其之伍 北道探せ、南にあり! 之巻
「待」
「て」
「や」
「おらああああああああああああああああ!」
おうおうおうおう、気張っとる気張っとる! ええぞええぞ種子島、この先で迦楼羅天か何かおったら潰して焼鳥にしてやろ。
奈落の底に真っ逆さまに落ちたおら達は、そのまま種子島の言う通りに、逃げる餓鬼共を追った。よぐ分かんねげど、どうやらあの餓鬼共が出雲ば掠って、どこぞへ行くらしい。群がる腹の膨れた餓鬼共は、刃が惜しいと武蔵とおらで蹴り飛ばす。種子島の脚にへばりついて、どうにかこうにか、出雲とおら達を引き離そうとしとるようじゃったが、そうは問屋が卸さねえっちゃ。おまいの子どんに湧く悪か虫を払わんば、かかあ失格じゃんね。
突然種子島が立ち止まった。何ぞ何ぞと近づくと、跳んで渡れそうな橋のない堀。その向こう、ご立派な門の代わりにずうんと仁王立ちしていたのは、牛や馬やの動物の頭をくっつけた異形達。あれが獄卒か。絵巻物より何倍もがばいおっかねえやっちゃな。あすこにあんのは、『死』っちゅー念、縁そのもん。
縁が結ばれれば、二度と断ち切れない。
「だからどうしたってんだあああああああ!」
武蔵が奮い立たせながらその溝、じゃもんが、奈落の裂け目を飛び越える。伸ばした両手には、極当たり前、とでも言うように、ちゃっかり刀を握っとった。襲いかかってくる獄卒を押し戻し、おら達の足場を作る。
「何やってんだ! 早く来い! 出雲はこの先なんだろ、種子島! 兄弟も守れねえ男が女なんざ守れるか! こっちに来い! 怖くなんかねえぞ! ああそうだ、怖かねえ!」
雄叫びを上げながら、刃先を振るわせながら、武蔵は獄卒、うんにゃ、死そのものと戦っていた。おら達を『そっち』に呼ぶ意味もわかっとるんじゃろか。畜生、くそったれ、悪態が臓物のごつ、ぼとりぼとりと落ちよる。
安心せ、ダラ武蔵。おめえはぼっちじゃね。
「来い! おらが受け止めちゃるさね!」
吸い込まれる黒い観音さんを飛び越え、今にも倒れそうな武蔵の背中に背中を合わせる。
「お、おいらだって出来るもん! たぁあ!」
ぼすっと胸の中に種子島が――入ってこなかった。もう少し、と言うところで、岸の縁に叩きつけられる。慌てて手を踏みつけ、よいしょよいしょ、と引きずり出すと、種子島の腰から下に、燃えさかる炎の中、肉と骨を延々と焼かれ続けている餓鬼が一体、くっついちょった。こりゃ熾燃か?
「こりゃ! あっち行きぃ! 邪魔じゃ!」
蹴り払うたんが、あっち! ちんちんにあっち! だども種子島は、カクカク動く熾燃を見つめとる。なんぞ話でもしとんのけ?
