第一話「駅」
気づけば俺は通勤ラッシュもかくやと思わせるほどの人の波に流されながら、駅の改札口の方へ歩いていた。
驚くことに何故ここにいるのか思い出せない。
いつからかわからない。
ずっと昔からこの人波のなかにいたような、ついさっきここに来たような不思議な感覚がする。
頭の中がグチャグチャで整理できない。
とりあえず、ここは見たことがない駅だったので、駅名がどこかに書いていないかとあたりを見回した。
すぐに駅名標をみつけたが、駅名を読めなかった。別に俺は近視というわけではないし、文字も大きく書いてあるので、読めるはずなのだ。
それなのに読めない。
読めないというよりは認識できないというべきなのかもしれない。
今までに感じたことのない強烈な違和感に、えもいわれぬ恐ろしさを感じた。
ここにはいてはいけない、そう思った。
このまま人の波に流されて、改札を通れば取り返しがつかなくなるような気がした。
俺はとりあえずここがどこなのか聞こうと改札口の横にある窓口の方へ人を押し退けながら向かった。
窓口には駅員と思われる、中年くらいの男が一人だけいた。見た目は普通の男だ。
それなのにまただ。
あの駅名標の時の違和感、それに近いものをこの男からは感じる。
この男はやばい。
本能が訴えてくる。
この男に話しかけるべきではないと。
とりあえず駅を出ようと思い、踵を返したその時だった。
「どうされました?」
雑踏の音の中で嫌に通る声だった。まるで頭の中に直接語りかけているような。
声を振り切って走って逃げたいと思った。
しかし体が全く言うことを聞かない。
その声に引き寄せられるように窓口の方へと歩みを進めてしまった。
ここまできたら仕方がないと思い、震えそうになる声を抑えながら答えた。
「い...いえ、それが、おかしいと思われても仕方のないことなんですけど、ここがどこなのか何故自分がここにいるのか全く思い出せなくて…」
「...なるほど。やはり意識はあるのですね。はぁ...これは面倒なことになりましたね。あの方の仕業か?...何をするつもりなのでしょうか…」
駅員の男は俺を意に介さず訳のわからないことをつぶやいている。
なんなのだろう。
やはりこの男は明らかにおかしい。
というか、この場所はおかしい。
思えば改札に向かう人はみな目に生気がなく、表情は能面のようで不気味だ。
しかも俺が窓口に向かう時、誰も俺を避けなかった。
...というか何故そんな明らかにおかしな点に今まで気づけなかったのだろう。
他にもここは、駅にしては広すぎで、人々の列はとても長く、改札を越えてもずっと続いている。
どこまで続いているのだろうと、怖いもの見たさに眺めていると、駅員がじっとこちらを見ていることに気づいた。
「…どうやら覚醒しはじめているようですね。まあ仕方がないですね。さきほどのあなたの質問に答えましょう。ここはあなた方の言う天国や地獄と現世をつなぐゲートみたいなところです。そして、あなたがここにいるのは現世において亡くなられているからなのですよ」
「…そんな。…だけど俺は死んだ覚えは…」
「ええ。そうでしょう。ここに至るまでに記憶は失っていますから。あなたは自分が死んだことはおろか、そもそも自分が何者であるかすら思い出せないはずです」
「そんなバカな…」
だが、確かに言われてみれば自分のことについて何も思い出せない。
言われるまで気づかなかった。明らかに思考が精彩を欠いている。
この男が言う覚醒とやらが関係しているのかもしれない。
「魂がほぼ覚醒しきっているあなたなら現状は把握できているはずです。そして覚醒したあなたはこのゲートを通ることができません。かと言って現世に戻すわけにもいかないのでもう一度生きる機会を与えます。我々からの祝福です。感謝しなさい」
そう言って男は面倒くさそうに指を鳴らすと俺の足元から青白い光を放つ幾何学模様が現れ、それと同時に周囲の景色がぐにゃりと歪みはじめた。
なんなんだこの男は。
話が急すぎる。
内容が全く頭に入ってこない。
「まってくれ!何を言っているのかわからないし、勝手なことを言うんじゃねーよ!」
「最後に私からの何も知らないあなたへのせめてもの情けに一つだけ情報を与えましょう。黒瀬涼真。これが、あなたの名前です。…さて、我々が与えた2度目の生です。せいぜい無駄にしないようにしてくださいよ」
そう言って男が背を向けると、徐々に、あたりの音は小さくなり、視界の歪みは大きくなり、全ての感覚が希薄になり、そして無になった。