二 海とは
ある日景虎は、兄である晴景の見舞いに行くといい真琴を連れて城を出た。
晴景はこの城を明け渡して隠居生活に入っていたが、この頃からもう体の調子は良くないのだろうか…彼はまだ30代のはずなのに。
今日は珍しく天気も良く雪もかなり溶けているせいか余計に滑る。慎重に下ってはいたが慣れない山道、雪に足を取られてずるっと派手に滑って腰を打つ。
「痛ったた…」
少し先を歩いていた景虎が素早く戻ってきて軽々と起こす。
その瞬間、真琴から何か甘い香りがしたような気がした。
「大丈夫か?」
「すみませんっ、雪に慣れてなくて」足腰に着いた雪をパンパンと祓う、
「出身はどこだ」景虎も一緒に雪を祓ってくれる。
「えっと…武蔵の方です。雪は年に一、二度降るくらいで」
「そうか…」
気がつけば景虎は並んで歩いている。それどころか真琴の背負っていた荷物をスルッと外し自分の背中にくくりつけた。
「景虎様、荷物持ちは私の仕事ですっ」
「言ったはずだ、私は自分の事は自分で出来ると。それに雪道は身軽でいた方が歩き易い。慣れていないなら尚更だ、遠慮するな」
そう言って微笑む景虎に惚れない女子はいない、この方はなんて魅力的なんだろう。
「どうした、顔が赤い」
「え、なんででしょう。風邪でも引いたかな」
頬をさすりながら誤魔化してみる。
「武士は体が基本だ。真琴はもっと飯を食べて筋力をつけた方が良い。少し軽すぎるぞ」
山を降り、賑やかな街並みに入る。真琴は目を輝かせた。街を歩く人々、雪で遊ぶ子供達、荷物を抱えた商人、まるで時代劇のセットみたいだ。街を抜けると武家屋敷の並びに入る。ドラマではよくこういうとこで浪人たちに囲まれて…なんて考えていると、景虎が真琴を見ていることに気がつく。
「な、何か?」
「ふっ、お前はころころと表情を変えるな。珍しいものでもあったのか?」
珍しいもの…全部です、全部。
「いえ、それよりもう着きますか?」
「ああ、あそこに見える門がそうだ」
長尾景虎の兄で養父でもある晴景の家にやってきた。
「景虎様、お待ちしておりました」
迎えてくれたのは晴景様のご正室であろうか、大人の色気が漂う綺麗な人である。
「あら、あなたは初めてかしら」
彼女は妖艶に微笑むと真琴の頬をするっと撫でた。
「っ!」
「ふふ、赤くなっちゃって」
すると景虎が二人の間に手を差し込んで真琴を引き離す。
「沙耶殿、私の小姓をからかわないで頂きたい」
景虎の冷たい表情に。
「あらあら冗談ですよ、そんな怖い顔しないでくださいな」
きっと景虎様の嫌いなタイプなのだろう。彼女が去るまでずっとその顔を崩さなかった。
「真琴、こっちだ」
すたすたと早足で歩く背中を追いかける。雪景色が綺麗な中庭の庭園を横目に最奥の部屋に行く。
「兄上、景虎にございます」
「ああ、入れ」
…この人が晴景様。
晴景はコホンと一つ咳をしながら布団から身を起こす。
「ずいぶん可愛らしい男子を連れておるな、お前の見立てか?」景虎は一瞬だけ眉をしかめ、答える。
「いえ、定実様にご紹介いただいたのです」
「そうか、なら優秀に違いないな」
「それより兄上、具合の方はどうなのです?」
「何、心配には及ばん、風邪をこじらせただけだ。まあ隠居したのでな、療養するには時間がありすぎるくらいだ」
一説では景虎が晴景を殺して家督を継いだのではという見解もあるが、景虎が家督を継いだ今も晴景はまだ生きていて二人の中はさほど悪くはなさそうだ。その事実に少しホッとする。
半刻ほど軍議の話をして屋敷を出た。
「真琴、用事は済んだ。どこか見たいとこはあるか?」
「そうですね、海はここから遠いのですか?」
「そうだな、半刻もかからないだろう。行ってみるか?」
「はいっ」真琴は目を輝かせた。
言っていた通りおよそ40分くらいだろう、松林を抜けると眼下に海が広がる。その広大な自然の美しさに言葉を忘れ、ただそれに魅入っていた。
景虎は横目で真琴を見ていた。冷たい海風がその髪を靡かせていた。真琴は口元にかかったひとふさを徐に指で祓う。その仕草に妙な色気を覚えて景虎は見入ってしまった。
