第二話 ③
「卵焼きが空中分解した! 助けを求む! りょーかい!」
タクがそう言って、テーブルに落下した黄色い塊の破片を箸で摘まみ上げ、口へと運ぶ。
「わたしの卵焼き……」
ハルカが悲し気に言った。
仕方なく、ハルカにはお母さん殿が箸で食べ物を食べさせることになり、食事は順調に完了した。
そうして訪れた、試練の時。
「クロウ、いいわね? 話した通りにやるのよ?」
ハルカの大きくゴツイ手が、家を出ようとする俺の華奢な肩にズシリと乗せられた。
「万が一、街に強そうな生き物がいても、決して戦わないこと! いい?」
「ああ。だが、向こうから勝負を挑んできた場合はどうだ? 戦ってもいいか?」
「ダメに決まってるでしょ! そのときは、わたしが耳元で指示するから、言われたとおりに動いて」
物足りない気分ではあるが、これは、状況を悪化させないために必要なこと。
「了解した。ハルカの方も、物音を立てず、あまり激しい動きはするなよ?」
そう言って俺はドアを開け放ち、外へと飛び出す。
ハルカには光学迷彩の使い方を教え、透明になった状態で同行を頼んである。
背後にハルカの気配を感じながら、俺は自分の身なりを見下ろす。
着方を教わって装備した【学生服】は、白いシャツにネクタイ、紺色のブレザー、下半身に短めのスカート、黒のハイソックス、茶色のローファーがワンセツトになったものを指す。
およそ戦闘向きとは思えないが、肌触りが柔らかく、保温性もあって動き易い。
風が吹くたび、下半身がひんやりとすること以外は、特に気になる点は無い。
スマホと呼ばれる小型通信機器をポケットから取り出し、ハルカが事前に用意してくれていたマップと画像の情報を頼りに、ハルカが通う学校を目指す。
まず目指すのは駅と呼ばれる、交通施設。
「そうそう。その道で合ってる」
と、背後からハルカが小さな声でサポートしてくれることもあって、俺は迷うことなく駅へとたどり着く。
スマホに施設利用料を支払うアプリなるものが登録されてあるらしく、改札と呼ばれる検問にスマホを翳すと、自動的に二枚板の扉が開き、通行が可能となる。
「ふぐ!」
後ろでハルカが呻いた。
「どうした?」
「足ぶつけた」
いつもの癖で、体格が違っていることを意識せず改札を通ろうとしたらしい。三本指のつま先でもぶつけたのだろう。音が出るといけないからと、ブーツを家に置いてきたのが仇となったか。
偶然にも周囲に人はおらず、駅員もこちらを見てはいなかったものの、今のやりとりは傍から見れば、ハルカが誰もいないはずの背後に話し掛けるという奇妙な構図に見えただろう。
「体格の違いに気をつけろ。力加減を誤ればものを壊しかねん」
俺は前を向いたまま注意する。
人間の乗り物は、割合的には空を飛ぶものよりも、地上を走るタイプのものが多いらしく、駅にやってきた細長い乗り物――【電車】もその一つだった。
長方形の箱に、人間がぎっしりと詰め込まれている。
「誰にも話し掛けたり、触ったりしないようにね?」
と、背後でハルカが囁いた。
ハルカ曰く、この電車に乗る人間たちは【会社員】や【学生】と言って、戦士ではなく、労働者や子供がほとんどだとのこと。
「了解した。安易な行動は控える」
たとえ、俺にテスト撃破やナーデル探しといった試練が無く、純粋に戦う相手を探していたとしても、戦士でない者に用は無い。
俺は車内に乗り込むと、それとなくドアの隅に寄って、壁と自分との間にハルカの透明な巨体を立たせる布陣を取る。こうして俺がハルカを庇うようにして立つことで、見えざるハルカに他の人間が接触するのを防ぐのだ。
片手を伸ばし、天井から吊り下げられた輪に指を絡め、バランスを取る。
電車という乗り物は、俺の宇宙船と違って静穏性が低く、ゆっくりとだがかなりの頻度で揺れる。こんなとき、元の俺の身体であれば、そのバランス感覚と重量でドカリと構え、微動だにしないものの、このハルカの細くて軽い身体では揺れてしまって難儀だ。
「クロウの目線から見ると、わたしってこんな小さいんだ……」
俺が手すりに掴まる姿を見下ろしているのか、すぐ後ろでハルカが囁いた。
「だが、ハルカはこれだけの体格差がありつつも、俺を投げ飛ばした。すごいことだと思うぞ?」
俺もそう囁いておく。
ハルカの通う学校は、ここから三つ目の駅で降りて少し歩いたところにある。【高校】という階級に属するらしく、年齢十六歳から十八歳までの三年間通うものらしい。ハルカはその二年生とのことだ。
ちなみにタクの学校は【小学校】で、タクの階級は一年生だという。
電車での移動は問題なく進み、俺とハルカは無事、高校があるという駅に降り立つことができた。
ハルカの家があったI町駅から電車で十分ほどの距離にあるY町駅は、I町駅よりも人の数が多く、移動には注意が必要だ。
なんでも、この駅は規模が大きく、複数の電車が行き来するため、乗り換えの拠点として機能している分、利用者も多いのだそうだ。
ここで、ハルカが危惧していたことが起きた。
「はーるちゃん」
と、真後ろからふわりと漂うような声がして、俺の視界が塞がれた。
敵襲か⁉ 背後を取って来たということは、俺とハルカの間に割って入ったに違いない!
