した。
──それでも彼が折れなかったのは、その信念を認めてくれた人がいたからだ。
幼い頃のお茶会の日。
ルールを守らぬ者たちに注意し、疎まれていた彼や、疎んでいた者達に、偶々参加していた王太子は静かに告げたのだ。
『ルールを守ろうとする者がいるからこそ国は正常に回る。嫌われようとも、声を上げる者がいるからこそ、秩序は保たれるのだ』と。
──その言葉が、泣きたくなるほど嬉しかった。
凍てついていた心の中心に温かな光が灯った。自分の存在意義を認めてもらえたのだと…心の底から思えた。
その日から、ダミアンにとって王太子は単なる主君ではなくなった。
ダミアンの心を支え、その行く末を照らす、唯一無二の『光』そのものとなったのだ。
──だから、許せない。
その光が何度も失われているという事実が、身を切り裂くよりも痛い。
──いつ、このループが唐突に終わるかも分からない。次は無いのかもしれない。成功するまでやり直せる保証など、どこにもないのだ。
歯を食いしばり、ダミアンは思考を巡らせる。
どうすれば、次こそは…どうすれば、この悪夢を終わらせられるのかと…じくり、と。背後から這い寄る、時間切れという恐怖に苛まれながら。
ただ、悪夢の終わりを渇望しながら。
ちち、と鳥のさえずりが聞こえる。
閉じた瞼を刺すような、暖かな光を感じる。
イザベラがゆっくりと目を開けると、見慣れた天蓋が視界に入った。
──朝が来た。11回目の朝だ。
記念すべき十周目は刺殺だった──見知らぬ浮浪者の、錆びたナイフによって。十度の死の中で、最も手慣れた、ありふれた幕切れ。慣れたくなどないそれに、とうに慣れてしまった自分がいる。
音もなく漏れたため息が部屋の空気に溶けて消えた。緩慢な動きで体を起こし、窓の外に目をやる。地平線の向こうが、夜の青と夜明けの赤に混じり合う、美しいグラデーションを描いていた。時刻は…おそらく四時といったところか。
再びベッドに身を沈め、静かに目を瞑る。
今ここから動き出したところで意味はない。情報収集をしようにも、広大な屋敷が活動を始めるのはまだ先。
勝負は侍女が起こしに来る6時から、卒業パーティのためのドレスに着替えさせられる16時まで。与えられた時間は──たったの10時間。
目を閉じたまま、これまでのループで得た情報を反芻し、思考の駒を並べていく。
わかっていることは何か。
一つ。今日の卒業パーティーで、第二王子は私との婚約を破棄する。
一つ。その罪状は、彼の浮気相手である男爵令嬢への、陰湿ないじめ。具体的には、茶会への招待状を送らなかったこと、私物を破損させたこと、パーティーへの出席を妨害したことなどを羅列する。
一つ。虐めの根拠は、被害者である彼女の「勇気ある証言」と、彼女の友人たちの偽りの証言のみ。
──ならば、こちらが必要なのは、私が彼女をいじめていないという物理的な証拠と、真実を語ってくれる証人。
……だが、それが絶望的に難しい。
王子側の証人は、彼の側仕えや男爵令嬢の学友で固められている。そもそも、あの場において王家の人間は第二王子ただ一人。保身に走る貴族たちが、わざわざ王族に楯突いてまで私のために口を開くはずもなし。王や王妃、そして王太子が臨席する前に事を起こすあたりに、あの男のズル賢い性根が透けて見える。
──となれば、必要なのは。
第二王子よりも強い権威を持ち、この茶番を公平に裁いてくれる誰か。
そして、その人物を否応なく引きずり出し、全ての聴衆の注目を集め、一撃で盤上を覆すための完璧な「舞台装置」。なんてことを考えながら、それができる王や王妃がいないという事実に手詰まりであると実感してしまう。
──本当は、パーティーが始まる前にこちらから婚約を破棄するのが最善手。だが、明確な証拠を持たずして浮気を理由にした王家への申し立てなど、許されるはずもない。ふと、父の厳格な姿が脳裏に浮かぶ。
父上は本当に素晴らしい領主だ。貴族の義務とは、その豊かさに応じた責任を負うことであると、常に領民のために心を砕いている。
だが、彼はどこまでも「正しい」貴族なのだ。確たる証拠がなければ動かない。動けない。己が有利を確信しなくては味方になることはない。
……そう、これは、ある意味で私の不手際だったのだ。
