亡国の王女は老騎士に別れを告げる
王都は陥落した。
朱に染まった王女宮で、坐して死を待つばかりの私の元にやってきた征服者は、「俺と結婚しろ」と傲慢に告げた。
私は、私のためにただ一人残ってくれていた老ウォールが、隣で気色ばむのを目で制した。
「この忠義の臣に一切の咎めを与えぬとお約束いただけるのであれば」
「姫様」
長く仕えてくれているこの灰色の目をした老騎士は、日頃は穏やかな賢臣だが、実は気性が激しいところがある。私が止めなければ、このまま征服者の軍勢全部を相手取って死ぬまで戦うだろう。それは忍びない。
滅ぼされた国の王族の誇りなど、今更何の役にも立たないが、私の傍らに最後まで残ってくれた臣の一人ぐらいは守れる主でありたい。
私は真っすぐに顔を上げて、目の前に立っている征服者を見た。傲慢な若い男だ。30歳にもなっていないだろう。侵略軍の総司令官ザウワーレ。覇王の末子らしい。戦場で負った傷があるとかで顔の上半分を覆う黒い仮面を着けている。仮面からのぞく目は勝利と血に酔っていて、野心に満ちた眼差しで私を見下していた。
「生意気な小娘が。条件をつけられる身だと思っているのか」
「あなたは私というこの古い血脈の最後の一滴を必要となさっておいでです」
「お前のようなガキくらい、いくらでも従わせられる」
なにもわかっていない男は鼻で笑った。彼の目に映る私は、国を失った寄る辺なき哀れな子供にすぎないのだ。
私はこの尊大な征服者を刺激しないように、できるだけ静かに言葉を返した。
「確かにあなたは私に対して強い立場にいます。ですが……」
「なんだ」
「あなたは若く強すぎます。これまで制した地で恐れられてきた以上に、お国元でもあなたを脅威に思う方はいらっしゃるでしょう」
思い当たることがあるのだろう。ザウワーレはぐっとあごを引いて、眉を寄せた。
「だからなんだというのだ」
「あなたが私を得て、さらに強い立場に立たれることを望まないものが、あなたのお身内にいるのであれば、私の命を守るということにおいて絶対に信用できる護衛が私の傍に一人いるということは、あなたにとって非常に有用です」
詭弁ではあるが、それなりに説得力はあったらしい。それだけ身中の虫に悩まされていたのかもしれない。
征服者ザウワーレは一度血濡れの室内を見回してから、「いいだろう」と半分ため息をつくように言った。
「今日はこれ以上死体の山を増やしても仕方がない」
逃亡先で捕らえた国王と王妃の公開処刑は明日行うと言い残して、彼は立ち去った。
§§§
フェリファリアは古い王国だ。
王国の体裁が整う前から数えれば、世界で最も古い血脈を残す国であったろう。
「ぽっと出の無知な田舎者の蛮族が、箔付け程度の浅薄な心根で姫様に求婚など許せぬ」
「ウォール。言葉を選びなさい」
「失礼いたしました。"物知らずの若造め、50年早い"とでも言うべきでしたか」
「ウォール」
私はこの困った護衛騎士をたしなめるのを諦めた。
鉄の如き意志の頑固ジジイは、こと私のこととなると果てしなく強弁になる。何もかもが失われた中で彼だけは失わずに済んだのはよかったが、この調子では早晩首をはねられかねない。
「お気を落とされめさるな。あのカス凡が姫様に無体を働こうとしたら、このウォールがアヤツを切り捨てます」
カス凡というのはカスな凡俗の意味だろうか。
「お願い。せっかく生き延びたのだから長生きして」
ウォールは片眉を器用に持ち上げて、目を剥いて見せてから、顔をクシャッとシワだらけにして笑った。
「どのみちこのジジイは姫様より早く死にます」
「そんなこと言わないで」
「なあに、命の使い所はしっかり見定めることにします」
「泣き虫の姫様を泣かせちゃいかん」とウォールは私の頭を撫でた。騎士としては言語道断な行いだが、私は二人だけの時には彼にそうする特権を与えている。泣き虫な私が泣くことができて、表では泣かずに耐えられるのはウォールのおかげだ。
