翠雨に輝く
五月の京都は人が多い。
爽やかな気候に誘われて、新緑に包まれた趣ある神社仏閣を参拝するために全国、いや全世界からたくさんの観光客が押し寄せる。大型連休は言わずもがな、普通の土日だってどこの寺社も参拝者でいっぱいだ。
そんな時期のよく晴れた日曜日に京都の大きなお寺でやる法事に、既に家を出て縁が薄い孫まで呼びつけないでほしいと、私は深くため息をついた。
私が小学校六年生の時に亡くなった母方の祖母の一三回忌だったが、東京の下町で生まれ育ち、母の実家に遊びに行くことも少なかった私にとってはほとんど顔も知らない赤の他人だ。歴史のある家の人だったらしく、菩提寺は古くから続く有名なお寺、声をかけてくる親戚は何世代も遡らないと血が繋がらない初対面の人ばかりと、核家族で地味に生きてきた私にとって法事はひどく居心地が悪いものだった。
寺での法要と食事会が終わり、息苦しい時間からようやく解放されると、一泊してから帰るという両親を残して私は足早に帰路へついた。
スマホの地図アプリを頼りに、駅までの最短距離と表示された裏通りの細く曲がりくねった道を進む。行きは深夜バスを使ってお寺の近くまで来てしまったから、この道を通るのは初めてだ。見慣れぬ街を歩く不安から、手元の画面を凝視しつつ道を一つ曲がったその時、急に現れた人の波が私を飲み込んだ。
先ほどまでよりも少し広い片側通行の道路には、人、人、人で溢れかえっている。ベビーカーに乗った赤ちゃんを連れたお母さん、幼児を肩車するお父さん、財布を握りしめた小学生男子のグループ、ソフトクリームを食べ歩く制服姿の女子グループ、手を繋いだ初々しい大学生カップル、ベンチに座る老夫婦。老若男女問わずたくさんの地元住民とみられる人々が、歩道も車道も関係なしに好き勝手に道を行きかう。
そして道の両脇を挟む漆喰塀の前にはブルーシートや机が置かれ、その上では雑貨やお菓子、地場野菜等が値札を付けられて並んでいた。道沿いに設置された掲示板には、門前で毎月開催されるフリーマーケットのお知らせが貼られている。通りの奥には瓦屋根付きの門も見えるし、どうやらこのイベントに迷い込んでしまったようだ。
早く抜けてしまおうと、イベントの出口を探して首をめぐらす。と、通りの一角に佇む女性に、私の目は釘付けになった。
彼女の姿は、まるで絵画から抜け出てきたように美しかった。
街路樹である大きな柳の下に置いた床几に腰かけて、木漏れ日が揺れる中、彼女は文庫本をめくっていた。若緑色の着物に濃紺の羽織を合わせ、白い足袋と桜色の草履をぴたりと揃えた上品ないでたち。薄く化粧が施された顔には皺ひとつなく若い印象を受けるが、ゆったりとした雰囲気からは五十路をとうに越えていると言われても不思議はない。
紅を差した唇は小さく弧を描き、伏せた目は手元に落とされている。それが楽しそうに色を揺らすたび、濡羽色のショートボブに留められた緑のバレッタがきらりと輝いた。
「……綺麗」
無意識に、私の足はふらふらと女性の下へ吸い寄せられていく。他のお店には目もくれず、ぼんやりした頭で人波を避けながら彼女が座る柳の木陰に近寄る。
人の気配を感じたのか、彼女は本から視線を上げ、私の目を見て微笑んだ。
「いらっしゃい。どうぞお気軽に見てってください」
そこで初めて、彼女の目の前に置かれた木製の折り畳み机に気が付いた。
どうやら彼女が出店しているのは、ハンドメイドアクセサリーを扱うお店のようだ。ピアスやブローチ、ペンダントといった様々なアクセサリーが、小さな値札を付けられて整然と並んでいる。赤、黄、青、透明といった様々な色のビーズで彩られたそれらに一つとして同じデザインのものはなく、昼下がりの陽光を受けて自分が一番美しいと言わんばかりに胸を張っていた。
