其之伍 極悪餓鬼道の宴を斬れ 之巻
俺の名前は武蔵。一寸前に、地獄と極楽の間から帰ってきた武士だ。多分強い。
俺達は丹州は老枝山まで来て、野宿をしている。というのも、前回の仕事で、丹州七家族のお家騒動に巻き込まれ、お銭も禄にもらえないまま、これ以上はつきあってらんねえということで、逃げ出してきたからだ。丹州に入る前、散々『老枝山には入るな』と聞かされてたのに、急ぎすぎててうっかり入っちまったらしくて、何日も山の中を彷徨っている。蕎麦掻きの匂いも歯触りも、忘れてきちまったよ。
「出雲、今日も駄目そうか?」
ぐったり倒木に腰掛けながら、禊を終えた出雲に話を振る。出雲は溜息をついて、首を振った。いつも大人しい奴だが、明らかに元気がない。
「ダメだ、武蔵……。多分…、山の結界に入ってる……。五獣への祈りが届かない……」
「このままだとおいら達、ひもじくて死んじゃうよう。獣も死体ばっかりだもん」
「それはないと思うけど……」
出雲が無神経にそんなことを言うので、思わず睨み付けた。この場に日向がいなかったら、蹴っ飛ばしてたかもしれない。それくらいには、頭が動かないし、凄く苛々するし、何でも暴力で解決したい。
「今日のおまんまは、この山葡萄だけじゃにゃあ……。まあ、こんだけあれば大丈夫じゃろ。種子島、水くんで来たか?」
「お酢がないから、そろそろお腹壊しそう」
「よかよか。ないよりゃよかよ」
種子島はしょんぼりとして、竹水筒に汲んだらしい河の水を差しだした。日向は拾ってきた山葡萄を大きなヤツデの葉の上に乗せて、手を合わす。考えても仕方ねえ。腹が減っては戦は出来ぬってこった。俺も座って、山葡萄を口に入れた。酸っぺえ。でも喰わないよりかマシだ。
「うえ、虫食いだ」
「虫ごと喰っちまえ」
「焼いちゃだめ?」
「俺は手伝わねえぞ。だからこっち喰え」
どうせ俺は、蕎麦切り五人前でも物足りない大食漢よ。木の実の一つや二つくれてやっても、腹ぺこには変わりない。種子島が嫌がった実を勝手に一つ千切って口に入れ、自分の房から実を二つ千切って種子島の口に突っ込んだ。……凄く酸っぱそうな顔をしている。
「んまあああ……。人から貰ったら百倍うまーい!」
「これ種子島、食事中じゃ、落ち着いて食え」
とは言うものの、日向もどことなく嬉しそうな感じがする。こういうときにぎゃあぎゃあ泣くのも、ころっとして笑うのも、子供の特権だよな。くさくさした気分が少し良くなるけど、腹は鳴ったままだし、外に出られる保証もない。状況は全く変わってないし、楽観的に考えるなんてことは出来ないが、まあ、飯時くらい良いだろ。
「まだまだあるでんよ。食えるときに食っとけ」
誰も答えなかったが、山葡萄を取ろうと手を伸ばすのは止まらなかった。
現実とは非常なもので、食えば減る。とうとう食い尽くしたが、案の定俺は腹ぺこのままだった。ただ、一番幼い種子島や、一日中五獣に呼びかけていた出雲は満足したらしく、すぐにうとうとと船を漕ぎ出した。二人を両膝に枕させ、日向も冷えた水を飲んで、一息つく。
「しかしあんなに沢山、この山って実り豊かだったのか?」
「うんにゃあ、恐らくどっかの荘園が、山葡萄さこさえてたんだろ」
「山葡萄だけ? 米も果物も育ててねえのか?」
「うん。麦畑ならあったぞ」
「粟や稗じゃなくて、麦?」
「おん。なんでじゃろうなあ。人間嫌いの仙人気取りでもおるがかねえ」
「明日、調べてみたら、外に出られるかな」
「抑も人がおるんかのう」
「え、家なかったのか?」
「なかったとゆうよか……。腐った血で鳥居描いてある洞窟ならいくつかあったじ」
「それは………………」
「だべ?」
俺はがっくりと項垂れた。血で絵を描くなんて、どんな鬼人がいるかわかったもんじゃねえ。
明日こそ山を降りねえとな、と、もう何度目になるか分からない決意をして、俺は先に寝た。一刻ずつ日向と交代して寝たけど、久しぶりに食った山葡萄の酸っぱい果汁が、ずっと胃をしくしくさせてきていた。
===
翌日になって、俺達は日向に連れられて、山葡萄園にまでやってきた。丸に十字の家紋がいたる所に彫られていて、気の違えた当主の庭のようになっている。丸に十字の家紋は、もっと南の方にあった気がするんだけどなぁ……。落人でもいんのかな? こんな都に近いとこに??