もっと早く、彼の動向を探っておくべきだった。あの男が、一時の恋に溺れ、婚約破棄などという貴族にあるまじき愚行に走る人間だと見抜くべきだったのだ。もっと、真剣に彼という人間と向き合うべきだった──後悔が今更ながら胸を焼く。
だが、感傷に浸っている暇はない。どうせ12時間後には、否応なく彼と対峙させられるのだから。心の内に燻る炎を押し込むようにため息をつく。
後悔するくらいなら、やれることをやるだけだ。
──瞳の奥で、諦観の闇に塗り込められていた闘志が、硝子のかけらのように、鋭く、そして静かに煌めいた。
夢と現実の境目が曖昧な眠りから覚めるのと、アルベールがベッドから転がり落ちるように動き出すのは、ほぼ同時だった。
強迫観念に駆られたように自室の本棚へと飛びつき、片っ端から資料をひっくり返し始める。
──これまで、あらゆることを試してきた。
本棚の一角を占める、所謂「女性が好みそうな恋愛小説」の類。そこに描かれた、女性が喜ぶとされるあらゆるシチュエーションをループの度に実践してきた。
──だが、結果は見るも無惨なものだった。
どうすればいい。何を見せれば、リディアは自分を認めてくれる?思考が焦りと共に空回りする。
甘い愛の詩を囁けば、彼女は困ったように微笑むだけだった。
好きだと言っていた宝石を錬成して贈れば、丁寧に断られた。
庶民の間で流行っているというフラッシュモブに至っては、彼の致命的な表現力の欠如も相まって、リディアを喜ばせるどころか、ただ盛大に恥をかいただけに終わった。
何か、何か、もっと特別な……苛立ちに任せて乱暴に魔術の書のページをめくった──瞬間
ある挿絵と共に、記述が彼の目に飛び込んできた。
──『月光花』。
膨大な魔力と、満月の光を浴びなければ決して咲くことのない幻の花。花弁は、見る角度によって虹のようにその色を変えるという、この世のものとは思えぬほど美しい花。
「……膨大な魔力」
その一文に、思わず眉を顰める。
常の状態であれば、必要とされる魔力量など問題にもならない。
──だが、今は違う。この一日を繰り返すために、彼の魔力は常に消耗し続けていた。
一本だけ、たった一輪だけなら、あるいは……。だが、告白の舞台に、花が一輪だけというのも寂しいのではないか。どうせなら、そう…辺り一面を埋め尽くすほどの、花畑がいい。
──そうなると、そうなると、だ。
ループを維持するために使っている魔力の全てを、この花を咲かせるためだけに注ぎ込む必要が出てくる。
これを実行すれば、魔法は崩壊し、二度とこの一日をやり直すことはできなくなる──つまり、これは紛れもない「最後の手段」ということだ。
もっと慎重になるべきか。
そう思考が囁く半面、本に描かれた花の美しさが心を掴んで離さない。
この月光花が、王宮の美しい庭園に咲き誇ったら?
その光景を目にした時、きっと、リディアも……。
その想像図は、あまりに甘美で、抗いがたい魅力に満ちていた。
そうだ、一発勝負だ。ここで決めればいいだけの話なのだ。
躊躇は、瞬時に決意に変わる。
アルベールは本を閉じると、幻の花の種を手に入れるために部屋の扉へと向かった。その足取りに、もはや迷いはなかった。
失敗の記憶がもたらす憤りを、ダミアンは無理やり意識の底に沈めた。今はただ、冷静に情報を整理し、次の一手を考えなければならない。
──朝の静寂に包まれた王宮の廊下を歩きながら、思考を巡らせる。
第二王子が、あのタイミングで婚約破棄を宣言することは確定している。
ならば、その騒ぎが起きる前に、控え室へと繋がる最短ルートを確保しておくべきだ──だが、彼は即座にその考えを打ち消す。
こういった公式のパーティーで、婚約者の側を長時間離れるのは重大なマナー違反だ。
これまでのループでも、トイレに行くという名目で席を立ったことはある。だがそれは、あくまで用を足しに行く道中で、偶然殿下の控え室の近くを通る…という苦肉の策だった。これ以上効率的なルートを選べば、不自然なほどに婚約者の傍を離れることになる。それは許されざるルール違反だ。
──ダメだ。思考が、がんじがらめになる。
自身の融通の利かない生真面目さに、思わず舌打ちが出そうになるのをぐっと堪えた。だが、これは譲れない。ルールを曲げることは自分自身であることをやめることに等しい。
しかし、その信念が原因で、守るべき殿下を守れないのなら……その信念に、果たして意味はあるのか?
