其之參 ぐるぐる回るは滝の水? ぐるぐる回れジョーアイの糸! 之巻
そろ~り……そろ~り……。
「たあああっ!」
かごをぼすっと雪から顔を出した草原に叩きつけると、すごい勢いで、中身がうごめく。へへへ、これは今日のおいら達の夕飯だい。冬になると、仕事はめっぽうきつくなる。一日二食なんてゼータク出来ないよ。だから今夜は日向が、このイナゴで、つくだ煮を作ってくれるんだ! ……え? おさとうとおしょうゆはどうしたのかって? …………えへへ、おいら達は何でもこなすよろず屋だし、お銭はそちらの人情分ってことになってるけど、人情がなかったらおいら達だって何も守るものはないんだ。見習いだってね、田力なんだから、ちょいと人数分失敬することは出来るんだ。武蔵のバカと違って、この種子島さまはこーっそり、四人分のお使いをこなしたもんね! エッヘン!<br >
ここいらの村の人間は、ずいぶんとけちんぼだ。仕事もきついのをよこすのに、一文もらえれば良いほう。そんなんじゃ何も買えないし、宿にだって泊まれないし、それなのに煮売屋の一人もいない。ここは、寒くて冷たい村だ。でも、出雲が言うには、ここは本来あったかくて、冬でも丹州辺り並に暖かかったらしい。村はまずしかったけど、よそものをこんなに冷たくあしらう事なんてなかったんだって。
……あれ? 出雲って、おいらの二つしか上じゃないんだよね? そんな小さいころのこと、なんで具体的に覚えてるんだろ? ……まあいいか。出雲が前に、ここに来たことがあるということだけを、おいら達は知っていればいいんだ。
そんな訳で、おいら達は、今極寒の山の中だ。雪に埋もれた、ホコリだらけのあばら屋は、幸運なことに囲炉裏が使えたから、今日のお宿なんだ。
「日向ー! イナゴ、とれたよ! 武蔵には五匹だからね。おいらが頑張ってとったんだから、おいらがいっぱい食べるからね!」
その時、出雲が帰って来た。白虎で近くを見て回ってくるって言ってた。でも表情からすると、だめだったみたいだ。
「駄目だね、日向、種子島……。この寒気は自然の物じゃない……。多分、妖異の所為だ……」
「つったって、ここ駿州だよ。氷柱女や雪女が出るにはちょっと南過ぎるよ。熊風かな」
続いて武蔵が戻ってきた。背中には沢山の柴を背負っている。曲がりなりにも侍なのに、と、ぶちぶち文句を言っているわりには、似合っている。お爺さんは山に柴刈りに~ってね。
「山ン中一日歩いて柴刈りしてたけど、熊は愚か、野兎一匹いやしねえ。鳥もだ」
武蔵はハラが減りすぎてイライラすることもなかった。草鞋から、真っ赤にこごえた指がのぞいてる。日向が自分の冷え切った指で、武蔵の足の指をさすった。
「……ああ、あったけぇ……日向の指、あったけえよ………しみるわぁ……ふぅ」
「ん、よかったべ。水仕事しててん、ちと冷たかろうけど、我慢し」
出雲がひそひそとおいらに耳うちした。こそこそと小さな壁の穴から外へ連れられ、雪の中にうずくまる。何かうまいもんでも見つけたのかな? ふきのとうはまだのはずだけど。そう思っていると、ため息を吐かれた。
「いいかい……? 今後、武蔵と日向がああして、触れ合ってる時は、外に出なきゃ駄目だよ……。二人とも種子島の親じゃないから……」
思わずギクッとした。おいら、とちゃ様とあちゃ様の事は、あまり思い出したくない。
「う、うん……。わかった。武蔵と日向は、将来とちゃ様とあちゃ様になるの?」
「…………。武蔵は十八、日向は十六……。独りでいるにはあまりにも年を取ってるから……。夫婦になるのも不自然じゃ、ないよ……」
その時、出雲の心がはげしく動いたのを感じた。動揺とか焦りじゃない。これは……?
「出雲、妬いてるの?」
べしんっ!