「お休みになられますか」
「眠るのが怖いわ」
「ウォールがおります」
「ずっといてね」という言葉を飲み込む。彼の行動をこれ以上縛ってはいけない。
それでも私は寝付くまで彼の手を必要とした。
ウォールは若い頃からずっと王家に仕えてくれている。彼は私が今よりも小さい頃から、私の護衛騎士で、遊び相手で、精神的な拠り所だった。
実の父母はすでに亡く、父の親族にあたる王とその王が迎えた王妃を義理の父母としていた私にとって、一番近しい相手は彼だった。
§§§
国王夫妻の斬首を王宮前広場で行ったザウワーレは、フェリファリアの帝国への併合と自らの総督就任を民に宣言した。
その隣に立たされた黒衣の私は、枷こそかされていなかったものの虜囚であり、反乱を抑制するための人質であり、ザウワーレの統治の正当性を証明する欺瞞に満ちたシンボルだった。
壇上の私に射掛けられた矢はウォールが切り落とした。
鏃には黒い毒が塗られており、矢羽根にはフェリファリアの空は飛ばない鳥の羽根が使われていた。
広場に集められていたフェリファリアの民は皆うちしおれて俯いており、泣く気力もない顔をしていて、征服者側の騒動にはいっそ無関心に見えた。
「正式な婚儀は50日後に行う」
帝国の皇子の婚儀にはそれなりの準備が必要なのだとザウワーレは顔をしかめた。
「ただし今夜から俺の閨に来い」
公開処刑の場から戻る最中だと言うのに男は私にそう告げた。
私は、背後で老騎士が殺気立つのを感じて、軽く首を振った。
「夫である実績が必要というだけならば、気に沿わぬ娘を夜伽に呼ぶよりも、もっと王という権威に相応しいことがございます」
「確かに貴様のような貧素な体つきのガキには全く興味をそそられんが、その取り澄ましたクソ生意気な顔をぐしゃぐしゃにして慈悲を請わせてやるのは楽しいかもしれんと思えてきたな」
悪趣味な……と、眉をひそめるのさえ相手の思う壺な気がしたので、私は黒いベールで覆った顔を静かにやや伏せるだけにとどめた。我が騎士も男のあからさまな挑発に乗る気をなくしたのか静かに怒りを押し殺してくれている。
「そのようにあえて下世話な蛮族のようなことをおっしゃって露悪的にお振る舞いにならずとも、わたくしはあなた様のことを十分に恐れております」
「どうだかな」
ザウワーレは不愉快そうに鼻で笑った。
「それで、お前の言う王の権威に相応しい行いとは何だ。ただの道徳や伝統だけの儀式なら俺はやらんぞ」
「伝統と格式は、世間体という意義だけでも施政者にとって意義はあるものですが、それを説いてもご納得はくださいますまい」
「無駄なものは無駄だ」
「ご気性は理解いたしました」
私は足を止めて恭しく一礼し、相手が振り返るのを待った。
「では実利のある話を」
「面白ければ乗ってやろう」
「内密にお話できる場をご用意ください」
「古い国の奴はもったいぶるのばかり得意だな」
「価値のあるものは秘されているものですし、秘すことで価値があることもございます」
ザウワーレは「わからんな」といいながらも、人払いした一室を用意した。
私は彼に、この国の王に代々伝えられてきた秘宝とそれを用いた秘術があることを教えた。
§§§
王城の奥、内苑の木々に隠された小さな丘のような塚。その円形の塚の横手には、半ば埋まるようにして石碑があった。
「墓のようだ」
「似たようなものです」
「正当な権利を持たないものが触れると呪われます」と微笑みながら言ってやると、ザウワーレが連れてきた兵士達は恐れをなした。ザウワーレは兵士を怒鳴りつけ、石碑の周囲を掘らせた。
「開けろ」
ザウワーレはむき出しになった石碑を指さして、ウォールに命じた。
「若いのに存外、意気地のない」
「無駄口を叩けぬようその舌を割いてやろうか」