ルールは、秩序は、国を守るためにこそある。だが、そのルールに縛られ、守りたいもの一つ守れないのなら──自問自答が袋小路へと迷い込む。
──その時だった
「ダミアン」
背後からかけられた声に心臓が跳ねた。
聞き慣れた、けれど、聞くたびに魂が震える声。その声が響くだけで、まるで色褪せていた世界に鮮やかな光が満ちる。
「っ、殿下!!」
慌てて振り返ると、やはり、そこには彼がいた。穏やかな笑みを浮かべた次期国王。ダミアンが全てを捧げると誓った主君で理想の王だ。一部の人間だけでなく、万人の善き生活を願う、真の王道を歩む人。
「早いな。もう会場の確認か?」
その声には、彼の真面目さを理解し、受け入れている温かさがあった。
「……何が起きるか、分かりませぬ故。会場の確認は、徹底しなくては」
そう答えながら、ダミアンは目の前の主君の姿に、これまでのループで見たおびただしい死の記憶を重ねていた。
血の海に沈む姿を。毒にのたうち、泡を吹いて絶命する姿──二度と、あのような無惨な目に遭わせてなるものか。
──瞬間、ぽん、と肩に温かいものが置かれた。
「そうか。頼んだぞ」
王太子の血の通った暖かな手のひら。その温もりが、信頼の重さが、ダミアンの身体に熱を灯す。
それと同時に、まるで冷水を浴びせかけられたように、彼の頭脳は極限まで冴えわたった。
そうだ。このループは…きっと神の思し召しなのだ。
殿下を死なせるな、と。この国の未来である、この方の命を守り抜け、と。
そう、天が命じているのだ。
──絶対に、あの方をお守りする。
手のひらの温もりが残る肩に、ダミアンは静かに、そして強く、誓いを立てた。
壮麗な卒業パーティの会場に足を踏み入れた瞬間、イザベラは一つだけ長い息を吐いた。
それは覚悟を決めるためのものではない。むしろ、持っていたはずの覚悟も、なけなしの希望も、全てを諦念と共に吐き出すような…深いため息だった。
──やはり、ダメだった。
この数時間、やれるだけのことはした。だが、『第二王子が婚約破棄をなさるかもしれない』などという、不確定な未来を信じて動いてくれる貴族など一人もいなかった。誰もが保身に走り、面倒事から顔を背ける。
──本当に手を打つべきだったのは、もっとずっと前だった。だが後悔しても既に遅い。
結局、今回新たにできたことと言えば、卒業パーティが終わった後、すぐに乗り込めるよう馬車を早めに手配しておくことくらい。
もし父に馬車を早めに手配したことがバレたのなら、「何を馬鹿なことを」と叱責されるだろうが…、だが見つかることはない。これまでの経験を活かし、今回は御者に直接根回しをすることができた──ほんのささやかな、しかし重要な一歩。
もし、このループが「死」をトリガーにしているのならば、生き延びることでこの悪夢から抜け出せるかもしれない。もし、それでもダメなら……またその時に考えればいい。
そんなことを考えながら──ふと、周囲からの視線に目を向ける。
侮蔑、好奇、そして憐憫。様々な感情が混ざった視線が針のように突き刺さる。それもそうか。これほど大きな卒業パーティに、エスコートもなしに一人で現れた王族の婚約者など…前代未聞のスキャンダルだ。
最低限の節度は、貴族としてのマナーは守るものだと、どこかでまだ信じていた自分が馬鹿だった。いやまあ、そもそもにして守られていれば、そもそもこんな状況にはなっていない。
──もし、このまま生き延びて、婚約破棄だけが成立したら…私は、どうなるのだろう。
ぼんやりと明日を思う。
正式な審議の場は与えられるのだろうか。それとも、第二王子の思惑通り、全ての罪を着せられたまま社交界から追放されるのか。
どちらにせよ、「傷物」の令嬢という事実に変わりはない──先行きが不安なことに、何の違いもなかった。
もう一度、小さなため息が漏れた。
それとほぼ同時に、ファンファーレが鳴り響き、パーティーの開始を告げる華やかな音楽が流れ始める。
──ああ、時間切れだ。
そう思った瞬間、全ての音楽を、そして会場の喧騒を、一つの金切り声が引き裂いた。
「イザベラ・エルシェ!! 今日この場をもって貴様との婚約を破棄する!」
──11回目の、断罪の言葉だった。
卒業パーティの喧騒を背に、アルベールは一人、静まり返った庭園で魔法の発動の瞬間を計っていた。
天文学的に、月がその魔力を最も色濃く地上に放つ時間まで…あと5分。
──月光花
幻の花は、満月の光が最大に達する、ほんの刹那の瞬間に膨大な魔力を吸収することで、その美しい花弁を開くのだ。
──庭園を見渡す。植えた無数の種は、すでに開花の寸前まで成長させてある。あとは最後の一押しを与えるだけ。
庭園いっぱいに咲き誇る月光花に、驚き、そして微笑むリディアの姿を思い浮かべると…自然と頬が緩むのを抑えきれない。
美しい彼女と、美しい花々。そして、今宵の美しい月。