「……うん、わかったよ」
種子島が炎の中の、骨と筋と肉と皮膚のこびりついた小さな手を握る。途端に種子島の身体も炎に包まれよった。まるで死なば諸共、道連れだ、同罪だ、とでも言うかんごつ。種子島も服が燃え、脚半が燃え、髪が溶けて焼けて尚、踏みしめておらを見た。
その眼は、もう立派な田力の眼じゃった。
己で決め、己で動き、己で始末をつける眼。
その炎は蛇んごつに飛び出し、武蔵と切り結んでいた獄卒の一体を絡め取り、細く黒い観音さんの裂け目の中に放り込んだ。
「武蔵、日向、おいらはここであの獄卒達を食い止める。『この子』が言うには、出雲は多分このずっと先、無間地獄に行くんだろうって。だから二人で迎えに行って」
「…………。分かった」
死ぬなとは言わんかった。もう死んでるからとかじゃね。そりゃ侮辱じゃにき。
おら達が跳んだ背後で、種子島の言霊が聞こえてくる。その声は、もう立派な男の声だ。
「そうだよ、おい等の力は人を助ける為の物。だから悔しかったよね。何より吃驚したよね。おいらも手伝うよ。だから力を貸して」
「我等はその威を借る者、我等はその威に化ける者。現世に幾度現れその威は仮初なりても御魂は万軍に値すとてその名を呼ぶ。我等が神口に応え、その威を示すのならば、我等が霊、我等が念を贄となさん」
「来タレ! 護法善神兜跋毘沙門天!」
雷鳴が轟き、種子島最期の戦いが始まった。
===
後ろなんざ振り向かん。息子が送り出してんやで。こぴっと気張って引っ掴んで来んと。
「種子島達、よくやってるな。あっちに力が駆り出されてるらしい、道が易い、ぜっ!」
がす、と、浮かび上がってきた髑髏を踏みつけ、武蔵が言いよる。ここは二の丸じゃな。
「あたぼうよ、おらの息子じゃ!」
「んじゃまあ、男のコにはもうちょっと頑張って貰おうか、ねっ、とぉ!」
上からぶら下がってきた真っ黒な得体の知れんやっちゃ、流石に切り捨てた。んが、すぐにハッとして足を止める。獄卒、ではなさそうじゃ。糸によって引っ張り上げられ立ち上がったその亡者を、武蔵は呼んだ。
「カリュウ……? お前、な、何でここに……」
「…………。それが私の本当の名なのですね」
血走った瞳でこちらを見るカリュウと呼ばれた亡者は、おらの記憶が正しければ、書文と小雪はんたちが言ってて、種子島を殺した奴じゃった。武蔵はてげえ狼狽しとった。カリュウだか書文だかは、武蔵に言うた。
「しかし今の私は貴方を知らない……」
あ、カリュウって、前に武蔵と死闘やって墓こさえた奴じゃったか? おらには同じ人間にゃ見えんが……。死にはったからやろか。
「いえ、私は何も知ることが出来ない……。呪禁に縛られ、今はこの身体を縛る糸に頼りて、浄瑠璃の如く生臭い演目を繰り返すだけ……」
ギチ、と武蔵が歯ぎしりをするのが聞こえた。さっき裂け目を渡ったときよりも心に、声に、力が籠もっとった。刀でなく脚で肩を蹴り飛ばし、反撃に出るその腕を掴み、背負い投げる。こいつを嘲笑うかのように垂れ下がる糸共は、斬っても斬っても紡がれちまった。そうこうしているうちに、戦う気力の無い武蔵を、抗えん殺意を翳した書文が襲う。
「このような戦い方……。貴方は好まぬのでしょうね、高潔なる武門の徒よ。しかして我が眼前に立つ以上は、どちらかが倒れ伏するまで斬り合い殺し合い、尚も辱めるのみ……」
「へ……っ! いつかの決闘の時も似たような事言ってたっけかなァ。だけどな、『カリュウ』。あの時とはちょいと、優先順位が違う」
