第二話 ⑥
部屋に入る直前、俺はマンションの通路を振り返り、そこに人の形をした空間の揺らぎが見えないか確認した。そして微かではあるが、遠くのほうにそれらしき揺らぎを見た、気がした。
レプティリアンの目であれば、意識すれば裸眼でもそれらしい揺らぎを見分けることができるのだが、ハルカのように人間の視力では、気がしたという曖昧な表現になってしまう。
ハルカよ、どうか部屋の外で待機していてくれ。どうにか隙を狙って、ラインを送る!
俺は頭の中でそう言って、ドアの閉まる音を背後に聞いた。
「私のベッド貸してあげるから、横になって?」
ドアから入ってすぐ、一直線に伸びる木目調の床。こうした通路はハルカの家にもあったが、こちらの方が広くて長い。最奥にスライド式と見える扉。通路の右脇にはドアが二つある。
アイは二つあるドアの片方をスライドさせ、俺を中へと通す。
部屋の壁に沿って、白を基調としたシンプルな家具がいくつか置かれており、部屋中央の床にはフサフサとした心地の布が広げられていた。
アイが言ったベッドとやらは、横になるという言葉から察するに、休憩する場所と考えられる。とすると、窓際に置かれた長方形の大きな家具――あれか?
俺はここで「ベッドとはなんだ?」と聞くことなく、
「ありがとう……」
と、礼を言って、あたかもベッドが何なのかを理解しているかのような素振りを見せる。
窓際の家具の上には、昨夜ハルカの家で教わった【布団】と似た、白い布が重ねて敷かれてあり、多少乱れてはいるものの、汚れなどは見当たらず、とても衛生的だ。
「どうぞ」
俺の横に立って、アイは布を捲った。
よし、これがベッドで正解のようだ。覚えたぞ、ベッドは布団と同じく、休む場所!
「済まない。このベッドはアイのものだろう?」
「いいの。具合が悪いはるちゃんのためだもん」
俺は捲られた布と下地の布の間に靴下の足を入れ、横になる。
「……」
ベッドの上での所作が正しいかヒヤヒヤするが、何も言われないあたり、大丈夫のようだ。
基本動作は布団で眠るのと同じということか。
「では、少しの間休ませてもらうぞ」
と、俺は片腕の肘を立て、手のひらで自分の頭を支える体勢を取った。
「え、はるちゃん、そんな寝方だっけ? かえって具合悪くならない?」
瞬間、俺の肩が硬直。額の辺りに汗が滲む。
つい、レプティリアンの身体で小休止するときのフォームを取ってしまった!
昨日は確か、ハルカのお母さん殿に言われるまま、フカフカした布の塊に頭を乗せて寝たが、それが正解だったか?
「他に何か、身体にイイ寝方はあるか?」
これ以上のボロを防ぐべく、俺はそう聞く。
「……身体に良いかはわからないけど、普通に枕に頭を乗せて、天井見るとか?」
なるほど、ベッドの頭側に置かれていた分厚い布の塊を枕と言うのだな。
レプティリアンは枕を使う習慣が無いから、つい癖でその存在を無視してしまった。
アイの枕に頭を乗せてみると、フカフカとしつつも弾力のある心地がなんともいえない安心感を与えてくる。
昨夜、ハルカの家で借用した枕とは材質が違うらしく、こちらのほうが分厚い。
「もぉ、今日のはるちゃん、赤ちゃんみたい」
クスクスと笑みを溢すアイは、
「お熱は無いっぽいけど、何か飲む?」
俺の額に片手を触れ、そう聞いてきた。
機械を使わず、触れただけで相手の体温を測定できるのか。
「平気だ」
「そう? でもお水持ってくる。水分補給はこまめにしないと」
そう言って、アイは部屋を出て行く。
「体温、触れただけでわかるのか? どうやった?」
つい、相手の能力を知りたい欲望に駆られて、俺はそんな質問をしてしまう。
「感覚でなんとなく判断しただけ」
背中で答え、アイは家の奥へと姿を消した。
「……ッ!」
この隙に、俺はスマホ画面に集中。やはり、ハルカからラインが来ている!
