其之壹 汗水垂らして働くど! 之巻
「待たんかこらああああああああ!」
思い切り足に力を籠め、枝を蹴る。前に足場になるものはない。そのまま落下し、苦無を逆さまに握りしめ、飛び降りた獲物の首に強く叩きつけた。カエルの潰れたような声がする。それから着物を全部脱がせて、褌を解き、後ろで腕と脚を縛ってイチモツが見えるように引っくり返した。
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「ほい、最後の盗賊に盗られたモノ、これで全部じゃろ?」
「ああ! 有難うございます! でもこの先いたらどうしよう……」
「大丈夫。寧ろおもろいもん見られんぜぇ。うひゃひゃひゃひゃ!」
「…………???」
旅芸人の姉さん達に荷物を返し、私は盗賊の着物を持って仲間の所へ戻った。
「あれ? 日向、その着物何に使うの?」
「こりゃ、単なる布でねえと、仕立て屋に持ってっていい値段で売る」
「…………日向、なんか今、おいら聞き違いしたような気がするんだけど、それっ――」
「こーでもせにゃ、一体どうやってあのダラのオトシマエつけるっちゅーんじゃ!」
「よく日向、愛想尽きないね……」
「あたぼうよ。おらら四人でよろず屋じゃ」
そう言って私は、肩を落とす子供を引き連れ、町に戻った。ん? 私が誰かって?
私は日向。くノ一ですもの、見た目や口調に騙されちゃいけないわ。私は紛れもなく、よろず屋最強にして紅一点の日向よ。何かおかしいかしら?
さて、私が今回こんな暴挙に出た訳だけど。
事の起こりは昨日の夜。いつもの通り、武蔵がこっそり財布を持ち出して屋台に行った。と言っても、私達は困らなかったわ。仕事の後だったし、朝になればここを出る筈だったからね。ところがその時、どうも質の悪い酒を飲んだ奴に絡まれたらしくてね。それでまあ、酔った勢いで喧嘩を売って来るもんだから、武蔵は相手をしてやったわけ。と言っても、武蔵だって見栄で剣豪を名乗ってるわけじゃないわ。相手の力なんてお見通し。腕を一本伸ばせば、それだけで勝負はついたの。でも所詮、刀を振ってるだけなのは同じ。相手の素性までは見抜けなかったみたいね。そいつ、ここいらを縄張りにしている浪人崩れの野盗集団の、あろうことか頭目だったって訳。さしもの剣豪も、五十人切りは無理だったみたい。況してや相手は妖異や化生じゃないもの。迂闊に妖刀は使えないから、徒手空拳で戦ったのよ。武蔵がどんなに相手の刀を奪ったって、刀は、それも野盗の物。すぐに刀は折れちゃうし、弓だの何だのまで出て来て。大怪我しない内に投降したのは、あのバカにしては懸命だったわね。それでまあ、金子を作って来いと言われた訳。
え? どうしてこんなに詳しく知ってるかって? それは伝令の子分が、如何に自分の親分たちが有能だったか、話を盛ってたからよ。その話に現実性を持たせて、武蔵の性格補正もして、分析しただけ。九割九分、合ってる自信はあるわよ。くノ一なら当然ね。
「おい、種子島」
「ん? おお? わぶっ!」
私は片手で種子島を担ぐと、すぐ傍にあった肥溜めに放り込んだ。まあ、我ながら良い腕ね、頭から綺麗に嵌ったわ。
「ぶはっ! いきなり何するのさ! 鼻にウンコ入った! 臭い!」
「その恰好で、出雲が卜占やっとる一番大きな質屋に行け。野盗に襲われた父ちゃんの形見って言って、思いっきり惨めったらしくやるんじゃぞ!」
「こ、この格好で町歩くの…………?」
「一流の忍たるもの、如何なる所でも眠り、化け、欺き、刺す! クソ溜一つでそんなに慌てるようじゃあ、まあ、あの武蔵程度でも出来るわな」
「…………! 行ってきます! 日向はここで待っててよね!」
ちょろいものだわ。男なんて大きかろうと小さかろうと、本音は同じ。誰だって自分が一番でいたいのよ。況してやこれから大きくなる男の子だものね。
さて、武蔵が珍しく殊勝な事をしてるんですもの。金子を全て渡してやる義理はないわ。寧ろ絞れるだけ絞らないとね。ふふふ、世の中悪いことは出来ないものよ? 私の貝殻から香入りの紅を掬って馴染ませて……。あら? もう動いたようね。これだから盛りの付いた雄犬は駄犬なのよ。自分が何に眼を付けたのかも分からないんだからね。ふふふっ。
全裸に剥いて森の街道に転がしといたんですもの。さぞかし屈辱だったことでしょう? 同じ目に遭わせてやりたいわよね? 相手が女なら尚の事……。ふふふ、馬鹿ね、どうして女の忍がくノ一と言われているか知らないのかしら?