どれも繊細で、とても綺麗だ。まるで店主の女性のように。
また、これが似合うのもきっと、彼女のように美しい人物であるに違いない。
出かけに立ち寄った手洗いの鏡で見た自分の姿を思い出す。闇色の喪服を身にまとい、肩まである髪は結ぶこともなくそのまま。行きに来ていた服を乱雑に押し込んだ野暮ったい大きなトートバックを肩にかけて背中を丸めているような、私のような人間には不釣り合いな代物だ。
はぁ、と小さなため息が溢れる。お店の迷惑になるし、無駄な冷やかしはやめてさっさと帰ろう。
断りの言葉をかけるために顔を上げた瞬間、女性の左側頭部を飾るバレッタに私の目は奪われた。
雨上がりの緑深い山奥で生まれたようなアクセサリーだった。
金の土台を青緑のビーズが縁取り、両端では真珠色の玉が艶やかなアクセントを与える。土台の下には涙型をした透明と水色のスワロフスキービーズがぶら下がり、女性が身じろぎをすると葉についた雨粒のようにキラリと輝いた。
ビーズの内側では、濃緑のスワロフスキービーズが深い色に陽光を乱反射する。そして中心にはオパールが鎮座し、自身の体を虹色で包んで一際美しい光を放っていた。
「……そのバレッタと、同じものはありますか?」
思わず零れた言葉に「あら」と目を丸くした彼女を見て、私はしまったと息を呑んだ。売り物でもない私物だし、そもそも店主本人が作ったものだという保証だって無いのに。
「す、すみません。つい……」
「いいえ。これも私が作ったものなのでええんですけどね。ただ、今同じものは無いんですわ。すいませんねぇ」
うつむいて肩をすぼめる私に、店主さんは申し訳なさそうに眉を下げる。それから商品を一瞥し、袖口を左手で押さえながら机上のイヤリングの一つを右手で示した。
「このイヤリングにも、同じ雫型のスワロフスキーを使とります。ベースも緑系やし、イメージは近いんやないかと」
おすすめされたのは、水色の雫型ビーズとグラデーションがかった翡翠色の角丸ビーズで作られたイヤリングだった。こちらも陽光にきらめいて、バレッタに遜色ない輝きを放っている。
美しさに見惚れてしげしげと眺めていたが、その下に付けられた値札を見て私はぎくりと身を硬くした。
一桁目の後ろに、ゼロが三つついている。高級レストランのランチ一回分はするだろうかと考えると、ふらりと立ち寄ったフリーマーケットで気軽に買うには少々お高い金額だ。
とはいえ、話しかけてしまった以上は何か買わないと悪い気がする。私は迷った挙句、トートバックに突っ込んでいた手荷物用のハンドバックを引っ張り出して薄い財布を掴んだ。
「……じゃあ、このイヤリングを」
「ほんま、堪忍な。おおきに」
彼女は眉尻を下げて机の下から紙製の小箱を取り出し、イヤリングを丁寧に入れる。それから私が出した数枚のお札を懐から取り出した西陣織の財布にしまい、代わりに商品を手渡した。
「お姉さん、せっかく足止めてくれたんに悪かったなぁ」
「いえ、もう用は済んで帰るだけだったので」
恐縮する彼女に苦笑いを返す。出費は痛いが、はるばる京都に来たのだから記念と思うことにしよう。
私は更に薄くなった財布と小箱をハンドバックにしまい、「ありがとうございました」と会釈をして踵を返す。その時、
「あっ、ちょい待ち」
急に呼びかけた店主さんの声に振り向くと、彼女は少し腰を浮かせてまっすぐ私を見つめていた。
「お姉さん、この後用事は?」
「え……っと、あとは電車で帰るだけですが……」
「ほな、一緒に近くのお庭でも散歩していかへん?」
