其之壹 宮下弥美影孝 之巻
奥州の短い夏の日差しの中、彼らは産まれた。産まれた子は二人。畜生腹だった。これを良しとしなかった双子の父、当時の当主景恒は、草分けの仕事を終わらせた先に生まれた子供を間引こうとしたが、母は、これから先、いかなる戦にも草分けとして行かせればよいと、間引きを止めた。安全を確保されて生まれた方を、次代の当主に、そして、安全を確かめる為に生まれた方を、当主の影に。
天正十年、麦もたわわ、小満の日。奥州の小さな武家屋敷にて、兄、弥美景丸、弟、弥美飛影丸《やみのひえいまる》生まれる。同じ顔を持つ二人は、産まれて直ぐに引き離され、自分に与えられた漢字の意味を教えられるまで共に育つ事はなかった。
『景』は、景色、景仰、景福の『景』。日の光の当たる所全てを見渡し、高貴なる姫君を娶り、弥美家の弥栄を約束するという意味。
『影』は、影供、影従、影武者の『影』。日の当たる場所には必ずそれを遮るものがあり、その暗がりの中には鬼だの蛇だのが出る。それを退治し、『ヒカリ』を守ることが使命であり、産まれた意味。美しい物で溢れた弥美家の前から、汚い物を一掃する。その為には、光であってはならない。光が見つけられない場所にいなければならない。『影』の中に棲まなくてはならないという意味。
そして二人は、弥美家が代々師範を世襲してきた威仮流妖刀道家元『宮下』の名を継承する為に、威仮流の数多の霊媒師を招き、鍛錬を積むことになる。特に弟飛影丸の鍛錬は、兄景丸に成りすますために教養を、兄を護るために剣と兵法とを学ばなければならず、過酷な毎日を過ごしていた。それでも幼い飛影丸が弱音を吐かなかったのは、偏に自分の使命に誇りを持っていたからに違いない。兄を護れと言う天命に従う、と。
「うわあああっ!」
「温い! 温いぞ飛影丸! 貴様、それでも兄とその姫を護る武士か!」
「申し訳ありません、飯篠さま。もう一度鍛錬をつけてください!」
「やらぬ。当代の弥美家は吾と付権院《ふけんいん》への敬意が足りん! このような未熟で太刀も握れぬ幼子に、兵法ではなく実戦を教えようなどと! 吾も見縊られたものよ」
「お願いします! 一日でも早く、某は一人前のつわものにならなければならぬのです!」
「やらぬ! 貴様にはまだ真剣を持つのは早い! 兵法も碌に学んでおらぬではないか!」
すると飛影丸は、徐に上着を脱ぎ、稽古に使っていた真剣の中心辺りを握りしめた。刃が、小さく薄い掌に一筋の傷を刻む。飯篠と呼ばれた女は、それをじっと見つめた。
「某は確かに、未熟者であります。なればこそ、威仮流最高峰の術師たる東海家一の術師、威仮東海卯音さまのお力を借りねば、精進できないのでございます。されども、卯音さま、飯篠さまに見限られたとあらば、この飛影丸は弥美家の穀潰し、景丸さまの健やかなるご成長を妨げるのみであります! ならばこの飛影丸、武士貴族暉《ひかり》家にお仕えする弥美家の家名に泥を塗る前に、この腸を礎とする覚悟もございます」
「…………。ふん、態度だけは一人前か。太刀が震えておるぞ、飛影丸」
「し、心中善なれば、武芸は人を助け、世を平穏と致します。故に己を完成させる努力をしなければならないとは、飯篠さまの教えにございます! 飛影丸は暉と弥美の礎となる天命を受けた者にございますれば! これを我が人の道、義の道と定めております!」
「…………。やれやれ、業が深いと言うものよ」
そう言って、女は持っていた木刀で太刀を弾いた。パッと飛影丸の小さな手から血が噴き出す。そのまま、脇腹を少し強めに叩いた。
「太刀も握れぬその手を傷つけるとは何事か! おい、景丸」
傍で木刀を振っていた景丸を呼びつけ、女は尊大に言った。
「この近辺で、大樹がある森はあるか」
「はい、城の裏に、薪用に栽培している森がございます」
「宜しい。景丸、そなたはここで木刀を振るっておれ。飛影丸、その森に案内しろ」
その日から、二人の修業は分かれた。技術も腕力も、飛影丸の限界点を常に維持し、勉学に励む頃にはばったりと倒れてしまうことも少なくなかった。もしかしたらそれは、飯篠の情けだったのかもしれない。
どこかで倒れ、死んでしまえば、或いは壊れてしまえば、この子は影武者として生きる道を閉ざされる。武士としては恥だろうが、分家としてだって、弥美家を支えることはできるのだ。いつかこの子供がそれに気づいてはくれまいか。そう考えたのかもしれない。
