エピローグ 日常
キッチンには、バターとベーコンが香ばしく焼ける匂いが漂っていた。
父と母、そして妹の莉那は、すでに食事を終えていたようだ。
今日も、起きたのは自分が最も遅かったらしい。
「おはよう」
慧は、慌てて席につく。
しかし、隣に座る莉那からいつもの言葉を浴びせかけられる。
「今日も朝からブサブサだねぇ」
「そうだな……これでお前もブサブサだな」
莉那の言葉に、慧は雑に頭を撫でる。
彼女のまとめた髪型は、そのせいでボサボサとなった。
「うわっ、最悪っ! 女の子にこんなことするから、いつまでもブサブサなんだよ」
「女の子? ……ふっ」
莉那の扱いは慣れている。
まともに相手をしてはダメだ。
「ブサメンが鼻で笑うなんて、ウケるんですけどぉ」
しかし、全く相手にしなくても、余計に絡んでくるようになるので注意が必要となる。
故に、適当にあしらうのが丁度よいのだ。
食事を終えた慧は、朝焼けに染まる空を背に、自転車を軽快に漕ぎ進める。
これまでは、行方不明事件の影響で、登校時の風景はどこか寂しげだった。
だが、それに飽きたのだろう。
最近は外に出ている人が増え始めている。
危機感の無さは平和ボケだと揶揄することも出来るが、この光景のおかげで自分が本来あるべき日常に戻れたことを実感できるので、わりと感謝していた。
自転車を置くと、ロッカーで上靴へと履き替えた。
ロッカーの金属の冷たさが、朝のひんやりとした空気を伝えてくる。
ところどころで、生徒たちの笑い声が響き渡り、活気あふれる雰囲気を盛り上げていた。
中には、ロッカーの前で鏡を取り出し、髪型を整えている生徒もいる。
朝日に照らされたロッカーは、キラキラと輝き、活気あふれる学校生活の象徴のようだ。
しかし、その一方で、どこか影のある表情も浮かべる者もいた。
まだ行方不明事件の終結が、公式発表されていない影響だ。
犯人の愛菜は既にこの世を去っているため、これ以上の犠牲者は出ない。
このため、いずれ終息を迎えるだろう。
それまで、どれだけの時間が必要となることか。
また大量の人骨は工場に残ったままだ。
それを、あの場にいた健太と真由、2人の後ろにいるであろう組織が、どのように扱うかによって、発表される内容は変わってくる。
そのまま発表するのなら、月檻の中に消えた行方不明の愛菜が人喰いを行っていたと報道される。
だが化け物の存在を隠したいのなら、人骨を残していない愛菜も被害者となるか、情報が捏造されるだろう。
その内容次第で、2人が所属する組織の影響力や、思想が見えてくる。
教室へ向かう途中、慧はそんな考えに囚われていた。
それにしても、あの怪物、愛菜と呼んでいいのだろうか?
愛菜の姿は、擬態に過ぎない。
アラクネに喰われ、姿を奪われた被害者だ。
しかし、あの怪物はイジメられることで、自分と縁を作らせた人物を喰っていた。
もしかして、本当の愛菜もイジメの加害者側にいたのではないだろうか?
だが、心葉は善意で近付いて喰われかけたのだから、断定はできない。
『仮にイジメをする側の人間だったとしたら……』
思い出されるのは、教室で陰鬱な表情をしていた少女の顔。
そして心葉が声を掛けたとき、俯いて体を震わせ、泣くのを堪えているように周りには見えただろう。
しかし、慧の目には笑いを堪えているように見えた。
怪物が泣くハズが無い。
きっと心葉という獲物が、自分から蜘蛛の巣に引っ掛かりに来たのを笑っていたのだと思う。
それにしても、あれは本来の愛菜が持っていた性質ではないか?
そう思えるほど、しっくり来る姿だった。
仮に、あれが喰われる前の愛菜の本性だとしたら。
ひょっとすると、あのアラクネは姿だけでなく、取り込んだ人間の性質も取り込んでしまう魔物だったのではないか?