彼女は口角を引き上げて私に笑いかける。そして戸惑う私を意に介さず、四角いトランクを机の下から引っ張り出して蓋をがばりと開けた。
「えっ、でもお店はーー」
「かまへんかまへん、今日はしまいや」
あっけらかんと女性は言い、机上の売り物を手際よくトランクに片付ける。あれだけ広げられていた繊細な小物の数々があっという間にしまわれていく様は、まるで手品のようだ。
「お姉さん、電車の時間は何時?」
「えーっと、三時半過ぎの新幹線ですが……」
「ほな、三時に出れば間に合うな。ここな、美味しいお抹茶出してくれる茶房があんねん。お詫びに奢るわぁ」
呆気にとられている間にも、彼女はどんどん帰り支度を進めていく。机を空にし、床几もしまって、最後にトランクの蓋を閉じて横向きに持ち上げると、
「ほな、行こか」
と私に向かって微笑みかけた。
さて、どうしたものか。初対面の人から急にお茶に誘われたことなど今までなかったし、正直なところ抵抗はある。しかし、美味しい抹茶をタダで飲めるという誘い文句は魅力的だ。ここまで来て一切観光しないというのも、なんだかもったいない気がするし。
「……じゃあ、少しだけ」
腹を決めて頷くと、彼女は「こっちや」とフリーマーケットの奥を指さした。
案内されるままにするすると人を避けて道を行く。すると、店が途切れたところで石段の上に立つ立派な木の門が現れた。
内向きに開け放たれた大扉の横には、一メートル近くあろうかという年季の入った表札が掲げられている。筆で書かれた名前は達筆すぎて読めないが、末尾に「院」とあるからきっとお寺なのだろう。
低めのヒールでよかったと安堵しながら、店主さんの後に続いて階段を上る。数段上がって顔を上げると、左手に「拝観受付」という看板のかかった小屋があることに気づいた。
「杉戸はーん、こんにちは」
彼女は小屋を覗き込み、中にいた五十絡みのおじさんに声をかける。彼は私達に気づくと、ゆったりした作務衣の上からでもわかる太ったお腹を揺らしながら側面の押戸を開けて外に出てきた。
「綾小路はん、どないしたん。フリマ、まだ終わりの時間ちゃうで」
「今日は店じまいや。このお姉さんに、杉戸はんとこのお庭を見せてあげよ思うてな」
彼女が首で私を示すと、杉戸と呼ばれた彼は得心したように頷いた。
「さよか、ほんならしゃあないな。日ぃ陰ってまうし」
「ちゅうわけで、この鞄頼むわ」
言いながら、彼女は彼にトランクを託した。そしてこちらを振り向き、肩にかけていた私のトートバックを指さす。
「そのおっきな鞄も散歩するには邪魔やろ、預かってもらい」
「あっ、その前に拝観料を……」
「えーよー。綾小路はんにはフリマの常連で盛り上げてもろとるさかい、サービスや」
おじさんはえびす顔で鷹揚に笑う。私が彼女の方をちらりと窺うと、その視線に気づいて苦笑してみせた。
「杉戸はんとは昔からの付き合いでな。地区の盛り上げのためにフリマやる、ゆーて誘われて、賑やかしで時々出てんねん」
「綾小路はんが出ると、特に姐さん方のお客が増えるからな。ありがたいこっちゃで」
おじさんが店主さんに向かって拝む仕草をする。それを見て、彼女は面倒くさそうに顔をしかめた。
「調子ええなあ。ま、なんでもええから、はよ鞄受け取ったって」
「はいはい。ほな、もらうで」
言うなり、おじさんは肩から下げていたトートバックをするりと受け取る。着替え等が入ってそこそこかさばるのに、トランクと合わせて軽々と小屋の中に運ばれてしまう。
「す、すみません」
おじさんに向かってぺこりと頭を下げると、彼は「気にしいなー」と小屋の中から笑顔で手を振った。
