其之參 草刈り首狩り椿狩り 之巻
俺の名前は武蔵。今は昔、俺様の名前を聞いてチビらねえ奴はいなかった、それくらいの剣豪様よ。だけど悲しいかな、平和なこの世で求められる刃物は、刀じゃなくて鎌だ。
「武蔵ー、そっち、どう?」
「なあ、焼畑農業って知ってるか?」
「だめだめだめだめ、藁作るんだから燃やしちゃダメだよ、全部刈らなくちゃ」
「だからって山一つ刈る馬鹿がどこにいんだよー!」
「あそこ」
種子島が山の麓の、馬鹿でかい樹がある大肝煎の家を指差す。
今日の俺達の仕事は、棚田の藁を刈る事だ。冬に入る前に、とか、殊勝な事言ってたはいいんだが、山二つの棚田を全部刈りきる事は出来なかったらしい。おまけに妙な噂が立ったらしく、地元の人間は頑として手伝おうとしなかった。結局、冬に入っても藁が残ってしまった。それならそれで放っておけば、肥やしになるっていうのに、その手伝いをしなかった庶民が、藁仕事を求めて大肝煎の所に押し寄せてるって訳。随分勝手な話だ。こちとら碌な足袋も無く草履に素手でやってるってのに、奴ら、感謝するどころか、山を下りる度に俺らをまるでバケモンか何か視るような目で見る。へっ、普段から化生だの妖異だのに接してるような俺らは、所詮はそんな雰囲気を持ってるとでもいいたいんだろ。
「あー、くそっ! 残りは明日だ明日! 明日で全部終わらせる! 今日は止めだ止め!」
「おいらももう疲れた……。青龍、出雲と日向呼んできて」
種子島が何もない空間に語りかける。種子島は、出雲程じゃないがそこそこ五獣の姿が視えるらしい。日向も、気配は分かるんだとか。俺だけ、なーんも分かんねえ。三人から見りゃ、それはそれは厳かな五獣が、優雅に藁を包んで運んでいるように見えるのかもしれねえけど、俺には藁から出た煙が俺達を運んでいるようにしか見えない。あ、でも一応、出雲が見せてくれた絵巻とかで、姿形は知ってるぞ。何もわかんねえ訳じゃねえ。
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大肝煎の大旦那は、明日で仕事が終わると言うと、ほっとしたようだった。ま、そりゃそうだろな。俺が軽く十人前の膳は空けてるから、もしかしたら逆に赤字だったりしてな。
「ふわぁ……。おいら、もう寝て良い?」
「…………。僕達、先に寝るね……。おやすみなさい……」
おい出雲、何だその変な間は。俺も寝ようかと布団を出そうとしたとき、日向がげしっと背中を蹴った。足の裏が冷えてら。手には漬物瓶みたいなでかい瓶を下げている。
「なんでえ、武蔵。寝れんね、おらに付き合え」
「いっててて……。なんだ日向、そりゃ酒……日本酒か? お前、飲めたのか」
「南の女はァ皆水の代わりに焼酎飲んで育つのよ。日本酒なんざ水みたいなもんだ。ほれ」
ぽい、と、俺に投げて寄越されたのは、徳利。でも猪口がねえな。不思議に思っていると、日向は瓶を俺の後ろに置き、徳利を突っ込んで、それを猪口代わりにして飲んだ。信じらんねえ女だ…………しかも一気飲み…………。
「若旦那がおらにくれた酒じゃ。まだァ若いが、そこそこ飲めるど。子供らも寝たし、たまにぁさしで月見酒もええじゃろ」
「待て待て日向、火鉢持ってくる。縁側に出るなら持ってこねえと凍るぞ」
「その為に酒であったまるんだっちゃ。ほれ、ぐいっと行けー、ぐいっと」
慌てて火鉢を取りに行く。出雲も種子島もちゃんと寝てる。起こさねえようにそっと持ち出して、縁側に置いた。障子を開けると、縁側に吹き込んできた一陣の雪が、火鉢の中に飛び込んでいく。俺が火鉢を置いて座ると、日向は俺の徳利を勝手に拾い、とぷん、と、沈めて酒を注ぐ。飲んでみろ、と、差し出された酒は、北国の雪に包まれ、ふっくらとした良い香りだ。それでいて根雪のような鋭さがある。懐かしい味に、思わず顔が綻んだ。
「美味かろ?」
