其之貮 威仮東海申壱 之巻
深く険しい山の奥、ひっそりと佇む社の中、その子供は生まれた。母は代々族長を務める東海家の当主、父は族長の座を争う程の実力を持つ北岳家の次男。文句の付けどころのない、完璧な血統の下生まれた子供は、東海家の跡取りとなった。
天正十八年、草が白く光る白露の頃生まれた、その子供は、申壱と名付けられ、物心つくかつかずの頃から厳しい修行を積み始めた。
完璧な血統。完璧な両親。完璧な環境。完璧な修行。
しかし申壱の力は、てんで花を咲かせなかった。同じ内容の修業をしていれば、没落一家の子供でも、すぐに戦力になるであろうに、申壱はいくらやっても駄目だった。威仮の次代を担うことになる申壱の機嫌を取り、懇意になろうとして来る人間の殆どは、裏で申壱を嘲笑っていた。天下の東海家から、出来損ないが生まれた――この事は威仮流の中での勢力争いを加速させ、我が子を護ろうとする母卯音、父辰次を焦らせた。
早くこの子を一人前にしなければ、権力争いに巻き込まれて殺されてしまう…………。幼い申壱には、何故両親達が争っているのか分からなかったが、ただ、自分が悪いと言うことは分かっていた。しかし、どんなに修行を積んでも、出ないものは出ないのだ。
「どうした申若。随分と凹んでるじゃない」
膝を抱えてクスンクスンと泣いていると、自分より少し年上の少年が話しかけてきた。
彼の名は厳島流。独りで妖刀を従え、今その技を極める為に、付権院で様々な剣客や刺客と武者修行をしている。彼の名は小さな申壱の世界では大きなものだったが、日本はもっと広い。流程の手並みでも、召し抱えてくれる大名は中々いないらしい。申壱と流は、九つ離れていたが、次々に威仮流の力を物にしていく同じ一族の者達より、懐いていた。
「…………。ワーはいつまでも動物ひとっつ降ろせん。あちゃ様もとちゃ様も怒っちょる」
「そんなに焦る必要はないよ、申若。大器晩成と言ってね、大きくなってから実を結ぶ人もいるんだよ。申若は大器晩成型なんだよ」
「…………。でも、とちゃ様とあちゃ様がいなくなったら、ワーが威仮の家元じゃ。ワーが族長じゃ。なのにワーは威仮の術がてんで使えん。……ワーなんて、産まれない方が良かったんじゃ。ワーは威仮の恥じゃ」
「そう人生を悲観するものじゃないよ、申若。まだ九歳じゃないか。世界はこの嘘裏山《うそりやま》だけじゃないんだ」
「|流《</rt>ながれ</ruby>の故郷……。ずっと西にあるっていう、ウミに囲まれた場所?」
「そうとも。そこじゃあ干物じゃない魚だって食える。燻してない食べ物も、美味い菓子もある。だから、な? そう悲観的になるんじゃないよ。ほら、これやるから」
そう言って流は、申壱に茶色と白の生地が混ざった、菓子を渡した。暗かった申壱の顔に、燈明が灯される。
「わ、べごもちにみたらし。どこで貰たの?」
「暉家の嫡子が節句だったらしくてね、貰ったんだ。……でもあそこは駄目だ。てんで剣が出来てない。看板すら持ってないよ。建御雷神に師事していた、武家貴族の一つって話は嘘なのかな。……申若、君の御母堂が稽古をつけにいってるのって、本当に暉家?」
「ワーはようわからん。……でも、あちゃ様が降ろしてる人のことなら知っておる」
「なんて人?」
「イイザサイエナオさま。剣術の始祖なんじゃと。一度話したけど、気難しいお人じゃ」
「…………ふーん。あの人に習ってるんだ……。じゃあ、『本物』は、さだめし達人だろう」
「……流、何を笑っとる?」
「ん? 何が? 私はいつでも笑顔だよ。そうすると、福が来ると言われているからね。ほら、申若も笑ってご覧。その方が可愛い」
申壱は最後の一口を口の中に入れて飲みこむと、ぶすっと不機嫌な顔をした。
「ワーは威仮の跡取りじゃ。可愛さなんぞより、逞しさと能力が欲しいわ」
「それだったら、良い場所があるよ。要するに、呼び出す魂が沢山あればいいんだろ?」
「? そりゃそうじゃが……」
「今、この国は分水嶺なんだ。西と東で別れて、大きな戦が始まろうとしている」
「あちゃ様もとちゃ様も、東につくって言うとった。でも、ワーはまだ未熟者から、行けんと言われとる」
「なにも、素直に戦場に行くことはないよ。……申若、私はずっと確かめたいことがある。それに協力してくれるなら、きっと君も呼び出せるよ。ちょいと歩くけどね」
「ワーにも出来る?」
「うん。どうだい?」
流の笑みの裏にある、悍ましい計画を読み取れるほど、申壱は人を知らなかった。