「今はちょうど緑が綺麗な時期やから、のんびりしてってな」
真っ白の玉砂利が敷かれた細道が、受付の前から敷地の奥へ伸びる。それを辿れば、正面にそびえる瓦葺の御殿が渡り廊下を左右に広げて参拝者を待ち構えていた。だが数歩前を行く店主さんは他の観光客が吸い込まれていく大玄関に入ることなく、御殿を左に回って続く細道をすたすたと進む。
着物に草履という歩きにくい格好にも関わらず、彼女の歩は早い。玉砂利に食い込むパンプスに難儀しながら必死で追いかけていると、御殿の角を曲がった途端に視界がぱっと開けた。
そこは、色鮮やかな緑の世界だった。
まず目に飛び込むのは、庭の中心に座す大きな池。透明な水を満々とたたえ、美しい模様の錦鯉が数匹、我が物顔で悠々と泳ぎまわっている。その周りを苔むした大岩がぐるりと取り囲み、隙間から伸びる下草は池に向かって垂れ下がって勢力を伸ばす。周りの地面も若草色の苔で覆われ、所々に生える丸く刈り込まれた低木はまるで緑の海に浮かぶ小島だ。それらを取り囲むように植えられたモミジやマツ、イヌマキなどの高木は青々と葉を茂らせ、初夏の日差しを一身に受けていた。
「すごい、綺麗……」
「ええやろ。京にお寺さんはぎょうさんあるけど、うちはお庭を楽しむならここが一番や思うねん」
店主さんは得意げに胸を張る。私もあまり日本庭園に行ったことは無いが、確かにテレビや雑誌で見てきたどの庭園よりも美しいと感じた。
庭園に見とれて言葉を失った私に、彼女は池の反対側にある軒先が開け放たれた小ぶりの建物を指し示す。
「ここは池泉鑑賞式庭園言うてな、あそこで庭、眺めながらお抹茶飲めるんよ」
案内に従い、私達は池をぐるりと回って茶房を目指す。散策しながら庭のあちこちに目を向けると、木々の間には苔むした小さな五輪塔やかわいらしいお地蔵様がたたずんでいる。端々の欠けや表面が風雨に削られて滑らかになった姿から、彼らがここで長い時を過ごしていることが想像できた。
のんびり歩いて建物に到着し、勝手口から店内に入る。お茶がいただけるという広い和室を覗くが、客は他に四人組の外国人観光客しかいない。そのおかげか、私達が案内されたのは一番庭に近い縁側の席だった。
座卓を挟んで向かい合って座るやいなや、店主さんはメニューも開かず案内の若い男性店員に抹茶を二人分頼む。するとすぐ、漆塗りのお盆に乗った抹茶と羊羹のセットが私の元へ運ばれてきた。お茶が入っている茶碗は手びねりの焼き物で、歴史ある茶房で出されるにふさわしい見た目のメニューだ。
「うわぁ、趣深いお抹茶ですね」
「この羊羹も美味しいんよ」
彼女に勧められるまま、まずは羊羹を楊枝で一口大に切り分けて口に運ぶ。すると、濃厚なあんこの甘さとふくよかな香りが口いっぱいに広がり、私は目を丸くした。
「本当、おいしい……! 今まで食べた中で一番かもしれないです」
「せやろ。この近所の和菓子屋が卸してんねんで。東京もんはもちろん、京の有名なお店にも負けへん」
彼女は嬉しそうに言い、自分も切り分けた羊羹を一口頬張る。そして
「うん、今日もええ味しとるわ」
と顔をほころばせた。
その時、濃い水の匂いをまとった風がさっと室内へ吹き込んできた。先ほどまでと違う気配に外を見ると、いつの間にか表は黒い影に包まれている。
明るさを失った庭に、ぽつり、ぽつりと空から雨粒が落ちる。それはすぐにざーっという強い雨に変わり、池をばたばたと打ち始めた。
散策中の他の観光客が、慌てて建物の中に避難する。通り雨だろうか。昨日の天気予報では、今日は一日を通して晴れということだったが。
「どうしよう、傘持ってないのに……」