「武蔵、人じゃ! 人さおる」
ここじゃここじゃ、と、日向が手招きする。俺は目の前にある、何も彫られていない墓石のようなモノに後ろ髪を引かれながらも、日向の所に集まった。
垣根の向こうから、老若男女の声明のような歌が聞こえる。経典ではなさそうだが、長唄でもない。……というか、これ、意味のある歌なのか?
「これは私の血、私の肉―――」
ぎょっとして、四人で思わず身を乗り出す。手拭いを首から提げた男が、紅い液体を杯に注いで飲み干した。種子島が怯えて、俺の着物の裾を掴む。あと、なんか肌色のものを丸呑みした。あれってもしかして、人の干肉じゃねえのか? 手拭い男が別の干肉を左右に引っ張ると、古い紙のようにぼろりと崩れた。片膝立ちのような奇妙な姿勢の人間達が、がっぱと口を開け、手づからそれを受け取って食べている。そいつらは列を作っていて、食べた人間は座布団に戻り、悶えるように小さくなった。
「人の肉食ってンのか? ここは地獄の入り口かよ」
「武蔵が見た地獄って、こんな感じだったの?」
「種子島、武蔵が行ったのは極楽の入り口だよ……」
「いずれにしろ、あんな鬼ァいなかったぜ」
「見てみ、今度は血ィ飲んどるがや」
日向に言われて、もう一度覗き込む。なみなみと注がれた赤黒い液体の杯を、今度は座布団の上に座ったまま、回し飲みしている。それが終わると、手拭い男が受け取って、残りを全部飲み干してしまった。
また声明のような歌が聞こえてくる。種子島はもう見ていられなくて、蹲って耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じてしまった。
「おい、鬼の集落だぞ、ここ。どうする? 斬った方がいいか?」
「お銭がないよ……。ただ働きは、御免だ……」
「出雲、お前なァ!」
思わず声を荒げて、ハッと口を押さえた。が、気付かれてしまった。落ち武者から剥ぎ取ったらしいボロボロの刃物や、鉈を持った男達が出てくる。
「まずい、逃げるべ!」
四人揃って、踵を返して走り出した。鬼共は何か人の言葉を喋っていたような気がするけど、そんなの聞いてられない。とにかく走って走って、駆け抜けた。だけども儀式を見られた鬼共は、しつこく追いかけてくる。忍二人はどんどん差を付けたが、俺と出雲はどうしても遅れてしまう。同じ方向に走っていたら、あの二人が巻き添えだ。隣で走る出雲の首根っこを掴み、咄嗟に井戸の中に飛び込んだ。
「~~~~ッ!」
想像以上に怖い。悲鳴が木霊しないように、出雲の口を塞ぎ、俺も唇を噛んだ。
べちょっ。
深いのか浅いのか分からないが、井戸の底に落ちた。上を見ると、俺の指で作った輪っかくらいにまで、井戸の縁が小さくなっていた。
「…………。行ったみたいだな」
「武蔵、いきなり何するんだよ……」
一応しっかり抱いて落ちたつもりだったんだが、出雲はどこか傷めたらしい。
「うっせえな、追いつかれそうだったんだから仕方ねえだろ」
「でもこれだったら、登るよりも、横道を行った方が良さそうだね……」
ほら、と、出雲が井戸の壁を指さす。よく見ると、不自然に黒い。横道が本当にあるらしい。
「井戸の途中に横道なら分かるけど、井戸の底に横道?」
「…………。まあ、色々あるんだよ、きっと……」
出雲はなんか言葉を選んでいたみたいだったが、いずれにしろここの泥を啜って死んでいくのは御免だ。出雲は灯火も焚かず、俺の手をしっかりと握って、すたすたと歩き始めた。
「おい、出雲、見えてるのか?」
「………………」
「出雲?」
出雲は何かに集中しているのか、俺の問いかけには何も答えてくれなかった。ただ、淀みない歩みとは裏腹に、手を握る力が、強くなったり弱くなったりする。だから俺も、強くしたり弱くしたりして握り返した。
湿ってて暗いだけなんだろうに、俺でも分かるような悍ましい気配がする。ここにもし、多少なりとも妖異の気配が分かる日向や種子島が来てたら、卒倒するんじゃないだろうか。それくらい陰湿な気配がしている。
出雲が、歩みを止めた。
「こんなところに……。そうか、あの人達は……」
「ん?」
出雲がしゃがみ込んで、何か見ているようだった。暗闇に慣れてきた目でもよく見えないけど、なんか四角いものが見える。出雲はじっとそれを見た後、俺をじっと見て、また四角いものをじっと見た。
「……うん、武蔵なら大丈夫」
「ほ?」
「武蔵、僕の合図で、『かしこみかしこみ、申す申す』と、唱えてくれ……」
「ん? 俺で良いのか?」
「君でないとダメだ……。いいかい、始めるよ……」
よく分からないまま、出雲が唱え始めた。あの鬼共の歌となんとなく似てる気がしないでもない。ただ、俺から見れば、どっちも聞き取れない古い言葉だ。
「かしこみかしこみ、申す申す」
手を握られたので、出雲の祝詞の隙間に唱える。出雲はまた唱え始めた。
「かしこみかしこみ、申す申す」
「かしこみかしこみ、申す申す」
「かしこみかしこみ、申す申す」
結構長い。四回目辺りから数えなくなった。なんだか頭がぼうっとする。空気が薄いのか?