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天正十八年、暉家に待望の長男が生まれた為、その姉桐姫が、景丸に嫁いできた。もし暉家に跡継ぎとなる男児が生まれなければ、景丸が暉家に婿養子として入るという約束だったらしい。身分違いとはいえ、桐姫にとって、弥美家の屋敷は自分の庭その物。景丸、飛影丸とも昔馴染みだった。二人の関係、否、三人の関係は、暉と弥美の安寧を願うと言うこと以外にも、強い繋がりを持っていた。
「飛影丸、もう鍛錬は終わったのか? いつもは夕方まで稽古をつけていように」
「産褥が明けてすぐにいらして頂いたので、あまり時間が取れなかったのです」
「そうか、跡継ぎが生まれたんだったな。威仮流の中でも最も力のある東海家さえ我々弥美家に味方してくれていれば、宮下も安泰だ」
「作用にございます。……それに、弥美家には、この飛影丸がおります故、この弥美家と、お仕えする暉家の弥栄をお約束いたします」
「実に頼もしい。最近この東山道の各地で、反乱の種が撒かれていると草から聞いている」
「ご安心くださいませ。この飛影丸が身命を賭して御守り申し上げます」
「だが無理はするな。お前のことを、私は軽んじたことはないと言うことを忘れるな」
「有難きお言葉にございます。……では、滝行に行ってきます」
成長しても、飛影丸の身を削るような鍛錬は決して飛影丸を堕落させなかった。寧ろ妻を迎えた景丸と、桐姫を護る為に、心技体を益々鍛えていた。目標を見つけた身体は、飛影丸の意思に答え、着実にその実力を着けて行っていた。
「唵阿毘羅吽欠蘇婆訶、聞き給え為し給え見届け給え。我はその威に従うもの、我はその威を携えるもの。この身この腕この肉体の気が枯れ果てたらば我に与えたまえ授けたまえ賜り給う。この身この腕この肉体に邪鬼悪鬼巣食いたらば祓い給え清めたまえ救わせ給う。我は阿毘羅吽欠の威を借り正邪を定めるもの。聞き入れ給え為させ給え看取り給え。我は摩訶毘盧遮那の名の下に阿毘羅吽欠の威を借り此を行使する者なりや」
飛影丸が滝行に行く時は、何も精神統一の時だけとは限らない。激しい滝の水に打たれれば、どんな煩悩の火も消せると思うからだ。例えば――そう、自分に妻は出来ないと言う嫉妬だとか。
草分けとして生まれた自分が、同じように草分けとして戦に出る。その天命に付き添う姫などいない。例え景丸よりも剣術が優れていようと、教養があろうと、自分は一生独り。
…………嫉妬しない訳がない。影に、妻はいらないのだという当たり前のことを受け入れられない。まだ飛影丸はそれを受け入れることが出来るほど達観していなかった。
だがその呪いにも似た願望が、叶ってしまう時が来る。
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天正十九年、弥美家当主弥美景恒死去。嫡子景丸は名を景孝《かげたか》、庶子飛影丸は本格的にその天命を全うすべく、『影孝』と名を改める。
その直後、時の覇者に向かって大規模な一揆が起こった。暉家、弥美家、及び威仮流は覇者軍に従事。激しい攻防の末、一揆の首謀者は籠城戦に持ち込む。三本の川で護られた天然の要塞に攻め込んだとき、それは起こった。
「おいカゲ! 伝令だ、少し戦線を抜けろ!」
難攻不落の城を攻略していた時、こっそりと卯音の夫が耳打ちしてきた。卯音は出産を終えたばかりで、とてもじゃないが戦場に来られるほど回復していないとのことだったからだ。ここで功績を挙げれば、城で身を隠す景孝の名が上がる。少し渋ったが、この男の言う伝令とは、死者の霊が告げる伝令だ。速さに文句はない。鍔迫り合いをしていた刀に、鳴け、と、命じると、一本の稲妻が城を駆け巡り、敵の兵士達を無差別に襲い始めた。味方の軍でも、宮下流を理解している者は殆どいない。どさくさに紛れ、城を一階降りる。畳は血を吸い、刻まれ、唯の藁の敷布と化していた。死体の耳はなく、鎧は既に全て剥がされていた。今戦っている者は、正規の武士だけだろう。
「どうしましたか、寶藏院さま」
「直接聞くか? 拙僧の降霊を解除して、そいつを入れる」
「誰でしょうか」
「天遣城の門番だ」
今回の一揆で、覇者軍側の様々な城も襲われていた。影孝が出兵した時は被害のなかった天遣城も、その標的の一つになる可能性はあった。だがあそこには、通常の二倍の兵士が設置されて居る筈だった。直接聞く、と言うと、夫はカク、と一端頭を落とし、そしてすぐに顔を上げた。そして影孝を見るや、号泣しながら縋りついて来た。
