第三話 ⑧
翌朝、空条家の一日はタクの絶叫から始まった。
「お母さん、お姉ちゃん、クロウ! 見て見て!」
そう叫びながら、タクは床の上で両足を抱え込むように跳ね続けている。
「もうわかったからはしゃがないの! それで転んで怪我したら大変でしょ!」
ハルカが叫び返すが、タクの耳には入っていないらしく、
「疲れが来ない! 息苦しくもない! 治ったぁ!」
「あぁあああ拓ちゃん!」
泣きはらした赤い顔で、お母さん殿がタクを抱き止める。
タクは朝目覚めるなり、部屋の中でさまざまな運動を試し、病の症状が出るかどうかを確かめたのだった。
それを見たハルカも、お母さん殿も、揃って涙を流した。昨日俺が知った感情――【うれしい】がより強まったときに現れる【うれし泣き】という感情表現だ。
「クロウのおかげだよ!」
タクは、今度は俺に抱きついてきた。
「お、おう。良かったじゃないか」
と、俺も抱き返そうとするが、体格差がありすぎるうえに、力加減を誤れば容易く怪我に繋がるため、背中をさするに止めた。
「拓ちゃんいい? 今日一日ちゃんとお留守番してたら、夜はお祝いパーティーするからね?」
「はーい!」
お母さん殿は仕事に行く際、タクに外には出ず、留守番をしているように指示を出していた。
「それと拓ちゃん、今日は病院お休みだから無理だけど、明日になったら念のために、病院で検査してもらいに行くからね?」
「はーい!」
「わたしもバイト終わったら直帰するから、夕方まで我慢ね? おっけい?」
「おっけい!」
ハルカも今日はバイトという、賃金稼ぎの活動らしく、お母さん殿と一緒に家を出た。
「「それじゃ、クロウ。タクをお願いね?」」
「「タクも、クロウのこと頼むわよ?」」
と、最後は息ぴったりの言葉を、俺とタクそれぞれに残していった。
「い、いってらっしゃい……」
片手を上げる俺の前で、ドアが閉まった。
タクは外に出て遊びたがると踏んだハルカとお母さん殿の作戦だ。
「こんな天気のいい土曜日なんだ。ちょっとくらい外で遊んだっていいよね?」
お留守番開始一分で、タクは玄関へ向かう。
「お、おい、タク。ハルカとお母さん殿の指示を受けたばかりだろう」
俺が連れ戻そうとするが、小柄なこともあって掴まえづらい。ひょろひょろと躱される。
「大丈夫だって! クロウも一緒においでよ。ぼくがこの街案内してあげる!」
「し、しかしだなぁ」
この街を見て回るという行為については、俺も興味がある。だが、優先順位をつけるなら、まずはハルカたちの言いつけを守ることだ。
「それじゃ、しゅっぱーつ!」
「いいや。だめだ」
タクが取手に手を伸ばしたところで、俺は先に取手を押さえる。
体格差とは、こういうときに役に立つ。
だが、ここでアクシデントは起こった。
俺は一度ハルカの身体を体験し、その腕力の弱さを実感したことから、力加減が些か不安定になっていた。
それが仇となり、俺はドアノブをへし折ってしまったのだ。
「あッ⁉」
柄にもなく悲鳴を上げる俺。
「あー、クロウがドア壊した!」
「い、いやその、これは! ふ、不本意だ!」
「いっけないんだぁ。お母さんに言いつけちゃおっかなー?」
「ま、待ってくれタク! 俺はどうすればいい⁉」
くそ、医療キットは持ち合わせがあるが、修理キットは無い!
「ぼく、街の工具屋さん知ってるから、案内してあげようか?」
急いで翻訳した。
「工具屋さんとは、修理道具を取り扱う店か!」
「そうそれ。でもそれには、外に出なくちゃ!」
「ぐ、ぐぬぬ」
まずいぞ。このままではドアノブを壊したことで怒られるが、外に出たら出たで、言いつけを破ったことで怒られる!