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慶長五年長月の始め。申壱の母卯音、父辰次は東軍に従事する為、付権院を発った。残されたのは、乳飲み子とその乳母だけ。老若男女、申壱以外の術の使える者達は、全て行ってしまった。乳母と雖も、威仮衆の一人。例え西軍が攻め上る事があったとしても、いざとなれば乳飲み子を護るだけの猛者を呼び寄せることが出来る。
「流、本当に行かなくて良かったの?」
しかし何故か流は付権院に残ると言った。この戦の大きさは、申壱も何となくだが分かっている。もし流が本当に武者修行をしているのであれば、その力をいかんなく発揮するには、絶好の機会の筈だ。だがそれを見送ってくれたのは、きっと九つになっても動物一つ降ろせない自分が、乳母たちにいじめられない為だろう、申壱はそう思って嬉しかった。
「いいんだよ、これから本物に会いに行く」
「本物?」
「うん。……それより申若、今からちょいと小細工をしてみるよ。そこの土蔵に籠って、降霊出来ないかどうか、試してみてくれ」
「…………。土蔵は嫌じゃ。ワーだけなんも降ろせんもん」
「いいからいいから。今までとは条件が違うから、きっと上手く行くよ」
不思議に思いながらも、申壱は精神修練の為の土蔵に籠った。この土蔵の壁は分厚く、扉も重たい鉄だ。普通の子供は、この扉を開ける為に、豪傑の霊や、悪くても力のある動物の霊を降ろす。だが申壱がこの土蔵から出るときは、いつも中から喚くか、大きくなってからは自分の手で開けていた。自分の為に祈祷してくれている長老たちや両親の顔は、いつだって忘れられない。少しでも鍛錬を怠り休もうとすれば、その顔が迫ってくる。嗚呼、今もだ。さっさと修練に入ろう。
「我はその威を借る者、我はその威に化ける者。現世に幾度現れその威は仮初なりても御魂は万軍に値すとてその名を呼ぶ。我が神口に応え、その威を示すのならば、我が身我が力を贄となさん。我は威仮東海申壱。我が身を憑代にその栄光を讃えんとその御魂を欲す。唵阿毘羅吽欠蘇婆訶、来たれ万象の御魂たちよ。我を権現とし今一度現世に現れ給え」
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「終わったよ、申若」
「…………あ、もう? ワーはまだ…………」
「いいよいいよ。無理しなくても。この後否が応にでも降ろすことになるから。それより早くここを出よう。追いつけなくなる」
「誰に?」
「私が一番戦いたい相手さ。さあ、行こう」
流が手を差し出す。だが、申壱には、今まで嗅いだことの無い匂いがしていた。その慶びが勝り、申壱は拳を握りしめた。
「よし、よしよしよし! 流! ワー、何か降ろせてる! 今まで嗅いだことの無い匂いがするんじゃ!」
「…………そう、そうか! ならその力が尽きない内に、早く行こう!」
「ワーにも、初陣の時が来るんじゃー!」
山菜と大豆ばかりの精進料理で育った申壱には、その『匂い』が、生き物の血の臭いだと分からなかった。
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付権院にいた馬は皆進軍に使われてしまったので、二人は小走りで山を下り、下って行った。その間に、申壱はあの『匂い』がしなくなってしまい、降霊が解除されたと悔しがっていたが、それも七日七晩歩く疲れに忘れてしまった。
そして八日目の朝、申壱と流は、ある城に辿りついた。美しい白塗りの城だ。蔦一本生えていない。申壱は初めて肉眼で見る城をしげしげと見上げる。ぽかんとしている申壱に、流は一本の脇差を渡した。申壱の腕には、脇差と雖も重く感じた。
「この城には悪い人たちがいる。ここにいる奴らを皆殺しにしてしまえば、きっと功徳が詰まれて、申若にも降りてくる御仁がいるかもしれないよ」
「何して悪ぅ言われるんじゃ?」
「…………。それは、私を見ていれば分かるよ」
そう言って口を横へ引き結び、流は城の前にある道場に入った。
「頼もう。師範はいるか」
道場の中には、幼い子供達が修練を積んでいた。それを教えていた、師範代らしき中老の男性がこちらへ歩み寄り、答えた。
「何方かは存じませんが、生憎師範は居りませぬ。又の機会に――」
「では実戦をお見せください」
「そのような志はこの道場と師範の考えと背きます故、――」
「師匠!」
