重力女1
「お客様!大丈夫でしょうか?ご気分がすぐれないようでしたら、お手洗いの方にスタッフを案内させます。武本!案内してあげて!」
「会場は禁煙となっております。喫煙ルームは会場を出て、左側にありますのでそちらの方でお吸いになってください」
「ビールでしょうか?ビールについてはあちらのバーカウンターに用意されておりますのでご自由にお取りください。それ以外の注文は私どもの方で受け付けます」
ドタバタである。先週から降り続いた雨も通り過ぎ、寒い風が流れてくるようになった10月中頃の華金の夜、都内にある一等ホテルチェルヴィニアでは大規模な宴会が開かれていた。
このホテルで働いてかれこれ7年目となる海田千代吉も年に数回かある忙しい本日にてんやわんやしていた。
というのもホテルの宴会場のホールを担当するようになったのも今年度の4月からであり、それまでは同じホテル内のレストランで勤務していたのである。
改編期の移動の対象に選ばれてしまい、入社から居心地のよかったレストランを離れ、ブラックと呼ばれる宴会場に部署替えしてまだ1年と経っていない。
おおまかな仕事内容は大体覚えたが、まだまだ分からないことは山積みである。
壁際で周囲を観察する。ビールが空いていないか、困っていそうなお客様はいないか、空いた皿はないかなど気にするところは山積みであり、常に気を張っていないといけない。
すると千代吉のいる側の反対方向、会場のステージの右端付近で同僚の矢野奈央が2、3人の客に詰め寄られているところを発見した。
男の方がなにかしゃべっているがこちらからは遠すぎて聞こえない。ものすごい剣幕であることは分かる。
奈央の表情からは恐怖の色がうかがえる。
奈央は高卒3年目の21歳の正社員だ。千代吉とは違い、入社してから宴会場に配置されているので、宴会場での勤務経験は千代吉より長い。
通常チェルヴィニアではレストランは9時に閉店するが、宴会場は長ければ11時まで仕事が長引くこともある。休憩時に顔を合わせればいつの間にか話すようになり、終わる時間がかぶれば飲みに行く間柄になった。
次の日が休みか午後出勤なら安い大衆居酒屋で2人で朝まで飲み明かし、競馬からファッション、仕事の愚痴からお互いの性事情、かたや日本のこれからについてなど様々な話題を語りつくしてきた。
今回の移動も絶望に打ちひしがれる千代吉の横で奈央は急にビートに乗りながら
「千代さんと一緒に働けるなんて夢見たいです。灰色の職場に女神が半裸でヒップホップ聴きながら入ってきたみたい」
「なんだそのくそつまんねえ例え。そんな奴逮捕されろ」
「やだな!それだけ楽しみってことですよ。退屈しなくてすみそうです」
当時はやれやれという気持ちだった千代吉もこの宴会場の忙しさを退屈と表現する奈央に驚嘆を覚えたものだった。
奈央ひとりでは対応が難しそうだと千代吉は判断し、すぐさまかけだした。
今日の客は都内では最大規模となる空手会館の黒心館の送別会だそうである。
空手に勤しむのは結構だが、千代吉が見た印象だと全員空手ができる半グレといったものである。
最近この手のやからがますます増えたように思う。全国、特にここ東京や大阪、名古屋、福岡といった大都市ではテロが頻繁に増えていた。
それぞれの主張は様々であるが、中には高尚なナショナリズムにかこつけたただ暴れたいだけの集団も出てくるようになった。
政治やメディアが腐敗し貧富の格差が広がった今の日本ではこういう連中の自然発生を防ぐ手立てはなかった。いよいよ日本も各国と同じく弱肉強食の世界に突入するのだと千代吉は肌で感じていた。
黒心館もそれらの例に漏れずあまりいい噂は聞かない。表向きは空手道場の看板を掲げているが、門下生が町で暴れたり、テログループの隠れ蓑になっているなどろくな噂がない。
黒心館を報道するマスコミには知らぬ存ぜぬの押し問答で悪評を書いた出版社に館長自ら門下生引き連れ、殴りこむイカレっぷりである。
「困ります!やめてください!」
現場にかけつけると奈央が一人で黒心館の客3人相手に必死に抵抗していた。空手家のくせに女の子1人を囲むとは。ダサいことこの上ない。
「そんなこと言わずにさあちょっと遊ぼうよ」
「俺ら怒らすとやばいよ。あんま調子乗らないでもらえます。やれっつったらやれよ」
「あんましつこいとさらうよマジで。お前の家族もついでによお」
「あのお。お取込み中失礼します。うちのスタッフに何か問題がありましたでしょうか」
「千代さん!」
弱弱しかった奈央の声に明るさが戻る。千代吉は奈央の方に体を向け
「何があったか知らないけどここは私がやるから裏でドリンクの補充でもしてきな」
「でもこの人たち本当に危なくて」
「大丈夫だから」そう言うと体をくるりと戻し
「お客様!もう一度ご要望を私に申しつけください」
「申しつけ!だったら服脱げ!やらせろ」
「やばあっ!お前おもろすぎ」
呂律が回っておらず、会話にならない。ほぼお猿さんである。何が面白いのか千代吉のギャグセンでは理解不能だった。
「何があったの?」
埒が明かないので、奈央に話を聞いた。
奈央が涙をこらえながら答える。
「ドリンクを提供したら度数が薄い、詐欺だって言われて、高い金払ってるのに飯がスーパーの安売りだとか金額分のサービスじゃないから服脱げとか言い出すしもうめちゃくちゃなんです。周りも酔ってて誰も止めずにニヤニヤ見てるだけなんです」
