【番外編】アリシア・ホークの悔恨
番外編は、まさかのトレイン母のお話です。
「奥様…」
夫と息子が逮捕された旨の書状が届き、
主人を失った屋敷の広いエントランスの真ん中で、
アリシア・ホークは立ち尽くした。
使用人がこちらを窺うように声を掛ける。
『この家は、おかしかったのだわ』
…アリシアは自身の半生を思い起こし、
久しく感じていなかった違和感が喉元にせり上がるのを感じていた。
「安心したまえ。
君は私が言う通りに動いていれば良い」
結婚した当初、夫となった男は頻繁にこう言った。
「君は少々考えが足りないところがある。
ふとした言動が当家にどんな影響を及ぼすか、
それを思えばうかつな行動はとれないはずだ」
社交に出られるレベルではない、
と家の中で夫からの教育が始まった。
一言一句言葉にこだわる夫からの叱責を受け、
女主人の仕事は任せられないと取り上げられ、
ひたすら夫の言う事を聞いて過ごした。
そうすればいつか、
立派な子爵夫人になれると信じていた。
息子が産まれた。
産褥の床の上で、夫からはこう投げかけられた。
「いいか、この子は君の次の主だ。
自分の子であるという傲慢な考えは捨てることだ」
君のような者に後継者の教育はできまい、
と母乳をやることすらさせてもらえず、
張って痛む乳を抱えてアリシアは泣いた。
自分が悪いと、信じていた。
自分がもっと出来た淑女であったならば、
あの子を抱いてあげられたのに。
自分がもっと優秀であったならば、
あの子に読み書きを教えてあげられたのに。
アリシアは不出来だ。
それを思えばこそ、後継者である息子には近づけなかった。
自分のような程度の低い者を母と慕えば、
息子の将来に悪影響だと信じていた。
「あなた、愛されているわね」
夫に連れられて、ずいぶん久しぶりに出席した夜会で、
ご挨拶した婦人にそう言われた。
「あなたのご主人、身体の弱いあなたを慮って、
社交をしなくてもいいと仰ってるのでしょう?」
いいご主人じゃないの。
夜会中アリシアは夫の腕から離れることを許されず、
常に隣に付き従った。
「君のようなものがご婦人方の社交場になど行けるものか」
夜会の中でもご婦人方の集まりには挨拶もさせてもらえず、
紳士の社交場に連れて行かれた。
若い紳士には「お熱いことだ」とからかわれ、
老紳士には「君は君の社交をすべきだ」と怠慢を咎められた。
その度に夫は言った。
「申し訳ない、妻は少々自信がないのですよ。
私が目を配れる場所にいないと不安なのです」
…夜会の後、
両親から手紙が届いた。
「アリシアについて、
身体が弱い上に夫なしで社交もできない、
不出来な妻でホーク子爵が可哀想だと噂が立っている。
しっかりしなさい」
アリシアは訴えられなかった。
身体はどこも悪くないこと。
社交は夫から禁じられていること。
それもこれも、自分が足りないからだと、
ぐっと飲み込んだ。
夫は2人目の子を望んでいた。
子を産めば少しは認めてくれるかと思った反面、
息子を産んだ後の孤独を思い返すと、
アリシアは陰鬱な気持ちになった。
結局、子は出来なかった。
夫は
「君に課せられたわずかな役目さえ、
満足に果たせないのだな」
と吐き捨て、アリシアを見向きもしなくなった。
やがて、アリシアは完全に孤立した。
女主人としての仕事もできない。
息子とはもう何年もまともに話していない。
夫は自分に何の期待もしていない。
毎日毎日を、
夫と家に生かされ、ただ消費していくだけの生活となった。
…一度、真冬の雪が降る中、
アリシアは衝動的に屋敷の池に入ったことがある。
氷のように冷たいドレスが肌に纏わりつき、
首まで浸かると息が思うように吸えなかった。
その冷たさは痛いほどであったが、
アリシアは久しぶりに「生」を感じた。
偶然庭師に見つかり引きずり出され、
毛布を被り震えている間、
アリシアは徐々に血の気が戻っていく自身の指先を見つめ、
静かに昂揚した。
報告を聞きつけてやってきた夫は言った。
「死のうとでもしたか。
それとも気を引こうとでもしたか。
どちらにせよ愚行だと分からないか。
こちらにかかる迷惑を考えられないから、
君は駄目なのだ。
今後勝手に死ぬことを禁じる」
死ぬことを禁じる。
はは、分かっていないのは夫のほうだ。
アリシアはずっと、死んでいたじゃないか。
そしてこれからもずっと、
死に続けることをアリシアに強いるというのか。
この日、アリシアの心からは一切の希望が消えた。
やがて息子は成長し、
どうやら婚約者を決めたという。
夫と息子で相手の家に詰めかけていって、
手八丁口八丁で丸め込んで婚約を成立させたらしい。
私の時と同じだ、とアリシアは思った。
その後も度々、
婚約者の教育がどうとか言う話を父子でしていたが、
どうやら息子の婚約者は思いの外負けん気が強く、
言葉でも態度でも、抵抗を見せることがあるらしい。
それを息子が夫に愚痴り、
夫はいつもこう返すのだ。
「女を教育し従わせることができて、
一人前の男というものだ。
お前の母を見てみろ。
夫である私に口答えしたことがあるか?」
息子は尊敬の眼差しで夫を見るが、
アリシアは抗議する気力も起きなかった。
夫が不在の食事の席で、
珍しく息子が口を開いた。
「あなたは幸せですね、
父に守られ生きて」
息子よ、母を見なさい。
母が一度でも、幸せそうにしていたことがありましたか。
その言葉は音にならなかった。
「…婚約者を、
幸せにして差し上げなさい」
それだけ言って、
アリシアは席を立った。
…その言葉が命令形であったことが息子の気に障り、
夫に伝わりまた叱責を受けた。
思えば、これが最初で最後の、
母として息子にかけた言葉であっただろう。
息子という未来に掛けた、
母からの最後の望みであっただろう。
……その結果が、これだ。
「奥様、どうしましょう…」
長く目を閉じたままのアリシアに、
使用人が再度問いかけた。
奥様、か。
長らく聞いていなかった言葉だ。
女主人としての仕事は何もさせてもらえなかったが、
有事には結局自分が矢面に立たされるのだ。
夫は失脚した。
息子は婚姻を禁じられた。
実質、このホーク子爵家は終焉を迎えたことになる。
夫に兄妹はいるが、
このような汚名だらけの家を継ぎたがりはしないだろう。
今回、アリシアは関与していないとして罪に問われなかった。
ある意味、確かにアリシアは、
夫に守られていたのかも知れない。
最後くらい、
と言う言葉がアリシアの頭をよぎった。
「最後まで足掻きます。
子爵家の全権を、私に移譲する手続きを」
「は、はい、奥様」
「この家の主人は、
今この瞬間から私です。
私のやることに、
しばらく文句は受け付けません」
アリシアは長く踏みつけられてきた。
だったら少しの間くらい、
踏みつけ返してもいいはずだ。
夫と息子を踏み台にして、
死の国から這い出す覚悟を、
アリシアは決めた。
ーーー『とある貴婦人の悔恨』というタイトルの暴露本が出版され、
世間を賑わすことになるのはもう少し先のお話。
アリシアの最後の行動には賛否あるでしょう。
アリシア自身を責める声も多くあるはずです。
しかしアリシアの脱獄には、必要なこと。
作者はそう信じています。