この世で最も美しいものたちが組み合わされば、そこは神々でさえ嫉妬するような、奇跡の空間となるだろう。
──そこで、この本懐を遂げるのだ。彼女に認められて…彼女と共に生きる。
すぅ、と深く息を吸い込む。丹田に力を込め、これまでこの一日を繋ぎ止めるためだけに使ってきた、ループの魔法そのものを解き放つ準備をする。
これを解き放てば、堰を切ったように、彼の全ての魔力が庭園の花々へと一斉に注ぎ込まれるだろう。
……まあ、多少の衝撃波は生まれるだろうが。
自身の魔力の総量を考えれば、それなりの余波は免れない。…だが、それは些細な問題だ。大したことにはならないだろう。
アルベールは、これから起こるであろう衝撃に備え、ぐっと足を踏ん張る。
思い浮かべる、美しい花と可憐な彼女の姿を。そして今度こそ、彼女の心を──。
その思考の先にある甘い未来だけを信じて…。アルベールは、その身に宿る全ての奇跡を解き放とうとしていた。
卒業パーティの華やかな音楽が始まる前の、期待に満ちた喧騒の中。ダミアンの心は戦場にいるような心持ちであった。
全ての招待客に鋭い視線を送り、頭の中で無数のシミュレーションを繰り返す。どう動けば、最短で殿下の下へ辿り着けるか──あらゆることを考慮に入れて。
「どうしたの、ダミアン。そんなに鋭い目をして…」
思考に深く沈んでいたダミアンの意識を、柔らかな声が現実に引き戻した。横を見れば、婚約者であるリディアが心配そうに彼の腕をそっと掴んでいる。
「……いや、なんでもない。ただ、こういう場だ。何が起きるか分からないからな。…もし、殿下の御身に何か起きるようなことがあれば……その時は、君の側を離れてしまうかもしれない。…すまない。」
言葉を選びながら、努めて表面上は穏やかに言葉を続けた。
将来、父の跡を継いで王太子の近衛騎士となるダミアンが、あのクソ真面目な男が卒業パーティという祝いの場であっても、警戒をするのは当然のこと──周囲の目には、そう映っていただろう。
だが、ダミアンの心境は違う。今日、まさにこの時に殿下が襲われることがわかっているのだ。だが、自分は今日は学園の卒業式という、生徒という立場上、殿下の護衛につくことは叶わないし、そもそも婚約者を置いて仕事に出るなど、そのようなことできるわけもない。
それに殿下が暗殺される可能性があるなど…言えない。言えるわけがない。
口が裂けても、殿下が暗殺される危険があるなどと。
頭がおかしくなったと思われるだけなら、まだいい。万が一にも、暗殺計画に関与しているなどと疑われれば…それこそ本末転倒だ。ループの記憶が、自分の中にしかないという事実が口惜しい。
ギリ、と強く爪が掌に食い込むほどに強く握りこむ──その手を、小さな、柔らかな手が包み込んでくる。
「大丈夫よ、ダミアン。その時は、迷わず殿下のお側へ行ってちょうだい。私達は貴族。そして貴方は王家の盾となることこそが…最大の役目なんですから。」
リディアは真っ直ぐな瞳で、ダミアンを強く見つめ返す。…その言葉に、瞳に、何度、背中を押されただろうか。
──彼女は自分と同じだ。どこまでも生真面目で…貴族としての矜持を胸に真っ直ぐと前を見つめている。
──たとえ、これが義務によって定められた結婚だとしても、彼女とならば、きっと素晴らしい家庭を築けるだろう。ダミアンは、彼女の芯の強い瞳を見つめながら改めてそう確信した。
──その時だ。ファンファーレが、高らかにパーティーの開始を告げたのは。
ああ、始まるぞ。ダミアンが気を引き締めた、まさにその瞬間
「イザベラ・エルシェ!! 今日この場をもって貴様との婚約を破棄する!」
その声が、忌々しいほどに耳慣れた、あの愚かな第二王子のものだと気づくのに、一秒もかからなかった。
まさしく茶番、と呼ぶにふさわしい断罪劇が、厳かに、そして滑稽に進んでいく。
男爵令嬢の腰を馴れ馴れしく抱きながら、第二王子がこちらを不倶戴天の敵とでも言わんばかりに睨みつけている。その陳腐な芝居に、イザベラはもはや怒りすら忘れ、心の底から落胆していた。
十一度の繰り返し、そして十一度の断罪。
繰り返される都度、私の心は凍てつき、氷の殻へと包まれていく。
──私達の間に、恋というものはなかった。けれど、貴族としての信頼、友としての愛はあったはずだった。
……いいえ、それすらも私の勘違いだったのかもしれない。結局のところ、私には人を見る目がなかった──今起きている全ての原因は、ただ、それだけのことだ。
「この女を外へとつまみ出せ!!!!」
お決まりの安っぽい台詞が会場に響く。その言葉を合図に、騎士たちが無感情な足取りで近寄ってきた。
ああ、また「終わり」が来たらしい。手配した馬車は、ちゃんと来てくれているだろうか。あの馬車さえあれば、死は回避できるかもしれない。私の名誉は地に落ちるだろうが、少なくとも、命だけは──
──どうして私の名誉が地に落ちなくてはならないの?