「ウォール、上の紋章の中央の石を引き抜いてから、正面の石板を押し込んで。引き抜いた石杭を横手にある穴に差し込んでから石板の端を押せば。それで開くわ」
「承知いたしました。姫様」
細く開いた入り口からは、暗く狭い急な階段が地下へと続いているのが見えたが、その奥は闇に沈んでいてうかがえなかった。
「ここからは古い血族と、選ばれた王のみが立ち入れる禁域です」
「灯りを持て」
ザウワーレは兵士が差し出した灯火をウォールに持たせた。
「お前が先導しろ」
ザウワーレは私を見下ろしてニヤリと笑った。
「意地の悪い仕掛けがあっても、お前が先導ならばこの小娘が親切に教えるだろう」
ザウワーレはウォールの武装を取り上げ、他のものはここで待つようにと命じた。
「殿下、危険です。せめて2名お連れください」
「不要。俺が戻るまで待機せよ。復唱しろ」
「はっ。別命あるまで3交代で待機します」
「なあに、すぐに戻る」
カビ臭いだけの大仰なコケ威しを見物しに行くだけだ、と笑いながらザウワーレは、ウォールに先導させて私と共に穴に入った。
降りた先は陰鬱な地下通路だった。石壁の通路の幅は狭く天井も低い。私の体格でも狭いと感じるほどだったので、背が高く肩幅がある男二人にはかなり圧迫感があるだろう。ウォールは何も言わず、橙色の小さな灯火で足元を注意深く照らしながら進んでいたが、ザウワーレは私の後ろで悪態をついていた。
ひんやりと湿った空気は淀んでおらず、わずかな風の流れが感じられた。灯火が石壁に映る私達の影を揺らす。
狭い通路は程なく終わり、手燭の光の輪がその先の空間を照らした。
そこは巨石を重ねて造られた石室で、そのような造られ方にもかかわらず天井は高く、人が3人入っても十分に広かった。内壁に描かれた文様と絵はこの地に王国が誕生する前の様式で、黒い石の上に白く描かれているために、闇の中に浮かんでいるようにも見えた。
部屋の中央には低い台座が一つと空ろな石棺が二つ。
「ここが『生命の間』か。まるっきり墓だな」
「似たようなものだと申し上げたでしょう」
「暗くて辛気臭いだけだ」
ザウワーレは哄笑した。
「俺もとんだハズレくじを引かされたものだ」
「お国元の皇帝陛下は金銀の宝飾と不老長寿の霊薬を期待しておいででしたか」
「伝説の古代の秘薬と財宝なんて、でっち上げのホラ話だという当たり前のことが、耄碌して死神の足音が聞こえてくるとわからなくなるものなのさ」
「どちらもまだお若いあなた様には不要でございましょう」
ザウワーレは、たしかにどちらにもたいして興味はないとつまらなさそうに答えたが、それでいながら私の方に一歩詰め寄った。
「だが、おまえの言っていた秘法と秘術とやらがなんなのかは、俄然興味が湧いてきたな。このがらんどうの石室に俺を誘い込んでどうするつもりだった」
「このジジイに俺を始末させる気だったのか?」と、ザウワーレは自分と私の間に、私を守るように割って入ったウォールを黒い仮面の奥から睨みつけた。
「ウォールをここに同行させたのはあなた様です」
「フン」
「古より秘術は存在します。あなたのお父上はその存在に関する話を耳にして、このフェリファリアを手に入れようとなさったのでしょう。だから私をけして殺さずに娶れとあなた様に命じた」
「見てきたように言うな……間者でも忍ばせていたか」
「そのようなものがおらずとも結果をみればわかります」
あなたはフェリファリアの権威にも私自身にも魅力を感じていない。にもかかわらず、あなたは私に求婚した。だとすればあなたはそうするように命じられていたのだろう。
命じたものは私が受け継ぐ血の価値を認めていた。あなたに命令し、あなたが自分の意にそまぬその言いつけを聞かざるを得ない相手は、皇帝しかいない。
推論を並べてみせるとザウワーレは顔をしかめた。
