富士の柱
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
景観条例。良好な都市景観を保つために出される、地域ごとの決まりごとだ。
これまでは自主条例で強制力がなかったんだが、21世紀に入って景観法が施行されたことにより、地方公共団体が力をもってこのことに臨めるようになった。
しかし、我々のいるような片田舎に対しては、そうそう景観が求められることは少なかったりする。
みんなも、前々から住んでいるならば気づいているだろう。
数年前に、あの自動車専用道路を越えた先にショッピングモールができたのを皮切りに、次々と昔ながらの田んぼがあったところへ、建物が建つようになってきたのを。
つい最近はコンビニができたと思いきや、ひとつ角を曲がって少し歩けば、また同じ系列のコンビニに出くわすこともあったな。もはや町にひとつじゃなく、ブロックごとに一軒ずつあるんじゃないかという勢いだ。
とと、少し話がそれたかな。
要するに、自分の見慣れた景観は、往々にして大切にされないというわけさ。みんなも新しく建物が建つ前に、そこが何だったか、どれだけ覚えているだろう?
先生は今でも覚えている、奇妙な景色が地元にあったんだ。その時の話、聞いてみないかい?
先生がまだ小学校にあがるかどうか、という頃だったろうか?
遠くに見える富士山の姿に、何とも言葉にしがたい感動を覚えていたものだ。
青く見える山肌のてっぺんからかかる雪が、アイスのクリームのように見えてさ。「もし舐めることができたら……」とその味を想像して、舌なめずりをすることしばしばだった。
いつか富士山に登れるようになったら、そこに積もる雪を頬張ってやる、というのが当時の先生の大きな目標だった。
そうして過ごしていた、夏休みの入り。
その年は冷夏との予報通り、半袖で過ごすにはやや肌寒い日が続いていた。けれども天気は晴れ続きでね。その日も朝から雲一つない、青空が広がっていたんだよ。
先生は体内時計が正確な方らしく、昨晩どんなに遅くまで起きていたとしても、午前7時半までには目が覚めるたちなんだ。そうして部屋のカーテンを開け、近くの家々のかなたへたたずむ、富士山の姿をおがむのが日課になっていた。
ただ、その日の富士山は少し様子が違った。
青い山肌を真ん中から二つに分かつように、黒くて細い柱が立っているのさ。
ちょうど富士山に残っている雪。その一番下の部分へくっつくような高さでね。
最初は窓の汚れかと思い、ベランダへ出てみるも確かにその柱らしきものは、おっ立ったままだった。目をいくらこすっても消えはしない。
これはおかしい、と着替えを済ませて親たちに報告。一緒に富士山を見てもらったが、どうにも先生以外には、あの柱が見えていないらしかった。
あまりに食いつくと、お医者さんに連れていかれる恐れがある。先生は表向き、自分の見間違いとして片づけたあと、その日が休日であるのをいいことに、自転車へまたがった。
もちろん、例の柱の正体を見極めんがためだ。
その背の高さは、十分すぎるほどの目印になってくれた。
途中、すれ違う人々も特にあの柱を見やり、気にしている様子はなく、先生はどんどんと柱の根元へ近づいていった。
たどり着いたのは、先生のいる町を二分する、大きな川。距離を置いて、いくつも架かる橋のひとつにほど近い、中州から例の柱は伸びていた。
土手から眺めてみるも、中州の岩に根っこをはさまれる形でそびえたつその柱は、あたかも髪の毛のような黒さと細さを持っていた。
――まるで「蜘蛛の糸」みたいだな。
ほんの先日、親に読み聞かせてもらった芥川龍之介の一作が、頭をよぎる。
あれは仏様のいる天上から垂らされたものだった。しかしこれは、てっぺんが見えているもの。やはり遠目に見れば富士山の雪に引っかかるような形でもって、不動の姿勢を保っていた。
先生は自転車を降り、川べりからちょうどよく続く、飛び石を伝って中州に立つ。
こうして近くでみると、さすがに髪の毛とまではいかないが、せいぜい先生の身体程度の細さしかない柱だと分かった。
目にしているうちに、思うようになっていたよ。この柱は、富士山にかかる雪のシロップ部分。そこへ通じるキャンデーの棒のようだと。
――ここを登り詰めれば、日ごろから思っていたことが叶うかも。
この歳で、一度思い込んだ時の、一途さといったらない。
先生は幼稚園の登り棒の要領で、かの柱に取り付くと、せっせとよじ登り始めたんだ。
存外、柱は丈夫にできていた。最初は先生の体重がかかるだけで折れてしまうのではと、不安になる姿だったが、実際には先生の背の高さ、数倍のところまできても、わずかに揺らぐ気配さえ見せない。
先生は高所に強い人間だった。すでに近くに見える橋の高さを超え、土手に並ぶ木々より高く、あらかた街並みを見下ろせる地点まで登っている。
もうあと数メートルも登れば、柱の途切れ。てっぺんだ。
やっぱり、実際の富士山の高さとは比べようもないか、といささか残念な心地になる。見た限り、柱の先には雪のクリームのひとかけすらくっついていそうにない。
それにしても、どうして親たちはこの柱が見えなかったのだろう? いや、見えていてあえて先生をだましていたんだろうか?
疑問の湧くまま、ふと登る手を止めた先生は、柱をつかんだまま自分が来た、家の方角を眺めてみる。
つい、目を何度もしばたたかせてしまう。
自分の家より、はるかに遠い地平線。その縁に、何色も混ざってしきりにちらつく、砂粒のような光が見えたからだ。一線に並んで、目障りなほどに照るその色合いを、先生はテレビで見たことがある。
モザイクだ。見せたくないもの、見せてはいけないもの。それらをあいまいに隠し、自ら視聴者のまなざしを浴びる、放送の立役者のひとり。
そう思ったときには、もう地平線のかなたからモザイクが波となって、いっせいにこちらへ流れ込んできたんだ。
あらゆる建物を覆う波となり、次々にモザイクをかけながら迫ってくるそれを、止められるものは何もない。あっという間に土手が、川が、中州が、モザイクに飲み込まれてしまった。その背後に続く、橋向こうの街並みもすべてだ。
ただ、この柱とそこにすがる先生をのぞいて、ね。
モザイクの波は町全体を覆うや、ぱっと幻のように消えてしまう。
すぐに柱を降りた先生は、モザイクに染まったところをおっかなびっくり足で叩きつつ、同じく波にのまれた自転車も入念に調べてから、自宅へと飛んでいった。
しかし先生の心配をよそに、家も家族も特におかしいところは見受けられない。ここでモザイクのことを話せば、またお医者さんコースだと、先生は必要以上の追及はしなかったよ。
そして、もう一度富士山を振り返ったとき、あの柱は跡形もなく消えていたんだ。
その後、どうなったかって?
中学校を卒業するまでは、特におかしいところはなかった。だが、高校、大学、社会人と歳を重ねていくと、妙な部分が大きくなっていってね。
見るかい? これが先生の高校時代、大学時代、社会人になりたて、そして最近の写真だ。
驚くほど、見た目に変化がないだろう? 実際、身長をはじめとする身体測定は、高校のころから、こそりとも変わっていないんだ。すでに数十年が経つというのにね。
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 元の姿は 変わらざりけり」とは山岡鉄舟の詠んだ歌だっけか?
どんなときも泰然としている富士山のように、先生もまた高校時を「元の姿」として、変わらないものにさせられてしまったのかもしれない。