2話 転校生
満月が銀色に輝く夜、山道を走る車は、異様な静寂に包まれている。
だが車内は、温かな空間だ。
家族旅行の思い出話に花が咲いていた。
小学5年生の慧は、窓の外の月明かりに照らされた風景を眺めながら、楽しい旅行を振り返っている。
隣に座る妹の莉那は、疲れ果てたのか、すでに夢の中。
父はハンドルを握り、母は助手席で地図を確認していた。
「莉那、もう寝ちゃったわね。」
母が優しい声で囁く。
「ませていても、5歳だからな。遠出は堪えたんだろう。」
父が苦笑しながら答える。
次の旅行は、もう少し近い場所にした方がいいか?
そんな会話を弾ませていると、突然、車体全体を揺るがす衝撃が走った。
慧は思わず頭を座席にぶつけてしまう。
隣に座っていた莉那も、衝撃で目を覚ましたようだ。
「どうしたの!?」
母が心配そうに叫ぶ。
「わからない! 上に何か落ちてきたみたいだ!」
父は慌てて車を路肩に寄せようとした。
その時、車内を不気味な静寂が包み込んだ。
不吉な影
静寂を切り裂くように、莉那の小さな声が響き渡る。
「ねぇ、慧……」
慧は莉那の視線の先にあるフロントガラスに目を向けた。
そこに映っていたのは、悪夢のような光景。
満月の光に照らされたフロントガラスからは、巨大な影が車の中を覗いていた。
それは、赤い獣毛に覆われた、異形の人間の姿。
異常に長い首を持ち、不気味な笑みを浮かべるその顔は、まるで悪夢から抜け出した怪物のように、見る者を恐怖に陥れた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
慧は、冷や汗で前進を濡らして目を覚ました。
心臓が早鐘のように鼓動し、体は震えが止まらない。
周囲を見回し、ようやく夢であったと理解をし、徐々に冷静さを取り戻していった。
ただ、あの異形の怪物がフロントガラスに映っていた光景は、鮮明に脳裏に焼き付いている。
あの後、父が車を走らせ、しばらく追われるも、なんとか逃げることができた。もしも捕まっていたら……そう思うと背筋に冷たい物を感じる。
いや、夢だ、もう終わったことだ。
そう自分を言い聞かせると、両頬を平手で強く叩き気持ちを切り替えた。
一階へと降りると、家族は朝食の最中であった。
慧もまた、自分の席へと座る。
「おはよう」
父がいつものように声をかけた。
「早く食べなさい。遅れるわよ」
母も、いつものようにせかす。
莉那は、寝癖を気にしながら鏡の前で髪を整えていた。
「今日もブサブサだね」
慧は思う。
この妹は、なんで満面の笑みで、兄を罵って来るのだろうか?と。
あの夢の日から何年も経ち、妹は中学4年生になった。
やはりトラウマ的なもので、あの純粋だった……いや、あの頃も似たような物だったな、と思い出した。
「そんなわけないだろ」
そう言い、ささやかなな報復を決行する。
莉那の頭を強く撫でて、髪の毛をクシャクシャにした。
その後。
当然、怒り狂った莉那から、言葉の追撃を仕掛けられることとなる。
紫陽花が咲き誇る六月。
始業式から2ヶ月が過ぎ、高校の各クラスではグループが出来ていた。
しかし、それらに入れない者もいる。
慧もまた、その一人だ。
彼は、眼鏡をかけた気弱な少年。
クラスには馴染めたとは言えず、話せる相手は数えるほどだった。
そんな彼にとって、学校での時間とは憂鬱な時間でしかない。
ある日、いつものように一人で昼ご飯を食べていた慧は、クラスメイトの真由と健太が話しているのを耳にした。
「ねえ、聞いた? 山田って転校したんだって。」
「えっ、あの不良グループに絡まれてたやつ?」
「そうだよ。昨日、荷造りしてるのを見かけた。」
慧は興味本位で二人の会話を聞き耳を立てる。
「なんで転校したんだ?」
「真面目な話、いじめが原因らしいよ。」
真由の言葉に、慧の表情が少し変わった。
そういえば、変なのに絡まれたことがある。
あれが不良グループなのだろうか。
その時は偶然、教師が近くを通りかかったので、あのグループはすぐに立ち去ったが。
「そう言えば、慧って絡まれたことあったんだっけ?」
健太が、慧に話しかけてきた。
突然の事で、少し驚きながらも答える。
「あ、うん。少し前にね」
あまり思い出したくはないが、隠すような事でもない。
とはいえ、特段話すことがあるわけでも無し。
返答は、曖昧な物となってしまった。
「もしも、また絡まれたら、デカイ声出せばいいからな。もしも、それでも何かされたら俺に言え。父さんが刑事だから、チクってやる」
「そこは、俺がぶん殴ってやるとか、言う所なんじゃない?」
「殴ったら、俺が停学になるだろ。そんなことになったら、父さんにぶん殴られるからな」
健太の言葉に、真由美がツッコミを入れる。
この2人は付き合っているのではないか?
