其之参 三界渡る怨念に御用心! 之巻
掌に握りしめた縄を見られないようにして、髪を解いて、なるべくやつれたようなどろんとした眼をして、よたよた歩きながら、あちきは件の見世にやってきやした。
「おう、お疲れさん。この女だべか、客と心中未遂して吉原を追い出された大夫ってのは」
「おう。萎えるような傷は着いてねえから、値引きはしねえぜ。言い値で買ってくれや」
「贅沢は言わねえださ。この所隠し部屋行きが多くてモノが無くってねえ……」
女衒はあちきを座らせやした。見世の番頭が、凡そ商品を扱うとは思えない力で、あちきの顎を掴みやして、品定めをしなさります。
「フーン、これが将軍様ご乱心の種になったって言う大夫ねえ? 化粧してねえからかな、貧乏くさいし、何より尻も足も華奢な感じがしねえ。何かい、お江戸の法じゃ、こんな農民の小娘みたいなぶっとい足と尻が逸ってんのかい」
ひくひく、と、あちきを縛ってる女衒は顔を引きつりやした。
「さあな。お偉いさんのオコノミなんざ、下々のシモのシモに居るような俺達に分かるもんかい。そんなことより、さっさと仕事を終わらせたいんだがね」
「あいよあいよ、分かった分かった。おらだって味見してえところを――」
そこまで言った時、あちきの手首を掴んでいた女衒が、ぐいいと引っ張って、自分の肩口にあちきを引き寄せたのでした。
「何度も言うが、こいつは吉原の大夫だ。遊女の中の遊女、そんじょそこらの旗本じゃ手の付けられねえくらいの値段で売れてたのさ。三味線も唄も一級品、ヤるだけが能のおたくの見世の客なんざ、見るだけで眼が潰れちまうぜ。そこを曲げてやってるのは、俺達だってことを忘れるなよ。精々こいつを使って稼いでおけ。江戸でのほとぼりが冷めたら――今の三倍の値段で身請けしてやる契約だ」
「分かってるってばさ。ささ、もう手を離しなすってや、お江戸の。ナァニ、陸州にだって殿様はいるださ。こん娘ァ、そんお方の専属になってもらうべ」
女衒はもう一睨みした後、あちきのほっぺを挟むと、自分の方に向かせました。目元は、あちきのよう知っとる、優しい武士の目でござりましたが、きっと番頭さん達には見えてないのでありんしょう。
「じゃあな、おひな。達者でやれよ」
「あい」
良い子だ、と、あちきの額を人撫でし、女衒はもう振り返らないのでありんした。
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申し遅れました。あちきの名は日向。よろず屋の紅一点、日向にござります。今は訳あって名をおひなとしておりますが、それはそれ、仕事の為でござります。
あちきは売られたこの廊で、『小袖』という名を貰い、一番きれいな唐衣と、一番広い本部屋を与えられたのでありんすが、三味線は糸が今にも切れそうで、バチはひび割れておりました。踊るにも足袋はもらえず、畳はささくれていて、とても踊れるようには思えませんでした。あちきは陸州のお武家様のものになったはずだったのでありんすが、その日の夜から、小金持ちがわらわらと集まって来て、あちきに触れようとしましたので、煙管で全員ひっくり返してやったのでござります。
番頭どももあちきの気位の高さは、折檻しても直らないと分かってからは、大人しくお武家様だけを、あちきのとのたちにしたのでありんす。
「お前が新しい『小袖』か」
初めてお会いしたお武家様は、それはそれは丁寧な物腰で、あちきに酌をするようにおっしゃんす。あちきは答えました。
「あい。吉原の方から、七日前に来ました」
「……己の知っている小袖は、こんなに大きな身体はしていなかった」
「はあ」
「……腕も、もっと細かった」
そりゃ、くノ一でありんするあちきと、大夫の腕は大分違いましょう。
「尻も、そんなに大きくなくて、子供なんざ産んだことのないような、おぼこい尻だった」
死ね。
「……お前は、小袖じゃない」
「ほんに、おてきは小袖姐さんをお大切にしんすねえ」
「……帰る」