俺はそこまで考え、反射的に迎撃の肘打ちを繰り出そうとするが、寸でのところで堪える。
ハルカが危惧していたこと、それは、通学中に友人と出くわすこと!
攻撃して来ないあたり、相手に戦意はない。ということは、今俺の視界を塞いでいるのはハルカの友人と見て間違いない。
「お、おーはよ!」
俺は家で何度も練習させられた挨拶を返し、視界を塞ぐ相手の細い手首を掴む。
すると、俺の目を覆っていた手が離れていき、すいっと、俺の眼前に形の整った顔が現れた。
「お前が、アイだな?」
俺は目の前に現れた人間に問う。
事前にスマホの画像で顔を見せられていたからわかる。このメスの名前は【久留里 逢】。
ハルカが言うには、今いるY町駅でいつも合流している、仲の良い友人らしい。
「然様なり!」
なんと言ったのかわからんが、たぶん肯定の意味だろう。
「ちょっとクロウ、話し方もっと女の子っぽく!」
耳元でハルカの声がした。
オンナノコ――メスのことを、ハルカたちの間ではオンナノコと呼ぶようだ。
家にいたときにも何度か女の子というフレーズを聞いてはいたが、今になってその意味がわかった。
とはいえ、さすがの俺でも、話し方までは簡単に順応できんぞ。なんというか、自分のアイデンティティを大きく逸脱している気がしてムズムズするし、物心ついてからこれまでの二百年、ずっとこんな口調だったのだ。クセはなかなか抜けない。
「今日は変わったノリですな、遥殿ぉ?」
にこやかな顔で首を傾げるアイの、ショートカットの銀髪が微風に揺れた。
「そ、そうか? いつもと変わったところなんて、一つも無いぞ?」
危ない。うまく誤魔化せたと思うが、これが今日一日ずっと続くと思うと頭痛がしてくる。
もはや、普段のハルカならどんな話し方をするか、想像しながら会話するしかない。
「き、昨日はテスト勉強した?」
事前にハルカから教わった単語をもとに、今度は俺から聞いてみる。そうしてアイと連れ立って歩きながら、それとなくアイを観察するのだ。
「んー、あんまできなかった。はるちゃんは?」
アイの装備はハルカと同じ学生服で、暑がりなのか、ブレザーは脱いで肩に掛けている。身長は約一六〇センチでハルカより少し高く、白シャツに包まれた身体は細く引き締まった上で、ふくらはぎはやや筋肉質だ。
ハルカが言うには、アイも運動が得意で、【器械体操部】なる集団に所属し、鍛錬を積んでいるらしい。
もしアイが武器を所持しているとすれば、手で掴んでいる学生カバンだろうが、これもハルカと同様、中身は教科書やノートといった、勉強に用いるアイテムだと思われる。警戒する必要は無いだろう。
「……はるちゃん?」
「あ、ああ。それなりに努力した」
「とか言ってぇ、めちゃくちゃやり込んだクチでしょ? そうして私を置いていくんだ。私にはわかる」
白い歯を覗かせて笑うアイの、血のように赤い瞳が陽光を受けてきらりと光る。
「テストと戦うとわかっていて、どうして備えない?」
「だってぇ、昨日の動画が面白くて沼っちゃったんだもん。はるちゃんにもラインでリンク送ったよ?」
言っていることは半分もわからんが、聞き取れた単語をつなぎ合わせるに、このアイという女の子は、テストと戦う準備を怠り、別のことに夢中になっていたようだ。
「動画は、まだ見ていない」
「知ってるよ? 既読ついてないもん。やっぱり勉強してたんだ! 公式の効率いい覚え方おせーて?」
『おせーて』ってなんだ。