「影さま! 天遣城が攻め込まれました! 陥落はしていませんが、増援も来ず苦戦しております! どうぞご帰還を!」
「景孝さまは? ご無事なんだろうな? 桐姫さまは!」
「まだ城の内部までは……しかし時間の問題です!」
「分かった……。寶藏院さまの御魂を戻して、お前は俺の乗る馬に憑け。寶藏院さまなら何も言わずともこの場に残って下さるだろう」
影孝は喋血の戦場を後にし、城の外で繋がれていた馬まで戻った。影孝には霊が分からない。入れ、と、命じ、その場に卯音の夫を残し、馬を駆った。
幸いなことに、天遣城には半刻とかからず辿りつける距離だった。城から煙は上がっていない。聞こえるのは雑兵の声だけだ。馬から飛び降り、敵陣を薙ぎ払う。門守り達は挙って、景孝と勘違いした敵兵がこちらへ向かってくる。恐らく城の危機に戻ったと思ったのだろう。好都合だ。
「穿て! 雷光丸!」
影孝の言霊に反応し、雷光丸の切っ先から光が迸る。その光は触れた者を瞬時に焼き尽くした。雑兵を片づけ、城の中に入ると、既に一階の階段で攻防戦が繰り広げられていた。ただ、影孝が気になったのは、その階段に、不自然に血の跡が上へ登っている事だった。嫌な胸騒ぎがした。雑兵共の頭を踏みつけ、階段を駆け上がると、そこには深手を負った景孝と、鳴き縋る桐姫の姿があった。
「景孝さま! こ、これは一体……! 何が、何が起きたのですか!」
「…………影孝、……」
死を間近にしている筈の景孝は、とても穏やかだった。胸に当てていた血まみれの手で頬を撫でてくる。その仕草は弱々しく、今にも力が抜けてしまいそうで。
「私は…………。お前のように、兵を、指揮することは……。出来なかった、よ………桐姫を……弥美家を………。暉家を……みやもと、を…………」
「なりません景孝さま! 死ぬるべきは影であります。光が尽きてはなりません! 貴方はこの城の光なのですよ!」
「………………」
何か言ったような気がした。だがそれも全て聞こえなかった。もう何も見えない、と、景孝は目を閉じる。その仕草は、優雅で、安らかで、そして優しいものだった。
「いや……いやです景孝さま! お願い、わたくしの傍に……!」
「桐姫様!」
極楽へ旅立とうとしている兄の邪魔をしてはならない。自分は影武者。『本体』を失ったとしても、やらなければならないことがある。力ない掌を握り、影孝は誓いを立てた。
「お約束します。貴方の遺したもの全て、この弥美影孝がお守りします。……桐姫様、失礼」
影孝は景孝の装いを剥ぎ取り、綺麗に成りすますと、再び戦地へ出た。
「しかと聞けいこの戯け者共! 天より遣われしこの城が落ちることはない! 祖の怒りここに極まれり、然らば去ね! さもなくば死ね! 薙ぎ払えェ! 雷光丸!」
その時雷光丸に集まった熱は、影孝の籠手をも焦がした。
天正十九年皐月の月、二十日。弥美景孝死去。享年九歳。後、弟影孝らがこの乱を鎮圧。
同年神無の月二十一日、桐姫、影孝との婚姻が執り行われる。目的は、暉家と弥美家の血をひく跡継ぎを産む為だった。畜生腹とはいえ、影孝は兄に生き写しだ。例え家臣の大半が気付かなくとも、景孝の血を受け継ぐ子供は生まれる。そう言う目論見であった。
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慶長五年。葉月の終わる頃。影孝と桐姫の間には、既に五歳になる嫡男、嘉島が生まれ、弥美家には平穏な日々が続いていた。既にこの一帯は大きな大名が治めている。嘗ては建御雷神《たけみかづちのかみ》に習ったと謳ったこの暉家、弥美家も、やがてはこの戦国の終焉と共に役目を終えるだろう。そして、その日は近い。心のどこかで、誰もがそう思っていた。そしてその時、最後の戦に出るのは、この嘉島ではなく、影孝だ。
「そう言えば影孝、先日衣替えの準備をしておりましたら、景孝さまの辞世の句が」
「拝見しても?」
「ええ、貴方宛てのようですから。……まあ、嘉島ったら、あんなに泥を付けて……」
桐姫は影孝に文を手渡すと、中庭で蹴鞠遊びをしている嘉島の所へ寄って行った。文の墨が所々滲み、あの方がお隠れになってから、もう九年も経ったのかとしみじみ思う。