「ああ、良い酒だ。こんな酒をこんな量、若旦那はなんだって寄越したんだよ」
「ああ、若旦那がおらに惚れたらしいんじゃ」
ブッと酒を吹く。しかし日向はクスクスと笑って言った。
「ちょいと飲ませて薬を盛ってやったから大丈夫さぁ。今頃おらの着物脱がす夢でも見てんじゃねえか?」
ブッと酒を吹く。流石に今度は日向も顔をしかめた。汚ぇだの勿体ねえだの何だのと言うが、どちらかと言うと俺は噎せ返っていた。
「だ、誰が誰の何をどうする夢だって?」
「若旦那が、おらの、着物を、脱がす夢っちゅったんじゃ。何がおかしかと?」
「……………………。無理だな」
「何がね」
「お前みたいな女、惚れる男が思いつかねえ。口取りされたってぜってえ無理だ」
「何やお前、不能じゃったんか?」
「ちっ、違わい!」
「ははっ! その面が赤ぇのは酒の所為じゃあねえだ? 女のおらより弱いわきゃねえ」
日向が煽りながら徳利を傾けたので、肩を抱き寄せて生ぬるい杯から酒を飲み干した。日向は色んな意味で吃驚しただろうな。俺もあの方を娶ってからは、女に手は出してない。
「――はっ、なんだ、そこそこ出来んじゃねが。……もう少し飲むっぺ?」
日向のくノ一としての房中術に当てられたのか、単純に酔っ払ってたのか、俺はそのまま徳利を日向に握らせて、何度も同じ所から酒を飲んだ。酒と熱で蕩ける頃には、日向はすっかり俺に気を許して、ゆったりと凭れ掛かってくる。火鉢の暖よりも温かい身体を抱き締め、こんなのは久しぶりだと苦笑する。
雪の中、この界隈一の樹齢だと言う巨大な椿が咲いている。そう言えば俺のいた城にもあった。椿は頭だけを落とす花だ。こんな風に、潔く散れと教わったんだったっけか。ちょいと枝ごと椿を失敬して、日向の頭に挿すと、日向は嬉しそうに笑ってくれた。
こんな、二人きりの世界が続けばいい、なんてな。俺にもそんな穏やかな時間があった。
「月白に 日出ずる城の 草影に 出でて還らん 天命の花」
「ほあ?」
「昔、こんな雰囲気の時に、そうやって幸せそうに歌を詠んだ奴がいたのよ」
「おらに歌の素養はねえ。なんつ意味ね?」
「…………。さあな。歌なんて、どうとでも詠めるし、どうとでも解けるのよ。取りあえず、その時そいつがどんな状況であったとしても、そいつは幸せだったってこと――」
ふと袖陰に眼を落として、思わず心を奪われた。日向の頬が月に照らされて、凄く柔らかそうに見えたんだ。頬だけじゃない。鉄を投げる剛腕も、暗器を隠す共衿から覗く胸も、何もかもが柔らかく見えたんだ。そっと触れると、肌は俺の手を吸い込んだ。柔らかな頬を撫でていると、日向も俺の指先を握り、擦り寄って来た。握り拳一つ分、脚を持ち上げて腰を抱き寄せた。擦り寄って俺の顎のすぐ下まで頭を寄せたのは気の所為じゃない。
でもそこから一歩先が、踏み出せなかった。多分日向もそうなんだろう。動かなかった。
「月」
「うん」
「……綺麗だな」
「……うん」
「………眠いか?」
「………ううん」
「…………暫くこうしてるか」
「…………うん」
お月さんよ、アンタは一体どれだけの恋を見て来たんだろうなあ、なあ、お月さんよ。こんな俺のこんな気持ちは、恋なんかなあ、それとも慾なんかなあ。教えてくれよ。
ま、いいや。取りあえず日向が寝たら、布団運んで、俺もチビ共の傍で寝るとしよう。
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翌朝。なんだか種子島がそわそわしていて、出雲がいつもよりしゃんとして座り飯を食っている。日向はだんまりだ。…………こりゃ、昨夜のことが関係してるな。絶対そうだ。まあ、俺も酔っ払ってたし、こいつらが起きてても特に困るようなことも――あ、してる。思い切りしてた。日向と酒飲んでた。ガキにゃ刺激が強かったか…………。
「ごちそーさま……」