その日は口を聞いてくれなかった。いてて。
===
翌日も、おいらが出雲のとろうとしたイナゴを横取りした時も、何も言わないくらい、いじけ虫になっていた。武蔵がおいらを叱ったけど、気にしてないから、と、出雲は雪解け水と木の根の吸い物をすすっていた。二人とも、すぐにおいら達がケンカしてるって気付いたみたいだ。でも別においら、ケンカなんかしてないもん。出雲が勝手に怒ってるんだもん。だからあやまんないもん。
今日は武蔵が釣りに行くと言うので、おいらはついて行くことにした。もともと出雲は日向のくっつき虫だ。出雲からはなれたいなら、武蔵といればいい。武蔵はコイを釣るって言ったけど、そんな気配がない。おいらが脚をぶらぶらさせていると、武蔵が言った。
「おう種子島。俺は釣りをやってっからよ、おめぇ、滝の裏辺りに山菜かなんかないか見てみてくれや。もしかしたら、山葵かなんかあるかもしれねえからよ」
「おいら、ワサビきらい」
「ばっかやろう、魚に山葵は付き物だぜ、腹が痛くならねえんだ。それに水辺で育った山葵は、擦らないで丸かじりすると、甘くて美味いんだぜ。騙されたと思って探して来い」
釣りをするのもあきたし、ずっと岩に座っててこごえちまいそうだったから、仕方なく滝のうらまで行ってみることにした。それにしても、見事な滝だなあ。細いけど、迫力がある。
あ、あった! 綺麗な菜っぱだけど、スースーした匂い。滝のワサビはこんなんなのか。葉っぱも食べられそう――。
「もし」
「うひゃ!」
ふと後ろから声をかけられて、おどろいて振り向いた。おいら、一応田力だから、いつでも周りに注意を払っているつもりだったんだけど。でも、妖異の類じゃないからわかんなかったんだよ、と、自分に言い訳をした。声をかけてきたのは、それはそれは綺麗な女の人。
「ここに、どなたかいませんでしたか?」
「おいらと、おいらの仲間が魚釣りしてるけど……。誰か探してるの?」
「誰よりも大切な方を探しているのです……。その方は女ながらに、斧と鉈を持って、この山を駆け巡る風のような御方……」
「おねーさん、もしおいら達がその人を探し出して、おねーさんに会わせてあげられたら、お銭くれる? おいら達、宿は勿論、食べ物もないんだ。寒くてひもじくて死にそう」
「お礼は差し上げます。私の名前は、おたき。私が探しているのは、おれん様と申します」
===
おいらは大急ぎで居眠りをしながら釣りをしている武蔵をけっとばした。
「むむむ、武蔵! 大変なことになったよ!」
「何すんだよ! ……なんじゃこりゃあああ!」
「これ、日向に見せたら絶対喜ぶよ!」
おいらがおたきさんからもらったもの。それは絹よりも肌ざわりのいい、上質な反物だった。おたきさんはおいらに、この一反の布を包んだふろしきを渡してきた。そのふろしきも、ふしぎなふろしきで、滝の裏でびしょぬれになってるはずなのに、染み一つ付かなかったんだ。でも妖異の気配は感じなかったから、多分これは仏様やカミさまの加護を受けたものに違いない。日向は女だけあって、布の目利きは良い。この前金を、きっとすっごいお銭に変えてくれるに違いないんだ! おいら達は大急ぎであばら屋に戻った。
「日向ー! 仕事見つけて来たよ! 前金までくれた! ねえねえ、これいくらくらい?」
日向は木の根を揉んで、夕餉の支度をしていた。雪水で洗って、指先は真っ赤だ。出雲はとなりで瞑想してる。多分、飛ばした霊獣と意思を交わしてるんだろうから、ほっとこう。そんなことより反物だ。わくわくしながら日向に布を見せると、日向も目を丸くした。
「ふわぁ、すっげえ反物だ。こりゃ絹か? でもこんな肌触りは出ねえな。種子島、おめぇ、鶴の化身にでもあったんじゃねえか?」
「ちゃんと、おたきさんって名前聞いた」
おいらは、おたきさんの仕事の話をした。日向はだまって聞いていて、その仕事を受けるとすぐにうなずいたけど、出雲はチラリとその反物を見て、首をふった。
「僕は手を貸さないよ……」
「えっ、何で?」
出雲は答えず、そっぽを向いた。こうなったら、日向以外には何が何でも話さない。でも、そうなると少し厄介なことになる。武蔵がいち早くそれについて話した。
「でもよぉ、この辺りの村、マジで余所モンに冷てぇぞ。女の樵なんて確かに珍しいがな、あの滝の近くに人が住んでるなんて思えねえ。俺がどれだけ柴刈りしたと思ってる」
「んだな。庄屋にでも転がり込めれば、噂なんざ下女どもがしてっちゃが」
名前も、おれんさんとしか分からない。どんな顔してるとか、どの辺に住んでるかも聞いてない。おいら、あの反物みて仰天して、すぐに武蔵の所にとんでっちゃったんだよね。
「でもまあ、そのおたきって女は、毎日あの滝の所に居るんだろ?」
「うん、日が沈んでも待ってるんだって。…………あ、言っとくけどね、おたきさんは妖異の類じゃないよ。それは保証する。おいら、ちゃんとよく視たもん」
「種子島がねぇ……」
「何だよ! 仕事しない奴はだまっててよ!」
ムッとして言い返すと、武蔵になだめられた。それがよけいに腹だつ。武蔵のくせに!
