第二話 ⑤
あとはこの、特に深く考えずとも解ける原始的な数式を倒し尽くせばいいだけだ!
気分が高揚し、俺は思わず立ち上がって咆哮したくなるが、どうにかその衝動を抑え込む。
少なくとも人間のハルカは、テスト中に気分が高揚しても『グオオオオオ!』と叫んだりはしないだろう。
俺はスラスラとペンを走らせ、問題を一つずつ撃破していき、ものの十分ほどで全問を倒し尽くした。
「ふん」
楽勝だったので鼻を鳴らしてやった。他愛もないとはこのこと。
他の者たちはまだテストに挑んでいる。
暇を持て余す俺は、今後の計画をおさらいしておく。
テスト終了後、体調不良を理由に学校を早退し、帰宅する。
それからナーデルを探しに行く流れだが、問題は奴が居そうな場所の目星をつけること。
ドットマンという種族は謎が多く、俺も奴らの習性や考え方を把握できてはいない。
だが、ナーデルは『観察』することを目的としていた。そこにヒントがある。
観察とは則ち、見るということ。しかもナーデルは、俺とハルカの入れ替わりによって何が起こるのかを見たがっていた。
まず有力な可能性として、二十四時間常にどこかから見ているパターンが挙げられる。それが肉眼でなのか、カメラなどの機械を用いてなのかはわからずとしても、奴の行動心理を逆手に取って、居場所を突き止められるかもしれない。
もし肉眼でなら、奴の視力がどれほどかにもよるが、遮蔽物の存在も考慮して、せめて俺たちの会話が聞こえる範囲内に留まろうとするはず。
しかし、昨夜から今まで気を張ってはいるが、奴のものと思しき気配は無い。
次に考えられるのは、何らかの機械を通じて、遠くから観察しているパターンだが、これは厄介だ。
昨夜から人間と接してわかったが、原始的な文明とはいえ、生活必需品と言えるレベルで、大小様々な機械が身近に散在している。この中のいずれかにナーデルの痕跡があったとしても、見つけ出すのは難しいだろう。
となると、もはやアレに賭けてみるしかないか。
俺がそこまで考えたとき、教師が声を発した。
「そこまで。はーい、後ろから答案回せー」
テスト用紙を、一番後ろの席から前の席まで重ねて回すということらしい。
俺はとなりのアイがそうしているのを見て真似る。
『テスト大丈夫だった?』
ハルカがラインで聞いてきた。やはり戦果は気になるところだろう。
俺は机の下にスマホを隠しながら返信。
『問題ない』
『でかした』
「センセイ、頭と腹が強烈に痛い。このままでは爆発するかもしれない。危険なので、今日のところは早退を求める」
テスト用紙の回収が済んだところで、俺は挙手して立ち上がる。
なぜか教室のあちらこちらで、「今日の遥おかしくない?」などと、クスクス笑いが零れた。
「空条が体調不良とは珍しいな。勉強疲れか?」
などと教師は言い、許可を出してくれた。
教師の隙を狙ってちらりとラインを確認すると、ハルカから『もう少しまともな言い方あるでしょ⁉ なによ爆発って(怒)』というメッセージが来ていた。
「先生、私も今日、ちょっと気持ち悪くて……」
ここで偶然にも、隣の席のアイも手を上げた。
教師はハルカたちと同じ女性で、どういうわけか理由を追求することなく、同様に許可を出した。
こうして俺はアイと連れ立って教室を後にすることに。
『逢も具合悪いの?』
『そうらしい』
教室の外で待機していたハルカからのラインに返信する。
すぐそばにいるのにラインしなくてはならないとは、誤算だった。
「具合、大丈夫? 駅まで一緒いこうよ」
と、アイが心配そうに言った。
「あ、ありがとう」
アイの家はY町駅の反対側ということもあって、向かう方向が同じであるため断るわけにもいかず、俺は礼を言っておく。
俺とアイが並んで歩き、その数歩後ろから透明になったハルカが続く構図だ。
『逢も大丈夫? って聞いて』
「アイも大丈夫?」
ラインの指示通りに問うと、アイは困ったように眉を寄せて笑う。
「うん。私はもう平気」
「え、ああ。そ、それは良かった……」
学校を出てまだ数分しか経っていないが、既に症状は回復したらしい。
「でも、はるちゃんのことが心配だから、今日はもうこのまま帰る」
今度は楽し気に笑うアイ。
『なんか、気遣わせちゃったかな?』
と、ハルカのライン。
これは、言ったほうがいいのだろうか?