などと感じなくはないが、そういった経験の無い慧には判断が出来なかった。
「…ありがとう」
小さな声ではあったが、どうやら聞こえたようだ。
満足そうな顔で頷いた。
その日から、慧に新たな友人ができる。
夏休みは憂鬱な季節だった。
しかし、今年は違った。
慧に、話せる相手が出来た。
夏休みが、それまでとは違う夏になるはずだった。
それから2日後。
真夏の太陽が降り注ぐ中、慧は校舎裏へと連行されていた。
「おい、眼鏡。詫びを入れるんなら、痛い目を見ずに済むぜ」
不良グループのリーダー格である大樹が、不気味な笑みを浮かべながら慧に迫る。転校した生徒の代わりに、慧をパシリとして使おうと絡んできたのだ。
「さっき、嫌だと言ったハズだよ」
「何ほざいてんだ、てめぇ!」
見下していた相手の言葉に、大樹の表情が歪むと、胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。だが、その手が慧に届くことはなかった。
「火事だぁぁぁぁぁあっ!!!」
突如として、大声で叫んだ慧。
大樹は怯み、その動きを止める。
「騒ぐんじゃねぇっ!」
だが動きを止めたのは僅かな間。
逆上した大樹は、慧に殴りかかった。
「何やってんだ、てめぇ!」
校舎裏に大人の声が響き渡る。
振り返ると、そこには教頭先生と数人の教師が立っていた。
「大樹君、これはどういうことですか?」
教頭先生が、厳しい表情で問いかける。
「……何も……」
大樹は、言葉を濁す。
「何もしていないなら、早く帰りなさい。」
教頭先生の言葉に、大樹たちは慌ててその場を立ち去った。
「大丈夫だったかい、慧君?」
教頭先生が、慧に声を掛ける。
「はい、大丈夫です。ありがとうございました。」
慧は、教頭先生に頭を下げる。
「あの状況で、火事だと言ったのは良い判断だ。助けてと言っても、巻き込まれる事を恐れて、誰も来ない可能性があるからね」
「恐縮です」
少し前に、テレビで見た対処法だった。
「それと、彼女にもお礼を言っておきなさい。彼女が私達を呼びに来てくれたのだからね」
教師達の中に、女子生徒が一人紛れこんでいるのに気付く。名前がすぐには思い出せなかったが、しばらく考えてようやく声に出せた。
「心葉さん、ありがとうございました」
「どういたしまして。でも、クラスメイトなんだから敬語じゃなくていいよ」
人を助けて、恩着せがましい事も言わず、上から目線の感情も見せない。
彼女の善良さというべき性質を感じさせる。
「じゃあ、敬語は使わないようにするよ」
善良さには、笑顔で返すべきだろうと、自分も気付かない場所で感じたのか。
慧は、無意識のうちに笑顔を返していた。
変わり映えのしない日常が過ぎていく。
気弱な生徒であった慧であったが、心葉、健太、真由美の3人の友人ができた。
また、あれから不良グループに絡まれていない。
だが、穏やかな時間の中にも、少しずつ変化が混ざるのが日常というものだ。
蝉時雨の響き渡る七月。
慧の高校生活に静寂を纏う少女が影を落とす。
教室での朝礼。
周囲の視線を感じながらも、彼女は表情一つ変えずに前に進む。
教壇に立った彼女は、深々と頭を下げ、静かな声で挨拶を始める。
「...王田 愛菜です。...転校してきました。」
その声は、まるで糸を引くように細く、か細い。
愛菜は、視線を床に向け、小さな声で呟くように話す。
その声には、恐怖と不安が込められていた。
彼女の纏う雰囲気に、多くの生徒が戸惑いを持つ。
そして教室には一瞬の静寂が訪れた後、生徒たちの間でざわめきが起こり始めた。
「少し声が小さくない?」
「なんか暗いよね」
歓迎されていないという空気は、彼女の心を鉛のように重く圧しつける。
誰もが、彼女を遠ざけようとしているように思えた。
愛菜は、孤独と絶望に打ちひしがれ、声も出なかい。
ただ、ただ、無力感に支配されていた。
「ふーん」
だが、一部の者だけは、影のある笑みで彼女を歓迎していた。
数日が経った頃のことだ。
学校の人通りの少ない場所。
人目につかない古びたベンチの陰で、愛菜は孤立していた。
周りには、彼女を蔑む目を向ける3人の女子生徒。
からかうような笑い声が、辺りには響き渡っている。
「何も言えないの?声が小さすぎて聞こえないんだけど」
と一人が挑発する。
しかし、愛菜はただ黙って耐えているように見えた。
彼女の表情には、苦痛や怒りの色はなく、ただ静かな受容の様子だけがあった。
暗く塗り潰されていく彼女の毎日。
別の日の事だ。
薄暗い旧校舎。
薄汚れた壁に落書きがいくつも描かれ、古びた鉄骨がむき出しになった天井からは、蜘蛛の巣がぶら下がっている。昼間とは打って変わって、不気味な静寂が支配する場所だ。
そんな場所に、一人、少女が立っていた。
王田愛菜、転校生である。彼女の周りには、男女数名の生徒が立っており、下卑た笑みを浮かべている。
「脱がせろ」
リーダー格の男、大樹が命じると、取り巻き達もまた不気味な笑みを浮かべる。
愛菜は小さく震えながら、必死に抵抗しようとする。
「……やめてください……」
しかし、大樹たちの力は圧倒的だった。愛菜は抵抗することすらできず、徐々に追い詰められていく。
「抵抗しなければ、痛い想いをしなくて済むぞ」
大樹は愛菜の腕を掴み、力強く引っ張った。愛菜は悲鳴を上げ、地面に倒れ込む。その時、何かが頭上から降ってきた。
「ギャッ!」
大樹の頭に直撃する缶ジュース。
開封されていた中身は、彼を中心に周りにいた者達も濡らす。
「誰だっ!」
大樹は怒鳴りながら、周囲を見渡す。
しかし、誰もいない。
当然だ、犯人がいたのは遥か上。
彼らの場所を見下ろせる4階にいるのだから。
「仕事に差し支えが出ることは、しないで欲しいんだけどね」
不愉快そうに話す真由。
彼女の隣で健太は軽く笑い答える。
「お前も気になったから、ついてきたんだろ?」
「私が来たのは仕事のため。アンタとは違うの」
2人の見下ろす場所には、教師達が愛菜の元へと向かって走る姿があった。