一瞬、書文の気が周囲に散る。その気が及ぶとこに、おらはいねえ。そのまま狙いを外さず、苦無を圧し込み首の骨を外す。だがそれでも、うっ死ぬ様子がねえ。ただ突っ伏して、苦しんどるだけじゃ。首の後ろが裂けて、苦無は確実に貫通して喉仏を砕いて、後はオツムの重さで千切れるだけだろうに、それでも生きとるんよ。多分介錯は出来へんのや。
そこに、二本の蜘蛛の糸が綺羅綺羅しく下りて来よった。武蔵はハッとして、その蜘蛛の糸を掴むと、もげかけた頭に結びつける。こいつ、この亡者をこっちの糸にくくりつける気じゃな。おらも糸を引き寄せ、亡者の腰にぐるぐるに巻き付ける。こげん切れそうな糸じゃ、こぴっとまわさんと千切れてまうで。
「よし、いいぞ! 引き上げてくれ!」
武蔵はこの糸に心当たりがあるみてえじゃ。というか、なんか会話しとる。
「ああ、大丈夫だ! 俺たちゃまだこっちに用があるんでね! こいつの方を頼みてえ! なあに、帰れなくなったらその時ゃその時だ! 恩に着るぜ、ありがとうな! 巫女共!」
武蔵がそう言うと、ゆらり、くらり、と、亡者の身体が持ち上がり始めた。武蔵はもげた頭を撫でて、言った。
「気にすんな。そんなことより、『向こう』に戻ったら礼を言ってくれよ、俺の分まで」
頭が何かを言おうとしたところで、ずらららららら、と、凄い勢いで糸が上に引っ張られていった。その勢いに、初めから括り付けられていた糸が弾き飛ばされていく。ぽたぽたと滴ってくる滴は、透明だった。雨を握る武蔵の表情は、怒りに強ばっとる。てげ怖ぇ。
「…………。日向、どうした? 行くぞ」
こいつ、気づいてねえなあ……。でも言うのもおっかねえし、と、おらは武蔵に踏み砕かれた餓鬼の首をひょいと避けて続いた。
===
鉄の茨の森を抜けたところで、種子島が待っていた。両脚には先ほどの森でおら達が手こずった茨の鶴が巻き付いて、まるで人魚や。種子島はおら達に気づくと、助けて、と手を伸ばした。あっそ、ご苦労さん。
「ちょ、待って! 確かに失敗しちゃったからって見捨てないでよ!」
「うっせ、俺にゃそんな息子はいねえ」
「んだんだ。おら達にんな息子はいね。出直せや。かかあの目ン玉ひん剥くにゃ、ちょいとお主ゃ責苦も徳も足りんちゅうこっちゃ」
「なんだよう! 強くない男はいらないってのかよう! 冷たいよ日向! 武蔵も!」
だー! しつこい! そんな汚え手で触んな! もういい、化けの皮剥がしちゃる!
種子島の頭を踏みつけ、おらは言った。
「ええ加減にせんと、ちんちんの鉄の上にちんちんかかせてちんちん踏み千切るぞ、こん伺便如きが。馴れ馴れしいわ」
「そーゆうこった。確かに種子島はお武家さんの家から鶏失敬したことはあるがな。そりゃ俺を助けるためだ。邪心なんか持っちゃいねえ。何より俺たちよろず屋の報酬は、そちらの『人情分』。種子島が黒縄地獄なんかに来る筈がねえんだよ。分かったらさっさと失せろ。俺達ゃ忙しいんでね」
どかっと蹴り飛ばすと、種子島はガチガチと鳴らした牙の向こうから、しょんべんを吐き出した。ふん、おらの息子になりきるには業の深さも浅さも足りんかったゆうこっちゃ。
だども、種子島になりきった声が鬱陶しい。気がおかしくなりそうじゃ。耳を塞いでも聞こえよる。目をばひん剥いても見えよる。
「う……あ、子が、泣きよる、おらの――」
「日向!」
目の前が歪んできたとき、武蔵がおらを力強く抱きしめた。途端に歪みが武蔵の着物に吸い込まれていく。武蔵の腕も震えていた。
