1話 双子月
愚者は、己の見聞してきた事を、この世の全てだと錯覚する。
一方、賢者は、己の無知を知るが故に、謙虚な姿勢を崩さない
もしも、地球で魔法の存在を否定する者がいたら、愚者と賢者のどちらだろうか?
少なくとも、この世界においては、己の見聞してきた事を、この世の全てだと錯覚する愚かな物であると、賢き者は嘲笑う事であろう。
世界の時は止まり、魔に属する者達の時間。
その証が、空に浮かぶ青い月と赤い月。
力ある者だけが、この世界を生きることが許される。
コンクリートに覆われた通路を、最深部へと走る者達の影があった。
彼らは黒いローブを翻し、闇夜を駆ける7人の魔術士。
その眼には、決意と覚悟の炎が燃えていた。
黒いローブを纏った7人。
その姿は、物語の魔法使いや騎士を連想させた。
事実、彼らは魔術を行使する者であったが、空想の世界と違う点もある。
彼らの身につける装飾品や杖が、機械的な印象のある物であることだ。
彼らは、強大な力を求める大犯罪者「羨道 克廼」を追っていた。
ひたすら走り続ける。
彼らが走る通路の壁には、魔法陣が刻まれ薄暗い照明が不気味な雰囲気を漂わせていた。
だが、それを気にしている余裕などない。
邪悪なる儀式は、すでにはじまっているのだ。
コンクリートで覆われた通路を、最深部へと進んでいく。
通路の先に、異様に広い空間が現れる。
待ち伏せに適した地形だ。
しかし、すでに覚悟は決まっている。
躊躇することなく空間に一歩足を踏み入れると、壁から突如、魔物たちが現れる。
鋭い牙を剥き、こちらに向かって襲い掛かってきた。
魔術師たちは、杖や剣を手に魔物たちと戦う。
火球や雷撃などの魔法が飛び交い、激しい戦いが繰り広げられる。
戦いは、この空間だけではない。
似たような地形は、その先にいくらでもあった。
奥に進むにつれ、魔物たちの強さも増していく。
巨大な爪を持つ魔獣や、魔法を操る魔術師など、強敵が立ちはだかった。
それでも、魔術師たちは、持ち前の戦闘能力と魔法を駆使して、強敵たちを倒していく。
激しい戦闘の末、ついに最深部へとたどり着いた。
これまで以上に広い部屋。
壁に描かれている紋様は、さらに複雑な物となり、部屋の中央には不気味な光を放つ魔法陣。まるで生物の体内にいるかのような不快な空気は、儀式が終わりを迎えつつある証だった。
そして、魔法陣の手前。
黒いローブを着る1人の老人が立っていた。
これまでの魔物と比べても別格の存在感。
あれが儀式を行う者であり、力を求めた先で魔に堕ちた大犯罪者。
「羨道 克廼っ!」
「魔導士協会の小僧どもか」
容易く人を殺せる者達が、己に殺気を向けているにも関わらず、羨道が動じる様子はない。その目は、実験動物を見るかのような、絶対的上位者の様相を見せていた。
「ここでお前を討つっ!!」
リーダー格の魔術師が、渾身の声を振り絞って叫ぶ。
周囲の魔術師たちも、一斉に武器を構え、羨道に突撃を仕掛けた。
しかし、羨道は全く動じる様子もなく、片手で魔法陣を操る。
すると、魔法陣から無数の魔物が現れ、魔術師たちを襲い始めた。
火球が飛び交い、雷撃が炸裂する。
魔術師たちは、剣を振るい、魔法を駆使して、魔物たちの群れを突破しようとする。
だが、敵の数は圧倒的だ。
徐々に追い詰められ、絶望的な状況に陥っていく。
「ずいぶん、ノンビリした連中だ。儀式が終了してしまったぞ」
羨道の言葉が、魔術師たちの心を切り裂いた。
隊長格の男は、信じられないという顔で立ち尽くし、唇は震え、額に汗が光っている。彼でさえ、この状態なのだ。経験の少ない魔術師の衝撃は、彼の比ではない。
魔法陣の上に黒い球体が現れる。
不気味な波動が、周囲へと広がり消えていく。
「ああ、それと感謝させてもらうぞ。この儀式に必要な、戦いで散った新鮮な魂を大量に用意してくれたのだからな」
「……なん、だと」
羨道の言葉に、隊長の心が一掃きしむ。
自分達は利用されたのだ。
ここに来るまで、必死に倒してきた魔物。
それは怨敵が用意した生贄だったのだ。
「さて、時間だ。来たれ闇に蠢く獣の主カメイガよ」
「羨道ぉぉぉぉぉぉおおおおおっ!!」
怒りの声が響く中、おぞましい瘴気と腐臭が辺りに立ち込めた。
黒い球体が砕け、人の輪郭が魔法陣の上に降り立つ。
やがて瘴気がはれた時、それが人で無いことがハッキリと分かった。
そこにいたのは、いくつもの獣の特徴を強引に人の形に押し込んだ、醜悪な姿をした化け物。放つ気配から尋常ならざる存在出ることが分かる。
だが、様子がおかしい。
「ア、ァァ……」
弱々しい声を出すと、その場に倒れた。
何が起こった?