ハルカの言っていた理不尽とは、こういうことを言うのかもしれん。
「ねぇ、いいでしょ? 工具屋さんに行ってすぐ帰ってくればバレないって!」
た、確かにそうだ。素早く行動し、修理道具を調達。その後すぐに帰還してドアを修理すれば、ハルカたちは俺とタクが外に出たとは思うまい。
「わ、わかった。この場合は仕方ない」
「よし! レッツゴー」
「あ、あまりはしゃぐなよ? タク」
「へいきへいき!」
ドアの鍵の部分に破損はなく、俺がそっと摘まんで捻ると開錠された。
勢いよくドアを開けて飛び出すタクに、光学迷彩を起動した俺が続く。
これまでのゆっくりした歩行とは打って変わって、タクはスキップしながら進んでいく。
彼にとってはそれほど、身体を大きく動かせることはうれしいのだろう。
しかし、長年激しい運動をしていなかった分、身体の使い方――その感覚は鈍っているはず。
「――わっ!」
「おっと」
俺が危惧した通り、タクは道端で石につまずきそうになった。
後ろにぴったりと追随していたおかげで、俺は転ぶタクを片手で支え、立たせることに成功する。
「ほら、タク。ハルカとお母さん殿に言われたことを、よく思い出すんだ」
俺がタクに語り掛けていると、自転車という乗り物に乗った女性が訝し気にこちらをちらりと見て、そのまま走り去った。
子供一人のはずなのに、低く唸るような声がしたからだろう。
ここは人影が少ないからまだいいが、栄えた場所では話しかけるのにも注意しなければ。
タクに連れられて辿り着いたのは、人間たちで賑わう商店街だった。
「一人でここ来るの初めてなんだよね!」
と、タクは懲りずにスキップしながら、右へ左へと顔を向けている。
そんなよそ見なんかしたら、また転ぶぞ!
俺は両手をタクの両脇に添えるため、中腰になって背中を丸めながらガニ股で歩いている。この姿をナーデルの奴に見られでもしたら絶対笑われるぞ!
「タク! 工具屋さんはどれだ⁉」
俺はタクの耳にだけ聞こえるよう、囁くように叫ぶ。声量の加減が難しい。
「ちょっとその前にここ!」
タクが示したのは、おもちゃ屋さん?
「ポッケモンの新作出てる!」
ショーウィンドウと呼ばれる陳列道具の中へ、タクの視線が注がれる。
ポッケモン、――子供向けの電子遊戯機械のことらしい。
「タク、それを買うための資金はないだろう? 早く工具屋さんに行くんだ」
タクのポケットには、彼が毎月貯めていたというお小遣い袋が入っていて、さきほどからジャラジャラと音を立てている。
「わかったよ。工具屋さんはこっち!」
「ま、待て!」
タクが走り出し、ショーウィンドウに気を取られていた俺は対応に遅れる。
商店街の中央をまっすぐ通る道、――その脇道に、タクは入っていった。
「――うわ!」
俺がすぐに同じ角を曲がろうとしたとき、そんな声が聞こえてきた。
「タク⁉」
俺が脇道に飛び込むと、やたらと派手な色合いの、――スーツと呼ばれる服を身に着けた男が立っていて、タクがその男の前で尻もちをついていた。
「おい、どこに目ェつけてんだガキィ?」
「ご、ごめんなさい」
「人にぶつかっておいて、ごめんなさいだけってのはねェだろう?」
男はズボンのポケットに両手を突っ込んで、タクを凄い剣幕で見下ろしている。
あれは、威嚇だ!
俺はタクと男の間に割って入ろうとして、一瞬躊躇う。
光学迷彩を解除してあの男の前に現れれば、騒ぎになるのではないか?
「どうやって落とし前つける気だァ? ゴルァ!」
男は舌を巻き込んだような奇妙な発声で、尚もタクを威嚇。
「あ、謝ってるじゃないか!」
タクが言った。
そうだ。タクはしっかりと謝っているぞ!
「あァン⁉ 謝ればなんでも許されるってェのかァ⁉ 内臓ぶちまけるぞてめェ!」
男はタクの胸元を掴み、片手で持ち上げていく。
い、いかん! 姿を見られることで躊躇などしていられん!
「待てぃ!」
俺は光学迷彩をオフ。男へ向けて怒鳴る。
「そこのお前。タクを地面に降ろせ」
「なんだてめェはァ!」
翻訳。
『なんだてめェはァ』=あなたは誰ですか?
「俺の名はクロウ。タクの友人だ」
「あァあああァああン⁉ 喧嘩売ってんのかてめェ!」
翻訳。
『あァあああァああン』=あァあああァああン。
『喧嘩売ってんのかてめェ』=喧嘩を売っていますか?
「喧嘩は売り物ではないだろう。タクを降ろせ」
「カッパみてェなツラしやがってェ! ぶち殺されてェのかァ⁉」
カッパみたいな顔? 俺のフェイスマスクのことか。肌触りはつるりとしていて、目元はつり上がり、口の部分が前にせり出したデザインだが、それが日本の妖怪に似ているというのか。
「俺の顔は、このフェイスマスクの中だ。カッパではない」
「はァア⁉」
男はタクをぞんざいに降ろした。
「うぅ!」
尻もちをつくタク。
「ッ!」
おのれ! タクは元気になったばかりだぞ⁉