「……しっかり俺の手握ってろ。お前は俺について来ればいい。……教えろ、日向。この先の地獄はどんな所だ? 騙されないように知って起きてえ。この先、ずっと二人でいられる保証もねえからな。出雲は無間地獄とやらに行くんだろ、そこに至るまでに何がある」
武蔵の眼は強かった。ぎゅっと胸を掴んでいた手を離し、顔を拭った。おらの顔を見て安心したのか、武蔵は両手を解いておらの手を握りしめた。おらもそれを握り返す。
「おらが知ってるのは、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無限の順さ」
「ひえー、まだまだ遠いなあ」
「因みに衆合から大焦熱までは、武蔵ならどこにでも行きそうな場所じゃけえ、用心せ」
「そらおっかねえこっ――」
その時、ぞわっと凄まじくしばれる気が足下から駆け上がってきた。凍り付きかけたおらを、武蔵が腕で包んで転がる。おら達の居た場所は真っ黒に凍り付いて行き、ビシ、ビシ、と、白樺の弾けるような音がした。その裂け目から、人の顔に見えんようでもない間欠泉が吹き出しよる。注意深く周りを見ると、おら達の居る周囲は全て、間欠泉が今にも吹き上がりそうな兆しがあった。やべ。
だども、武蔵の放つ殺意の方が、がばい強い。背中から一枚一枚、何かの花弁が現れては消え、それは様々な腕の形になっていく。その腕は関節が曲がっていたり、増えていたり、逆に減っていたりすんじゃけど、皆鎌だの鋤だの包丁だの、とにかく刃物を持っとった。その腕の付け根には、無念の相を浮かべた木乃伊みてえな顔があって、その口から腕が生えていた。
「おい、てめえがそこに居るのは分かってんだぞ。決着つけようじゃねえか、イペタム――いや、厳島流!」
すると間欠泉は飛び散り、その中に一人の老人を表した。イペタム? でもありゃ、前に氷点丸を手に入れた時の斬一倍でねえか?
「日向、氷点丸を持ってけ。灼熱地獄から護ってくれる。俺の選んだ得物だ。絶対だ」
「だ、だども武蔵、あの妖異――」
「分かってるッ!」
その声は、嘆きの聲じゃった。何人もの無念が重なり合って吹き出した、怨嗟の聲。
「女のお前でも分かるだろ。目の前で家族を殺されて、それを護る事が出来なかった無念ってもんがよ……。んで、よぉ爺。いつぞやは世話になったが、こりゃ俺の勘違いでいてほしいんだがねえ……。アンタ、慶長五年の葉月の頃、『弟子を一人とらなかったか?』」
そう言いながらも、武蔵の質問は質問じゃなく、確認だった。後ろから、むずむずと腕が生えてくる。それぞれの腕は、独立した殺気と嘆きを生みながら、武蔵の背後を包む。イペタムがにんまりと笑った唇の縁を、自身の糸切り歯が切った。
「あまりに昔のこと故に朧気ですが――確かに、その頃に軟弱武士の哀れな嫡男を拾った覚えがありますね。そして彼は一人前の剣客になり、城州で活躍していましたが、実力を傲り鍛錬を怠け、風来坊に討たれ――」
そこまで言って、ぎゅん、と、腕の一本がイペタムの前に包丁を突きつけた。イペタムは何もせんと、その刃を胸に仕込んだ刃物で打ち砕く。んが? ありゃ仕込みじゃねえ?
「――ああ、そうだな。分かるぜ、俺も男だからな。目の前で殺されて無念でない筈がねえ。俺も同じだ。俺の身体を貸してやる――者共! 今! この場で! 敵を討てッ!」
武蔵、と、止めようとしたとき、武蔵の背中の顔共が吠えよった。でら怖ぇ。
「さあ行け日向。このクズは俺達に任せろ」
「…………。ああ、必ず迎えに来い、ダラ!」
氷点丸を地面に突き刺すと、灼熱の間欠泉が凍り付き、地獄の底が口を開く。一々走っていられっか、もう時間がねえ!