「あれ」
「小袖をも凌ぐ大夫だと聞いたから、母上の事もあって来ただけだ。己は小袖以外を側室にするつもりはないし、女遊びも好きじゃない」
「それもまた一興、おむしが変わりもうしたら、いつでもいらっしゃりませ」
「それから、主人にお前からも言っておいてくれ。『小袖の着物を着せるな』とな」
随分と遊女如きに入れ込んだおてきが居たものだと、同じ女子として、心底羨ましいくらいでござりましたので、その日はお帰しました。
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そもそもあちきがなんでこんなことをしているかと言いますと、仕事だからなのでありますが、陸州の殿様から内密に依頼をされたのでござります。
殿様には一人息子の統治郎さまというのがおりまして、それがまあ、あちきのおてきなのでござりますが、大した朴念仁でござりまして、正室を娶って七年、無駄に花の命を使わしただけで、いつまで経ってもお世継ぎを産ませませなんだ。こはいかに、と、家老共は知恵を出し合い、男狂いでもなし、もしや女子の扱い方が分からず、妻に出来ないのではと結論が出たのでありんした。それで、陸州一の花魁として名高い小袖大夫を紹介し、通わせたところ、これがまた、どんぴしゃり。統治郎は小袖に首ったけ。今度は逆に、遊郭通いに精魂つぎ込み、やっぱりご正室には手を出さずじまい。だというのに、小袖とは懇ろになってしまったという、男の風上にも置けない阿呆でござりました。
小袖の肌の艶やかさは誰しもが認めるものでござりましたが、ある時からその肌がくすみ始めたのでありんす。小袖が子を孕めたので、肌が荒れ、毎日酷い悪阻が続くので、仕事にならなくなったのでありました。統治郎さまはそれを知り喜んで、小袖を身請けする準備を始めたのでござりますが、未だ少女のままでいるご正室の逆鱗に触れたのでありんした。小袖は子を流し、そのまま産褥が明ける事なく、亡くなってしまったのであります。統治郎さまは大層お嘆きになって、小袖の唐衣を形見にもらい受けました。
その頃になると、漸く統治郎さまも目が覚めまして、漸くご正室を妻にし、子も孕めたのですが、怪しげな事件が続きまして、結局その子もお流れになりしゃんした。ご正室は、あの引き取ってきた唐衣が悪さをしたからだと言って、その唐衣を見世に売りつけてしまったのでござります。その後も小袖の後釜になろうと様々な大夫が立つのですが、決まってその唐衣を着てお客を取ると、何もしていないのに孕めて、子が流れてしまうものですから、誰もが怖がられしゃって、外からこうして大夫を呼び寄せないとやっていけなくなったのでござりました。
そんな不気味な着物なら寺にでも供養に出しゃれば良いのですが、統治郎さまが既にきつくきつく言いしゃんせ、何処の寺でも引き受けられないのでありんす。結局その唐衣はこの見世のどこかにあるらしいのでござります。
あちきの今回の仕事は、その唐衣を手に入れて、供養することでありんす。幸いにも、あちきんところの出雲が、その供養を買って出てくれたのですが、唐衣はこの見世でも一番の値打ち品とあって、盗み出すにはあちきが着て、堂々と外へ出てしまう方が良いということで、まあ、武蔵が女衒を演じてこのようなことになった次第でありんした。
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「ふう、肩凝るわあ…」
見世に入って十日あまり。唐衣は見つけられないでござりました。別に口調を変えているのは何の苦でもないのでありんすけど、小金持ちの金茶金十郎をあしらう毎日で、それはもう、……はあ。
「おひな姐さん、おひな姐さん」
「……ああ、おゆう。どうかしたんかえ」
あちきが煙草を飲みながら饅頭を食べていると、禿の一人が寄ってきしゃりました。後ろ背に何か隠して、にやにやと嬉しそう。