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あー、いたたた……。
このヘタクソ、峰打ちのやり方がなってないわ。ただ打てば良いってものじゃないのに、本当にもう。峰打ちでどうして人が失神するのか、分かってやってるのかしら? 刀で叩けばいいってもんじゃないのよ。でもまあ、まさか『襲って』来るのがあのバカ一人とは思わなかったわ。大方塒に連れ込んで、皆で一緒に楽しむ予定なんでしょうけど……。
ああもう、それにしても非力ね! 女一人抱えて走る速度が遅いわ! これじゃあいくら待っても塒につかないじゃない! 私が走った方が早いわね。私だったら『小さく』出来るし。文字通り手土産にして、コドモには見せられないようなこと、やっちゃいましょ。
「ねえ?」
「うお! もう目ェ覚ましやがった!」
覚ますも何も、初めから起きてたわよ。男は私が声をかけると、その声の主が私かどうか確認する前に、私を落とした。このバカ、出世できないわね。
…………。あ、出来たわ、出世。文字通りこの世から出て行くことだけれどね。ふふふっ。
勝負は一瞬よ。合わせの間から心の蔵を一突きすれば、血はそんなに出ない。斬り落としやすいように苦無で首の骨を折って、突き刺した傷口から、一気に筋肉と腱を絶つ。私のこんな姿を知らないのは、種子島くらいかしらね。でもあの子はまだ子供だし、田力には田力に相応しい戦い方があるから、何れそれを教える心算よ。くノ一の戦い方なんて、碌なものじゃないからね。
おっとと、考え事してたらもう塒の廃寺に着いちゃったわ。私の脚が早かったかしら? 一応頭一つ背負ってるから、そこそこ遅かったと思うのだけどね。取りあえず、門の外からだけど、いつまでも背負ってる必要はないわね。髪の毛を掴んでぐるぐると頭を回し、投石の要領で廃寺の中に放り込んだ。ほぼ同時に苦無を構え、空を飛ぶ謎の球体に眼を奪われた見張りを二人殺す。ぼすん、と廃寺に頭が落ちるのを合図に、私も廃寺の中に飛び込んだ。先ずは二人、バタバタと煩い脚を断って、刀を一本拾い、鎖で繋がれた武蔵の手を解放する。
「遅かったな」
「子供らが来る前に、こぴっと金に替えんぞ! 頭ァ残して丸裸じゃ!」
「おうよ!」
私が渡した刀を構えて、腐った廃寺の床を踏み込む。私の苦無では首を落とすには時間がかかる。私が囮になって、武蔵が首を思い切り斬り上げるのが丁度いい。怯えて足腰も立たない奴もいるけれど、油断は出来ない。そういうくノ一は、唯の女に成り下がるのよ。どんなに怯えてても、怖がっていても、絶対容赦なんかしない。足が駄目なら腹を切り裂いて、中身を少しでも出してやれば、大体ビビって動けなくなる。その一瞬だけがあれば、武蔵には十分!