「だども出雲、この反物は確かに妖異の力はなかろ? 取りあえずこれさ売っで、それでもう一度村さ行って話聞いてくんべや」
「……」
あれ? 日向の言葉にもだんまりだ。出雲は余程何か言いたくないことがあるのかな?
===
結論から言うと、あの反物を庄屋に持ってったら、今までの態度は一体何だったのか、盛大にもてなされた。それで、おたきさんに会ったおいらは質問ぜめにされた。
曰く、おたきさんはこの庄屋さんの一人娘らしい。おたきさんは機織りの名人で、この村の民芸品として高く高く売れたとか。ところがある時から、機織りをやめて毎日山に登るようになった。村はどんどん寂れていき、今では行者に渡す粟や稗もないありさま。それだけ重要な、おたきさんの機織りを再開させようとして、一時は部屋に閉じこめたこともあったんだけど、地下牢に等しい場所なのに、ある夜なぜかふっといなくなり、それからずっとおたきさんは村に戻ってこない。近くのお里や村にも聞いて回ったらしいんだけど、おたきさんを見かけた人はいなかったという。それで、おいらがたしかに、『おたきという人間に貰った』と言ったものだから、みんなは妖異や化生の類になっていないとホッとした、と、まあ、そういうわけだ。そうなると、この庄屋さんも言ってくるわけだね。『おたきを連れて帰ってきてくれたら銭をやる』ってさ。でも、出雲が協力してくれないと、人探しってけっこう大変。とりあえず、前向きに検討するからとなだめて、寝室に連れてってもらった。
「出雲、あんな雪の中一人で大丈夫かな?」
「あん子には五獣も付いてるし、昔っから一人で各地うろうろしとったけん、雪ン中での身の振り方くらい知ってねば、生きとらん」
そういえば、日向と出雲は一番付き合いが長いんだよな。そんで、おいらと武蔵が一緒に旅してた時に、一緒になったんだ。どれくらい昔だったかなあ? けっこう前な気がするんだけど、あんまり覚えてない。
「まあ、一つの仕事でお銭が二つ、文字通りの一石二鳥だぁな。俺はおれんさんもおたきさんも両方探せばいいと思う」
「ばってん武蔵、おらの勘じゃけど、おれんもおたきも、そうそう出てきりゃせんど」
「何でだ。おめぇの勘は確かにいつも冴えてるけど、根拠も無く雪ン中歩くのはヤだぜ」
「ほら、言うとったじゃろ。出雲がこの寒さは妖異の所為じゃて。おらは、その妖異が今回の二人に関係してるように思えるんじゃ」
「女二人が妖異に苦しめられてるってなら、見過ごせねえな。坂東武者の名が廃らあ」
「んだば、おらはもう少し村の人たちの話ば聞いてくるわい、二人は山ン中見でぎで、ついでに出雲にも会ってみてくれや。一応心配してるんじゃか」
「はーい。んじゃ、お休みなさぁい」
おいら、いっぱい質問されて、いっぱい話したから疲れちゃった。おやすみ…………むにゃ。
===
翌朝、武蔵と山小屋に戻ると、なんとおたきさんと出雲が話しこんでいた。思わず飛び出そうとしたけど、何だかようすがおかしい。多分出雲は気づいているだろうけど、おたきさんは気づいてないみたいだ。こっそり隠れて、中の会話を盗み聞きする。
「では、どうしてもおれん様と一緒には暮らせないのですか? どうしてもですか?」
「出来ない。たき、そなたとれんは、最早住む世界が違ってしまっているのだ」