「ねえ、おひな姐さん。この見世はどうじゃ? おいらは知らんけど、お江戸なんかは姐さんみたいなすっごい遊女がいっぱいおるんじゃろ?」
まだ廓詞の入りきっていない禿の頭を撫でて、あちきは答えんした。
「そうでもないえ。女郎も番頭もおかさんも、こことあんまし変わらん」
「へえ、でもさ、でもさ? こんなきれえな着物、いっぺえあったか?」
「ん?」
そう言っておゆうは、あちきに毒々しい虹のような着物を、ばっさと広げて見せたのでござります。あちきも妖異化生と修羅場を繰り広げること幾星霜、すぐにその着物が、件の唐衣だと気づき申しました。
「この唐衣、ええモノやねえ。どうしたん?」
「エヘヘ、おめご姐さん――あ、いや、前の小袖姐さんがくれたものが、巡り巡っておいらの所に戻ってきたんじゃ! おいらの身体じゃ、ちょいとお端折りも何もかもが余りすぎる。姐さん、着てくだしゃんせ」
手にとって見ますと、この唐衣そのものには、呪いも何もかかっていないようでござりましたが、言いようのない生暖かさがありんす。明らかに、これは化生の類でありんす。あちきは千載一遇と、おゆうから唐衣を受け取り、部屋に急いで戻りました。
そうして、部屋の窓から、ぽうん、ぽうん、ぽうん、と、金平糖を投げました。緑と、赤と、青の金平糖でごじゃります。これは合図で、緑なら武蔵、赤なら種子島、青なら出雲を呼ぶのであります。三つ一つずつ投げたら、仕事が片付いた合図。もし急を要する場合は、来て欲しい助っ人の色をひとつかみ。そのように決めておいたのでありんす。
「日向! 見つけたの?」
「……種子島、もうちょい静かに来りゃさんせ」
ばこん、と、屋根の一部が落っこちて、小さな童が頭を出しました。余程慌ててはったんでありんしょう、肩で息をしておりんした。
「窓から飛べば、青龍が受け止めてくれるよ。とにかく今は逃げる?」
「こんな所には情念が渦巻いてて、あかんえ。さっさと逃げるが宜しかろう」
手に持ったままでありんすと、どうしても目立って両手が仕えもせなんだ、襦袢の上に直接羽織って、ここで貰った全ての着物を脱ぎ捨てもうした。
「うん!」
種子島は嬉しそうに、静かに畳に降り立つと窓の障子を開けて、何か合図をしやりました。ひゅーん、と、風を切る音が聞こえてきやって、青龍が現れたのでありんす。
「そーれ!」
「ほな、さいなら」
束の間の籠に律儀に挨拶をして、あちきは種子島と一緒に青龍に乗り申した。後ろに乗り込んだ種子島が、ぎゅっとあちきの手首を握るのでありんす。
少し進んだところで、武蔵と合流出来んした。心底心配しておったみたいで、青龍から降りると、ぎゅうとあちきを抱き留めたのでありんす。
「日向、日向、良かった、良かった! 何もされてないか? あの若殿様に!」
「大丈夫でありんす」
「さ、そんな不気味な唐衣とはオサラバだ。とっとと焚き上げちまおう」
その時、馬が走ってきやる音が聞こえんした。武蔵があちきを背中に隠し、種子島が木呪を構えます。あちきも必要なら戦わなければ、と、唐衣を脱ごうとしたんえすけど、絡まったのか、脱げんで申した。
「小袖!」
統治郎さまでござんした。あちきがこの唐衣を着ていたので、見間違えたのでありんしょう。
「人違いだぜ、旦那」
「その唐衣は小袖のものだ。唐衣を切られるのは小袖だけだ! であれば、そこにいるのは小袖の筈だ。そこを退け、野武士風情が!」
刀を抜かず、統治郎さまが武蔵に掴みかかったんでありんすが、徒手空拳の者に刀を抜くほど武蔵も落ちぶれてはおりやせん。種子島は統治郎さまの常軌を逸した目つきに怯み、後ずさってしもいました。
「日向……。彼はその唐衣に取り憑かれている……。一度岬まで走れ、彼が騒いでいては、祈祷が出来ない……」
「あい」
「あ、小袖!」
やいやい叫ぶ統治郎さまには目もくれず、あちきは一目散に走り申した。足下で石が踊って、足首や太股に傷が付き申した。遊女というのは、走ると足に傷がつく生き物なのでありんしょう。
「きゃっ」