「おっし、全員首は斬ったぞ」
「んだ。討ち溢しはねえな?」
「あったりめえよ、剣豪武蔵様の仕事だぜ?」
「んじゃ、てきぱき解体して、さっさと金に替えんべ。腐って判別つかなくなると、領主も出し渋るしな」
「頭落とすと、顔が変わるからなあ……。交渉に出雲使うか?」
「野盗狩りに子供使うダラがどこにおるんじゃ、さっさと首落とさんかい。おらは鎧剥いで商人に売ってくっちゃ」
やれやれ、と、言いながら、武蔵は鯨を解体する様に、鎧に血を付けないようにして頭を斬り落としだした。私も言えた義理じゃないけれど、こんなよろず屋の一面を知ったらあの子、一体どんな顔をするでしょうね。でも仕方ないじゃない。悪は討たれるべきなのよ。今の世の中では、誰が悪で誰が善か、余りにもはっきりしているわ。表向きまで、わざわざ悪になる事はないのよ。
一輪車があって助かったわ。腕は二本しかないからね。武蔵は髪の毛で頭を束ね一本背負い。全く、その着物を洗うのは誰だと思ってるのかしら。……え? 私の訳がないじゃない。
「あ、そう言えば忘れ物」
「なに?」
そう言うと、武蔵はいきなり私の唇についた紅を舐め取った。不味いのか、顔をしかめて口を拭う。普通に着物で擦っても、武蔵の日頃の行いなら誰も気にしないのに。
「子供に見せるようなもんじゃねえだろ。お前なんかが紅なんぞしてたら、勘の良い出雲なんかは全部お見通しよ」
「紅なんぞ食っても不味いじゃろ。今日はお銭がいっぱいじゃ。もう一日いて、朝飯食ってから行くか?」
「いや、不思議とものを食おうとは思わねえや。腹は減っちゃいるんだけど、いつもより腹の虫も治まってるし、持てる銭は持っておこう。たまにゃ財布にも肥やしが必要だろ」
「殊勝じゃな。んだば、頭がキトキトの内に売り捌くっぺ」
「おうよ」
武蔵の背中を見送りながら、私はふと思い立って、草履を脱いで街へ降りた。
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今のご時世、中々鎧と言うものは需要があるらしくて、ちょっと口を添えてやったら、破格の値段で売り捌けたわ。今頃は種子島が、乞食をしながら少ない銭を稼いでいるんでしょうね。でもそれが少ないか多いかは弁論術の問題。相手をその気にさせるのも忍には必要な術というものよ。でもまあ、今日は肥溜めに飛び込んでしまったことだし、そろそろぼろぼろになってきたから、新しく脚半を作ってあげてもいいでしょう。
「女将しゃん、こん羊羹色ん端切、何銭か?」
「こいつは五十銭だ。数銭じゃ買えないよ」
「解れとる物でよかん。坊主ん成長に合わしぇた着物の仕立てられんけんから……そん……」
私は何年も代えていない着物の裾と、素足をちらりと見せた。上州の布は丈夫で有名だから、きっと長く持つだろうけど、新しく着物を誂える程は、お銭は貰えなかったから仕方ないわね。
「あ……ちょい待ち、この布なら解れてるよ」
そう言って女将さんは、一番小さな端切の端を少し千切った。あら、この人、江戸の人情が分かってるわね。行商人かしら?