「ちょっと動かないでね……」
「あ?」
出雲がごそごそ何かやっている。まあ、動くなって言うんだから、覗くなってことでもあるんだろ。口笛でも吹いて気を紛らわせたいのをぐっと堪えて、出雲の作業が終わるのを待つ。
「過ちを犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 国つ罪 許許太久の罪出でむ。此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと。祓へ給へ清め給ふ事を 天つ神 国つ神 八百萬神 枳殻燧等共に 聞こし食せと白す」
「……! かしこみかしこみ、申す申す」
慌てて最後の復唱を終えると、なんだか空気が軽くなった気がする。
「汝の業は九の呪いを持ちて、この呪を講じし者へと還る。汝が罪は此処に祓われ給いて、然るに十万億土の道のりを辿り、御仏の境地へ至らん。……ご苦労様、ありがとう……」
なんかよくわかんねえけど、大層なものが此処にはあったらしい。出雲はそれを拾ったようだった。
「武蔵、ここに雷光丸の雷で、風穴を開けてくれ……。それで、全ての呪いが解ける」
「へー」
まあ、出雲が訳分かんねえこと言ったりやったりするのは、何時ものことだし、こいつが意味分かんねえ助言をした時は、大体それに従えばどうにかなる。俺が雷光丸を抜くと、何も言わないうちに、刀が震えだした。足下から、何か力が渦巻いてきて、吹き飛びそうになる。それに乗っかって、刀が勝手に上に出て行きそうだった。―――これは、多分、雷を落とすんじゃなくて、出すんだ。
「穿て、雷光丸!」
俺がそう命じると、悲鳴がつんざくような凄い音がして、天井が吹き飛んだ。崩れたんじゃない、吹き飛んだんだ。俺が雷雲になったかのように、雷を打ち上げて、そのまま瓦礫は外へ吹き飛んでった。
「これを登るよ……」
「はいはい、じゃあ、俺の背中に掴まってな」
よいせ、と、抉れた岩に手をかけると、どこからか、柔らかい気持ちの声が聞こえたような気がした。
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井戸から出ると、近くの洞穴に隠れていたらしい日向と種子島とすぐに合流できた。よかったと泣きそうになっている二人を見て、とりあえず無事だってことに気が抜けた。
「喜んでるヒマはないよ……。今の落雷で、結界が壊れた……。役人達が来たら、あの人たちは皆殺しになる……。巻き込まれないうちに、ここから逃げよう……」
「そりゃないだろ、連中は鬼だぜ?」
「……そうだね、血のように紅い液体を飲んでいて、干肉のような蒸し餅を食べている、ごく普通の鬼だよ……。だから、すぐに行こう……。悲鳴が聞こえてきたら、手遅れだ……」
「???」
俺だけじゃなく、日向も種子島も、不思議そうな顔をしたけど、出雲は率先して山を下りるばかりで、結局次の町に着くまで、誰も何も話さなかった。宿に入っても、なんとなく口を開く気になれずにいると、出雲が耳打ちした。
「武蔵、あの井戸の底であったことは、日向と種子島には内緒だよ……」
「安心しろい、話す気にもならねえよ」
「それは良かった……女子供に聞かせるような話じゃないからね……」
おめぇも子供じゃねえか、とは言わないでおいた。
翌日、瓦版が出回った。あの鬼の集落を、幕府の役人達が壊滅させたことが書かれていた。結局あの集落、なんだったんだんだ?