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翌朝、覚悟して降りたエントランスにトレインはいなかった。
え、どういう風の吹き回し?
今日はネチネチやられ続けると思ったのに!
批評も説教もないままの移動は何とも楽ちんで、
学園に到着し講義室へ向かう足取りも軽い。
ウキウキで曲がり角を曲がると、
…講義室前で仁王立ちする『教授』の姿があった。
ーー残念ながら、
逃がしてはくれないようである。
「おはようございます、トレイン様」
「……」
トレインはリリーと目を合わせず、無視を決め込む。
仕方がないので「失礼します」と横を通ろうとすると、すれ違いざま棘のある声が降ってきた。
「思い上がらないほうがいい。
君は決して価値ある存在ではない。
常識としてどうするべきか、よく考えるんだ」
そういうと目を合わせないまま去っていった。
リリーはどっと疲れた。
経験から知っている。
このスタンスのトレインは「詫び待ち」だ。
こうして目を合わせず無視を決め込むことにより、「俺は不機嫌だぞ、お前の言動が怒らせたんだぞ」アピールをするのである。
こうなったら長いのだ。
こちらが懇切丁寧に詫び、改善すべき点を全て改善し、平身低頭頼み込まなければ、トレインは機嫌を直さない。
しかもそこから、
「では君がこれからどうすべきか議論しよう」と、議論という名のワクワク批評タイムが始まるのだ。
以前「詫び待ち」状態を放っておいたことがあるが、
トレインは父に文句を言った。
お宅の娘は婚約者に対する礼がなっていないのではないか、と。
父はすぐさま行動した。
「リリー、謝罪しなさい」と。
ここでリリーがうまくやれなければ、
トレイン父が出てくると踏んだのだろう。
それが面倒だったのだと思う。
「何度でも謝りなさい、
許して頂けるまで家には入れない」と。
結果本当に家を放り出されたし、
トレインの機嫌を取るため自分自身のことをボロクソ言わなければならなかったし、
その後の批評タイムも物凄く長かった。
『私リリー・コニーズは常識知らずです』
『考える頭の足りない、レベルの低い人間です』
『優秀なトレイン・ホーク様のお導きなければ、世を歩けない劣等生です』
こんなことを何度も口にさせられ、本当に自分が価値ない存在に思えて涙が出た。
しかし今回はどうすべきか。
彼の機嫌を取るならば、リリーはアシスタントを辞し、己の思い上がりを反省し、非礼を詫び、アシスタントにはどうぞ相応しいトレイン様が、と座を譲るまでが正解だろう。
だがそれはできない。
「よし、では手紙を送れ」
ノアに相談するとこの返答が返ってきた。
「こう書くんだ。
『トレイン様の仰る通り、アシスタント業は私には不相応と感じております。しかし半年は務める決まり。トレイン様の隣に立つに恥じぬよう、立派に修行してまいります』とな」
「あとは忙殺されているふりをして、逃げまくれ。もし家を放り出されたら我が家を頼れ」
え、アヴィントン侯爵家を?
そんな、恐れ多い!
「乗りかかった船だ。気にするな。
あとな、国外留学推薦は俺も挑戦する」
「え、なぜ」
「2人で勉強したほうが効率的だろう。
万が一君が落ちて俺が通ったら、俺の枠は君に譲ろう。
チャンス2倍だ」
か、神のような慈悲…!
ルイーズ教員もそれを聞いてアシスタント業の負担を減らしてくれ、毎日朝から夜までの猛勉強の日々が始まったのだった。
……それからしばらく。
トレインは未だ、「俺は怒ってるぞ」モードを貫いていた。
それはそうだ、ノアから提案され送った「修行してまいります」の手紙は、
トレインからしたら「不正解」で「不合格」なのだから。
リリーを無視してくれていることで心の安寧も得られ、勉強時間も確保でき、言う事無しなのだが…。
勉強しながら、リリーの心はしばしば妙な不安に駆られた。
「いいんでしょうか、トレインの機嫌をとらなくて」
思わずノアに零す。
「なぜそう思う?」
「いえ、こうして自分のために勉強していると、
なんだか悪いことをしているようで」
「なぜ自分のために勉強するのが悪いことだと?」
「トレインはしばしば、
『自己を優先するなど傲慢である』と言っておりましたので」
「それは正しいことだと思うか?」
「…一部そうだと思います」
「…コニーズ嬢、君は一度休憩だ。
飲み物でも飲んでくるといい」
ノアにそう諭され、
素直にリリーは席を立った。
ちょっと足を伸ばして講義棟のレストルームに入ろうと、
戸のそばに立った時、中から女生徒たちの声が聞こえてきた。
「ちょっと、最近『教授』ひとりじゃない?」
「確かに、最近婚約者を連れ回してないよね」
…ピンポイントで噂話の現場にかち合ってしまった。
「困るよー、おかげで大迷惑」
「え、何が?」
「何か教員陣が最近『教授』に当たり強いじゃない?」
「ああ、確かに。何かやらかしたのかしらね」
「それで『教授』もイライラしてるんだろうね、
四方八方女生徒を捕まえては説教しまくってるのよ」
「あ、そういえば新入生らしき子を廊下で呼び止めてた!」
「『声色を改めたほうがいい、耳障りだ』
『その髪色は常識的に言って品がない』
『先程の講義での解答は正しくない』」
「うるっせーーーーーわ!!!!」
女生徒たちはケラケラ笑う。
「ほんと歩く公害みたいな奴なんだから、
婚約者がちゃんと捌け口になってくれないと!」
「でもコニーズ嬢可哀想じゃない?」
「情をかけてらんないわよ、
もし婚約解消にでもなってあんな奴が野に放たれたら、
下手したら私達も狙われるかもしれないのよ!」
「大丈夫よ、私達は」
「どうして?」
「たって『教授』、絶対口答えしなくて、
何も目立つところのない子にしか声掛けないもの」
コニーズ嬢みたいな。
あはは!言えてる!
彼女には尊い犠牲になってもらいましょ!
キーンと耳鳴りがする。声が遠くに聞こえる。
リリーはそっと扉から離れ、足音を消してその場を離れた。
バン、とノアのいるアシスタント室の扉を開く。
「ど、どうした、コニーズ嬢」
「…逃げます」
「お、おう」
「死にものぐるいで逃げてやる!
絶対トレインの犠牲になんか、
なってやるもんか!!」
「お、おう、その意気だ」
「アヴィントン様」
「なんだ」
「私、地味で目立ちませんか?」
「ああ、まあ、派手ではないな」
「馬鹿にされるほど酷い容姿ですか?!」
「いや、コニーズ嬢は可愛いよ」
「ほんとですか?!」
「うん、君は可愛い」
「よし!」
ノアに言ってもらってリリーの心はようやく落ち着きを取り戻す。
「アヴィントン様…
私『何者か』になりますわ。
お力をお借りできますでしょうか」
ノア・アヴィントンは後に語る。
『あの時ほど彼女の笑顔が怖かったことはない』と。