「ありがとね! これで坊主ん足袋作れる」
「何だって? この時期に足袋も履いてないのかい? そういやアンタ、草履も履いてないね。若いのにボロボロじゃないか。察するにアンタ、南の出だね。上州の冬は寒いよ! ほらこれ、この布、全部やるよ、不揃いで悪いけどね。これ継ぎ足せば、アンタの右足位の足袋なら作れるさ」
「嬉しか! ありがとね、また来るたい」
「おう、待ってるよ」
嘘は言ってないわよ、嘘は。でも思ったより収穫は大きかったわね。種子島の脚半だけじゃ布が余るわ。何か繕ってみようかしらね。
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宿に戻ると、やたらとモクモク白い煙が上がっていた。種子島ね。自分でやっておいて言うのも何だけど、臭いが取りきれてないわ。着物も何度も洗ってるらしく、バシャバシャ音が聞こえる。まあ、着物なんて買い与えたことないしね。物を大切にするのは良い事よ。
「たでぇま。種子島、お銭ゃ出雲に渡してきたど。……臭いねえ、まだお風呂?」
すると風呂場から種子島が怒鳴った。
「誰の所為だい誰の! 足の爪からつむじの中までウンコだらけだい! どんなに汗かいたって取れやしない、おまけに風呂の近くにも肥溜めがある! 耳の中なんか、ほじればほじる程入ってくし、逆さまにしたらもう一方が入って来るし、おいら、今身体の穴と言う穴からウンコ汁出してんだい! いくら焼石変えたっておさまんないよ!」
この子、穴と言う穴の意味分かってるのかしら? でもまあ、それなりに働いたようね。野盗から剥ぎ取った着物だから、二束三文に少し色を付けたくらいのお銭しかもらえなかったようだけど、まあ、及第点ね。
「武蔵の奴はどうするの? おいら臭くない汗になるまでお風呂から出ないやいっ!」
「おー、そんなら――。大丈夫じゃ、出雲が上手くやっちゃるわ」
武蔵は出雲に身代金を渡してもらって、返してもらうように手筈を踏んでおいたんだけれど………少し遅いわね。まあ、あの出雲がしくじるとも思えないし、私は私でやりたいことをやっておきましょうか。裁縫道具を出して、先ずは滅茶苦茶な継ぎ接ぎを縫い合わせる。肥溜めに放り込まれてすっかり染み込んだ脚半と肘当てを捨て、同じくらいの長さの生地を縫い付け、紐を少し長めに、横の長さを少し長めに繕う。そう言えばあの子に脚半を作ってあげたことなかったけれど、少しは大きくなったのかしら?
少し歪になってしまった場所を裁って、紐を作って、はい、出来上がり。
それでも少し余ったわね……。捨てるのももったいないし、どうしようかしら。
「ただいま……」
「ふはー、やっと解放されたぜぇ……」
その時、出雲と武蔵が帰ってきた。その途端、パココココーン、と、風呂場から桶が次々と投げられていく。いくつか出雲に流れ弾が落ちてきた。まだ少し臭う種子島が、垢すりを振り回し、武蔵に投げつける。これ、多分焼石が入ってるわね。流石に武蔵は避けた。と、いうより、往なした、というべきかしら。子供の癇癪や世界観に付き合うのも、大人の仕事だからね。種子島は気づかず、素っ裸でズカズカと近寄ってくると、パコパコと包丁が大根を切るかのように、両手に掴んだ桶で武蔵の股間を強打した。思わず二人で噴き出す。これは反則でしょう! 流石にこれは武蔵も往なせないわ、ふふっ、ははっ!
「こんの大馬鹿野郎! お前なんかの為に一日中ウンコだらけで町中歩く事になったんだぞ! なんでえなんでえ、前に笹団子で武士は戦わずして勝つとか言ってやがった癖に戦って敗けた上に齢八つの子供ウンコ塗れにしてお銭稼がせて何が武士だ責任とっておいらの身体のウンコ汁全部舐め取れこの野郎畜生バカアホドジ間抜けおたんこなすかぼちゃ!」
一息に怒鳴りつけて、それでもまだ足りないらしく、種子島はふんすふんすと鼻を鳴らしながら追いかけた。
「あちゃちゃちゃ! てめぇ種子島! 焼石なんか投げるんじゃねえ! 危ねえだろ!」
そのままドタドタと二人で風呂場に駆け込んでいく。まあ、風呂場で乱闘する位なら許してやりましょうか。座敷で始めたらそれこそ二人で灰小屋に叩きこんでやる所よ。風呂場でやるなら勿論、その方が早く汗も流れる事でしょうしね。未だ笑いを堪えきれていない私と、もう呆れ返って笑うことしか出来ない出雲とで居間に上がり、銭勘定をする。
「全く……。どうしようもない人達だ……」
「はは、んだな。…………。ん? 出雲、これでお銭ゃ全部か?」
「そうだよ……」
「あんだけ捌いて、これか。でら安ぅねが?」
「ああ……それは――」
バキンッ!