「大丈夫、どうせすぐ止むわ。しばらく雨宿りさせてもらおか」
「でも、電車の時間が……」
「大丈夫。万が一の時は杉戸はんに頼んで傘貸してもらうさかい」
うろたえて腰を上げかけた私を、彼女は落ち着いた口調で諭す。それがあまりに堂々としているので、何だか力が抜けてしまった。すとんと再度腰を落とした私の前で、彼女は美しい所作で茶に口を付ける。
「ま、まずは茶でも飲みいや」
静かな言葉につられて茶碗に両手を添えると、陶器の滑らかな表面を通して温かな熱がじんわりと手のひらに伝わった。一口飲めば苦みの中からほんのりとした甘さが口の中に広がり、不思議と心が落ち着いてくる。
ふうと息を吐き、半分ほど中身が残っている茶碗をいったん置く。その様子を、彼女は目を細めて見守っていた。
「……すみません、大騒ぎしちゃって」
「気にせんでええ。お抹茶、美味しいやろ」
「はい。すごく」
私が口角を上げると、彼女は「ほんならよかった」と呟いて外を見やった。
雨は一段と強さを増し、庭は水煙に覆われている。軒が長いから室内に風雨は吹き込んでこないものの、軒下の所々に置かれた沓脱石は黒々と濡れ始めていた。
ざざあざざあと降る雨、時折さーと吹く風、ばたばたと屋根を打ち付ける雨粒。会話が途切れた私達の間を、自然の音が包み込む。それが心地よくて、私はぼんやりと雨の庭を眺めていた。
「時間あるし、付けてみたら?」
急に声をかけられ、どきりと胸を鳴らして彼女の方を向く。すると彼女は自分の右耳を指さし、
「イヤリング。せっかく買うたんやし」
と首を傾げた。
「あ……はい。そうですね」
私は固くなる表情を隠して小さく頷き、ハンドバックに入れておいた小箱を取り出した。蓋を開けると、緩衝材の綿の上で小さなイヤリングがきらりと瞬く。
恐る恐る片方を取り出し、おぼつかない手つきできゅるきゅるとねじを緩める。その危なっかしい手つきを見て、彼女は眉をひそめた。
「お姉さん、もしかして、イヤリング付けたことない?」
ずばり言い当てられ、私はびくりと肩をすくめた。
「……はい。というか、アクセサリー自体をほとんど付けたことがなくて……」
みっともない告白に、話しながら背中がどんどん丸くなる。その様子を見て「やっぱりなぁ」と彼女は肩をすくめた。
「喪服やのに真珠のネックレスを付けてへんから、もしかして思っとった。ほんなら私が付けたるわ、貸して」
言われるままにイヤリングを手渡すと、彼女は一度立ち上がって私の左隣に移動する。そして慣れた手つきでイヤリングの金具をいじり、「触るなあ」と一声かけて私の耳たぶにイヤリングを当てた。
「ほんなら、私が無理矢理買わせてもうたもんやな。金欠やったろうに、余計に悪いことしたなぁ」
店主さんの言葉に、全てを見透かされた私はぎゅっと眉根を寄せた。
「……気づいて、ましたか」
「そらなあ。あんだけ財布とにらめっこしてたら、嫌でもわかるわ」
苦笑交じりの声が私の髪を揺らす。いたたまれなくて、自然と目線が下を向いた。穴があったら入りたい。
「いや、お金が無いわけじゃないんです。ただ、仕事を辞めちゃったので、節約していかなきゃと思っていて」
左耳の傍でねじが閉まる音と共に、耳たぶがきゅっと圧迫された。手の気配が顔の横から離れると左耳にほんの少しの負荷がかかり、ビーズがぶつかって小さな音を立てる。
「……ほうか。そら、大変やったな」
彼女は静かに言い、今度は私の右隣に移動する。
「あ、でも辞めたのは後悔してないんです。最初の就活が上手くいかなくて、大学卒業前に滑り込んだ会社だったんですけど、給料も少ないし、仕事内容は簡単な事務仕事やお茶くみばっかりで。私がここにいる意味あるのかなって何度も思いました。おまけに男の社員さんからは馬鹿にされるし、上司にはセクハラされるし」
