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「あれは逃げるべきだ」
ノアがリリーに力説する。
あのルイーズ教員とトレインの応酬を、アシスタント室から聞き耳を立てていたらしい。
「見たか?あの自己評価の過剰な高さを。
あの手のタイプは反省などしない。
己の力量を正しく判断できない。
自分がそう特別ではないことを認識できない」
ぐさぐさ。
ルイーズ教員も頷いている。
「ああ…」
「しかもあの手の輩は、
手の届く人間には執着する。
自分を特別で高尚な存在だと思い込むために必要だから」
ノアがずずい、とリリーに詰め寄る。
「ルイーズ教員の専門学域は知っているな」
「はい。心理学です」
「そのルイーズ教員が君を匿った。
君はそれほど危険な状態だということだ」
危険な状態。
確かにリリーの未来には希望がない、ように感じているのは事実だ。
「逃げ切るべきだ」
「でもいったいどうやって」
「まかせたまえ」
フフン、と鼻を鳴らしたノアは、
書類を一束リリーに手渡した。
「読み給え」
「拝読致します。
…えーと、卒後国外留学推薦に関する募集要項」
「コニーズ嬢、婚約は向こうからの申し出だと言ったな」
「はい、特に関わりもなかったのに突然お話が」
「どうして奴が君に狙いを付けたか分かるか」
「いいえ、私にはそう長じたものはありません」
「そう、それだ。
君が『何者でもない』ことが大事なのだ」
「はあ」
「あの手の輩は己を至高の存在だと思っている内心、本当に高みにいる者たちに対しては強烈な劣等感を抱いている場合が多い」
ノアはかつ、かつ、と靴を鳴らして歩く。
「だから、常に見下せる存在を傍に置きたがる」
それが君だ。
「君が高みに登ろうとすればするほど、
奴は躍起になって足を引っ張るぞ」
「その通りよ。
私があなたをアシスタントにしたせいで、
彼を刺激してしまった」
ごめんなさい、とルイーズ教員は頭を下げた。
「とんでもありません!
一時でもトレインと離れられるだけでも充分です」
「充分ではないと言っている」
ノアがまた語りだす。
「奴と一緒にいれば、君は貶められ続ける。
努力しても無駄だぞ、奴が君を認める日は永劫来ない。
君の周りを蠅のように付きまとい監視し、
粗を探しては鬼の首を取ったように批判してくるぞ。
批判することそのものが、奴の目的だからな。
どうだ?奴から逃げたくはないか?」
「それは…逃げたいです、心から」
「ならばコレだ」
書類をパンパン、と叩く。
「引っ張る足も見えないほど、
君が高みに登ればいい」
卒後国外留学推薦は狭き門だ。
毎年必ず誰かが得られる訳ではなく、
充分な素養なしと判断されれば該当者なしの年もある。
「だが、今年はラッキーだ。
来年隣国から複数人留学生を受け入れることが決まっており、我が国からも同数向こうに遣ることが既定路線だ」
つまり、枠は確実にある。
そこを勝ち抜けばいいのだ。
「決して簡単ではないが、奴から逃げるには、思い切って国を出るくらいの気概がいる。
そうしてそのまま他国で仕事を得てしまえばいい」
「そ、そこまで必要でしょうか」
「当然だ。
奴らはしぶといぞ。
下手にいつか帰ると言えば、ずっと待たれる可能性すらある」
「ホラーですね」
「家ごと捨てる覚悟をせよ、コニーズ嬢」
リリーはひとり娘だし、母は幼い頃鬼籍に入っている。父にはもはや思うところないし、
「悪くないですね」
「だろう」
こうして、
リリー・コニーズの出国計画は静かに始まった。
トレインを刺激しないよう、
リリーがアシスタントに就任したことも公表は避けた。
もちろん国外留学を狙っているなどおくびにも出さないことが厳命された。