「あれは生きぎたないジジイだ。現世の欲にまみれているくせに、老、病、死の悪霊の囁きに震え上がって迷信にすがろうとしている」
「それでも従うのはなぜです」
「手っ取り早いからさ。ぼんくらの兄どもより俺を立太子させたほうが長生きできると教えてやるには、思い付きの思い込みに付き合ってやるのが一番だ」
「フェリファリアはそんなもののために滅ぼされたのですね」
「恨むなよ。この世なんてそんなもんだ」
ザウワーレは身勝手な強者の微笑を浮かべ、「それに……」と続けた。
「俺が皇帝になれば、お前は皇妃だ。こんなしけた山奥に埋もれた小国の見捨てられた王女にとっては夢のようないい話じゃねえか」
「嫌な言い方を」
「事実は嫌なものさ。俺達はお互いに印象は最悪だが手を組むのが最善策だ。だろう?」
私は黙って石室の奥の壁際に行った。そこに飾られたレリーフの一つをずらすと隠し棚が現れる。
「ウォール」
「はい。姫様」
「なんだ?それは」
その棚から小ぶりな櫃を取り出し、ウォールに台座のところまで運ばせる。
「我が血族に伝わる宝具です」
櫃の中に納められているのは2つの頭冠だ。豪奢な王冠というよりは額冠に近い形状で、1つは白金の茨、もう1つは黄金の薔薇の装飾だった。
「まいったな。本当に出てきやがったよ。金銀財宝が。……財宝と言うには随分しけた代物だが」
「金目の金属という程度の意味合いしか見いだせないものにとってはそうでしょうね」
「歴史的価値だの文化と芸術なんていう御託以外に何かあるなら聞こう」
「皇帝が求めている老病傷を癒す秘術を成すことができます」
「胡散臭いな。どうせホラを吹くならば死も入れておけば良いものを」
「死は覆し難いさだめです」
「けして覆せぬ神の領分とは言わぬのが魔導王国の末らしいところよ」
ザウワーレは頭冠を見下ろして、鼻で笑った。
「だが手札にはなる。偽物でも」
「お信じになられない」
「本物ならばもっと良い」
彼は己の仮面の片側を手で覆い薄く笑った。そして、その手を下ろすがいなや、腰帯にさしていた短剣を引き抜き、そのまま一息にウォールを刺した。
咄嗟に避けようとしかけたウォールは、避けると刃が私に当たると判断したのか、その場に踏みとどまった。それでもザウワーレの腕を握りはしたのだが、ザウワーレ側の手に灯明を持っていたのが災いし、短剣の刃は深々と彼の腹部に突き刺さった。
「なんてことを」
「証明してみろ」
ザウワーレは傲慢に笑った。
「傷を癒せるのだろう」
その声にはシニカルな態度とは裏腹に、奇跡を望む熱情がこもっていた。
短剣を押し込む手が血に濡れていき、ウォールがうめき声を噛み殺しながら膝をつく。
「ウォール」
「いけませぬ、姫様。この老僕のために御身を損なうようなことはなさいますな」
灰色の強い眼差しが私を止めようとする。だが、初めてあったときから変わらぬその強さが私の心を逸らせる。
私はウォールを失いたくない。
顔から血の気が引いていくのが自分でもわかるほどなのに、胸の奥と頭の中が渦巻く熱で破裂しそうだ。
「どうした。早くせねば死が此奴を持っていくぞ」
ザウワーレは私達から数歩距離を取り、長剣を抜いた。
この間合いでは、いくらウォールが手練れでも、長剣を構えたザウワーレに手負いの身で反撃するのは難しい。王女宮に攻め込んだ敵兵をほぼ一人で殲滅したウォールだが、あまりに状況が悪い。ザウワーレ自身に関する戦場での風聞が半分も真実であるならば剣で血路を開くのは無理だ。
それにここから出たとしても、外には兵がいる。深手を負ったウォールと私が共に生き延びることができるとは思えない。
「ウォール。動けますか。私に掴まって」
「いけませぬ」
「私は今あなたを失いたくないの。お願い。私を一人にしないで」
「姫様……」
「さあ……こちらに横になって」
私はウォールを白黒一対の石棺の白い方に横たわらせた。