聞かれてもいないのに、言い訳がぽろぽろと口からこぼれ出る。最初は大学で学んだフランス語が生かせる仕事をと思っていたのにことごとく選考に落ちた挙句、適当な集団面接会で採用が決まった会社だった。しかし入ってみれば最悪の環境で、我ながらよく試用期間で退社しなかったと思う。
「まあ一年は頑張ったんですが、去年の年末にもう無理だと思って辞めちゃったんです。仲のいい友達からも言われました、『辞めてよかった』って」
「それはお友達が正しいな。他にいい仕事はぎょうさんある」
「……ただ、もう一回就活しても、やっぱり前と同じで上手くいかないんですよね。キャリアも無いし、要領も悪いし、何となく生きてきたせいで目標も無いんで、しょうがないんですけど」
自分で話しながら、どんどん惨めな気持ちになっていく。こんな暗い話をされたってどうしようもないとわかってはいるのに、あふれる愚痴は止められない。それを、彼女はイヤリングをいじりながら黙って聞いてくれている。その優しさに甘えてしまう自分がまた恥ずかしい。
「自分は社会にいらない人間なんだなぁって、思い知らされました。情けない話ですね」
「……いらん人間なんて、どこにもおらへんよ」
彼女は私の髪をかき上げ、ぽそりと囁いた。目を見開いた私に今度は断らず、右耳にイヤリングの金具を当てる。
「うち、アクセサリーを作るときな、これを使てくれるのは一体どんな人なんやろって想像しながら作るんよ。この組み合わせならあんな人、このパーツならこんな人が似合うかなって。実際に手に取ってくれる人が想像通りの時もあれば、全然違う時もある。それでも、選んでもろた時は必ず思うんや。『ああ、ぴったりの人が見つけてくれたな』って」
耳元で、ねじがきゅきゅと閉まる音がする。ひんやりと冷たい金属パーツが、自分語りで火照った顔の熱を吸い取った。
「どんなアクセサリーにも、それが似合う人が必ずおるんや。それはあんたも同じ。あんたがおるべき場所は、必ずどこかにある」
耳たぶから手を離し、「ほい、できた」と彼女は朗らかに宣言した。そして帯に挟んでいたコンパクトミラーを取り出し、こちらに向けて開いてみせる。
「見てみ。よう似合うとる」
私は恐る恐るそれを覗き込む。うつむきがちなおどおどとした表情。しかし顔の横でビーズがきらめくと、最低限の化粧しか施していない顔が明るくなった気がした。
「綺麗……」
「な? 選んでよかったやろ」
彼女が誇らしげに微笑む。その時さっと陽光が差し込んで、机に残された茶碗がきらりと光を反射した。
視線を外に移すと、あれだけ降っていた雨はいつの間にか止んでいた。庭は再び明るさを取り戻し、雨宿りから解放された鳥たちがあちこちでピチチチチと鳴き交わしている。
「ちょうど止んだな。ほな、そろそろ行こか」
言うなり、彼女はすっと立ち上がり会計所へ足を向けた。私も短く返事をして、慌てて残ったお茶を飲み干す。
冷めた抹茶は、甘さを舌に残してするりと喉の奥へ消えていった。
茶房を出て、行きに通った道を入り口に向かって戻る。雨後の庭園は生命力に溢れて賑やかだ。どこからともなく聞こえるカエルの鳴き声に、池の際からせり出した下草から水滴が落ちるぽちゃんという音。雨をいっぱいに吸い込んだ苔は生き生きと輝き、木々の葉は水滴に濡れて緑を一層濃くする。
光に満ちた庭は、先ほどよりも美しさを増していた。
「雨上がりのお庭も綺麗ですね」
池を泳ぎ回る錦鯉を目で追いながら、私の前を歩く彼女に声をかける。彼女は草に埋もれた小さな祠を見つめて「せやなぁ」としみじみ呟いた。