「気、遣わせちゃったかな?」
とりあえず言っておく。
「ううん、いいよ。調子悪いときは誰だってあるし。ところでさぁ」
アイは笑顔をこちらに向けたまま続ける。
「今朝から、変な気配しない?」
「えっ⁉」
アイの口から予想だにしない言葉が飛び出し、俺は思わず目を見開いてしまう。
「なんていうかさぁ、視線? あと空気の流れが違う感じ。後ろで大きなものが動いたとき、たまにふわぁってするじゃん? ああいうの」
「そ、そうか?」
「うん。ちなみに今も」
アイの笑顔が解け、赤い瞳が俺をじっと見つめる。
俺はすぐさまラインに文字を打ち込む。
『十メートルほど距離を取れ』
ハルカも察したのだろう。気配が遠ざかる。
「あれ? 気配が消えた?」
アイが立ち止まり、ずばっと背後を振り向く。まるで、以前から後ろに何かいることを知っていて、相手を驚かそうとするかのように。
「はるちゃん、今日ずっとラインしてるよね? 誰と? お母さん? 弟くん?」
後ろを振り返って首を傾げたまま、アイは言う。
「それは、その、お母さん殿と、いろいろあって」
「いろいろってなに? お母さんと普段、そんなに長くラインしてないよね?」
アイが半分だけこちらに振り向いて、片方の目で俺を捉える。
ゾクリ、と。俺の背筋に悪寒が走った。
アイの気配が変わった⁉
まばたくことなく俺に向けられ続ける赤い視線は、まるで獲物を狙う狩人のように鋭い。
「……」
「……」
「……」
俺もアイも、そして離れたところにいるであろうハルカも、物言わず佇む。
ひんやりとした風が、静かに吹き抜けた。
「――て、なんかごめんね? 変な空気になっちゃった」
ケロリと進行方向に向き直り、アイは笑顔に戻った。
「お母さんとのラインが、たまたま続いてただけなんだもんね?」
「ああ。そうだ」
だが、俺は警戒を解けない。
このアイという人間には、やはり、何か得体の知れぬ違和感がある。
「ねぇ、はるちゃん」
「なんだ?」
まただ。ゾクリとする気配が、アイの笑顔の裏から放たれる。
「今から私の家に来ない? 休んでいきなよ?」
「なに⁉」
俺は思わず、バッとアイを振り向いてしまう。
ラインでハルカに意見を求めたいが、たった今誰とラインをしているのかと疑問視されたこともあって、ラインは見れない。
「いいでしょ? ここからI町まで電車で行って、そこから歩いてはるちゃんち帰るよりも、Y町駅を越えて私の家に行く方が近いじゃん」
「い、いや。それは遠慮する。アイの親に申し訳ない」
「……私の親、両方とも海外出張でいないって、けっこう前に言ったよね?」
し、しまった! そうだったのか!
「すまない。そうだったな」
クスクスと、肩を小さく上下させて、アイは言う。
「今日のはるちゃん、なんかヘン。でも、そういう新しい一面が見れて、私は嬉しい」
そしてアイは、俺の片腕に、両腕を絡めて、歩き始める。
服越しにわかったが、このアイの腕、女の子にしてはかなり筋肉質だ。引き締まった見た目とは裏腹に、器械体操という運動はそれなりの鍛錬を行うものらしい。
「ねぇ、家に来て?」
コツコツ、というローファーの音が二つ響く。
「断る」
「どうして? 私の家に来るの、イヤ? 具合悪いんでしょ?」
ぐっ、とアイの手に力が入り、俺の片腕を圧迫し始めた。
くそ、力が強い。ハルカの腕力では振り解けない。
なんだこの展開は⁉ どうなってる⁉
ハルカにラインを送ろうにも、携帯を握る腕をがっちりとホールドされてしまった!
レプティリアン流の体術で倒してもいいが、この女の子はハルカの友人というから手は出せない!
「わ、わたしはどうしたらいい⁉」
俺は、ハルカへのメッセージとしてそう叫ぶが、ダメだ! 今の俺の身体は人間であってレプティリアンではない。仮に後方でハルカが何か囁いていたとしても、人間の聴覚では聞き取れない。
「私の家にくればいいの。看病してあげるから」
アイに耳元で囁かれ、全身の力が抜ける。耳がハルカの性感帯なのか⁉ くっ! もう抵抗できん!
スマホが震動している。これはラインが着信したサインだが、見られない!
「わかった……」
もはやそう言うしかなく、俺はアイに進路を委ねた。
「大丈夫。はるちゃんには、私がいるから」
俺の腕をホールドする力を緩め、しかし決して放そうとはせず、アイはにこやかに言う。
俺が微妙に横方向へズレて間隔を開け、腕を放してくれないかと期待するも、アイはほぼ同
時に追随してくる。
Y町駅の構内を横切り、駅の反対側へとやってきた俺は、ハルカが後方から追跡してくれていることを祈りつつ、そのままアイに連れられて行く。
学生は皆、この時間帯は学校に行って勉強をしているのか、街ゆく人々は年を重ねた者が多い印象だ。
もしここで、俺が無理に暴れてアイと戦闘にでもなれば、年配の人間を巻き込みかねん。
「さっきからソワソワしてるけど、大丈夫? お手洗いでも行きたいの?」
アイがまた心配そうに聞いてきたので、俺は言葉の意味がわからず返答に困る。
フェイスマスクさえあれば、膨大な言語データから意味を検索し、会話のペースを合わせることができるのだが、今の俺はハルカの姿。それでマスクなど着けようものなら目立って仕方がない。
「お手洗いとはなんだ?」
やむを得ず、そう聞いてみる。
アイが真顔になった。
「いや、冗談だ」
「ほんとぉ? 平気?」
「ああ。気遣いに感謝する」
まずいぞ。思ったことをある程度日本語で話すことはできこそすれ、日本語の知識そのものは乏しいままだから、相手の言っている意味がわからないことが多々ある。この調子ではいずれボロが出てしまう。
できる限り口を利かないようにする俺は、度々真横から食い込むようなアイの視線を感じつつ歩き続け、ついにアイの家へと来てしまった。
十階建てのマンション、その最上階の角だ。
アイが小ぶりで薄い板のようなものをドアに近付けると、『ガチャ』と開錠らしき音がして、
「おいで?」
アイが片手でドアを開け、俺の腕を引く。