受け取った灯りを台座に置き、櫃の二段目に収められている燭台を取り出す。特別な深紅の蝋燭に火を移し燭台に据える。
「仰々しいな」
「本来はもっと儀礼と準備が必要な術なのです」
「格式は省略だ」
私は黙って香炉に香木と炭を置いた。暗い石室に仄かに薫香が燻った。
金の薔薇冠を横たわったウォールの額にあてる。
浅く呼吸している彼のシワの深い頬を撫で、薄く開いた目の奥を覗き込む。
「短剣を抜きます」
老ウォールはじっと耐え、刃を引き抜いたときもうめき声一つ漏らさなかった。
私はウォールの血の染みが白い石棺の中に広がっていくのから目を逸らし、白金の茨の冠を手に取った。白い茨に、血に塗れた私の手の跡が残る。
額にあてれば茨の棘が私を刺す。この痛みはこの世の理を曲げる術を行う者が負う痛みだ。そして今、私が感じている胸の痛みは、ウォールをこんな方法で得ようとする自分自身の罪への痛みだろう。
「見ないでください」
「見届けてやろう」
侵略者の意地の悪い声を遠く聞きながら、衣服を脱ぎ、薄布1枚をまとって黒い石の棺に横たわる。
集中し、ゆっくりと"権能ある古い言葉"を定められた通りに唱え始める。
力が満ちていく。幽かに青白く光る何かがうねりながら石棺の中に溜まっていき、全身を浸す。
茨を通して、隣で横たわるウォールの存在を感じる。彼もまた白い石棺の中を満たした力に包まれていることだろう。
私は明確な意思で願う。
願いは古い魔導の術で形を成し、現し世の定めを改変していく。紡がれた時間は糸巻きから巻きほぐされ、私の茨の紡錘の周りを緩やかに漂う。茨は芽吹き、銀の葉を芽吹かせる。
ウォールが私と過ごした歳月と彼の温かな思いが、私の中に流れ込んでくる。いつも私の側にいてくれたウォール。その想いは誠実で純粋で私への敬意と強い愛情に満ちていた。
銀の葉が繁り茨を覆い尽くす。
刻の理を巻き取られたウォールの身体は白い石棺の中で渦巻く光に覆われ、その額の金の薔薇は花弁を閉じて蕾へと戻っていた。
ウォールの優しい記憶に包まれて、その命と一体化する心地良さに私は陶然とした。
ああ、でもこれ以上はいけない。
私は大切に胸に抱きしめた彼の想い出を、そっとウォールに返した。
銀の葉が青白い光の渦に溶け、金の薔薇が再び咲く。
私は閉ざしていた目を開き、ゆっくりと身を起こした。長く伸びた白銀の髪が流れ落ち、スラリと伸びた肢体に淡い光の滝を作る。
古きものを敬わぬ蛮族の皇子が、棺の脇でビクリと身を震わせた。
「なんだ……その姿は」
燭台の灯りは彼の者の目の中にある恐れを照らし出すほど明るくはなかったが、彼の者の握る剣の先が微かに震えているのはわかった。
「術の反動です。強い術を使うと私の中の古い血が少しの間、表に出る」
石棺を満たしていた青白い輝きが、雪解けのように引いて、石棺は元通り空虚になった。
消えたその輝きと同じ光を湛えているであろう私の両の眼に気圧されたザウワーレは、魔除けの句を口の中で唱えた。
「フェリファリアの精霊族……ただの伝承ではなかったのか」
私は石棺を出て、ウォールの傍らに跪き、様子を検めた。
意識を失っているが呼吸は安定している。滑らかな頬には血の気が戻っている。
上着の前を開いて傷があったところを確認しようとすると、ザウワーレが横から割り込んで乱暴にウォールの服をたくし上げた。引き締まった筋肉に覆われた腹部はしなやかで張りがあり、呼吸に合わせてわずかに上下している。
「傷跡がない……若返っている」
緊張した声音。単純な事実を確認するためだけに発せられた言葉が、石室内に硬く響いた。
「これでお信じになられましたか」
「……これは……古い傷をも癒せるということか?」
ザウワーレの手が仮面に触れる。
力を持って生まれた男の自信と虚栄の境を乱す傷。完璧でありえた宝玉の小さな、しかし致命的な亀裂。
「跡形もなく消して差し上げましょう」