出雲の言葉を遮り、風呂場から一等大きな音がした。途端に静まり返る風呂場。…………。
「たねがしまぁ……? むさしぃ………入んぞぉ……?」
確かに、今懐は温かい。でも金は天下の回り者というもので、いつまでもこの温もりが保障されている訳じゃあない。私は込み上げる怒りを押し殺し、否、押し殺したところで私が次の瞬間どういう行動に出るのかは多分全員分かっているのだけれど、そうでもしないと風呂場の扉ごと蹴り飛ばしそうだったの。
「ま、待て日向! 後生だちょっと待て!」
「あああっ? 何しとんじゃこのスットコドッコイ!」
バシッと扉を開けると、扉が少し歪んだのか、引っかかった。否、それよりも私は目の前の光景に、久しぶりに理性が吹き飛んだ。ばしっと。
「オメェらまとめて灰小屋突っ込んだるわオラアアアアアア!」
「わーー! 誤解だよ日向ー!」
「ま、待てってばだから後生だからせめて手ぬぐ――」
「黙らんか不能じゃなくて無かったことにすんぞこのダラ、おらン踵ば直々に擂粉木やってやっがら喜べこのぶちダラ今から本気で二人仲よく糞ン中叩き込んでやっからそこで続きやってきゃーがれやオラアアアアアアッ!」
「ぎゃあーーっ!」
はぁ、はぁ……。こ、ここまでくノ一としての力を使ったのは一体いつぶりかしら……。
私が風呂場で見たものは、全裸の種子島に追い回されている全裸の武蔵。着物は縫い目を全部引きちぎられて、髪結いも解けていた。そして先程の武蔵への攻撃で、宿屋の風呂場としての道具は一切残っていなかった。勿論焼石も。おまけに種子島の汗で風呂場の中は本当に肥溜めその物。焼石を入れて置く水受けを壊して、二人して喧嘩をしていた。……ここまでならまだいいわ。武蔵も手加減してるから種子島が全裸でも傷つかないし、自分が全裸でも傷つかない。着物は洗って繕えばまた着れる。問題はね、その二人の後ろにあった、というか、見たモノ。
この宿屋、この辺りではそこそこ大きな農家のようだけど、農家だけでは食べていけないようね。まあ、寒村の農家なんて皆そんなような物なんだろうけど。だから、この宿屋も他の農家と同じく、風呂場で落とした垢は肥やしにしていたから、すぐ傍に灰や肥やしになるものを入れる小屋、つまり灰小屋があるのよ。でもだからと言って、生娘も入るだろう風呂場から、灰小屋が見える訳がないじゃない?
見えたのよ。灰小屋が。ええそりゃもう、はっきりと、全貌が。
この二人、というか少なくとも種子島は本当に怒髪天を突いていて、それはどうやら武蔵の憶測を幾らか上回ったようね。本気で追いかけ回されて殴られて、終いには人の家の風呂場の壁をぶち抜いたと言う訳。唯でさえ、武蔵が何か余計な事をして報酬が減っていると言うのに、久しぶりに気の楽な移動が出来ると思った矢先にこれよ。信じられない!
「やべぇ出雲! 人が来る! お銭取られる前にトンズラじゃ!」
「じゃあ、青龍を置いてくよ……」
「おう、分かってんじゃねか、流石やにき」
全く! どうしてこう、いつもいつも同じ展開になるのかしら!
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出雲と私だけだったら、逃げるのは訳ないわ。出雲は旅に慣れてるしね。関所なんてものは迂回経路を示すために在るものなのよ。そうして辿りついた静かな山奥。近くに妖異も化生の気配も、ついでに武蔵と種子島の気配もないと言うので、私は出雲に見張りを頼んで山の少し奥へ進んだ。ふふふ、実は匂ってたのよ。何がって? 温泉よ!