自分は何故真琴にこのような気持ちを抱くのか。
「海は初めてか?」
「はい、遠くから眺めた事はありますが、間近で見たのは初めてです」
「どうだ、海は」
「素晴らしいです。自分が小さく感じます」
「海はこの地の人間にとってなんだと思う」
景虎が遠くに浮かぶ舟を見ると真琴もそれを目で追う。
「財産…だと思います」
「ほう、どうしてそう思う」
「海が資源を育み、そして物を運び、人々を繋ぎます。この地の人間の生活は海によって潤っていると言えるからです」
「…まさにその通りだ。この地を治めるならばその財産である海を絶対に守らねばならない」
「はい」
二人はしばらくその場で海を眺め、そして帰城の途に就いた。
何日かすぎ、景虎は書物を開きながら何やら絵図などを書いていた。相続したばかりの城の整備を進めるため、その計画を練っているという。それは夜遅い時間までかかり、真琴はそれに付き合って本を読みながら意見を出したりしていた。
景虎が一息ついて顔を上げると、火鉢を挟んだ向こうに座る真琴が机に伏して眠っているのが見える。ふうっと息を吐き立ち上がると真琴をスッと持ち上げ、部屋に連れて行った。
…それにしても軽いな。腕も細い。
景虎の中である疑念が湧き起こる。
真琴は女なのではないか…。女特有の匂いや仕草、感触、今まで景虎が感じた思いと辻褄が合う。この着物を今ここで剥がしてしまえばその答えはすぐにわかる…一瞬伸ばしかけた手をすぐに戻した。
それを今確認してどうする。それでもし女だったら小姓をやめてもらうのか?
景虎は手に入れたばかりの真琴というかけがえのない存在を自ら手放すことに懸念を抱き、そっと部屋を出た。
まだ薄暗い早朝、真琴が目を覚ますとそこは自室だった。
あれ、昨日はどうしたんだっけ?まどろみの中、深く考えずにもう一眠りしようと夜着を鼻まで上げたその時、庭の様子に違和感を感じて戸を開けた。
真琴は後悔する、ここは戦国時代だ。早朝に奇襲をかけることなど日常なのだ。何も考えずに戸を全開した自分に腹が立ち、覚悟を決めて庭にいる三人の男の前に出た。
「お前が景虎の小姓か?」
「最近景虎が連れ回ってると噂になってる可愛らしい小姓とはお前のことで間違いないな」
「なっ」
「どうやら当たりのようだ」
すると三人のうち一人がいつの間にか真琴の背後に回っていた。
目的は景虎様ではなく私?景虎様に迷惑をかけるわけにはいかないっどうにかしなくては。震える手をぎゅっと握りしめて無理やり気合を入れた。
背後の男をまずは冷静に急所を突いて投げ飛ばすと、前の二人は急に目の色を変え刀を抜いた。刀を持った二人を相手に体術は…、ふと下に倒れている男の手元の小刀を拾い上げる。これでどうにかなるとは思えない。でも何とか時間を稼いで、誰かが気づいてくれるまで…。
片方の男が向かってくるのを必死に小刀で受け止める。景虎様と組んだ時同様、力では敵わないので足蹴りをして必死に立ち向かっていると、もう一人の男が刀を振り下ろそうとしてるのが見えた。
終わった…あっけなく、終わってしまった。
ごめんなさい、景虎様…。
そう頭の中でつぶやいた時、その男が刀を振り上げたままどさっとその場に倒れた。
そして真琴と刀を交えていた男も薙ぎ倒されるように左に飛んだ。
いったい何が…
真琴は呆然とその場に立ち尽くしていた。いつの間にか辺りは明るくなっている。そして真琴の目の前には刀の血糊を払う景虎の姿があった。
「あっちの男はお前がやったのか?」
最初に背後にいた男は真琴に投げられて伸びている。
「…」
真琴は息を切らせながらただうなづいた。
すると景虎は真琴の頭を抱きしめるように引き寄せる。
「良くやった、」頭をガシガシっと撫でる。
「はいっ」
目に涙が滲んだが景虎の胸元を濡らさぬ様必死に堪えた。
すぐに家来達がやってきて伸びてる男を縛り上げる。他の二人は死んでしまったようだ。
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まだ薄暗い早朝、景虎は何かの物音で目が覚める。気のせいか?