「ご馳走さん! んじゃ、種子島と俺は先に行ってるわ。お前らはゆっくり食ってろよ」
いつも仕事のぎりぎりまで食ってる俺が、さっさと立ち上がったことに、結構驚いていたみたいだった。まあ仕方ねえ。俺もだんだん目が覚めてきて本当に恥ずかしくなってきたんだ。
あー、くそ。酒には強い心算だったんだがな。それとも女と久しぶりに飲んだからか…………って、いやいやいや! 日向は断じてそういう色気とは無縁の女だ。寧ろあいつが女かどうかすら危ういじゃないか。うん、そうに違いない。つまり俺は昨夜、不覚だった訳じゃない。うんうん。
「ねーねー、武蔵」
「あん?」
考え事しながら、というか言い訳を繰り返しながら刈っていたら、いつの間にか田圃は残り一つになっていた。種子島が今日初めて俺に声をかけたのは、その田圃に取りかかる前、最後の休憩を取っていた時のことだった。腹が減っても、周りがこうも雪に覆われていたら何も食うものがない。親指くらいの丸い石ころを、掌の雪解け水で洗って口の中で転がし、気を紛らわす。流石の俺も、石は食えない。
「あの御屋敷の椿、武蔵、見た?」
「あん? ああ、この界隈一だっていうあの? 食っちゃいねえけど、見事な奴だったな」
「あの椿…………。もしかしたら、だけど……。その……」
「…………。妖異になってるってのか?」
「妖異っていうか…………」
なんだ? 歯切れが悪いな。種子島は今にも泣きそうな表情で、もごもご言っている。どうしたもんかと思っていると、突然ぎゅっと抱きついて来た。
「あそこに、あちゃさまがいるの……」
「…………あん?」
「あの椿の下に、死んじゃったあちゃ様がいるの……。おいらをじっと見てる」
「あちゃ様って……。お前のお袋さんか? あの椿は化けてんのか?」
「わかんない……。でも出雲は何も言ってないんだ……。相談しようにも、仕事があるから中々声かけらんないし……。懐かしいだけならいいんだけど、何となく怖くて……」
「つっても、あの椿はこの屋敷の権力の象徴みたいなもんだからなぁ……。いつかの時みたくバッサリとは行かないだろ。俺から出雲に言ってやろうか?」
すると種子島は、意外にも頭を振った。
「だって、あちゃ様なんだよ? 死んじゃったけど、おいらのあちゃ様だもん…………」
「成程? 退治はしたくない訳か? ……でもな、種子島。人は死んだらお終ぇよ。もしそれが現世に残ってるとしたらな、そりゃ化生だ。そいつが長い時間留まって力を付けたら妖異だ。鬼だ…………種子島、あの椿は多分、お前の寂しい気持ちを利用してんだ。さっさと片付けねえと、お前が――」
その時、何とも言えない怖気が走った。種子島が何かに反応する。五獣が来てるらしい。
「…………えっ? 武蔵! 今すぐ日向の所に行こう! 二人が妖異に襲われてるらしい!」
あの二人でも返り討ちに出来ない妖異だと? 俺でも気づきそうなものだが……。とにかく、五獣に案内されているらしい種子島の後をついていった。二人は俺達よりも上の、比較的規模の小さい田圃の方にいる。
===
言われるが儘案内されると、ざわざわと巨木が成長してどんどん大きくなって行っていた。周りには沢山の椿の花が落ちている。樹は所々燃えているが、それに悶えると言うことはなく、寧ろその火をも飲みこもうともがいている。木の股に、頭をすっぽりくわえられた取られた日向が、根に出雲が掴まっていた。
「な、なんだこりゃ! 出雲! 日向! 無事か!」
「梓!」
種子島の言霊に答えた五行が姿を変え、梓弓を掻き鳴らす。日向の苦無の炎が勢いを増すが、逆に樹の勢いも増す。蹴散らした炎が、椿の花になって飛び散った。
「止めろ種子島! 梓じゃ妖異も成長する! 木呪で戦え! ――来い、雷光丸!」
俺の掌に落ちた雷を握り、日向の足元を斬りつける。ずぶずぶと飲みこんでいくんだ。くそ、樹の癖に燃えれば燃えるほど元気になって行きやがる!