「唵阿毘羅吽欠蘇婆訶、聞き給え為し給え見届け給え。我はその威に従うもの、我はその威を携えるもの。この身この腕この肉体を贄とし、無念の御霊に刃を与え、寄せ給え与えたまえ授けたまえ賜り給う。我は阿毘羅吽欠の威を借り正邪を定めるもの。聞き入れ給え為させ給え看取り給え。我は摩訶毘盧遮那の名の下に阿毘羅吽欠を従えるもの也や。――さあクソガキ、覚悟しやがれ!」
何百という千手観音のような腕が、イペタムと斬り合い始める音がした。
===
おらは氷点丸にしがみついて小さくなり、焦熱の空間を落ちていく。氷点丸のすがの鞘は、おらをしっかりと抱きしめて、餓鬼共の指を灼き切る。ひゅーん、と、文字通り風を切り、亡者の肉の床を斬り、只管只管落ちていく。その間にも、暖かいすがの鞘から、おらの心に誘惑がかかってきた。出雲がいるだろう無間地獄がどれほどおっかねえか、延々と繰り返してくるんじゃ。だども、息子も送り出してくれとるし、あのダラにも任せられたんじゃ。よろず屋紅一点、天下一の働き者の日向様がこの程度でめげてられね――。
ぼよよよん、と、大きくすがの鞘が弾んだ。もう下はない、っちゅうこっちゃな。鞘は力尽きて、おらの着物に染み込んで少し身体を冷やかしてくれたけんど、おらの手元にはやっぱり、苦無が一つだけじゃった。よかろよかろ、忍ちゅうんは結局は身体よ、身体。
出雲ー。出雲ーっ。出雲ー! 出雲ーっ!
おらは叶う限りの声で叫んだけんど、四方の狗ころの遠吠えにかき消された。それだけならええんじゃけど、それをきっかけに、もん凄い量の鉛の雹が降ってくる。いっで! しかも、なんか臭え。あの狗ころ、一体何喰えばこんな体臭になるんじゃ? とにかく、ずるずる縦横無尽に動く蛇の逆鱗の上を走ったどこか、という訳じゃないんやけど、この鱗、なんか一方に向かってるみてえなんさ。ぐちゃぐちゃに散らばってるようだけんど、遠くまで見ると、確かに一方に向かって動いとる。出雲を責め苦に遭わす為じゃな、そうは問屋が卸さねえ、待ってろこのバカ息子!
なんか走ってる内に、だんだんと辺りが熱気を含んできた。おらの着物に染み込んだ氷点丸が、いい仕事しとるからのぼせはせんが、あんまり時間がかかると帰る体力が無くなる。あん? どこに帰るのかって? 知るか。とりあえず四人揃えばええんじゃからの。
ん? なんか足下が、あ、おわああああ!
突然鱗が下り坂になり、滑り出す。いででえ! 逆鱗が刺さる刺さる! なんじゃこりゃ、まるでおろし金じゃ! おらを擂ってもうまかもんは何もでんちゃ! ――うお!
危ねっ! あんぶね! 慌てて逆鱗に右手首突き立てて、宙ぶらりんになる。下で、真っ黒な溶岩の河が沸騰しとった。無間地獄の河……黒灰河か? うぉんうぉん響く悲鳴が、頭蓋を揺さぶる。おらの手首がおらの体重に耐えられなくなってきたらしく、徐々に傷が開いていく。まあ仕方なんね。
「どおおりゃああああああああ――ーー!」
ごき、と、骨毎もげたが、なんとか対岸に飛び移る事は出来た。へー、死んでも血って出る上に、出し過ぎて、もうくらくらしよるがな。どうせ使い物にならんので、右腕の袖をきつく縛る。んー、本当は焼き潰した方がええんじゃろうけどのう、黒灰河で焼く気に無んね。そのまま気絶して呑まれそうじゃ。
出雲! どこじゃ! おるのは分かったんで、返事せんかいこのバカ息子!
「ひゅう、が……?」
真っ正面の逆鱗の塊から、出雲の小さな霞草みでえな声が聞こえた。やっぱりそうじゃ、出雲はあの何だかよく言い表せない黒い空間の中におるんじゃ!