そのような空想にかられると、慧は溜め息を一つ吐き、考えるのを止めた。
いずれにしても、事件は終わっているのだ。
今さら、愛菜を演じていた蜘蛛のことなど考えても、意味など無い。
慧は考えを振り切り、教室へと入る。
陽だまりが差し込む教室。
談笑が行き交い、行方不明事件のような陰鬱な話は、彼らにとって遠い世界の出来事のようだった。
自分の席に荷物を置き、慧は周囲を見渡す。
ここは高校生である彼が、当たり前とするべき日常。
教室の一角で、探していた人物がいた。
彼女の姿を見て、問題なく登校で来たようだと、胸を撫で下ろす。
「おはよう」
いつものように声をかけると、心葉は照れくさそうに微笑む。
「あっ、お、おはよう」
やはり怪我の後遺症は見られない。
慧は元気な姿に安心したが、心葉のどこか様子が違うことに気づいた。
「どうしたの?」
「う、うん。なんか怖い夢を見て…大きな蜘蛛に食べられそうになっていて、そこで慧君の声が聞こえて……」
心葉の言葉に、慧は一瞬警戒を強めた。
彼女が捕えられていた部屋の位置を考えれば、戦いの一部が見えていてもおかしくない。
しかし、まさか心葉が、慧の姿を認識していたとは想像していなかった。
それでも、意識がハッキリしていたとは思えない。
戦っていたことが知られるのは、今後にどのような影響が出るのか分からないのだ。
誤魔化した方がいいだろうと判断する。
「僕だったら、人を食べる蜘蛛がいたら、心葉さんを置いてすぐに逃げちゃうから間違いなく夢だね」
少々強引だったか?
普段とは違う発言だったかもしれないと少し戸惑う。
心葉は目を丸くして彼を見つめる。
「うわっ、酷っ。そういう時は、その時は俺が助けてやる!とかカッコつける所じゃない?」
心葉の言葉に、慧は笑みをみせる。笑ってごまかすためだ。
「ケンカも苦手なんだから、むりむり」
しばらく話していると、第三者の声が響いた。
「心葉。もう大丈夫なのか?」
健太だ。
その隣には真由がいる。
心葉を連れて帰ったあと、2人はどういう対処をしたのだろうか?
「そう言えば、心葉さんが休んだのは体調でも崩したの?」
遠回しに、健太と真由の反応を窺いながら訊ねてみる。
「女の子に、そんなデリカシーの無い事を言っていると、健太になっちゃうわよ」
「おい。俺の名前を悪口みたいに使うな」
2人のやり取りを見て、先日の工場の光景が脳裏に思い浮かんだ。
健太がこちらに気付いている素振りをしていた。
プロであれば、こういったやり取りの中に、あの場にいる何者かを炙り出す仕掛けがあっておかしくはない。
予め打ち合わせをしていた会話である可能性を考慮した方が良さそうだ。
これ以上、探りを入れるのは悪手だと判断し、情報収集を断念する。
「ごめん。変な事を聞いちゃったみたいだね」
「健太にならなくてよかったわね」
「……本当に、俺の名前を悪口扱いするのやめてくれ」
真由の言葉に、健太が反論をする。
この2人、どこまでが演技で、どこからが本心なのだろうか?
それを知るのは、きっと関係が大きく変わる時なのだと、少しの寂しさを感じた。
だが、それはまだ先の話。
今は、余計な事を考えず、これまで通りの生活を送ろうと、友人たちとの話を続ける。
やがて、チャイムが鳴り教師が入ってきた。
「じゃあ」
「うん。でも、もう少しカッコつけた方がいいよ」
軽く笑い、慧は自分の席へと戻っていく。
「……本当に、すごくカッコよかったんだから」
少女は、彼の背中を眺めながら、無意識にそんな言葉を零していた。
これで終了となります。
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