…………ん? 火で成長する? なら、こいつならどうだ!
「氷点丸! 凍刃!」
ビキビキと物凄い勢いで、ボロボロの打ち刀が見る見る伸びていく。その氷の刃で、木の股を思い切り突き刺した。樹はそこから凍り付き、皹が入って脆くなっていく。日向の身体を抱き締め、思いっきり引っ張ると、バリンと樹が砕ける。椿の樹は悶えて暴れ、その拍子に出雲を放り出した。種子島が身体を張って受け止め、ころんころんと転がる。
「日向! おい、日向大丈夫か!」
「ぶはっ! あ、ああ……っ、む、さし……。武蔵、カラダ、が…………あ、あ、た…………」
日向の身体は痙攣していて、まるで狐憑きか何かのようだった。頭がどうとかいうから、髪の毛を掻き分けてみると、頭に椿が根を入れている。しかもこれ、俺の記憶が確かなら、昨日日向に簪の心算で挿した奴だ! 畜生、こいつが原因か! 今取ってやる、と、引っ張ると、日向が鬼のような悲鳴をあげた。くそっ! 深く根付いてやがる!
「ころ……じで……ぐう、しい…………」
「武蔵、もう手遅れだ……。苦しまないように一撃で――」
「舐めんなよ、日向、出雲」
氷点丸を構え、俺は深く深呼吸する。妖異は日向の身体の奥にまで寄生してやがる。確かに並の武士じゃ介錯してやる以外に救う手立てはない。
「武士の刀ってのはな――」
俺に出来ることは、俺の言霊と、俺に応える刀を信じる事だけだ。ならば!
「家族を護るためにあるんだァァァッ! ――行け! 凍刃!」
大きく振りかぶった氷点丸は、それこそ植物のようにメリメリと刀身を伸ばし、振り下ろされたと同時に氷の斬撃が飛んで、日向の頭に直撃した。――でも、まだだ!
「いやああああああああああッ!」
氷点丸の切っ先を向け、剣圧でもう一撃叩き込む。パキィンッ! と、凍り付いた樹が粉砕された。日向の身体が崩れる。逸早く出雲が動き、無事を確認しに行った。俺は、へたり込んじまった。雷光丸と比べ物にならねえくらい、消耗が激しい。
あん? 種子島の奴、何笑ってんだ? 何も聞こえねえ、あー、駄目だこりゃ…………。
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目を覚ますと、なんかやけに布団が温けえ。何だと思って横を見ると、すぐ隣で、日向が俺の右腕を枕にして横たわってた。ぎょっとして日向の身体を抱き締めると、僅かな温もりと、臓腑の振動が伝わってくる。……良かった、助かったんだ。氷点丸を二太刀食らわせたからな。いくらなんでも身体が冷えただろう。……でも、生きてる。俺、護れたんだ。
「よかった……。日向、よかったよ……」
「ん……っ、ぁ……」
強く抱きしめると、日向が呻いて目を覚ました。月明かりの所為じゃねえ、確かに青白い顔をして、今にも死んじまいそうだ。それくらい冷えてる。きちんと寝間着着てるのに。
「気付いたか? 気分はどうだ?」
「…………。あんた?」
ん? 誰かと勘違いしてんのか? 日向はすっと冷たい腕を伸ばし、弱々しく抱きついて来た。その手つきは優しく、すぐに俺に向けた言葉でも仕草でもないと分かる。
「お帰りなさい。ずっと待っちょったのじー。会いたかった…………」
「…………。ああ、ただいま」
寝ぼけてるんだな。大変な目に遭ったんだ。ちったぁ良い夢見せてやったっていいだろ。すりすりと頬を合わせる日向の頭を抱き締めると、日向が弱々しく口を吸ってきた。ジリッと俺の中で何かが焼ける音がしたが、すぐに消した。こんなもんはいらねえんだ、今は。