「雨は面倒やけど、この景色を見られるなら悪うないな」
彼女が動くたび、濃緑の葉形から下がる雨粒のビーズがしゃらんと揺れる。庭の風景を凝縮したようなそれは艶やかな黒髪によく映えて、美しい彼女をより一層彩った。
最近では、自分の周りは全て白黒にくすんでいるように感じていた。しかし色に溢れた世界は、いつでも私の手の届くところにあったのだ。
そして自分では見えないが、私の耳元でも青と緑のビーズが輝いているに違いない。
「……私、ここに来てよかったです。誘ってくださってありがとうございました」
口角を上げてそう伝えると、彼女は私の顔を見てちょっと目を丸くした。しかしすぐに目を細めて「ええねん」と手を横に振る。
「お節介してよかったわ。やっぱりあんたは暗ぁい顔してるより、可愛らしくわろてる方がええ」
池の縁に沿って庭をぐるりと回り、御殿の角を右に曲がる。左手に連なる塀の内側には背の高い杉が何本も立ち並び、深呼吸すると木の香りが胸いっぱいに吸い込まれる。数時間前まで鬱々とした気持ちだったのが噓みたいに心は晴れやかだ。
御殿の大玄関の前を道に沿って曲がると、拝観受付の前であのおじさんが掃き掃除をしていた。私達に気づくと、手を止めていつものえびす顔で声をかけてくれる。
「おかえりぃ。雨、大丈夫やったか?」
「はい。ちょうど建物の中にいたので」
「ほんならよかった。急に降ってきたから心配しとったんや」
おじさんは胸を撫で下ろし、箒を建物に立てかけて一旦中に消える。それから右手に店主さんのトランク、左手に私の大きなトートバックを抱えて出てきた。
「あっ、すみません。ありがとうございました」
私は慌てて駆け寄り、自分の鞄を受け取る。するとおじさんは私の耳元に一瞬目をやり、にっこり笑って問いかけた。
「お庭はどうやった? 綺麗やったやろ」
「はい、すごく」
満面の笑みで頷くと、おじさんも嬉しそうに破顔した。
「よかったらまた来てな。どんな時でもお庭はここで、綺麗な姿で待ってるさかい」
「こら、あんまり若い子にちょっかいかけなや」
店主さんが眉間に皺をよせつつ口を挟む。おじさんは「そんなんちゃうわ」と苦笑して、彼女にもトランクを手渡した。
手を振るおじさんに頭を下げ、私達は山門をくぐって石段を下る。最後の一段を降りて辺りを見渡すと、いつの間にか通りの出店は全て撤収されており、観光客が行きかう普通の道に戻っていた。
「ほな、ここでお別れや。時間、間に合いそうでよかったわ」
腕時計を確認すると、時刻は二時五十分を指している。この道をまっすぐ行けばすぐ駅だそうなので、迷う心配も無さそうだ。
「本当に、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです」
深々と頭を下げると、彼女は温かな眼差しで私を見つめた。
「うちも、あんたと話せて楽しかったわ。気をつけて帰り」
「はい」
私は笑顔で頷き、「失礼します」と会釈して彼女に背を向ける。その時、
「あ、ちょい待ち」
と再度呼び止められた。
足を止めて振り返ると、彼女はトランクを地面に下ろし、首を傾けて左髪からバレッタを外すところだった。そして私の右手を取り、今しがた取ったばかりのそれをぽんと乗せる。
「これ、使てたもんでよければ、あんたにあげるわ」
突然の申し出に、目をぱちくりさせてバレッタと彼女を見比べる。と、彼女は私の右手を取ったまま春の日差しのような微笑みを浮かべた。
「このバレッタに使てる京都オパールな、幸運を引き寄せるパワーストーンやねん。せやからこれは、いいことありますようにゆうお守りや」