唯一、この状況を知るであろう羨道 克廼を見るも、目を大きく見開き体を震わせるのみ。
ヤツは何に怯えているのだ。
言いようのない気持ち悪さを感じていると、突如として圧倒的な存在感に押し潰されるかのような感覚に襲われた。
「まさか、召喚に割り込んだのか。そんなの……圧倒的な上位者にしか出来ないぞ」
先程まで、カメイガの立っていた場所の空間が、ガラスの砕けるような音共に割れる。
そして姿を現したのは悪魔。
漆黒の夜空に、静かに浮かぶ双子の月。
儚い光が照らし出すのは、巨躯を誇る銀色の巨影。禍々しい騎士鎧を纏っているようにも見えるその姿は、同時に野獣のような生命力を感じさせる。
滑らかな曲線を描きながら蠢く銀色の肌は、まるで精巧な金属工芸品のように美しく冷酷。その表面を彩る鋭利な突起物は存在せず、機能美を追求した曲線は、敵の侵入を許さず、鋼鉄の要塞そのものだった。
動きを阻害する要素は一切なく、その巨体はまさに完璧な殺戮芸術と化している。
美しい。
先程の醜悪な悪魔を見た後では、一層、そのように感じてしまう。
だが、称賛の想いは羨道 克廼の言葉によってかき消される。
「お、おぉ……まさか……剣の大悪魔」
羨道が感嘆と共に漏らした小さな声。
それは世界の聞きとすら言えるほどの、深刻な事態であることを魔術士達に伝えた。
だが、それが功を奏す。
「悠馬。お前は協会に、この事を伝えろ」
お伽噺の中にしか登場しない、大悪魔の降臨。
その非常識極まる事態は、魔術士達の危機感を麻痺させ、冷静さを取り戻させた。
「隊長!」
「話している暇はない!行けっ!!」
自体は一刻を争う。
世界の聞きと言っていい状況に、蜘蛛の糸の如き希望を青年に託そうとする。
「必要ない」
制止の声は、意外な人物のものであった。
銀色の大悪魔だ。
「取り引きだ。質問に答えたのなら、お前らに干渉しないと約束しよう。ただし俺に害を成さない限りではあるがな」
どう解釈するべきか。
いや、この状況で取り引きに乗らないという選択肢はない。
下手をすれば、一瞬で全滅をしかねないのだ。
そう結論付けると、隊長の男は静かに頷く。
「お前に問う。俺の記憶が間違っていなければ、この世界の月は1つだったはずだ。なぜ月が2つあるのだ」
気分を害してはいけない。
だが時間を掛けるわけにはいかない。
思案した後は、緊張で溢れた唾を飲み込む時間を惜しみ急いで答える。
「……あれは双子月と呼ばれております。普段の月は1つですが、世界の時が止まり、力ある者たちだけが動ける時間のときだけ現れる特別な月です」
銀色の悪魔は、興味を持ったような目で双子月を見上げた。
彼が何を思ったか。
赤い機械の瞳から、その想いを窺える者はいなかった。
「そうか」
その声は、冷たく、無機質のものだ。
まるで、機械が喋っているかのような錯覚を受けた。
「次の質問だ。お前らは何だ?この世界の人間は、お前らのような力を使えなかったと記憶している。訊ねたいことは2つだ。お前達は何者なのか?お前らの使う力は、この世界のいて誰もが使える一般的な物なのか、だ」
どう答えるべきか。
あまりにも基本的な質問内容すぎて、この問いには落とし穴があるのではと勘繰ってしまう。
だが、考えても答えは出てこない。
腹を括るしかなかった。
「私達は、魔術士と呼ばれています……いえ、正確には、所属する組織によって違いはありますが、ここにいる私達は全員が魔術士と名乗っています。そして、この力は魔術と呼称している力ですが、情報統制をしているため、使う者がいることすら知らない場合がほとんどです。よって一般人で使える者は、ほとんどおりません」
緊張のあまり、心臓の鼓動が激しい。
大悪魔の声を遮る、その音が邪魔にしか感じなかった。
「……なるほど」
何かを考えているのか。
また、沈黙が辺りを支配した。
「こいつは約定の証だ。受け取れ」
大悪魔の手元に現れた、一振りの剣が隊長の元へと向かう。
ゆっくりと、まるで自分の意思を持っているかのように。
「約束通り、お前達に手を出すことはない。だが、忘れるな。その約束は、お前達が俺に危害を加えた時点で破棄されることを」
銀色の悪魔は、そう言うと、背中に赤い翼を精製して空へと飛び立とうとしたとき、彼を引きとめる声が響いた。
「御所望があれば、いかなる手段も用いて調達いたします。どうか、御眷属に!御意に沿うこと、苦難も厭いません。御慈悲を、御眷属としてお認めください!」
羨道 克廼の声に、大悪魔は僅かに動きを止める。
だが、無機質な彼の瞳は冷たい物であった。
「興味ない」
再び赤い翼を羽ばたかせると、彼の姿は遥か空の先で小さく映るのみとなる。
予想だにしない結末。
だが、これで終わったわけではない。
地上において、再び魔術士達の戦いが始まる。
それから数刻。
雲海を越えた先で、大悪魔は静かに佇んでいた。
月光を反射するその姿は、夜空に浮かぶ三つ目の月のようだ。
彼の視線は、双子月に向けられている。
だが、その意思は絶え間ない思考へと向けられていた。
自分の記憶にない月。
あれは元々あった物なのか?それとも後になって出来た物なのか?
なにも知らない。
視線を地上へと向けようとする。
そのとき、彼の内側が何かに押さえつけられるような感覚があった。
「封印か……ずいぶん、代償が大きかったようだな」
強引に召喚の儀式を乗っ取るなど、無茶をした物だと自分を嘲笑う。
だが、それだけだ。
彼は、何事もなかったかのように、地上に広がる街を見下ろす。
電灯が、地上に万遍の星のように広がっている。
「まぁ、いい。時間は、いくらでもあるのだ」
彼は、再び赤い翼を羽ばたかせ、その場を後にした。