三 酒蔵
------天文十八年(1549年)二月
この時代にやってきて一ヶ月が経った。今のところ戦やその予定も無く平穏に暮らしている。
しかし毎朝の稽古も欠かさずしており、刀を持つ姿も様になってきた気がする。まあ姿見があるわけでは無いのでそうとは言い切れないけれど。筋力も付いてきたせいか刀の重さにも慣れてきた。おミツさんが筋力をつける食事を作ってくれるからかもしれない。
景虎はさっきから難しい顔をしてずっと何かを書いている。それを横目に真琴は二の腕を曲げながらムニムニと触っていると、景虎が笑いながら首を傾げる。
「さっきから何をしている真琴」
「え、あ。いや、筋肉が付いてきてちょっと太くなってしまったかなと…」
「そうか?ちょっと腕を出してみろ」
景虎は近づいてきて半ば強引に腕を引っ張り袖を捲ってくる。
「え、あ、ちょっ」いやこれセクハラですって。
「見ろ真琴、私の腕と比べたらまだまだだ」と得意げに自分の腕を出して微笑む。
「景虎様の腕と比べられては到底追いつけません」ぷいっと横を向く。すると景虎は大笑いして
「その顔もだいぶ見慣れたものだ、ほら触ってみるか」
腕をパンパンと叩きながら真琴の顔の前に出してきた。
「うっ」
真琴は躊躇しつつもその腕をペチペチと触る。まさか上杉謙信の腕の筋肉を触ることになろうとは…
「どうだ?」
「大変素晴らしいです…」
「そうだろう」
景虎は得意げに自分の腕をさすりながらまた書簡を書くことに専念し始めた。
ずるいです景虎様。
腕の感触を手に残されて居た堪れなくなりそっと部屋を出た。
寒い廊下をトントントンと駆け抜けて土間に行く。お水を飲みながらまた景虎のことを思い出す。
するとおミツさんがやってきた。
「あらあらどうしたんです?」
「な、何がでしょう」
「ふふふ。恋する乙女みたいな顔をして」
「えっ。な、何を言ってるんですっ。もう、違いますからっ」
きっと顔が赤いのだろう、触ってみても熱を持っているのがわかる。
急いで自室に戻ると戸を少し開け外の空気を顔に当てた。
庭の雪を見ながらため息をつく。
「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと人の問ふまで…ってやつかな」
と一人呟くと後ろから、
「平兼盛か…お前は恋をしているのか?」
「ひっ、いつからそこに」
「今来たのだ。書簡を書き終えたからいつの間にかいなくなっていたお前を探していた。それより誰だ相手は、家臣の誰かか?」
「違いますっ」
「じゃあ出入りの漁師か?こないだ楽しげに話しているのを見た。そうなのか?」
「それは魚の話をしていただけで」
そんなとこ見られてたなんて。
「お前は姿を男に似せているが故、中身も女子に見えぬからな。たまには素直になった方がいいぞ」
中身も女子に見えない…何気に言われた言葉に胸がちくっと傷み、ぐっと唇を噛み締め景虎を睨みつけた。
「それで、何か用がお有りだったんですか?」
「そうだった。五日後、家臣を集めて軍議を行う旨、皆に通達した。まあ軍議の後の宴会が目的のようなものなんだが、それに先立って酒を仕入れてこようと思う」
「お酒をですか?」
「ああ、いい酒蔵があるのだ」
「何も景虎様が行かなくてもいいのでは?」
「だめだ、自ら試飲をして味を確かめなくては皆に振る舞えん」
「…つまり自分が呑みたいのですね。わかりました、お供します」
上杉謙信の酒好きは後世でも有名である。一説では謙信の死因は脳溢血で、酒や好物の梅干しによる高血圧が原因ではないかと言われているほどだ。とは言えそれはもっと歳をとってからの話で彼はまだ十代の若者だ、今酒を制限してもしょうがないことである。
雪深い春日山を下り、田んぼが広がる農村部に来た。この辺りに贔屓の酒蔵があるという。この若さですでに贔屓の酒蔵があるなんて、余程の酒好きなんだな。
景虎の早足に小走りでついていくと、白塗りの立派な蔵が見える。来る事を事前に知っていたらしく、一人の男性が門の前で待っている。近づくと思っていたよりも若い?