めんどくさい。ただ暴れたいだけのカス確定だ。千代吉はこういう輩が大嫌いだった。まあ好きな奴なんていないだろう。群れないと暴れることもできない。集まってでかいことをやるのかと思えばそうでもない。中途半端な傷の舐め合いだ。何がしたいのか到底理解できなかった。
どうせやるなら派手にやれとこいつらと似たような奴らが起こすテロのニュースを見ていて思う。
うちのかわいいかわいい奈央をびびらせやがってといきり立つ。
忙しいイライラとこちらに落ち度の一切ない理由で絡まれていることから千代吉は職務を忘れて暴れる決意を固めつつあった。
「まあまあご両人。そんなギスギスしないでよ。めでたい席なんだから仲良くやりましょう」
横から謎のおっさんふらっと割り込んできた。50歳に近いのではという年齢なのに肩につくぐらいに長い髪に高そうな派手な柄シャツを第2ボタンまでがっちりと開けている。
下手をすれば若作りの痛々しさを感じさせる風貌ではあったが、いい感じの胡散臭さを醸し出していた。
「金本さんは引っ込んでてくださいよ。俺らがやってるだけなんで。館長もなんも言わないんで」
「いやあ、こういう遊び方はあんまりよくないと思うよ。黒田くんも堅気の方に絡むのは好んでない。少なくともこういう目の届くところでは。あれは人一倍人の目を気にする男だからねえ」
「知るかよ。楽しんでなんぼがウチのモットーだろうが!館長のダチかなんか知らねえが、あんたは俺らに命令できる立場じゃねえし、聞く義理ねえだろ」
このいさかいを止めるため立ち上がった金本なるおっさんの勇気ある行動は、カス共を刺激するだけに終わったらしい。
金本は困ったなと頭をかく。
「酔ってるのかい?目上の人にそんな口の利き方をして。僕は黒田くんの兄弟子だから君らからすれば師匠みたいなものなんだがねえ。噛みつく相手は選んだ方がいいと思うが」
お前が選べ。喧嘩止めに来たくせにちょっとあおられてピリつくな。
「知らねえよ!んなことよお!てめえいっつも道場に来て稽古もせずに見てるだけじゃねえかこの野郎!高校の部活に定期的に顔出す大学のOBぐらいダサいんだよ」
パンチラインすぎるだろ。絶対傷つくぞ。
だんだんと雲行きが怪しくなってきた。会場の隅っこで起こった些細な争いが徐々に広がる光景を感じさせる。周りの関係のない連中も殺気立ってきている。このままでは会場全体がストリートファイト状態になり破損物品の損害も図りしれないだろう。
「千代さん。なんかヤバい空気じゃないですか?」
奈央も感じ取っている。
どこからともなくパリンと瓶の割れる音がする。その音を皮切りに乱闘劇の幕が上がる。男どもがすごい勢いで殴る、蹴る、投げる、ぶつける。血みどろである。私の預かり知らないところでやってほしいと千代吉は強く願った。
やるしかないか……。ぽつりとつぶやく。
あんまり職場ではやりたくなかったのだがしょうがないと覚悟を決めた。奈央を素早く自分の後ろに誘導し、乱闘の中を抜ける。
「奈央ちゃんはパントリーに戻って主任に連絡してきて。後、警察と救急車。それだけやったら怪我しないようにそのまま裏で待機しといて」
奈央は何も言わずに頷き従業員扉からパントリーに向かった。
ふーっと一呼吸置く。
体を自然体に保ち、力を入れすぎず、抜きすぎず力を循環させることを意識する。
左の手の平を下に向け、まっすぐ前へ突き出す。別にこの動作はさほど重要ではない。大切なのはイメージを膨らませることだ。
こういう大きな部屋の場合だとこの部屋全体にぴったりとはまる1枚の厚い板をつくり、その板で人間を押さえつける感覚でいいと思う。
天井がそのまま降りてくるのでもいいがそれだと重さのイメージが強すぎて会場内の人間を何人か潰してしまうかもしれない。
千代吉は作り上げた。会場内の人間を押さえつけるイメージを。それを徐々に解放していく。一気にだすと負荷がかかるため、怪我人が出るかもしれない。ゆっくりゆっくりジェンガのように調整する。
混沌とした会場の空気が重くなる。中にいる人間が徐々に違和感を強め、それを確実なものへと変貌させる。
体が鉛のように重い。体重が倍になったかのように感じ、己の体を支えるのもつらい。立つこともままならなくなり、ついには全員しゃがむか、中には寝転がる者まで出た。
乱闘が治まる。いや、皆が自主的に治めたのではない。皆の姿勢が低くなり、動くことも困難なこの状況下で唯一何事もなかったかのように立ち尽くす者が治めさせたのだ。
会場のはしに立つその者に全員が目を向けた。注目を集めたことを確認した千代吉が何が起こったか分からず静まり返る会場で一言にこやかに叫んだ。
「お客様!節度を持って楽しんでください。我々ホテルチェルヴィニアの従業員はいつでもお客様の来訪をお待ちしております」
とまあここで海田千代吉の自己紹介をしておこう。千代吉という名前から男だと思われるが、れっきとした女性である。
年は25歳で趣味は飲み歩きと競馬、半年前まで商社マンの彼氏と同棲までしていたが、「お前といたら自我が保てない。じゃあな」と謎の書置きを残されそれ以来独り身である。
ちなみに千代吉という名前は親父命名であるらしい。親父いわく女なのに吉というのがロックであり、ヒップホップなんだとのことである。ぶち殺してやろうかと千代吉が思ったのは言うまでもない。
そんなこんなで彼女は日々の業務、迷惑な客、理不尽な上司とストレスのたまる同僚、癒しの矢野奈央との遊び等々毎日を慎ましく生きるたくましい女性であり、各国に突如として発生したエスパーであり、重力を操ることのできるそんなどこにでもいる普通のOLコンシェルジュである。