疑問が、ふと頭をよぎる。
心を覆っていた氷の殻に、亀裂が入る感覚に襲われる。
──恐い。
痛みが、恐い。
全ての感覚が失われていく、あの瞬間が恐い。
目を閉じれば、今までに自分が歩んできた道に、十の死体が転がっているのが見える。自分がまた、『私』が、その一つになることが恐い。
そして何より、これまでの努力が、人生が、何一つ記録にも記憶にも残らず、ただ無意味に消えてしまうことが──何よりも、恐ろしい。
そもそもにして、あれほど努力したのに、なぜ虫けらのように踏み躙られなければならないのだ。
ふつふつと、腹の底から何かがせり上がってくる。同時にそれは、恐怖を焼き尽くすほどの…灼熱の怒りだった。令嬢らしからぬ、と分かっていても、歯が砕けるのではないかと思うほど奥歯を強く食いしばる。
騎士の手が、もうすぐそこに迫る。感傷に浸る時間は、もうないらしい。
ならば、と。激しいと燃え盛るような怒りに支配された頭で、イザベラは心を決めた。
──抗ってやる
誇りを奪われるか、はたまた黙って殺されることが私の運命だというのなら、その運命の喉元に、みっともなく食らいついてでも生きてやろう。
──そうだ。なりふり構わず、ここで暴れるのはどうだろう。その無様な姿を哀れみ、証言してくれる者が出るかもしれない。いっそ、国王陛下が駆けつけるほどの、大騒ぎを起こしてやればいい。
末期の考えだ。貴族らしくない。みっともない。やけっぱちだ。
そんな理性的な思考を頭の隅に押しやり、騎士の腕が触れるか触れないかの、その瞬間。イザベラは、その手を振り払うべく、全身に力を込めた。
──刹那
ドンッ!!!!
腹の底に響くような轟音と共に、王宮そのものを揺るがす強烈な衝撃が、全てを襲った。
衝撃音。続いて、何かが崩落する、地鳴りのような音。
頭上の巨大なシャンデリアが激しく揺さぶられ、甲高く軋んだ悲鳴を上げる。美しく並べられていたグラスやボトルが次々と床に叩きつけられ、甲高い破砕音を立てて砕け散った。
そして、ほんの一瞬の静寂の後。
阿鼻叫喚の悲鳴が、卒業パーティの全てを飲み込んでいった。
冴え冴えとした月光が、庭園の全てを照らしていた。
天頂にて月がその輝きを最大にした──刹那
アルベールは、己が内に溜め込んだ魔力の全てを、一気に解放した。
凄まじい魔力の濁流が、庭園に植えられた無数の蕾へと注ぎ込まれる。月光花が、まるで渇いた喉を潤すかのように、その力を貪っていく。
──だが、アルベールが放った魔力は、あまりにも膨大すぎた。花々が吸いきれなかった奔流は、行き場を失った衝撃波となって王宮を揺るがし、渦を巻いてあたり一帯を蹂躙していく──その破壊の力を、そのまま生命力へと変換するように、庭園中の蕾が一斉に、その花弁を開いた。
目を開けたアルベールの目の前──そこにあったのは光の海だった。
月の光をそのまま閉じ込めたかのように、青白く、そして虹色に明滅する無数の花弁。その一つ一つが命を得たかのように輝きを放ち、庭園は地上に再現された銀河と化した。
あまりに非現実的な光景に、創り出したアルベール自身、思わず「ほぉ…」と感嘆の息が漏れる。
ああ、この景色を。この、世界でただ一つの美しい風景を、リディアに見せたい。いや、見せなくてはならない。もはや使命感にも似た感情が、アルベールの全身を支配する。
だが、彼女はどこにいる?そうだ、呼ぶと決めていたが、何処にいるか把握していなかった。
卒業パーティの会場から、大声で呼ぶか?そんな時間は惜しい。
この花が枯れることはないが、いつ誰がこの騒ぎを聞きつけてやって来るか分からない。
二人きりで、この奇跡を分かち合いたいのに…誰かに邪魔をされるなど、絶対にあってはならない。
──焦燥感に駆られたアルベールは、瞬間的に完璧な解決策に思い至った。
──そうだ。召喚術を応用すればいい。
対象の生体反応だけを追跡し、空間を歪めて、己の座標へと強制的に引き寄せる。
まだ研究段階の、神の領域にさえ踏み込む所業のもの。まさしく『魔法』というに相応しいもの。
だが、理論上は可能なはずだ。彼は、足元に複雑な魔法陣を展開させる。
「■■、■■■■、我が身を磁石とし、かの者を砂鉄と成せ…」
ぶつぶつと、古代の言語が彼の口から紡がれる。
言葉にすれば単純だが、これを実現できる者など、この現代において、彼一人を除いて存在しない。
──だからこそ、彼は『天才』であり、そして時に『天災』とも呼ばれるのだ。
詠唱に応え、花畑の真ん中から、眩いばかりの光の柱が立ち上る。
アルベールは、目を細めながらその光源を見つめた。ほんの数秒のはずが、永遠のようにも感じられる、時が止まったかのような空間。
やがて、魔力の奔流は収束し、光は影と共に、一人の人間の形をゆっくりと象っていく。
光が完全に消え去った後、そこに立っていたのは、月光花の光を浴びて、なおその輝きを失わない、白百合のように可憐で美しい少女──リディア・エバンスであった。
轟音が鼓膜を突き破るのと、ダミアンが咄嗟にリディアを庇うように強く抱きしめたのは、全くの同時だった。
──思考よりも先に身体が動いていた。己の体を盾として、降り注ぐであろう危険から守るために。
やがて、全てを揺るがした衝撃が止み、頭上で甲高い悲鳴を上げていたシャンデリアの揺れも、次第に収まっていく。何が起きた? 敵の襲撃か? そう思考が動き出すよりも早く、鋭い声が混乱を切り裂いた。