流が妖刀を抜くのとほぼ同時に、弟子の一人が師範代の男性を突き飛ばし、その斬撃を受けた。弟子たちが動揺する間もなく、斬り殺された弟子の木刀を持ち、師範代は籠手を狙い切り上げる。が、流はそれを躱した。
「貴方は出来るようですね。……宮下の看板を掛けて、決闘を申し込みたい」
「それは城崩しをしたいと言う意味と捉えますが、如何かな? お若いの」
「そのようにとるのであれば、そのようにしますが、如何なさいますか? 師範代」
すると師範代は木刀を握る手に力を籠め、弟子たちに言った。
「天遣城城崩しの危機! 各人これを伝え護りに付けい!」
まるで忍のように、弟子たちが散って行こうとしたその背中を、流は容赦なく斬りつけ、一人残らず殺した。申壱が恐怖に震えていると、流は叫んだ。
「今なら出来る筈だ! 申若、彼等の魂を死体に戻すんだ!」
「えっ! そんな名前も分からないのに!」
「お前たちは万象を味方につけるんだろう? 出来る!」
「う、うん!」
その時の申壱には、どちらが非道だとか、そんなことは分からなかった。ただ、降霊を成功させたい、その一心で、言霊を唱えた。呼び出す者は、『万人』。贄もまた、『万人』。するとどうした事だろう! 死んだ筈の弟子たちは徐に起き上がり、総勢で師範を殺した。
「ね? 出来ただろう?」
「うん、凄い! ワーはもう、一人前じゃ!」
ゆらゆら動く死んだ武者を前に、申壱は無邪気に喜んだ。流は言った。
「この城に、『本物』が居る筈なんだ。私はそいつと斬り結んでみたい。でも私一人じゃ、この城の中から『本物』を燻り出すのは難しい。だから私が斬った人間を、申若が一人一人呼び戻して、兵士にしていくんだ。申若も沢山降ろす練習が出来て良いだろう?」
「うん! 流の力を借りなくても降ろせるように、ワーも沢山降ろす練習がしたい!」
「そう言う事さ。さあ、先ずは兵士を増やそう。城下に降りて、町民たちを殺すんだ」
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訳も分からず殺され増えた町民たちは、其々包丁や鉈などの手頃な刃物を持って、月白の城に乗り込んだ。そう広くはない領地、襲い掛かってくるのが城下の民だと分かり、城の者達は怯え、惑い、反撃することなく殺されて行った。そして彼等も、申壱の力で再び呼び戻され、今度は流の指揮下に入る。申壱は初めて見る戦場の姿に興奮して、倫理だとか、相手が何歳だとか、性別だとか、そんなものも分からなくなっていた。ただ着実に力がついていくのが嬉しくて、それが例え威仮の邪道だったとしても、そこではそれを教えてくれる人はいなかった。
「じゃあ、いいね、作戦通りに……」
城の一番奥の襖を斬り破った時、申壱のすぐ目の前を、簪のような形をした苦無が飛んできた。思わず驚いて尻餅を付く。流と申壱が機会を窺って中に入ると、そこには一人の護り刀を構える姫と、申壱よりも小さな子供が、姫に抱きしめられていた。恐らく嫡男だろう。姫は怒りに眼をぎらつかせ、叫んだ。
「何者! ここが日出ずる国の軍を統べるヒカリ家の城と知っての狼藉か! 天下分け目の大戦にも行かず、この武士の恥め!」
「私は宮下流の師範に御用がありますが、少々皆様、頑固なようでしたので。……察するに姫君、貴方の夫がそうなのでは? 師範の名は――弥美カゲタカと聞いています」
「如何にも。しかしわたくしを捕えても、影孝は戻りません。影孝は今ヒカリ家の武士として、戦に参じております由、私情で戦を離れるような愚行は致しません」
「元より貴方を攫ったとて、貴方は自刃なさるでしょう。貴方の事は考えていない」
その時、申壱は声高く号令をかけた。天井、左右の窓、至る所から、申壱により生きる死体となった兵士達が迫り、跡取りに手を伸ばす。しかし跡取りは、自分の身長ほどもある太刀を構え、躊躇なくその頭を刎ねた。姫も五つ衣を纏っていながら、軽やかな刀捌きで、狼藉者の下僕を蹴散らして行く。頭を刎ねられては、申壱の術はそう長くは続かない。思ったよりも強い、その事実に申壱の身体は強張ったが、とにかく残る兵士を全て叩き込んだ。流も嫡男に斬りかかる。しかし所詮唯の力比べでは、子供が大人に勝るなどない。刀を弾かれ、峰打ちを食らい、流の腕に落ちた。
「カシマ! おのれ、子供まで歯牙にかけるとは、この外道!」
「私が求めるのは妖刀の極みだけ。それ以外のことは実にどうでも良いのです」
「なれば返せ!」
姫は流に果敢に立ち向かったが、流は刀の鞘で姫を強かに殴り、気絶させた。