なんだか出雲じゃないみたいだ。誰か降霊してるのかな? なんというか、すごくエラそうだ。それに、声もはっきりしてて、良く通る。まるで山伏みたいだ。
「妙な事を考えるでないぞ、たき。そなたを必要とし、そなたがやるべきことを成し遂げる事、それこそがそなたの愛するれんが望んでいる事であり、そなたの幸せだ」
「でも、わたしにはおれん様しか……」
その時、ふとおいらの顔に何かペタペタしたものがはりついた。ビックリして声を上げると、驚いたおたきさんは小屋を飛び出してしまった。クモだ。クモの糸がおいらの顔にはりついたんだ。こんな雪の中で? なんでだろ。クモが空を飛ぶのは雪の降る前なのに。
「種子島、おたきさんを追うぞ」
おいらはうなずいて、するすると雪まみれの木を登り、おたきさんを探した。あの滝の方に向かっている。武蔵に合図して、おいらは一足先に滝に行くことにした。先に辿りついていれば、おたきさんは、おれんさんのこととか、家のこととか、きっと話してくれると思ったんだ。おたきさんはちゃんとおいらの後ろを、おいらの進む方向に走っている。それを確認しながら、おいらは一足先に滝に辿りついた。
するとそこには、先客がいた。ワサビを引っこ抜いている女の人。……もしかして。
近づこうと身を乗り出したその瞬間、女の人が突然シロビレを撃 いて来た。びっくりして雪と一緒に落っこちる。あいててて、これじゃ田力失格だい。……でもいきなり撃く?
「……妖異の類かと思った、すまん。この辺りは昔から、天狗や絡新婦が出るんだ」
女の人はそう言うと、またワサビ採りを始めた。おいらはぶつけたほっぺたをさすりながら聞いた。……ん? 何だろ、この女の人、どこかで会った気がする。それに凄く、影が薄い……。化生や妖異じゃないんだけど……言ってしまえば薄命? この世の人なんだけど、この世の人じゃないみたい。片足つっこんでる、っていうのかな。こんなにたくましくて元気そうなのに何でだろ? うーん、最近すごく良く似た人に会った気がするんだけど……。
「ねえ、もしかして、おれんさん……?」
「如何にも、わたしの名前はれんだが」
やったー! おいら、自分の力で見つけたぞ! さっそくおいらは、おたきさんの話をした。
「たきが……? 馬鹿な、彼女はあの夜から、家に閉じ込められて今も……」
「ううん、今家にはいないよ。だから庄屋のお家では、おたきさんを連れ戻してくれって、おいら達にお仕事くれたんだよ。それに、おたきさんは毎日一日中、ここで待ってるよ」
すると、おれんさんはじっとだまりこんでしまった。おいらなんか変なこと言ったかな? おれんさんは、うんと考えてから答えた。
「小僧、たきに、わたしは日の巫女になったと伝えてくれ。だからたきには会えない」
「それじゃ仕事にならないよ! 会ってー!」
おいらが裾をつかむと、おれんさんがおいらを殴った。……日向のが痛い。
「何と言おうと会わない。わたしはこの森で生きる。この山の異変も解決もせねば……」
あれ? カンの良い日向の予想が外れたのかな? この雪に、おれんさんは関係ない?
これ以上は何も話してくれそうになかったので、おいらはため息を吐いて、ほんの一瞬、本当に一瞬目を離した。その隙に、おれんさんはいなくなってしまった。代わりに、凄く大きなクモが、そこからカサカサと陽向に走って行った。…………あ、武蔵!