しかし身体を起こしたところで刀を抜くカチャっという微かな音が二つ。敵は二人?すぐに刀を取り部屋を出た景虎は裏手から庭に周りその光景を目にした。
建物側に男が一人倒れていてそれを背に二人の男と対峙しているのは真琴だった。真琴の手には小刀がチラッと見えたが断然不利である。
そしてすぐに状況は悪化する。一人の男の刀を小刀で受け止めた真琴の右からもう一人が襲い掛かろうとしていた。景虎は頭に血が昇る気持ちで駆け出し、風のような速さで男がそれに気づく間も無く片を付けたのだった。
真琴を自室に連れ帰った景虎は眉を寄せ声を荒げた。
「どうしてすぐに呼ばなかったっ」
その声にビクッとした真琴は微かに唇を震わせる
「呼ぶ間がありませんでした」
「間がなくとも、その場で声を出せばよいっ」
「…敵の目的は私で、景虎様に迷惑がかかると思い、」
「迷惑などっ…」
景虎はやりきれない気持ちを噛み殺し、顔を背けてため息をついた。
「目の前でお前が斬られて死ぬ方が遥かに迷惑だ」
「っ…」
真琴の目から大きな涙の粒が落ち畳を濡らした。
「ごめんなさい」
景虎の口からさっきよりも盛大なため息が漏れる。
「はぁ…。肩を見せてみろ」
「え?」
気づかなかった。肩の着物が切れて血で滲んでいる。恐らく男が薙ぎ倒される時に刀の先がかすったのだろう。でも肩を出すわけには…。真琴はぎゅっと腕を握った。
「大丈夫です。後で自分で…」
しばしの沈黙。
「真琴…もう嘘はつかなくて良い」
真琴はハッと顔を上げる。
「お前は女子なのだろう?」
「っ…」
バレてしまった。いつから気づいていたのだろう。
いや、気づかないわけがない。こんな近くにいるのだから。
もうここで働く事は無理なのだろうか。もうここで景虎様とお別れしなければならないのだろうか。真琴の目に動揺が走る。
景虎は真琴を座らせると、半ば強引に肩を出させる。晒しを巻いた胸元がチラと見えるが何も言わずに手当をする。
「傷は浅い。跡は多少残るかもしれないが、顔じゃなくて良かったな」
「…」
景虎の優しさに胸が苦しくなる。
「これでいいだろう。今日は仕事はいい、部屋で休んでいなさい」
「…でもっ。」
やっぱりだ。もうここで仕事をする事は許されない。
一筋の涙が頬を伝った。
すると真琴の心を読んだかの様に、
「案ずるな、お前は私の小姓だ。女であろうとなかろうとやめさせるつもりは無い。それを他言することもない、私の中で留めておく」
景虎は優しく微笑み、頬の涙を親指で拭った。
「女である私が、あなたの側にいても良いのですか?」
「ああ、側にいれば良い。ただこれからは剣術の稽古をつける。体術だけでは刀には敵わん。もっと強くなれ、真琴」
「はい… 絶対強くなりますっ」
「期待しているぞ」
真琴を襲った三人は元々は晴景の家臣で景虎が家督を継ぐことをよく思って無い派閥の3人だった。景虎が先日晴景の家へ訪れた際に晴景の妻、沙耶が真琴の噂を広めたという。
それから、朝は景虎が剣術の稽古をつけてくれる事になり、一稽古を終えると、部屋に食事を運んできたおミツさんが真琴の乱れた髪を結い直してくれる。
「前髪をこう横に流した方がより男らしくなりますよ」
「…」ん?
「真琴、すまん、他言しないと言ったが、見抜かれてしまったので仲間に入れておいた」
真琴はぽかんとする。
「え?」
「ミツはお前のことを初めから女子だと見抜いていたそうだ」
「え、」
「わかりますよ、最初に城内を案内した時からね」
「えええ…」
「だって厠で鍵がかかるかどうか確かめていたでしょう?男の子ならそんなこと気にしないですからね」
おミツさんが笑う。
真琴にとって女性であるおミツさんが知っていてくれるのはとても心強く、安心できた。
読んでいただきありがとうございます。