「こん寝太郎が! 手間ァかけさせやがって! とっとと帰ぇるぞ!」
助けて、という溜息が聞こえた気がする。おらおらおら! 退け退けこの蝮共が!
血に群がる刀の虫も何のその、死体の水をかぶった蝮の蜷局の奥に、小さな子供が座っていた。大切そうに、何かを抱えている。そいつの頭を足がかりにして、蝮の頭の方に上っていった。ぬるぬるしてなきゃ、抜け出せねえなこりゃ。――おうわ!
「どこに行くの日向……。助けに来てくれたんでしょ……。助けて……。ねえ助けてよ……。助けてよぉ……。助けてたすけてタスケテ――」
「じゃかましいわ! おらにはそんなてげえ爺だの婆だのの息子ばおらん! おらん息子のとこ行くばい、おみゃあらなんか知らん!」
「たすけてたすけてたすけたすたす――」
きゃー! うぜえ! だるい! 邪魔! そんな見せかけの虚仮威しなんざ、おら達にゃ効かんちゅうに、学ばん男子は早死にするど。……や、もう死んどるんじゃけどな。
正体を現し始めた細い蝮を振り切って、漸くドでかい蝮の頭まで行く。黄色くなった毒牙を剥き出しにして威嚇して来んが、好都合じゃ。ぐわっと口を開けたところで、思い切り口の中に飛び込む。見かけによらず細い体内は熱くて息が出来ない。奥州の真冬の海で牡蠣獲りしてる方が余程楽じゃ。でもこの先に出雲がいるのがわかるんじゃから、行くべ。
ずるずるもごもご進んで行っと、すかっと手が途中で空振った。と思った瞬間、ぶりっとひり出される。人をクソ扱いしやがって!
すると、二頭城の本丸の中庭の池に落っこぢだ。あっちちち! 冷て! ただ、真白の雪の代わりに真白の炎が吹き上がっとる。ここは、処刑場じゃ。その中で、きん、こん、きん、こん、と、何かを叩く音。直感で分かる。出雲がそこにいる! 池を出て本丸に行く。そこにおら達が貰った寝室があるんじゃ。
「やろかぁ、やろかぁ、くれてやろぉかぁ」
女の声じゃ。地獄に女? いや、それより。
「御仏穢して畜生道を突き抜けて、尚も衆生を誑かす鬼に、どんな罰を下してやろかぁ」
別の声。今度は男やが、知っとる声じゃ。
「やろかぁ、やろかぁ、くれてやろぉかぁ」
また別の声。成程、そういうこっちゃか!
「やろかぁ、やろかぁ、くれ――がふっ!」
「人の息子に手ぇ出すダラにゃ、かかあの拳がお似合いじゃ、退けこのド腐れ獄卒らめ!」
奪い取った槌を左手で握ると、途端に左手の肉が腐り落ちて骨だけになってしもた。どんどん肉は腐って行って、あっというまに肘まで腐る。知るかボケ。漸く見つけたぞこのバカ息子! 獄卒共を槌でタコ殴りにして、獄卒共が槌でタコ殴りにしてた真黒な鉄能面を口で挟んだ。だって両手使えんのじゃもん。
ぱきん。
すると能面が割れた。おらを拒否するかんごつに。もう左腕は全部腐り落ちてた。右手で持ってくには心許ねえ。ほいだら、入れる袋は一つしかねえな。ぱくぱく小さな欠片を飲みこんで、全部腹に収めた。うっし、これで大丈夫じゃ。一緒に帰るったら帰るんじゃ。
「日向さま? 何故こんな所に?」
雪も降らんと、笠を被った小雪はんが居た。
「白々しいわ、初めからおら達じゃなく、出雲をここに引きずり込む事が目的だったんじゃろ、この鬼畜生めが!」
「何を言っているのか分かりませんわ。わたくしも起きたらこんな所に――」
「しぇがらしか! んじゃあ、聞いてやンぞ。そこでおらにタコ殴りにして、おらの息子をこんな平ぺったくしよった獄卒共、ありゃ、おらにゃ見覚えあんど。――兵衛っぺ、中弥ちゃん、それに――あの『大雪経』とやらを読みに来た坊主共の正体、コレじゃろ?」
そう言っておらは、キンコンカンコン人の息子ば叩きよった鎚の一つを握りつぶした。ふん、本物が滲み出てりゃ、幾ら鉄だの銅だのに化けても壊せりゃあよ。
小雪はんはそれでもシラを切って泣きよる。
「この奪衣婆がッ! んだば、自然と大御所ってもんが分かるんじゃが!」
おらは全身を樫の古木みたくして、小雪はんの首を叩き折った。小雪はんは一瞬、悔しそうに顔を歪める。だからどうした!
