筆を折る
彼は筆を折った。
もう喜ばれる空想を描けぬ。
おれにはこれしかなかったというのに。
他に術がない。
そう思って、彼は筆を折った。
そして彼は死のうと思った。
梁に縄をかけ、首を括ろうとしたその時。
部屋に蛙が飛び込んできた。
死のうとする彼に蛙が言う。
「何をどうしたって、旦那様。死のうとなさっていらっしゃるんで?」
彼は答える。
「おれの話がもう喜ばれなくなったからだ」
蛙が大きな口を開けてげこげこと嗤った。
「なあんだい、そんなことか。おいらなんて井の中にいたもんだから、海の広さに大いに引っ繰り返ったもんだ」
彼はあんまりにも蛙が嗤うものだから、些か腹が立って首を括る縄を置いた。
げこげこ。げこげこ。蛙の鳴き声が彼の部屋に響く。
「海は広いし、空は遠い。どこまでいってもおいらはちっぽけさ。でもだからなんだっていうんだい、おいらはおいらの行きたいところへゆけるこーんな長い脚があるんだ」
蛙が脚を広げた。
しかし彼にとって小さく短く見えた。
「おまえは自分を知らぬだけだ、おまえの脚はおまえが思うよりずっと短いぞ」
その答えに、蛙が再びげこげこと鳴く。
「自分を知らぬからこそ、自由においらってのを考えてゆけるのさ。馬鹿言っちゃあいけねえなあ、旦那様。身の程知らずの方がよっぽど楽しいぜ」
げこげこ。げこげこ。
耳障りな鳴き声が響く。
「身の程知らずは世間様に嫌われるのだ。身の丈を知れと罵られるのだ。おまえはなにゆえそうも誇り高く己を誇れるのか。おれにはわからぬ、わからぬ」
彼はぼろぼろと涙を流した。
水滴が蛙の頭にちょんちょんと飛び跳ねた。
「おおい、旦那様。泣いちゃくれんな、塩辛い水は嫌いなんだ。世間様なんぞ所詮垣根だぜ。そんなもんに囲われて生きてるんじゃあ、あんた苦しいだろうよ。垣根を壊せや、旦那様」
そのうち彼はおんおんと大声を出して泣き始めた。
蛙は塩辛い水がたまらなくて、つい彼を置いて出て行ってしまった。
彼は独りになってしまった。
顔を上げても誰もいない。
「おれはどうすればいいのだ……」
途方に暮れた彼は縄で首を括ることも出来ず、ただ折れただけの筆を眺めていた。