ばちん、と、やけに大きな衝撃がして、どってと転びました。石礫があちきの踵を打ったようでありんした。
「小袖……」
幽鬼のようになりながら、着崩れした着物を着直して、統治郎さまが近づいてきんした。ずる、ずる、と、あちきは立ち上がることよりも、距離を取ろうとしんしたが、統治郎さまは縮地で距離を詰め、いきなり覆い被さって来て、事を始めようとしたのでありんした。
「小袖、何故逃げる。戻ってきてくれたのに…」
「お離しなんし!」
あちきが襦袢をしっかりと握り、唐衣がしっかりと絡みつき、統治郎さまはそれを解くのに躍起になりながら、あちきに語り続けたのでござんす。
「小袖、小袖。お前の為なら城だって質に入れる。お前の為なら母だって売りに出して構わない。お前がいなくなったと聞いたときの己の嘆き、お前が蘇ったと聞いたときの己の喜び、お前の偽物だったと知ったときの憤り、想像出来るか小袖。全ての中心にお前がいる。小袖、小袖、小袖。お前無しには己は家を続けることすら出来ない。だから己の所へ戻ってきてくれ、小袖。己の所へ来てくれると褥で誓ってくれたではないか、小袖。己の知ってる全ての賛辞を用いてもお前を伝える事が出来ないくらいに焦がれた己を見捨てないでくれ。小袖、小袖、小袖。小袖小袖小袖。己の心根を掴んで離さない小袖、お前が苦界から逃げるのに、地獄へ落ちなければならぬと思うのなら、日の当たる所も大名の地位を捨ててもいい、一緒に地獄に行こう。その中でさえお前を、将軍の御台所よりも美しく仕立ててやる、その自信があるんだ、小袖。小袖小袖小袖、だから己の所においで、小袖。他の所ではお前は幸せにはなれない。金も刀もお前を幸せにはしない。己の捧げた命だけがお前を幸せにしてやれる。それは絶対なのだ。この世に生まれ落ちた時から定められ、前の世からの約束事を覚えて守って来てくれたお前、お前を切に願わない夜はない、小袖。お前に出会って、己は自分の本懐を思い出した。前の世の理の前に千切れた契りを今こそ結び直し、お前を正妻に迎える、これこそがこの世で己が果たすべき正義、果たすべき義理、果たすべき誓い、全てを賭して叶うるべきもの。それを思い出したとき、小袖、お前は笑って泣いて喜んでくれたではないか。よく思い出してくだしゃりましたと泣いて喜んで、己の胸で泣いて喜んでくれたのを己は忘れていないぞ、小袖。だから来るんだ、小袖、己の妻に、正室になるためにあの城へ戻ろう、小袖。城が嫌なら何処でもいい。須弥山の御殿がいいなら、毘盧遮那に頼んで一つ買い上げよう。その為の資金が足りないなら、何もかも売ろう。何もかも要らぬ、小袖、お前以外の何もかもが要らぬのだ。六文銭とても抵当に入れよう。他に何が望みだ? 何が欲しい? 何を与えれば己の心の気合いに気付く? 何でも良い、言ってごらん言ってごらん。今の己に無いものでも、明日の朝になればきっと手に入れてくる。否や、手に入れてみせるとも。手に入れてみせる、それが己の気持ちの全てだ。小袖、小袖、小袖。己の小袖、何に怯えて己から逃げようとする? 己の父か? 母か? 弟か? 正室か? 家臣か? お前の操が脅かされるというのなら、父はすぐに隠居させて遠くへ追いやってやる。お前の平和な妻としての生活が脅かされるというのなら、母は尼寺に入れて閉じ込めておいてやる。己の世継ぎを産むというお前の大役を待たずして謀反を起こされるのが不安だというのなら、弟は切って捨てる。嫁ぐ前の僅かな時でもお前の美しさをくすませるのなら、妹は女郎屋に売ってやる。そもそもに今の正室に気後れするというのなら、すぐにでもアレに不貞を犯させ追放しよう。家臣達の中の一人でも信用ならないというのなら、その一人に繋がる一族郎党、友垣までも斬首に処する。お前を拒む者はあの城には住まわせぬ、置いておかぬ、それは現世にすらもだ。小袖小袖小袖、春の桜が散る景色よりも淡い着物を仕立てよう。夏に繁る半夏生よりも白い白粉を買ってこよう。秋の紅葉の竜田川よりも鮮やかな打ち掛けをお前の為に、冬には永遠に咲く椿の花を作ってお前を彩ろう。節句の旅に、その節句に合わせて簪を作らせてやる。だから――」