「さあ、鬼だろうと仏だろうとカミだろうと痛いもんは痛かろう! 姿見せえ! 神魁直義――違ぉな。奪衣婆が夫君、閻魔羅闍!」
一瞬にして腹が破れ、胃袋を掴み出された。胃袋の中に納めた出雲を引きずり堕ろす心算じゃな。おらは迷いなく脇腹を斬り、胃袋を掴み返す。舌が喉にぎっちりとひっかかって、息が出来ねえ。だどももう死んどるんじゃから、多少痛かろうと苦しかろうと関係ねえ! 絶対ぇ絶対ぇ、おらん息子は渡さねえ!
「何故? 主等は此処へ来る理由は有らなんだ。何故須弥山を捨て、衆合を越え、輩まで捨て此処へ馳せ参じた。『コレ』は人ではない。畜生でもない。ただの呪具、落魄になる事すら出来ぬ意思のない呪詛の為のモノよ」
なんじゃなんじゃなんじゃなんじゃ!
知ったような口聞ーやーって! 黙ってウゴウゴ呻いてりゃあ、いい気になりよって!
おらは脇腹の方にどうにか胃袋を引き出し、すぐ上を斬って舌を吐き捨てた。いや、別に吐き出さんとも喋ろう思たら喋れンじゃろうけど、どうしても吐き捨てたかったんじゃ。
「そりゃオメエ、浄瑠璃の見過ぎでお目々がバカになったんじゃ! おっかあが息子ば傍において何ぞ不思議がる事がある! なーにがモノじゃ、呪具じゃ、畜生じゃ! 人だろうとクソの塊じゃろうと、出雲は出雲じゃ! おらん息子じゃ! 誰にもやらん、おら達は何処に行くんにしても四人一緒じゃ! 頭四つの比翼の鳥たあ、おら達の事ずら!」
その時、胸元がしゅるると何かに巻き付かれた。髪じゃ。いつだったか種子島がくれた髪。そうか、終わったんじゃな。ちと逆じゃが、迎えに来よったか! 胃袋の中の出雲もしっかり巻き付けて、雷が落ちるより火柱が弾けるより、早く引き上げられる。それでも猩々みてえな奴は追いかけて来よって、少しばかり奴の方が早い。けっ! 娘ッ子の足なんざ触るな! おらが足を引っ込めると胃袋だけを引き戻そうとした。やらんやらん!
その時、すっぱりと腕が切り落とされた。血にまみれたおらの帯留めから、一本の腕。
「おいこら、クソ猿。テメエが何者かは別にしてだなぁ……――俺の女に汚え手で触ってんじゃねえ! ――行け! 日向! このバカ猿を捌いて鍋の具にして帰るからよ!」
腕はずるずると、背中を血塗れの蓮華のようにした武蔵を引きずり出し、しゅるりと外へ出た。おらは武蔵を呼んだけど、種子島の髪は迷い無くおらを引き上げた。地獄が叫ぶ。
「待たんかこらああああああああああああ!」