上州の温泉はそのまま煮つけが作れるくらい熱いのよね。だから浸かる事は出来ないけど、手拭いで身体を拭く位なら出来るわ。耳を傍立てて、獣と虫の位置を大体把握し、それでも髪の中に細く短い匕首を偲ばせたまま、帯締め、帯、小袖、襦袢と脱いでいって、最後に髪紐を解く。手拭いに温泉を浸して、身体を揉み解すと、はぁ、先程の大騒動もどうでも良くなってくるわ。この所、川の水浴びくらいしか時間がなかったのよね。
…………。
「女子の禊ば覗くんやったら、おどれも姿見せぇ!」
視線を感じて、匕首を樹の上に投げつける。ヒョォッと間抜けな声がして、誰かが樹から落ちて草叢に隠れた。私が鮮火を取ると、咋な殺意に気付いたのか、男は姿を現した。覗いていたのかと思ったけれども、そうじゃなかったようね。男は法師のようだけど、目が見えないのか、杖を突いていた。随分と年がいってるわね……。何だか不気味な人。
「こりゃまた、法師様でねが。しかもお目目が効かんと見た。こら覗こうなんざ、えれえ失礼な物言いやった。ぶちすみゃあよ、勘忍な」
「いえいえ、温泉と人の匂いで状況を察せなかった拙僧の修業不足であります。嫁入り前の娘さんに無体な事をしてしまいました。拙僧は幸菴というものでして。実は、人を探しているのですが、何か存じ上げませんか」
何だかこの法師、奇妙な感じがする……。幸庵と名乗った法師は、袂から一枚の絵を見せて来た。随分と綺麗な紙だ。暗い中でもはっきりと、白く四角い形が見える。
「遥か昔、南は向州より、さる高貴な御方に頼まれ、この女人を探しておるんですが、何分目がつぶれる前から探しておりましてな。おかげで、目の前にいる貴方様がそうで在るかも最早わからず……」
「どら、よぉ見せてくろ」
構えた鮮火に月の光を照らす。
これは――子供を孕んだ娘みたいだわ。どこか、高い山の上から、海の向こうを見ているようにも見えるけれど…………。何かしら、この防人か何かを待っているだけの絵からは、とんでもない妖気のような物を感じる。
「幸菴はん、と言うとりましたな」
「如何にも」
「おらぁ、この娘っ子のこたなんも知らんが……。何か得体のしれんもんを感じるんやけど、気の所為か? この娘……本当に唯の娘か?」
「ええ、唯の娘でございます。夫と、兄と、弟と、父とを戦にとられ、山神の名を冠する山に登り、来る日も来る日も、家族の帰りと腹の子の父を待ち続ける娘の絵でございます」
「そりゃ、趣味が悪ぃで法師はん。こげなでけぇ腹した娘っ子を、山の頂なんて立たせちゃ危ねえど。てっぺんまで行く内に腹ン子に何かあったらどうすんでや、でら大事やよ」
「それを描いたのは拙僧ではありません故に……。ただ、拙僧の仕える御方が、きっと今もこうして待ち続けているのだろうと、自ら墨を磨ってお描きになったものでございます」
「へえ、そりゃ難儀じゃのう。その御方は、もう嫁に行ったこの娘に横恋慕でもしとるのかねえ。寡になってりゃええが、そうでねえからと言って銭勘定はいかんがん」
「そうではありません。その方は――」
そこまで言った時、突然幸菴法師の胴が大きく抉れた。出雲だわ。法師は最期、潰れている筈の眼で私を見た。そして、詩を詠んだ。
「防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず」
法師の身体からは血ではなく、何枚もの紙屑が零れて、風が吹き荒んで舞い上がって行く。これは――。
「紙舞だね………日向、何を言われたかは知らないけど、所詮は化狐だ……。気にしちゃダメだよ……」
そう言えば、上州には確か、幸菴狐とかいう法師姿の妖異がいたわね。でもこの狐、話によれば南の出らしいけど……。
幸菴狐というのは、その姿の通り、仏法を唱えて回る、本来害のない妖異。熱湯に弱くて、湯を浴びれば忽ち狐の姿に戻ると言われているわ。でも幸菴狐と紙舞が一緒になっているというのは、どうも腑に落ちないわね……。
「あ」
「あ」
しまった、考え事を深くし過ぎていたわ。追いついてきた武蔵と眼が合ってしまった。
「えーと、その……」
「何さらしとんじゃこのダラぁぁ!」