「……え」
「転職活動、上手くいくように祈っとるからな」
そう言うとするりと手を離し、彼女はトランクを提げて「ほなな」と踵を返す。私の手に残されたのは、先ほどの庭園によく似た雨と翠のバレッタ。
湿気た風が、私の体をそっと押す。はっと我に返って、私は慌てて頭を下げた。
「あ……ありがとうございました!」
遠ざかる背中に叫ぶと、彼女は右手をひらりと振った。
バレッタの金具をそっと外し、髪を耳にかけて彼女と同じように左耳の上に留めてみる。頭部に加わった重量のせいでほんの少し首が傾くが、これは応援してくれる気持ちの重さだ。
首を戻して、背筋を伸ばす。このバレッタが私に似合っているかはわからない。しかしいつか、これが似合う人間になれるように。
「明日から、また頑張ろう」
独り言ちた瞬間、ハンドバッグに入れていたスマホがブーッと振動した。取り出して画面を見ると、着信欄に表示されているのは時々連絡を取り合っている幼馴染の名前だった。
いきなりどうしたのだろう。スマホを操作し、電話を取る。
「もしもし、あかり?」
「あっ、由美、突然ごめんね。今大丈夫?」
「うん、少しなら。こんな時間にどうしたの?」
スマホを耳に当てたまま、駅へと向かって歩き出す。彼女は地元に伝わる染織物工場を営む実家を継いでおり、最近は新規事業の立ち上げとかで土日も関係なく動き回っていると聞いていたが。
「うん。由美、前にあのサイアクな職場辞めて仕事探してるって言ってたじゃん。その後はどう?」
「どうって、まだ探してるけど……」
「よかった! あのね、もし良ければ、うちで外国向けの営業担当として働かない?」
「……は?」
あかりの弾んだ声音に、思わず足を止める。職場からかけているのか、電話の向こうからは誰かの話し声と電話のコール音が聞こえる。
「実は、うちの新規事業で海外向けのネット販売を始めたら、なぜかフランス語圏の人からの依頼が多く来るようになって。私も英語なら多少話せるんだけどフランス語はさっぱりだから、渉外に今すごく困ってるんだよ。それで、由美なら留学経験もあるし、頼れないかなーって。事業も軌道に乗り始めたから今なら安定して仕事もあるし、どう? 条件とかは相談に乗るよ」
「ま、待って待って。ちょっとメモする」
彼女の弾丸トークを遮り、慌てて道の端に寄って荷物を降ろした。しゃがみ込んでスマホを耳に当てたまま、荷物の中から手帳とペンを引っ張り出す。
「ごめん、お待たせ。うん、詳しく聞かせてもらえる?」
手帳を膝に乗せて、ペンをカチッとノックする。
左耳の上で、雨粒のビーズがしゃらんと涼やかな音を立てた。
お読みいただき、誠にありがとうございました。
こちらの作品は、rubyBlossom(@ruby_Blossom_tw)様で作っていただいたこちらのバレッタをモチーフにしています。
https://twitter.com/ruby_Blossom_tw/status/1573548443246600193?s=19
このバレッタを見たとき、雨上がりの緑美しい日本庭園が思い浮かび、これを着けている人はどんな人なんだろう……と想像したらこんな話ができていました。
ただ、私は根っからの関東人で京都には観光で何度かお邪魔しただけなので、京都人の方からしたら粗が目立つ話かと思います。
京都弁監修は関西出身の友人にお願いしましたが、色々な突っ込み所には目を瞑っていただければ幸いです……。
コロナ禍中はご無沙汰だったので、そろそろ行きたいですね。
それではこの辺で。またどこかでお目にかかれた際には、お付き合いいただけると嬉しいです。