「何事だ!!!!」
その声の主が、己が主であると気づき、ダミアンは目を見開く。
──なぜ、殿下が此処へ。ああ、そうか、あの方だからこそ、なのだ。上に立つ者として、誰よりも早く状況を把握し、民を安んじるために、自ら動かれたに違いない。
──すぐにでもお側へ駆けつけたい。だが、腕の中には庇護すべき婚約者がいる。何が起きたか分からぬこの状況で、彼女を一人残していくことなど、貴族としても、男としてもできはしない。
忠誠と、責務。二つの間で引き裂かれるような感覚にダミアンの体は硬直した。
──刹那
「行って、ダミアン」
腕の中から、凛とした声が響いた。
はっと視線を落とせば、リディアが力強く、揺るぎない瞳で、まっすぐにこちらを見つめている。
「貴方の仕事をするのよ」
──貴方の仕事。
それは、命に代えても殿下をお守りすること。殿下の歩む道の露払いをし、その輝かしい治世を、陰日向なく支えること。
敬愛するあの方を支えたいという…貴族としての義務を超えた、一個人の願い。エゴ。その全てを、彼女はただ一言で認め、そして背中を押してくれた。
──いつも、そうだった。
この結婚は貴族の義務だと理解しつつも、彼女は常に互いの譲れない信念を尊重しようと努めてくれた。この石頭で、融通の利かない自分の生き方を、ただ真っ直ぐに肯定してくれる。
だからこそ、思ったのだ。この女性とならば、自分はこれからもこの国のために生きていける。この女性となら、未来を歩んでいけると。
「……分かった。ありがとう、リディア。行ってくる!」
だから、彼女に捧げる言葉は、謝罪ではない。
ただ、感謝だった。
短い言葉を残すと、ダミアンはパニックに陥る人々をかき分けるように、主君の、守るべき光の元へと、疾風のごとく向かっていった。
衝撃音。破砕音。そして、阿鼻叫喚の悲鳴。
「何事だ!!!!」
──その全てを圧するように、凛とした声が響き渡った。
現れたのは、この国の次代を担う王太子、その人。
彼の姿を認めた瞬間、パニックに支配されていた会場が、まるで水を打ったかのように静まり返る。誰もが、その場に現れた絶対的な権威の前に、動きを止めた。
「あ、兄上……」
隣の男爵令嬢を気遣う余裕もなく、第二王子が引きつった声を漏らす。
その光景を、イザベラはただ刮目して見ていた。
──違う。これまでの十度のループとは、何かが決定的に違う。予期せぬ闖入者。この理不尽な茶番を、一方的に終わらせられる力を持つ者が現れた。
「何が起きた」
王太子が、近くにいた貴族に短く問う。
「だ、第二王子殿下の、ご婚約破棄の騒動の最中に、突如として爆発音と衝撃が……」
狼狽えながらも、貴族は事実を告げれば
「婚約破棄、だと?」
王太子の目が、すっと鋭くなる。その視線だけで、第二王子の肩がびくりと跳ねた。
イザベラは、その様子を冷静に観察する。
この弟君は、兄君に弱い。尊大に見えて、その実、小心者。他人の力を自分のものと勘違いしてすぐに増長するくせに、想定外の事態には滅法弱い。
……いや、彼なりに良いところもあるのだ。貴族としての責務は弁えているし、普段の行動には、彼なりの筋が通っていることも多い。ただ、その全てが、太陽のように輝く兄君の圧倒的な才覚と人望の前では、色褪せて裏目に出てしまうだけで。
そしてその太陽の如き視線が
「エルシェ嬢。一体何があったのか、君の口から聞かせてもらおう」
今…こちらに向けられた。
「あ、兄上!こ、これは、その……」
慌てて口を挟もうとした第二王子を、
「黙れ。今は、私がエルシェ嬢に聞いている」
王太子は身も凍るような冷たい一瞥で黙らせる。その絶対的な威圧に、第二王子は完全に萎縮した。
──チャンスだ。
イザベラの全身に、電流のような覚醒が走った。
これを逃せば、次はない。ここで黙って引き下がるなんぞ、愚の骨頂。何が貴族か。魑魅魍魎が跋扈するこの社交界で、腹を探り合い、蹴落とし合ってこそ、貴族として生きていると言える。目の前に差し出された、千載一遇の好機を…逃すわけにはいかない。
「はい。第二王子殿下より、一方的に婚約破棄を言い渡されました」
イザベラは、背筋を伸ばし、凛とした声で答えた。
「そこにいらっしゃる男爵令嬢を、わたくしが虐めたと。その、いわれなき罪によって、今まさに王宮から追い出されようとしていたところでございます」
「……そうか。分かった」
王太子は静かに頷くと、会場全体を見渡した。
「この混乱の中、今この場で証拠を精査し、事を正しく判断するのは難しい。エルシェ嬢、不本意とは思うが、この場は一旦、私に預けてはもらえないだろうか」
「──かしこまりました、殿下」
イザベラは、完璧な淑女の礼淑女の礼で応え、内心で、誰にも気づかれぬよう、安堵の息を、そっと吐き出した。
少なくとも、今、ここで追い出されるという結末は回避した。
それはつまり──自分が、死なずに済んだということ。
そして、あの身勝手な「恋」という名の暴力に、打ち勝つことができた、ということだった。
光が収束し、その場に現れたリディアは、数度目をしばたかせ、呆然とあたりを見渡した。
「え……ここ、王宮の、庭園…?」
「リディア!!」
世の汚さなど知らない純粋無垢な少年のように、顔を輝かせ、アルベールはリディアへと駆け寄る。
「アルベール……これは、貴方が?」