「悪ぃ、おたきさんは見失っちまった」
「い、今すっごい大きなクモが……」
「はぁん? そんなもん見なかったぜ?」
もしかしてこの山を雪山にした妖異ってのは、クモの妖異なのかな。とにかく今は、日向の所に戻ろうか、そう話していた時、忽然と見失ったはずのおたきさんが後ろから、現れた。全身にぺったりと白いクモの糸を、いや、クモの巣を、幾重にもはりつけて、今にもでっかいクモに引っぱられて喰われそう。
「おれん様に会ったのでしょう? どうしてわたしに教えて下さらないの?」
嘘だ。おいらがおれんさんに会ったのは今さっき。それに、武蔵が見失ったんだ。それを、おいらの背後から来るなんてありえない。でも、やっぱりおたきさんに妖異の気配がしない。でも明らかに、武蔵もおいらも、ありえない程たくさん巻きついたクモの糸を見てる。
「おたきさんよ……その前に聞きてぇんだが……。アンタ、何者だ? 唯の人間じゃねえな」
おたきさんはしばらく黙っていたけど、武蔵が雷光丸をにぎりしめたのを見て、観念したようだった。しゅるしゅるとおたきさんの背中から、沢山のクモが広がって巣を作って行く。
「いいえ、わたしは人間です。ただ、おれん様にお会いしたいその一心で、あの夜、地獄のような地下牢に忍び込んできた蜘蛛の神に縋ったのです。それなのにおれん様は、こんな季節外れの雪山に籠って会って下さらない。わたしにはおれん様しかいないのに…………」
化けの皮が剥がれるってこういうことを言うんだと思う。きれいで、きよらかで、京の雰囲気がしたおたきさんは、どんどんみにくくなって、本物のクモみたいに牙が生えて、体つきも変わる。
「成程な。アンタは妖異になったわけでも、憑りつかれたわけでもない。ただアンタは呼び寄せられるだけ。だから誰も分からなかったんだ。――アンタがもう唯の人間じゃない、 審神者の成りそこないだってな」
すると、みにくかったおたきさんの顔つきが、さらにあくどい顔になった。あまりに怖くて、武蔵の後ろに隠れる。武蔵は雷光丸を抜き、今にも斬りつけそうだった。
「こうなったら、おれんさんとアンタはもう一緒に生きていけないぜ。一時の気の迷いで付け込まれたことは不憫に思うがな、その妖異は斬る。それが俺達よろず屋の本業だ」
「武蔵! おたきさんを殺しちゃダメだよ! せめておれんさんに会わせてあげなきゃ!」
おれん様、おれん様、と、くりかえして、おたきさんはクモの糸の涙を流す。みるみる内におたきさんの身体は真っ白になって行く。雪のように真っ白に。とてもきれいな、白い身体だった。つぶれた訳でもないのに、視界がそれだけでいっぱいになる。
武蔵のおどろいた声でハッと我に返った。武蔵の全身を雪が、いや、クモの糸が巻きついてるんだ。おどろいておいらが取り払おうとすると、おいらの手がべったりとくっついた。
「お、おたきさん! おれんさんにちゃんと会わせてあげるよ! だからはなして、ね? ね? こんな奴でも、いないと見つけられないんだ!」
するとおたきさんは、武蔵をすっぽりコケシみたいに包んで、おいらだけ自由にしてくれた。武蔵は……人質だ。でもま、いいでしょ。武蔵だし。
「おれん様……おれん様さえいればいいの……わたしにはあの方だけ居れば……」
おいらの声は聞こえていないみたいだったけど、おたきさんは理解していたみたいだ。
===
糸の海になった雪の世界を、おいらは必死に駆けぬける。おれんさんはまだ近くにいる。おいらには何となく分かるんだ。あの大きなクモの、糸が光って見える。――いた!
「おれんさん! おれんさん大変だよ! 今すぐおいらと一緒に来て!」
おれんさんは、この糸の雪の中、平然と彫り物をしていた。おいらの言葉に顔を上げると、その顔は全て分かってる、と、言ったような、いつもの出雲みたいな表情だった。
「小僧、言伝はどうした」
「そんな暇なかった! おたきさんはおれんさんに会えればそれでいいって……!」
「…………分かった。これを持って案内しろ」
おれんさんはそう言って、おいらに彫り物を投げ渡した。木彫りだ。女の人? 観音様かな?
ぐずぐずするな、とか、早く走れ、とか、おれんさんはおいらにたくさん注文をつけるんだけど、一応田力見習いのおいらの脚について来てる。やっぱり樵って足腰丈夫なのかな?