「じゃかっしいわ、この色ボケバカ殿がァァァァァァァーーーーーーーーーーッッッ!」
長い長い愛欲の囁きの後に、長い長い怒号が聞こえたのでござんした。次の瞬間、あちきの前には、ぎらぎらした統治郎さまのお顔ではなく、胝の出来た、旅に慣れた足の裏がありんした。武蔵のものでありんしょう。
「カハッ! …この、無礼―――ひぎっ!」
「父母を追い出して遊女を身請けだ? してもいない謀反のために弟を反逆者として殺す? 妻に濡れ衣着せて新しい正室だぁ? おまけに家臣の同輩同士も道連れだァァァ? 君主舐めてんのか一回死に晒せこの無能が不能にすんぞその魔羅ァ!」
あちきは黙っておりんした。聞くに堪えない下品さでござんしたが、その怒りが最も過ぎて、そして的確すぎて、何も言えなかったのでありんす。刀を抜かず。首根を掴んで、鳩尾に、額に、項に、次々と手刀を入れていきんした。とても痛そうでありんしたが、とても痛快でもあったので、黙っていたんでござります。少し離れた所で、出雲と種子島が、大きく何度も頷いてありんした。
「俺の知ってる殿様ってのはなァ!」
あちきの気のせいでなければ、武蔵の顔は輝いていんした。きらきら、きらきら、光が零れて、月が、星が、きらきら、きらきら、武蔵の顔の周りにたくさんたくさん、瞬いていたのでござんす。
「テメェの影武者にもいつでも気をかけて、死ぬ時でも謙虚で、嫁さんを弟に託してお家を続けさせたもんさッ! それがなんだよテメェ、さっきから聞いてりゃ、小袖、小袖、小袖! お前の目の前にいるのがホンモノかどうかもわかんねえで、何が好きだの運命だの、気持ち悪いんだよこの陰険野郎がッ!」
「武蔵、武蔵……。…もう気絶してるよ……」
「おい種子島、今のうちに縛ってやれ。こいつの短刀切り取ってやる」
「えええ!」
んー、まあ、男にしか分からん痛みと恐怖でござんしょうなあ。未だ興奮冷めやらぬ武蔵を尻目に、出雲が近づいて来んした。お焚き上げしんしょうと、あちきが唐衣を脱いだとき、こそこそ、と、唐衣が風もないのに揺れたのでござんす。
「?」
「…そうか、小袖……。それが望みで、お前がそれで成仏できるのなら、ぼくは野暮なことはしないよ……」
「こそで…だと?」
気を失ってた筈の統治郎さまが、野いちごみたいな顔で近づいてきんした。
「こそで、やっぱり、お前か?」
「日向、唐衣を彼に渡して……。…それで、全ておしまいさ……。」
言われたとおり、ゆらゆらひらひら、動いている唐衣を綺麗に畳んで、統治郎さまに返しんした。受け取った統治郎さまは、優しく微笑み、抱きしめようとしんしたが――。
がりっ!
「ぎゃあっ! 目が、目がひっかかれた!」
唐衣の袖の中から、嫋やかな両腕が出てきて、統治郎さまの顔を抉るようにひっかいたのでありんす。ぎょっとしていると、両腕は、てけてけと足のように動いて唐衣を引き摺っていき、崖の上から飛び立ち、ひらひら、ひらひらと風に靡きながら海に浮かぶと、水を掻いて泳いでいったのでござんす。
「小袖の手……。確かに彼女は、あの場所から逃げたがっていたのだろう……。でも、それは、身請けされて誰かに嫁ぐんじゃなくて、ただ、生まれた村へ帰るためだったのさ……」
「はぁ、まあ、そうでありんしょうなあ。女子なんて、そんなもんでありんす」
「武蔵、種子島、きっと若様の家来が彼を探しに来る……。面倒になる前に、ここから逃げよう……」
「えー? お銭は?」
「依頼主の息子をそんな風にして、斬首刑のお裁き以外の何を貰えると言うんだい?」
「あ」
「……ね?」
出雲がくすくす笑うので、あちき達は青龍に乗って、空に舞い上がりんした。
黒い黒い日本海の荒波を、綺麗な衣が流れていくのが見えて、その波と衣の美しさを、四人で暫く楽しんだのでありんす。お銭は、まあ、たまにはこんなわびさびなものでも良いでござんしょう。