8話 剣の大悪魔
粘っこい声は、まるで虫の羽ばたきのように慧の耳をくすぐり、不快感を植え付ける。
周囲を見渡せば、薄暗い月明かりに照らされた荒涼とした風景が広がり、彼女の異様さをより一層強調していた。
「ここはお月様の世界に作った、小さな小さな蜘蛛の巣。ふふ、ふふふふ」
薄暗い月明かりに照らされた荒涼とした風景が広がる。
その奥底から、不気味な声が響き渡る。
「月檻。それが、この世界の名前なんだって」
誰に聞いたのだろうか?
もしかしたら、同じような狂った存在が、この世界に他にも潜んでいるのだろうか?
だが、思考にかまけている余裕などない。
慧は雑念を払いのけ、剣を構えなおした。
「じゃあ、始めようか。慧君のバッドエンドは、無様で惨めで残酷な演出にしてあげるねぇ」
「くっ」
愛菜の攻撃は、これまで慧が経験したことのないほど速く、力強かった
距離は一気に詰められ、桁違いに高まった膂力が容赦なく慧を襲う。
爪が空気を切り裂き、鋭い音が響き渡る。
慧は剣で防戦するが、その反動で体が吹き飛ばされ、地面を転がった。
何とか追撃を避けるも、先程転がっていた床のコンクリートが砕け散り、埃が舞い上がる。
慧は砂ぼこりに塗れた顔で愛菜を見据える。
絶望的な状況。
だが、それでも剣を構え抵抗の意思を示す。
「フ、フフフ、逃げるの、ねぇ。ヒーローなのに逃げちゃうの、ねぇえ!!」
再度、愛菜の爪は、まるで稲妻のように慧を襲う。
慧は渾身の力で剣を振りかぶるが、その剣は愛菜の爪によって容易く跳ね除けられてしまう。
愛菜の不気味な笑い声の後に、コンクリートが砕ける轟音が響く。
救いは剣のおかげで体力を回復しているくらいしかない。
しかし反撃は全く許されず、小さなミスが命取りになる状況だ。
手を考えなければならない、そう考えていたとき、愛菜のこれまでにない動きに死の臭いを感じ取った。
粘りっこい笑い声を上げながら、指を不気味に動かしていた。
「フ、フフフ、ねぇ、私ね、こんなことも出来るの」
来たっ!と、慧は恐れていた行動がとられたことを悟る。
「く、ぉ」
吐き出していた息を無理やり止めて、嫌な予感の正体に対処する。
今の愛菜は異形だ。
すなわち、人とは違う行動を取ることができる。
「フフ、フフフ、フフ。逃げないと、逃げないとズタズタになっちゃうよぉ」
愛菜の指が不気味に動くたびに、周囲の物体は亀裂を走り、破壊されていく。
視認の難しい蜘蛛の糸であったが、指の動きと、直前に切り裂かれた場所から未来を予測し、糸を巧みに避ける。
蜘蛛の姿を見た瞬間、これがあると思っていた。
だからこそ、対処は出来たが、それだけだ。
剣の間合いを遥かに凌ぐ距離から、次々に襲いかかる驚異。
逃げる以外の選択肢はなかった。
慧が身を屈ませて走った足元に、大きな切り痕が走る。
無様に転がった近くにあったドラム缶が両断された。
飛び越えた木枠は木片へと姿を変え、銀色の機械はクズ鉄へと変わる。
愛菜の指先から伸びる糸は、慧の動きに合わせて破壊の限りをつくしていく。
「キャッハッハッハ、すごい、すごい! 初めて見ただけで全部避けちゃうなんて、本当に慧君って凄いんだねぇ。でもね、私も凄いんだよ」
必死になって、糸を避けている最中に掛けられる声を必死になって拾う慧。
その言葉の中に、この状況をなんとかするヒントがあるかもしれないのだ。
絶望的な状況の中では、些細な情報すら欲しい。
だが、情報を集める余裕が、次の瞬間に失われた
必死に糸を避けながら、愛菜の言葉に耳を澄ませる慧。
その言葉には、絶望的な状況を打破するためのヒントがあるかもしれないのだから、聞き逃すわけにはいかなかった。
しかし、情報収集の余裕は許されるはずもない。
「ふ、ざけんなよ」
怒りの叫びを上げる慧の眼前には、ドラム缶、工業機械、コンクリートの塊など、周囲のあらゆる物質が襲い掛かる光景が広がっていた。
これまでの糸を使った斬撃だけでなく、粘着性の糸による投擲攻撃も加わったのだ。
慧は逃げ場を失った。
「くっそ」
慧は、全力で襲い来る工場機械に向かって走り出す。