戸惑いがちに庭園の花へと目を向け、問う彼女に、彼は満面の笑みで頷いた。
「うん、そうだよ!! これは魔力をぶつけて咲かせる花なんだ! 少し衝撃は起きちゃったけど…でも、これをすぐにでも君に見せたくて! 転移魔法も、今さっき完成させてね。理論は分かっていたから、すぐにできたんだ!」
嬉々として語るその言葉に、リディアの表情が凍りついた。
「──貴方は何をしているの!!!!」
耳をつんざくような怒声。
──目を吊り上げ、リディアはアルベールを睨みつけていた。
「へ……え、だ、だって、君、花が好きだろう? こ、これは僕にしか咲かせられない、特別な花で……」
「そんなことは聞いていないわ! このような場で…なんてことをしたの! 王族が住まうこの王宮で、しかも、これほど大切な記念の日に! そんなことをすれば何が起きるか…少しは考えなさい!!」
思ってもみなかった烈火のごとき怒り。これまでのどのループとも違う、絶対的な拒絶──アルベールの脳は、パニックで真っ白になった。
「ぼ、僕は……君に、笑ってほしくて……その、手を、取ってほしくて……。僕には、これしかなくて……これしか、見せられるものが、なくて……」
──それは、彼の偽らざる本心だった。
生まれた時から、家族という最初の共同体にさえ恵まれず、誰にも自分自身を認めてもらえなかった。求められるのは、いつも彼に付随する『魔法』という才能だけ。
──だから、信じていたのだ。この素晴らしい魔法を見せれば、きっと、今度こそ、彼女が自分を認めてくれるのだと。
その、道に迷った子供のような表情を見て、リディアは一度、ぐっと息を呑み、そして静かに、深いため息をついた。
「……そうね。これには、私にも非があるわ。貴方が自分自身に価値を見いだせず、魔法の力ばかりに縋ってしまうことを…友人として、もっと早くに諌めるべきだった。貴方自身の価値を、私が認めてあげるべきだったのね」
彼女の瞳に、ほんの一瞬、悲しみの色が浮かぶ。
「でも、ごめんなさい。もう、私にはそれはできないの。私には、これから先、生涯を共にする相手が決まっているから」
一度言葉を切ると、リディアは、まるで最後の審判を告げるかのように、静かに続けた。
「今の貴方に必要なのは、魔法ではなく、貴方自身の価値を認めてくれる人よ。私は貴方を友人だとは思っているけれど……あなたの魂の隣に、寄り添ってあげることはできない」
──さようなら。
その一言を残し、リディアはアルベールに背を向け、歩き出す。
その瞬間、アルベールの胸を、何かが内側から引き裂いた。
肺に穴が開いたように、呼吸ができない。涙腺に、熱いナイフを突き立てられたかのように、涙が勝手に溢れ出して止まらない。
──いやだ、行かないでくれ。
このまま彼女が行ってしまえば、自分はまた、あの価値のない『何者でもない自分』に戻ってしまう。彼女を好きでいることで、かろうじて保っていた自分という輪郭が、溶けて消えてしまう。
そんなのは、嫌だ。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、耐えられない。
苦しい。手を伸ばしたい。その腕を掴みたい。ここに、閉じ込めてしまいたい。
──だけど。
だけど、それはできない。
今、自分がやろうとしていることの全てが、彼女を深く傷つけることだと、分かってしまったから。
──僕は、リディアが、好きだ。
好きだから、傷つけちゃ、いけないんだ。
涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、アルベールはただ、遠ざかっていく彼女の背中を見つめる。
伸ばしかけた手を、もう片方の手で、爪が食い込むほど強く握りしめて、抑え込む。
──それが、彼にできる、最後の抵抗だった。
「すまないが、通してくれ!!」
ダミアンは、パニックに陥った人々の間を、謝罪の言葉を投げつけながら突き進む。誰もが浮き足立つ中、彼だけが、明確な目的を持って動いていた。
これまでのループで、暗殺者たちは毒を盛り、隠し通路を使い、あらゆる手段で殿下の命を狙ってきた。今回、何の因果か、殿下は人目のある場所に姿を現している。これは、暗殺のリスクを高め、その確率を下げるはずだ。
──だが、下がるだけだ。ゼロになるわけではない。
だから、一刻も早く殿下のお側へ。物理的に、この身を盾としなければ。
焦燥が、彼の背中を押す。あと数歩。あと、ほんの二メートル。
その、手が届きそうになるほどの距離まで近づいた──瞬間。
不意に、守るべき主君と視線がかち合った。
それと、全くの同時。ダミアンの、鍛え上げられた騎士としての視界の端が、不自然な光を捉えていた。天井付近。シャンデリアの光とは違う、鋭く、冷たい、金属のきらめき。
視線だけを、そこへ向ける。
──いた。闇に溶け込むような黒尽くめの人間が、天井の梁から、短剣を投げ放とうと構えている。
見た、と思った瞬間には身体は動いていた。
思考が追いつくよりも早く、刻み込まれた使命感が全身を支配する。
地面に、先ほどの衝撃で床に転がっている銀製の食事のプレートを鷲掴みにする。
「──申し訳ございません、殿下っ!!!!」
絶叫と共に、人の壁を突き飛ばすようにして、王太子の前へと躍り出た。
そして、その体を押し倒すようにして庇いながら、迫り来る凶刃を、手に持ったプレートで、全力で弾き飛ばす。
カキンッ!