「あ、あれ? 武蔵ー! おたきさーん!」
おいらが元の場所に戻った時、そこはもう雪景色じゃなかった。クモのべたべたの糸が、間欠泉みたく吹き上がっていて、その中心に、武蔵らしき糸の塊があった。おたきさんの姿は見えない。おいらが武蔵に駆けよろうとすると、おれんさんが止めた。
鶴の一声とはまさにこの事、おれんさんが叫ぶと、糸は一瞬でおさまり、女の人が、ぽつんと立ち尽くしていた。おたきさんだ。おたきさんはおれんさんを見て、近づいてきた。
「おれんさま……、ああ、おれん様! どれほどお会いしたかった事でしょう!」
「近寄ってはならない!」
おれんさんがきっぱりと拒否すると、おたきさんはピタリと立ちどまった。
「たき、わたしはお前を嫌っていたのではない。寧ろお前の為、憑代を作っていた」
渡せ、というので、おいらはおたきさんに、さっきもらった木彫りの像をあげた。おたきさんは不思議そうにそれを見ている。おいらも不思議で見る。
「わたしはお前の元には行けない。わたしは朝の神に召し出された。だからわたしは山に籠った。だがたき、お前は夜の神に惑わされ、わたし達は既にお互いの神と契りを交わしてしまった。もう、わたしはお前の所へは行けない。行けば、天を照らすあの日輪が、お前を焼きつくしてしまう。だから――」
「構いません、おれん様。お傍にいさせてください、日の光で燃え落ちるその一瞬だけでも!」
「………………。わたしを探す為に全ての森の命を吸いつくし、山を眠らせ炙り出そうとするほどにお前は、わたしを求めてくれた。ならわたしも、お前のその情愛に応えねばならぬな」
その時、仏頂面のおれんさんが、ほんの少し、笑ったような気がした。でもおれんさんが、おたきさんに近づけば近づくほど、どんどん影が薄くなっていく。いや、薄くなっていくんじゃない。自分で薄くしているんだ。彫り物をするかのように、自分の命を削ってる。
おいらとおたきさんのところに来た時、おれんさんはもう、半分消えかかっていた。
「小僧、庄屋の家に、その木彫りを持って行け。それでお前たちの仕事は終わる。……世話をかけたな。妹を諭そうとし、陰で働いてくれていた出雲と言うあの童子に、わたし達姉妹からの感謝と恩恵を贈ろう」
え、出雲、ちゃんと仕事してたの? っていうか、二人って友達とかじゃなくて姉妹だったの? あれ? でもおたきさんは庄屋さんの一人娘じゃなかったっけ?
おいらが考えていると、おれんさんはおたきさんを優しく抱きしめた。すぅ、と、おたきさんの身体が、薄いまゆだまみたいになる。
「たきが夜の神に仕えるのであれば、わたしも共に行くと、童子に伝えてくれ」
そう言うと、しっかりと抱き合った二人は、冷たい滝壺へ飛んでいくように沈んでいった。すると、辺りをおおっていた白い雪、もとい糸は、一緒に滝壺に沈み、気が付くと辺りは物哀しいホオノキに包まれていた。
===
庄屋の家に木彫りを持って行ったけど、門前払いされて、お銭を投げつけられた。なんだかあんまり話したくないけど仕方ないから端金はやる、そんな感じ。それを山小屋に報告に行くと、出雲がやっと口を開いた。
「蜘蛛には二つの姿がある……。朝に現れる蜘蛛は神の使い……、夜に現れる蜘蛛は地獄の使い、つまり獄卒の化身……。たきという娘は、獄卒の糸であの反物を織った……」
「それが、どうしておれんさんが庄屋さんの娘じゃないことになるの?」
「あの二人は畜生腹……つまり双子だったんだよ……。気付かなかったの?」
そうか、だからおれんさんを見た時、どこかで見たと思ったんだ。おたきさんだ。うり二つってほどじゃないけど、確かに言われてみれば似てた。
「山へ捨てられたれんは樵として暮らし、庄屋の家業を継ぐたきは村で暮らした……。本来ならば再会しない筈だった……。だが二人は再会してしまった……。だからこそたきは、れんと一緒にいたいと願った……。それこそ、生業を捨ててしまう程に、血を分けた姉妹に焦がれて、そこを夜蜘蛛に付け込まれたんだ……。だかられんは、滝壺に沈んだ……。朝蜘蛛の庇護の届かない所へ、朝日が差さない所へ、より獄卒に近い闇の中に……」
「夕方や夜明けに会うんじゃ駄目だったの?」
「駄目だよ……。そもそも、棲む世界が違う神に召し出されたんだから……。二人の運命は、畜生腹と呼ばれて忌まれた時に、もう決まってしまっていたんだよ………もし、産まれる日が一年でも違えば、二人は……」
おいらの手の中にあるのは、二束三文のあの木彫りの代金。でもおいらには、それがすごくすごく重たく感じた。