微笑んでみせた私の姿は、燭台の灯りに照らされて、仮面の奥の彼の目に映り、白い幽鬼のように揺らめいていた。
ウォールの代わりに、白い石棺に横たわったザウワーレは、私が黄金の薔薇冠を差し出すと、少しためらった後、顔の上半分を覆っていた黒い仮面を外した。
引きつれ爛れた古い傷跡が、元は端正だったであろう容貌を、容赦なく破壊していた。
私は黙ってその額に冠をあてた。
「お前は俺の素顔を見ても悲鳴をあげぬのだな」
「軍人の戦場の傷は誉れでありましょう」
ザウワーレは苦笑した。
「これは兄に付けられたものだ」
私は、私を王城に残し敗戦の色濃い故国を捨てて隣国に落ち延びようとした国王夫妻を思った。
「この世はそのようなものです。私も義父母に裏切られました」
「お前の仇は俺がとった」
「あなたの仇を私が討つことをお望みですか」
ザウワーレは仮面のない顔で笑みを浮かべた。
「俺の望みは俺のものだ」
私はその笑みは今まで彼がみせた中で一番良い笑みだと思った。
「魔女め……さっさと始めろ」
「お望みのままに」
私は再び黒い石棺に横たわった。
§§§
「ウォール……目を覚まして」
「姫……様?」
灰色の目を薄く開いたウォールは、私を見て二、三度瞬きをしてから、ガバリと起き上がった。
「どうなさったのです!? そのお姿は!!」
思わずといった様子で私の両肩を掴んだ彼は、その瞬間に私が薄物1枚でほぼ裸身であることに気付いて「ぐぅおぉっ!?」と、妙な叫び声を上げて仰け反った。
バツの悪さを誤魔化すようにキョロキョロとあたりを見回したウォールは、こちらを正視しないように気を使いながら早口で尋ねた。
「な、何がどうなって……そうだ、カス凡は?」
「そのもの言いはよしたほうが良いと思うわ」
私は、それでももう警戒は不要だと言い、ウォールが失血で気を失ったあとのことを、噛み砕いて説明した。
「つまり秘術であなたやあの皇子の齢を私に移したのよ」
「無茶をなさる。いくら姫様が長命種のお血筋だと言っても、そんな事を軽々しく行ってはいけませぬ!」
「あなたには記憶を全部戻したはずなのに失敗だったかしら。お小言が厳しいわ」
「姫様の無茶が過ぎるからです」
「最近はそこまで強くは言わなかったじゃないの」
「歳を取ると小言を言う体力が衰えるのです。それに孫娘のような歳に見える姫様にそう強くは言えません」
「今は?」
ウォールはチラリとこちらを見て、明らかに己の情動に当惑した顔をした。
「そのようなお姿の姫様にどう接すればよいのやら、正直わかりかねております」
私は自分の女性らしい丸みを帯びた胸や腰に視線を落とした。
試しにウォールの手を取って、そっと頬ずりしてみる。
ウォールはあからさまに狼狽えた。
「ウォール?」
「はい……姫様」
「抱きしめて」
「どうぞご容赦くださいませ」
「姿を偽る術が必要?」
「軽々しく古の術を使うなと常々お諌めしてまいったでしょう」
「悲しいわ」
「姫様……」
彼は奥歯をぐっと噛み締めて、真面目な顔で私の目を正面から見つめて、両手を広げた。
私は、さっき自分がはだけさせてしまったウォールの胸元を前に怖気づいてしまった。
それでも自分から言い出したことなので、おずおずとその広い胸に顔を寄せると、ウォールは両腕で私を優しく包み込んでくれた。
「不覚を取って申し訳ありませなんだ。お一人でよくおやりになられましたな」
「……うん」
私はその胸の温かさで、自分が凍えていたことに気づいた。
「ザウワーレはどうしました」
「赤子に戻るまで齢を奪ったの。今はあの白い石棺の中で眠っているわ」
「死を与えなかったのはお考えがあるからですね」
「彼の記憶を見たの……彼の想いも。そうしたら、もっとまともな環境で育てば……って思ってしまったのよ」