「戦は終わったんだから、絶対に帰って来なると信じちょったわ。だってあんたは強いもん。きっときっと、二人そろってわいのところに戻ってきてくれるって、信じちょったわ」
誰か好い人とでも間違ってんのかな。俺に出来ることは、相槌を打って日向が安らかに眠れるように見守るだけだ。ごそりと体勢を変え、胸に抱きしめると、どくん、どくん、と、五臓六腑の動く音がする。日向はきっと、俺達と会う前まで、ずっとずっと誰かを待ってたんだ。旅か何かに出た家族の帰りをずっとずっと。それこそ、俺みてぇな無骨モンと間違えちまうくらいに。
俺達よろず屋は、過去は振り返らない。でも夢現の狭間で、過去に浸りたいのなら、懐かしい記憶を移す水面になるくらい、いいんじゃねえか?
「待たせて悪かったな。今夜からはずっと傍にいるから、安心して寝ろ」
「…………。まだ眠こっせん。あんたを感じちょったい。夜はまだ長いやろう?」
…………。…………。え、あ、その。…………。いやいや! いくら何でもそりゃ不味い!
だって日向はもしかしなくても、この会話の流れから言うと人妻だぜ? いくらなんでも余所様の女に手ぇ出したら、命がいくつあっても足りねえよ! 一人の女に手ぇだすだけで、一体何人に首斬られなきゃならねえってんだ。んなこた御免だ。
「日向? おい、お前寝ぼけてンのか? 俺だぞ、武蔵だぞ。しっかりしろ」
ぺちぺち、と、頬を叩く。我ながら稚拙な方法だが、頭が真白で何も思いつかねえ。頬を叩く俺の指を握り、指先に口付ける日向の伏せた瞳が、綺麗に月に映える。呆然としている俺の顔を両手で挟み、鳥が洞から虫を啄むように唇を押し当ててくる。吸ってはこない。ただ押し当てるだけ。俺を試してんのか? それともいつでも俺が逃げれるように、言い訳の余地を――。
ぽろり。
「ん?」
その時、日向の口の端から何かが零れ落ちた。目を移すと、それは小さな椿の花だった。
――まさか!
「日向! おい、起きろ日向! お前、まさかまだ――」
起き上がって日向の肩を揺すった時、日向がまるで嵐のような不気味な笑い声をあげた。
「タネ……タネ……。ネヅク……タネ……ウエル……フエル……。マテル……マテル……イツマデモ……」
誰か妖異が化けてるのか? 俺には分からねえ。出雲を呼んでる暇なんかねえ! 襦袢の下から、木の根が生えだしてる! 氷点丸で砕き切れなかったのか? まさか!
「日向聞こえてンだろ! 妖異の本体はどこだ! ぶった切ってやる!」
すると日向は、又してもあの不気味な声で笑い、木の枝のように皺の寄り始めた指先で俺を嘲笑った。否違う。何かを示してる――日向の意思だ。俺が振り向くと、この屋敷の古椿が聳えている。見事なまでに満開のその花の下に、見知った顔がいくつかある。
成程な。待ち人が現れなかった無念があの椿に宿ってるんだ。さっきも日向は、誰か待ち人と俺を間違えていた。あの椿は妖異になってんだ。こうなったら仕方がない。
縁側から飛び出そうとしたところで、木の根に引き戻される。日向の襦袢を着た椿の巨木は、ぽっかりと空いた洞の中に俺を放り込み、入口を閉ざしてしまった。見かけ倒しで、中は結構広いが、女物の服を着た髑髏で埋め尽くされていた。その上に、ついさっきまで俺を誘惑していた女と同じ姿をした女が蹲っていた。ガタガタ震えている。試しに抱きしめてみると、身体が吹っ飛ばされた。
「何さらすんじゃこのダラ! おめぇだろおらに氷当てたんは! しばれてしばれて死にそうじゃさっさと出せこのドアホ!」
いつもの日向だ。やっぱり日向はこうでなくちゃな。任せろ、と、言って、雷光丸を呼ぼうとしたが、何も来ない。なんでだ?