「久しいな、景虎」
「変わりないか、巴春」
「ああ」
彼は何者?やけに親しげである。じーっと顔を見てしまったせいか、ぱちっと目が合いその澄んだ瞳の目力に吸い込まれそうになる。真琴は思わず目を逸らした。景虎様に引けを取らない男前、その表現が正しい。
「先代の味は超えそうか?」景虎がニヤッと笑う。
「自信はある」
「そうか、お前の新酒が楽しみでな、駆け足で山を降りてきたのだ、な、真琴」
「あ、はい」
部屋に案内され、女中さんがお茶を持ってくる。
女中さんは景虎と真琴を交互に見るや顔を赤く染めて部屋を出て行き、外で待つ他の女中ときゃあきゃあ言いながら去って行く。彼女らはもしやBLでも想像したか…いやでもこの頃は男色というのもそう珍しくはないはず。武将が若い気に入りの小姓を侍らせていたという話もあるくらい。まあ一般の村人ではどうなのかはわからないけれど。とお茶を一口いただくとさっきの巴春さんがやってくる。
「景虎、さっそく蔵に案内する」
「ああ、行くぞ真琴」
「あ…」
古くから酒蔵の中は女人禁制という慣わしがある…平安時代の頃は酒は女性が作っていたらしいがこの頃はどうだったのだろう、現代に続く女人禁制はいつから始まったのだろう…ふと考えながら景虎にそっと告げる。
「景虎様、私はここでお待ちしています」
すると景虎もその意味に気がついた様で、真琴を見て頷く。
「そうか、ならばここで待っていろ。少し時間はかかるぞ」
「はい」
どうせ蔵で試飲をして時間がかかるのだろう。荷物に忍ばせてきた本を出して読み始める。すると、思わぬ人がその部屋にやってきた。景虎と一緒に蔵に行ったはずの巴春だった。
「入るぞ」
「あ、…ええと、何か」
巴春はお膳に菓子の様なものを持っていて真琴の隣に座ると、その菓子の包みを丁寧に開けながら、皿に取り分けた。その所作の美しさに息を呑んだその時、
「真琴と言ったか、景虎とはいつからだ?」
菓子を真琴の前に置き、顔を覗き込んだ。
「あ、ひと月前からです」
「そうか、あの景虎がな。驚かしてくれる」
「あの…」
「ああ、女子は酒より菓子の方が好きであろう」
「っ…」何故かバレてる。
「案ずるな、貴女は普通に見れば可愛らしい男児だ」
可愛らしい男児と言われて複雑な顔をする。
「っ、景虎様には問われたのですか?」
「いや、俺が勝手にそう思って確かめるために戻って来た。ん?まさかやつは知らんのか?」
「いえ、知っています。知っていますが…」真琴は複雑な表情を浮かべる。
「しかし景虎が女子を共に連れてるとは考えられなかった。まあ貴方は綺麗な顔立ちをしているが他にも魅力があるのだろうな」
「いえっ、魅力なんて…景虎様には姿はともかく中身も女子には見えないときっぱり言われました」
「へぇそれは、照れ隠しだろうな」
「そんな事は…」
「どれひとつ仕掛けるとするか」
巴春は悪戯な顔をするとそろそろ来るだろうといった感じで真琴との距離を縮め髪をひとすくい取り上げるとそれに口づけをした。
「っ、巴春様?」
足音と共に襖がパンっと開く。
景虎が部屋の襖を開けた時、巴春は真琴の髪を取り口付けながら手を握っていた。
「巴春っ、何故ここに居る」
「何故?景虎の相手は杜氏らに任せた故、この娘の相手をしに戻って来たまでだが」
「娘…っ」
景虎は襖を閉めて声を小さくする。
「どういうつもりだ巴春」
と巴春の手を真琴から引き離す。
「それはお前に問おう、この美人で聡明な娘を小姓に捨て置くのは勿体ない。お前にその気がないのなら俺が我妻として迎える。うん、思いつきだが悪くない。どうだ景虎」
我妻っって、何を言い出すのっ
すると景虎
「だめだ、認めん。真琴は私のものだ。お前などが気安く触れて良い訳があるまい」
目の前で何が起きているのかわからなくなり景虎と巴春を交互に視線を行ったり来たり、その内突然ぐいっと腕を掴まれ、
「もう用は済んだ。帰るぞ、真琴」
「あ、はいっ」
部屋を出るときに巴春が真琴に目配せをする、真琴はペコっとお辞儀をして景虎について行った。
屋敷の門を出て田んぼを抜け、村を抜けるまで景虎は押し黙ったまま早足で歩き続けた。そして山に入ると突然立ち止まり、少し後ろにいた真琴の方にツカツカと近づいてくる。一瞬身構えていると景虎は徐に真琴の手を取った。
何故か手を繋いで山を登る、という訳の分からない状況になり意を決して口を開く。
「あの…景虎様?」
すると景虎は立ち止まる。
「…真琴、巴春のところに行きたければ行け」
「え、」何を言っているの?
「あの男の手を取りたければ今この手を祓って行け」景虎が目を伏せる。
「っ…、何故そのような事を言うのです」
「女子の幸せを考えたのだ。あの男はきっとお前を大事にしてくれるであろう」
「私の幸せを貴方が勝手に決めないでくださいっ」
繋がれた手を無理やり引き離した。
「私の幸せは、景虎様と共にいる事です。貴方のそばにいれるのならば小姓でも妾でも何でも…」
真琴の瞳から大きな涙の粒が落ちる。
「っ…」
「…すみません。頭を冷やしてから帰りますっ」
真琴は走って山を降りた。
読んでいただきありがとうございます
次回最終話になります。