「流、あのお姫様は殺さなくてええの?」
「いらないよ。彼女には証人になってもらわなくちゃ。この子供が人質だとね。さあ申若、もうこんな所に用はない。降霊を解除して、おさらばしよう。多分、すぐに私の戦いたい相手はやって来る……」
さあ行こう、と、流は気絶した嫡男と、申壱を連れ、戦に使われなかった仔馬に乗り、城を後にした。
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夜になった。人質にした嫡男は、両手両足を縛られ、轡を噛まされて寝かされている。申壱としては、同じ年頃の子供と遊びたいと言うのが本心だったが、良いから寝ろと言うので、大人しく言うことを聞いて眠っていた。時々獣の足音や視線に、緩やかに竈の火のように意識が燃え上がるが、安全を確認すると、又鎮まった。
しかし、明け方頃、本格的な殺意を感じて、跳ね起きた。流はもう臨戦態勢だ。来た。
「そこにおわすは師範弥美カゲタカ殿とお見受け致す。手前は厳島流。お相手願いたい」
闇の向こうから確かに感じる殺気の主は、堂々と姿を現し、憎しみに満ちた眼で睨み据えていた。足元は血で汚れている。恐らく、自分たちが離れて直ぐ、あの城に入ったのだ。
「如何にも私は威仮流妖刀道師範『宮下』弥美影孝。…………まずは人質を返してもらう」
「え、威仮?」
申壱は思わず聞き返した。申壱は、自分の母が誰を指南しているか知らなかったからだ。
「どういうこと流、威仮流って――」
「私の目的は貴方と一戦交えること。妖刀道の頂点たる宮下流相手にどこまで私の剣が通じるか、試してみたい」
「その為に――貴様のその欲の為に、天遣城を、城下の者すら切り刻んだのか!」
怒りに燃える影孝の前に、漸く申壱は自分の修業が間違っていたと理解し、慄いた。
「な、流! ワーらが間違ってたんじゃ! この子は返して――」
「私を斬ってみせれば御子息はお返し致します。私は剣を極める為なら手段を択ばない」
「この外道! 斬られたくばお望み通り一寸にまで切り刻み、この怨み晴らしてくれる!」
影孝は大きく踏み込み、一気に居合切りの要領で抜刀する。怒りに、憎しみに、嘆きに染まった刀は、その妖気が増し、ビリビリと肌を焼く。申壱はこっそり子供に歩み寄り、足と手の縄を解き、轡を外した。自分たちの間違った欲に巻き込まれたからだ。
「ごめん、ワー達が間違ってたんじゃ。今からでも戻れる。とちゃ様とお帰り」
しかし子供は泣き叫ぶばかりで、鎬を削り合う自分の影孝とかいう父親の下へは行かなかった。否、行けたとしても、あの激しい斬り合いの場に出ることは不可能――。
「溜めろ! 雷光丸!」
バチバチと物凄い勢いで、妖刀に力が集まる。光が弾け、その怒りは今にも暴走しそうだった。鬼のような形相で、影孝が迫る。大きく振りかぶり、光の斬撃が放たれる正にその時、流は申壱の頭を掴み、盾にした。バッサリと右半身が斬りおとされる。心の蔵と頭が離れ、意識を失うその刹那見えたのは、驚いて無防備になっている影孝と、矜持も何もなく襲い掛かり、心の臓を貫く流の姿だった。
嗚呼、これは天罰だ――。
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死にたくないよ。死にたくないよ。
護りたい。護れなかった。護りたかった。
二つの思いが交差する。屍しかいなくなったその場所に、強い思念が集まる。申壱の威仮の血が、無情にも命を絶たれた子供らの念を寄せ集める。申壱と流が作り、影孝が連れてきた子供らの念。死にたくない、生きたい。そう言い、死体になった申壱の身体に群がる。
「う……が……あ……っ。やだ……しぬのは……や……」
左半身を動かし、斬りおとされた右半身を寄せると、その傷は塞がり、鬼となった。威仮東海申壱という名を忘れて。
「あー、くそ……いってぇ……。……なんだ此処?」
そして彼もまた、持ち主を護れなかった刃たちの無念を掻き集め、鬼となった。同じように、宮下弥美影孝という名を忘れて。
「気が付いたかい……?」
それは遠い昔の思い出。誰かが呼んだ。その寂しい童子の事を。しかして二人はその名を知らない。
「君たちに名前をあげよう……。君たちの功徳を、僕が手伝おう……。さあおいで……。身を貫かれた『身刺し』、幼子の種を摘まなかった『種嘉島』……」
※身刺し《むさし》の表記は正しいものです。
※種嘉島の表記は正しいものです。