「木の気が強いけぇ、多分、言霊一つじゃどうにもならんのよ」
「そんじゃどうやって外に――」
その時、閃いた。でもそれには日向の協力が不可欠だ。ダメで元々、日向に提案する。
「日向、その苦無、確か五行に反応するんだよな」
「おらは火の五行しか出せん」
「上等だ。俺が氷点丸の要領でこの木の気を膨らませる。そうしたらお前は、そいつを食ってドでかい花火を打ち出してくれ。それでこの椿の妖異は自滅するはずだ」
「おら達がこんがりになっちまうど!」
「大丈夫だ。俺の水の気で水剋火が上手く行けば、二人とも無事に外に出られる。……その為に、少し近くに寄るぞ」
「…………おらの髪一寸でも焦がしてみろ、殺すからな」
「おうよ、思いっきりやってくれや。――行くぞ」
日向の肩をがっしりと抱き寄せ、木の壁に手をつく。雷光丸が呼べない以上、俺には言霊しかない。こんな妖異の身体の中でどこまで通用するか分からねえが、他に手はねえ。
「唵阿毘羅吽欠蘇婆訶、聞き給え為し給え見届け給え。我はその威に従うもの、我はその威を携えるもの。この身この腕この肉体を贄とし、清らなる水を寄せ給え与えたまえ授けたまえ賜り給う。我は阿毘羅吽欠の威を借り正邪を定めるもの。聞き入れ給え為させ給え看取り給え。我は摩訶毘盧遮那の名の下に阿毘羅吽欠を従えるもの也や。来い! 水気!」
ビシビシと樹の壁がうねる。水気を吸って、椿が成長してるんだ。日向も俺の手の傍に苦無を突き差し、ギリギリと握りしめる。チリッと火花が散った瞬間、俺が日向をきつく抱きしめ、水の気で覆い尽くすと、物凄い勢いで木が燃え上がった。膨れ上がった木の気を取り込み、火は渦潮か何かのように回る。俺と日向を包む水の気も押され始め、段々熱が伝わってくる。椿と俺の根競べだ。俺の額にも汗が浮かぶ。
「おら達……!」
「大丈夫だ日向。見てろ」
上手く行くかどうか分からなかったが、日向の手の上から苦無を掴み、強く握りしめる。俺は言霊の力を信じるし、ましてそれが日向の得物であれば、当然それは届くと信じてる。
「俺が選んだエモノは全て武士の刀だ! 然もありなん、お前も従え! 家族を護るために、この壁を焼き尽くせ!」
そう叫ぶと、上から地鳴りのような音が聞こえた。日向を俺の腹の下に押し込むと、どどどっと消し炭が落ちて来る。よし、外だ!
出られたは良いが、庭の古椿は燃え上がってもだえ苦しみ、その霊が凄まじい悲鳴をあげ、家人たちを呼び寄せていた。火は屋敷にも移り、このままだと俺達は下敷きになる。とにかく外に出なければ、と、日向の手を握り縁側から飛び出した時、がぶりと腕を噛まれた。白虎だ。出雲と種子島が乗っている。
「全く……。随分無茶な脱出だね……。ぼく達を待ってくれても良かったのに……」
日向と俺を引き上げ、出雲は苦笑した。
「ねーねー、随分派手に燃えちゃったけどさー……。お銭はどうなるの? おいら達、咄嗟に逃げちゃったけど、まだ貰ってない」
「あ」
その次の瞬間、俺は白虎の後ろ脚に蹴落とされた。なんだよ、俺結構今回頑張ったのに!