『ヘンって言われたけど、そういう逢もいつもと違う! 恐いんだけど⁉』
『せっかくの提案、すごく嬉しいけど、迷惑かけたくない気持ちも同じくらいあるから、今日は家に帰らせて? ホントゴメン! って、申し訳なさそうに言って!』
『スマホ見れてる⁉』
『どこ行くの!』
『返事して!(怒)』
『応答せよ!』
などと、連続で! 最後に送られてきた黄色い顔のようなマークは、恐らく怒りを表現したものだ。
万が一声を聞かれてはまずいので、俺は通話ではなくラインを送る。
『今、アイのベッドの中だ。どうすればいい?』
返事はすぐに来た。
『どういうこと⁉』
『休んでいくよう指示を受けた。今、アイは家の奥にいる。このタイミングなら抜け出せるかもしれん。出口に使えそうな大きな窓があるから、下の階に移れないことはない』
『わたしじゃどうにもできないから、クロウでなんとかして! 間違っても窓から飛び降りるとかナシだよ⁉』
俺をなんだと思っているんだ? さすがに十階の高さから飛び降りはしない。下手をすれば着地の際に関節を痛めてしまうからな。
俺は頭をフル回転させて作戦を考えるが、まだまとまらない。
『ハルカはドアの外で待機してくれ。俺が合図を送ったら、渾身の力でドアを破れ』
と、一先ずそのように送っておく。
ハルカがドアを破ったら、一目散にそこから脱出。
ハルカが失敗した場合は、何か大きな物音でアイの注意を引き、その隙に窓からぶらさがって下の階に移動。そこから行方をくらますというプランだ。
『ドア破るとか、できるわけないじゃん!』
『今のお前は俺だからできる。この家のドアくらいなら容易く破れるはずだ』
『ここ友達の家なんだよ⁉』
くそ、このままでは話が決まらん。音声通話するしかない!
と、ハルカに通話を掛けた時だった。
「――誰と話してるの?」
いつの間にか、ベッドの傍にアイが立っていた。
この俺が、アイが戻る気配に気付けなかっただと⁉
「さ、さっきも言っただろう。お母さん殿だ」
「改めて聞いたら、違う答えが返ってくるかと思ってさ?」
ガツ! と、アイはベッド脇の小さなテーブルに、水入りの透明な容器を置いた。
「ッ⁉」
ま、まただ! また、アイの気配が変わった!
この家に向かう途中でもゾクリとしたが、その比ではない。
信じられないことだが、今、俺の全身を一つの感情が駆け巡った。
闘争心と探求心に溢れ、強さを磨いた恐れ知らずの戦士。それが俺だ。
その俺が今、一人の人間を前にして、恐怖を抱いたのだ。
俺はちらりとスマホ画面を見て、その手を布団の中へ隠す。
ハルカとの通話は繋がっている!
ハルカ頼む! 見計らって突入してくれ!
「ラインの相手、だぁれ?」
間違いない。アイは今、何らかの理由で俺を疑っている!
それも、俺の正体を、ではなく、別の理由でだ。
問題なのは、その理由がわからないこと。
俺が他の誰かと連絡を取ることを、なぜそこまで気にする?
「――アイは、わたしを信じてくれないのか?」
咄嗟に思いついた質問をぶつけると、アイは目を見開いた。
「ううん、そういうんじゃないよ。そういうんじゃないけど……」
「けど、なんだ?」
「だって、今日私、はるちゃんにこんなに尽くしてるのに、全然こっちを見てくれないんだもん。私がはるちゃんのこと大好きなの知っててやってるのかな? って」
好き? 同性のハルカを?
「っ⁉」
布団の中のスマホから、ハルカが息を呑むかのような声が聞こえた気がした。
「お前はハルカのことが好きなのか。同性愛という概念は知っているから、理解できるぞ」
「「え?」」
|ハルカ(俺)とアイの声が同時に聞こえた。
「今、男みたいな声しなかった?」
「いや? 気のせいだろう」
平静を装うが、勘付かれたか?
「……それはそうと、はるちゃん今、理解できるって言ったよね?」
「ああ……?」
「っ⁉」
アイは精巧に整った顔をみるみる赤らめ、両手を頬に当てる仕草を見せた。
これは、ハルカを好きであることによる、一種の興奮状態だろうか。
この様子だと、アイとっては、ハルカのライン相手よりも、ハルカが同性愛への理解を示したことの方が重要のようだ。
「興奮しているのか?」
「え? あ、うん。それは、そうだよ……」
アイは両手で、さきほど置いた水の容器を持ち上げ、ごくごくと飲み干した。
その水、俺の分じゃなかったのか?
「えっと、あの、もう一度聞いていい?」
「何をだ?」
さっきの冷風のような気配がまたもやガラリと変わって、アイは両手を胸の前で弄びながら、
俺を見つめてくる。
「私の好きを、わかってくれるの?」
「そう言っているだろう」
俺が答えると、アイは俺から目を逸らす。
好きという気持ちを伝え合い、そこから交尾・繁殖につながる種族は宇宙に数多く存在する。
そうした、宇宙規模でよくある出来事が起きただけのこと。
あとは、アイの好きが向けられた相手――ハルカ本人がなんと答えるか。
「嬉しい! ありがとうはるちゃん!」
よし。成り行きに救われたが、アイの機嫌は良くなったみたいだぞ。