絶望的な状況の中で、最後の抵抗を試みた。
「フフフ、凄いねぇ慧君。やっぱヒーローだねぇ」
剣を盾にして、超重量の工場機械を防いだ彼の体は、容易く吹き飛ばされた。
体は何度も地面を跳ねるも、全ての攻撃が集中していた場所に立っているよりもは、ダメージは抑えられたはずだ。
狙い通りの結果になった。
重量のある工場機械の勢いを利用しての回避。
あのまま立っているなり、背を見せて逃げるなりしていたら、質量攻撃により圧死をしていたハズだ。
「う、うぅ」
だが代償が大き過ぎる選択だった。
全ての攻撃が集中していた場所に立っているよりもダメージは抑えられたはずだが、それはかろうじて寿命が延びただけだ。
倒れたまま起き上がれないまでに消耗した慧は、絶望の淵に立たされている。
6つの節足が近付いてくる音が聞こえた。
その音は、まるで死神が歯を鳴らして笑っているように見える。
「カッコ悪い死に方にしようと思ったけど、カッコ良く死ねそうだね、慧君」
慧は起き上がろうとするも、体はまともに動かず、骨が何本か折れている可能性もある。
全身は傷だらけなのだろうが、もう痛みすら感じない。
自分の惨状を嘲笑うように思う慧。
しかし、愛菜の声には穏やかなものがあった。
「立派だったよ。とても、ね」
最期に認められたののが救いだろう。
自分よりもずっと格上の存在に。
そう思うと、少しは納得して死ねる……などと思えるはずが無い。
「ぁぁあああぁぁぁぁぁっ!」
無防備に近付いた愛菜に、突如と立ち上がった慧が金属片を突き立てる。
それは愛菜の糸が切り刻んだ機械の欠片だ。
6つの目の一つに突き刺し失明をさせた。
「死ぬのなら……無様に死なせてくれよ」
キレイな死に方などいらない。
「泥に塗れて……血ヘドを吐き散らして……無様で、醜く、怨みを撒き散らして…………」
それは慧の心の底に横たわる狂気。
「どんなにカッコ悪くても……それが僕なんだよ」
許せなかった。
キレイ事というメッキをを貼り付けて作られた偽物を、自分として扱われることが。
「だから、だからキレイ事で僕を隠すな……下らない終わり方を…………するなぁぁぁあっ!」
慧の狂気が、剣に己の生命力を与える。
これまでとは違う。
最後の一滴まで生命を絞り尽くすほどに、剣へと力を捧げる。
だが、どうせ尽きる命なのだ。
寿命を失おうとも、慧は意に介さなかった。
小細工はいらない。
全てを一撃に込めて、それで結果がどうであろうとも死ぬ。
それでいい。
己の全てを込めて、慧は愛菜へと斬り掛った。
「 」
思考が途切れ、慧の目が大きく見開かれる。
振り下ろしたはずの聖剣が、彼の頬を掠めて背後へと飛んでいく。
折れたのだ。
激しい戦いの負荷に耐えられず、聖剣は彼の命よりも早く寿命を迎えてしまった。
「まだだああああぁぁぁぁあっ!」
剣は折れようとも、まだ心は折れていない。
慧は折れた剣を再び振りかぶるその姿が、その心を象徴していた。
「お前があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!!」
目を潰され、怒りに狂った愛菜の爪が慧の体を捉える。
それは防ぐ術のない慧の腹へと深く突き刺さった。
しかし、朦朧とする意識の中で、本能のまま剣を振り下ろす。
首を斬りつけられかけた愛菜は、咄嗟に慧の腹に突き刺した腕を大きく振り、彼を壁へと叩きつける。
「が、あぁぁ、ぁ」
愛菜すら意図していなかった攻撃だったが、もはや受け身を取る力すらなかった慧の肋骨を砕き臓器にまで深刻なダメージを与えてた。
それでも彼は立ち上がる。
もはや意識は無かったが、その双眸は愛菜を睨みつけているかのようだった。
最期の一滴まで命を搾り取るかのように、ゆっくりと歩いて行く。
「殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す、殺すぅ!」
薄暗い光の中で不気味に光る鋭い爪を輝かせると、鋭い叫び声と共に慧の腹を抉り取らんとばかりに迫る。