甲高い金属音が、一瞬だけ、全ての喧騒を支配した。
弾かれた短剣は、くるくると回転しながら飛び、近くで立ち尽くしていた第二王子の足元、そのすれすれに突き刺さる。
「ひぃっ!」と情けない悲鳴を上げて、その場にへなへなと座り込む弟君の姿など、ダミアンの目には入っていなかった。
「ご無事ですか、殿下っ!!!!」
叫ぶように、主君の安否を確認する。
「……ああ、無事だ。怪我はない」
その声を聞いて、ダミアンは、初めて自分が呼吸を忘れていたことに気づいた。
──息をしている。
光輝く己が主が、確かに生きている。
──まだ終わってはいない。暗殺者を捕らえ、黒幕を暴き出さなければ、何も解決はしない。
──だが。
だが、それでも。
このループの中で、初めて、己が手で、この方を守りきれたという事実。
その、あまりにも大きな達成感が、彼の張り詰めていた心に、ようやく安堵のため息を落とさせた。
──この後のことは、もはや語るに足らない。
一つの婚約は、正当な手続きの元に、滞りなく破棄され。
一人の貴族は、敬愛する主君の未来を、その手で守り抜いた。
そして。
一つの恋は、あまりにも無慈悲な現実の前に折れた。
ただ、それだけの話なのだ。
──だが
もし、強いてこの物語に続きがあるとするのならば、それは、たった一つの…夜明け前の出来事。
リディアへの恋に完全に敗れ、魔力の全てを使い果たしたアルベールは一人、庭園で佇んでいた。
傍らには彼が作り出した光の海。あまりにも美しく、そして空虚な輝きの中心で、まるで糸が切れた人形のように項垂れていた。
──不意に、背後から砂利を踏む足音が聞こえた。だが、顔を上げることはかなわない。そんな気力など、とうに失せていた。
足音が、やがて彼の前で止まる。
「……これは、貴方が?」
凛とした、高い女の声。だが、それがどうしたというのか。
「そうですけど。…だから、何ですか」
項垂れたまま、アルベールは吐き捨てるように答えた。
──自分には、もう何もない。無価値で、無力で、空っぽなのだから。
暗い、夜の海へと、思考がどこまでも沈んでいく。
「貴方って、すごいのね」
瞬間、不意に投げかけられた、その言葉が沈みゆくアルベールの思考を、ぴたりと停止させた。
ゆっくりと、錆びついたブリキの人形のように彼は顔を上げる。
そこに立っていたのは、全てを終え、どこか晴れやかな表情を浮かべたイザベラだった。
常の彼女であれば、庭園で項垂れる異性になど、声をかけるはずもなかっただろう。だが、今は違う。長きに渡る戦いを終えた達成感が彼女の心を解き放ち、ひどく高揚させていた。
──そんな中で彼女は見た。来た時には存在しなかったはずの、月に照らされた光の海。庭園を埋め尽くす、銀河を思わせるような奇跡のような花々を。
そして、その中心にいた、学園でも有名な『千年に一人の魔法使い』を。
──正直、話しかけた理由はない。
ただ、そのあまりの光景に心が動かされた。見たこともないほどに美しい庭園を作ったのは間違いなく目の前の魔法使いに違いない、それほどに幻想的で、2度と見ることが叶わないほどに美しい光景だったのだ。
だから、声をかけてしまったのだ。
─貴方って、すごいのね、と。
その、何の裏もない、純粋な一言が。
アルベールの、空っぽになった心に、深く、深く突き刺さった。
誰にも認められなかった。愛されなかった。ただ一人のために全てを捧げ、そして無様に敗れた自分は──無価値な存在に戻った。
──それを目の前の、言葉を交わしたことさえない女性が、ただ、ありのままに肯定してくれた。
彼の恋は、確かに敗れた。しかし、その絶望的なまでの足掻きは、意図せずして多くのものを救い、そして今…一人の人間によって、確かにその存在を認められたのだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます
いつか続きみたいのをかきたいな。