句は二句あった。一つは景孝の字。もう一つは桐姫の字。恐らく戦先立つ影孝に渡し忘れたものだろう。
『仇花の 実付ける時其は 散ぬる時 鳴る神と共に 実を結ぶべし』
『みなわなす 命と知りて 咲く花は 椿の姿に似て 君は安し』
字は震え、ところどころ滲んでいたり、文に不自然な歪みがあったりしている。自惚れでなければ、二人は少なくとも自分の出陣を惜しんでくれていたのだろう。影武者として生涯を捧げなければならない自分のことを、あの方はいつも案じてくれていたのだから。
「桐姫様」
「はい、何でしょう」
「月白に 日出ずる城の 草影に 出でて還らん 天命の花」
小首を傾げて、桐姫は嘉島を抱きかかえ、戻ってくる。無邪気に纏わりついてくる嘉島を膝の中に抱きかかえ、影孝は微笑んだ。
「私も、辞世の句を詠んでいました。…………お伝えすることは、叶いませんでしたが」
「影孝、確かに貴方はわたくしの夫の弟ですけれども、嘉島の父は間違いなく貴方ですよ」
「ありがとうございます。……嘉島も、こんなに小さい内から宮下流を学んでくれている……。景孝さま、父上に見せたい姿でございます。宮下が看板は堕ちておりません。最後の一人がいる限り、末代まで続くでしょう…………。…………明日には発ちます。恐らくこれが――最後の戦です。必ず帰って、嘉島が家元と家督を継ぐまで、桐姫と嘉島をお護りします」
桐姫はそっと笑って、影孝の頬を撫でた。
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慶長五年長月の月十五日濃州。宮下弥美影孝、最後の戦が終わった。
戦は東と西に分かれた総決戦であり、勝ったのは東。そして暉、弥美、また威仮も東軍に従事した。しかしその戦いの行く末を、影孝は見届けることなく、兵糧を勝手に拝借し、馬を北へ駆っていた。
劣勢だった東軍と、優勢だった西軍は、東軍総大将の采配で大逆転した。勝つるべきは今、一気に畳み掛けていく、正にその激戦地で、卯音が降ろした門守の霊が影孝を呼び出し、天遣城への襲撃を伝えたのだ。例えこの戦に勝っても、残してきた桐姫や嘉島が次の世代を担えない、そのようなことはあってはならないのだ。影孝は何も言わずに自分の乗って来た馬の手綱を握り、天遣城へと急いでいた。たかが妖刀使い一人いなくても、戦況は変わらない、そう判断したのだ。
七日七晩、馬が過労死しようとも、馬に門守の霊を入れ、碌に休みもせず走り続けた。> 門守に寄れば、濃州で戦が始まった正にその日、一人の剣客が、宮下の道場破りに訪れたのだと言う。師範は今いない、と、師範代が応えると、ならば実戦を見せて欲しいと、やおら刀を構え、弟子の一人を斬り殺し、そこから城崩しが始まったのだと言う。門守が死んだ時点では、師範代は生きており、城に残った少数精鋭が食い止めていたというが、劣勢だったとのことだった。それが七日前。絶望的な状況だが、戻らない訳にはいかない。
城にたどり着いた時、下男も女中も、誰一人として頭を持っていなかった。まるで何かの呪いのように、綺麗に頭だけを切り落とされている。戦場に必ずと言っていい程出る悪鬼の類ではない。この者達は、包丁だろうと熊手だろうと、剣客に立ち向かったのだ。だが無念にも、自分の身を守る事すら出来なかったのだろう。血の臭いはまだ固まっていない。天守閣に行く階段の途中で、師範代が仰向けになって倒れていた。首は繋がっている。
「師範代! 大丈夫か、何があった!」
だが遅かった。師範代を抱き起こすと、ごぽり、と、血が口から溢れ、そして、重みで首が捥げた。身体はまだ温かい。間に合うかもしれない。階段を駆け上る。
そこでは激戦が繰り広げられたのだろう。畳は何枚も外れ、調度品は全て真っ二つにされている。血だまりは広がり続け、あと一歩、半刻でも早ければ、と、死者たちの未練が渦巻いていた。
「桐姫様! 嘉島!」
奥の部屋まで進むと、そこには桐姫だけが倒れていた。桐姫は蹲り、小さく震えている。生きている! だが抱き起こすと、胸には刀身が短く残った、護り刀が突き刺さっていた。
「桐姫様! 何が――嘉島は!」
桐姫は安心したように微笑んだが、もう喋る事は出来なかった。顔に触れると、もう唇は青褪め、氷のようになっているのが分かる。間に合わなかったのだ。
「…………嘉島はお任せください」
震える指先を包み、きつく抱きしめる。刃は影孝の拳に固定され、桐姫の身体を貫いた。