慧もまた、意識朦朧のまま折れた剣を振りかぶる。
あまりにも弱々しい動きは、彼自身の衰えゆく強さの延長線のように感じられた。
圧倒的なスピードで迫る愛菜に対して、限界を迎えた慧はゆっくりにしか動けない。
これで終わりだ。
アイナの残酷な顔の線に刻まれている。
彼の命、彼の夢、彼の存在そのものが、風に当てられたロウソクのように消え去ろうとしていた。
戦いの轟音は遠い彼方に消え、世界は息を潜めるように静寂に包まれた。
まるで、不可避の結末を静かに待ち受けているかのようだ。
慧は、その不気味な静寂の中で、意識の奥深くへと沈んでいく。
記憶と感覚の奔流が彼の心を押し寄せ、脳を侵食していく。
それは、人間の限界を超えた苦痛と歓喜の渦だった。
そして、彼の意識に光が灯る。
剣の名は、ルーヴァルア。
生命力の名は、プラナ。
全てが鮮明になった。
幼い頃に見た赤い化け物、赤鬣魔。家族を奪い、彼を異界へと堕とした忌まわしき存在。そして、そこで出会った銀色の悪魔。
「これが、あの時あったかもしれない可能性」
「ああ、俺という可能性だ」
慧は、暗闇の中で剣の大悪魔と背を向かい合わせに立っていた。
「今度は、僕が引き継ぐ番か」
剣の大悪魔の力は、分岐した可能性の慧から受け継いだもの。
慧から別の慧へと引き渡される力。
「分かれた可能性の枝葉が、再び一つに戻る時が来ただけだ」
奇妙な感覚。
自分の声に剣の大悪魔が応えているようにも、独り言を呟いているようにも感じられる。
融合が進むにつれ、二つの存在は一つとなっていく。
感覚も記憶も重なっていき、剣の大悪魔の考えが透けて見えてくる。
「一つ教えて欲しい」
完全に一つとなる前に、慧は彼の口から聞きたい言葉があった。
「強すぎるのは、そんなに退屈だったのかい?」
慧の問いに、剣の大悪魔が笑っているように感じられた。
「覚悟しておけ。今度は、お前が死ぬほどの退屈を味わうのだからな」
そして、完全に一つへとなる。
剣の大悪魔の気配が消える。
同時に、最後の情報が慧の頭脳に流れ込む。
それは、これまで融合を繰り返した全ての剣の悪魔が、同じタイミングで自分と同じ質問をしたという情報。
慧は、穏やかな笑みを浮かべる。
「やっぱ考えることは同じか」
その瞬間、運命の歯車が新たな形で回り始めた。
意識を取り戻した慧の眼前に、愛菜が迫っていた。
薄暗い闇の中で光る鋭い爪は、今まさに自身の命を狩り取ろうとしている。
だが、焦りを感じる必要すらない。
慧は恐ろしい速度で剣を振り抜き、彼女の腕を一瞬で切り落とした。
「があああぁぁっ、またお前はぁ!」
激痛に叫び声を上げ、後ろへ跳ね飛ぶ愛菜。
それでも彼女の眼差しは依然として憎悪に満ちている。
だが慧は興味の欠片すら抱かない。
彼は、双子月の光を背に、赤水晶で作られたかのような大剣を天に掲げていた。
その姿は、英雄物語の一幕のような雄々しい姿。
だが、ここにいるのは英雄ではない。
運命を弄び、あらゆる命を嘲笑い、時として神すら討つ存在……大悪魔なのだ。
慧が剣を振り下ろすとと共に、彼の姿は劇的に変化する。
双子月の光が、銀色の肢体を照らし出す。
禍々しい騎士鎧を纏っているようにも見えるその姿は、同時に野獣のような生命力を感じさせ、まさに戦場における悪夢そのものだった。
滑らかな曲線を描きながら蠢く銀色の肌は、まるで精巧な金属工芸品のように美しく冷酷。
その表面を彩る機能美を追求した曲線は、敵の侵入を許さず、鋼鉄の要塞そのものだ。
動きを阻害する要素は一切なく、その巨体はまさに完璧な殺戮芸術と化している。
「なに、その姿。なんで……なんで慧君が…………悪魔に」
愛菜は混乱を隠せない。
人に化けている悪魔には出会ったことがあるが、その時は違和感があった。
だが、慧にはそんな違和感はなかった。
間違いなく人間だった。
それが突如として、悪魔へと変わった。
なぜ?
戸惑う愛菜を意に介すことなく、慧は周囲に響き渡る声で宣言する。
「さあ、お前のバッドエンドを始めようか」
そしてヒーローの物語は終わりを迎え、悪魔の物語が始まる。