「この石棺の外には彼の軍がいます。お命じいただければ今のこの若い身体なら姫様お一人を連れて血路を開くぐらいのことはしてみせましょうが、赤子の面倒まではみれません。赤子を帝国に渡せば、やはりまたろくな環境では育ちますまい」
「それについては一つ提案があるのだけれど」
私は台座の上に置いた銀の葉の頭冠と蕾の薔薇の頭冠にチラリと視線をやった。
§§§
塚の石碑の周囲に張られた天幕の中で、私は持ってこさせたドレスを身に着けた。気の利かぬ兵士が選んだ簡素なものだが薄物1枚で人目のあるところに出るよりはよい。
「仕度はできたか」
入ってきた長身の男は私を見て、顔の上半分を覆う黒い仮面の奥の目を細めた。
「肩掛けがいるな」
「寒くはないわ」
「胸元が無防備に空きすぎている」
私は隣にやってきた相手にもう一歩近づくと、声をひそめて注意した。
「ちょっと! いくら仮面と幻術でごまかしていると言っても、あまりにも行動が違うとバレるでしょう」
「いやいや、お借りさせていただいている知識によると帝国男というのはあれでなかなか細君には保守的らしいですぞ」
「口調!」
彼は片側だけ目を剥いて見せてから、実に愉快そうに笑みを浮かべた。
「"俺"は特に惚れ込んだ女への独占欲が強いタイプらしい」
「……知識は渡したけれど、想いや個性は渡していないでしょう?」
「接した時間は短いですが、男同士なので、ちいとばかり垣間見えた分だけでもわかることは色々と」
あの気性で執着されては、のちのち面倒なので、できれば今のうちにさっさと始末しておきたいのだが、などと物騒なことを言う相手を、私は睨んだ。
「嫌よ。これからのために彼の記憶の中の知識は使わせてもらうけれど、その時が来たら彼の願いはちゃんと彼に返すって決めたんだもの」
「ご心配なく。赤子は自分の権限で秘密裏に安全なところに匿いました。この後のおおよその算段もつけてまいりましたので大丈夫です」
低い声で真面目に告げてから、男は軽く肩をすくめた。
「たしかに、このまま軍を掌握して、あなたの命を狙うような言語道断の輩を潰すと、ついでに帝国も手に入れられそうですが……統治する気はさっぱり起きないので、適当なところで譲り渡すというのは良い案ですな」
「私はこの地であなたと暮らすことができればそれで十分よ」
「では、その願いをできるだけ早くお叶えすべく、下手な芝居も頑張ってみましょう」
我が夫となる男は、私の手を取ると「では参ろう」と天幕の出入り口を開いた。
「結婚式は速やかに執り行う」
「はっ。あの……しかし殿下……本国からの祭司使節がまだ……」
呼びつけられた部下が急な話に目を白黒させている。
「俺のために自らにかけられていた呪いを解いて、このように麗しい姿になってくれた姫のためだ」
男は、建前として用意した嘘をいけしゃあしゃあと語りながら、まるで当然の特権のように私の腰に手を回して引き寄せると、当たり前のように私のこめかみに唇を落とした。
「格式は省略だ」
芝居がかった仕草で私を抱え上げた彼は、悠然と微笑みながら、唖然とするほど甘い声で私の名を呼んだ。
「アルフィオーラ、我が最愛」
それは間違いなく私のウォールだったけれど、その灰色の目に宿る熱も、声音に滲む震えも、これまで私が知らなかった彼の情熱の存在を示していた。
私は、幼い日の清廉な思い出の中の老ウォールにそっと謝罪して別れを告げ、初めて知る愛に身を任せた。
肉体年齢に引っ張られまくりの二人。
幼馴染の古馴染みで初恋。
こういう想いを相手に抱くことに罪悪感を感じる理由が、全部吹っ飛んだ状態なので、あとはまあお幸せにとしか……。
なお、この後、帝国はガッツリぶんどって、田舎で健やかに育ちなおした少年(元ザウワーレ)にお返ししましたw
少年皇帝「すっげー迷惑」
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よろしくお願いします。