美奈子ちゃんの憂鬱 綾乃と初めてのデート
よくよく考えたら、綾乃と悠理のデート話ってシリーズにないことに気づき、急遽作成しました。ちょっとびっくりです。
「デート?」
夕食の後、娘の口から出てきたその単語に、瀬戸由里香は食器を片づける手を止めた。
「―――悠理君と?」
「当たり前です」
食後のお茶を飲む娘、綾乃は眉をひそめて頷いた。
「他の誰とデートするんですか?悠理君と二人っきりで当然じゃないですか」
「まぁ―――それはそうね。それで?どこへ行くの?」
「映画です。“死霊の盆踊り”」
「デート……ですよね?」
「はい」
「……悠理君、呆れてなかった?」
「ヘンな顔してました」
「……楽しんできなさい」
「はいっ♪」
「―――へえ?」
夜遅く戻ってきた夫は、妻から娘のデートを聞かされても、何の関心も示さない様子だった。
「あの……あなた?」
「何です?」
「年頃の娘がデートって言ったら、男親としてもう少し、別な反応がありません?」
「―――例えば?」
「心配するとか、ボーイフレンドの男の子に殺意を抱くとか」
「ははっ……心配は心配ですよ?」
湯飲みの握り方が、綾乃と全く同じだ。
やっぱり、あの子はこの人の子なんだなぁ。
由里香は感慨深げに夫の様子を見つけながら、その言葉を待った。
「綾乃が暴走しないか……あの子、本当に堪え性のない子だから」
「まぁ……昔からそうですよね。我慢が出来ない上に、気が短いんですよ。何かある度に、由忠さんにどれほど迷惑かけているか」
「由里香さんの子ですもん」
「どういう意味です?」
「お茶菓子が欲しいですね。僕の大福、出してください」
「……あっ」
「どうしました?」
「―――御免なさい」
由里香は両手を合わせて頭を下げた。
「お昼に食べちゃいました」
「全部、ですか?」
「はい」
「12個入りですよ?」
「ですけどぉ……」
恨めしさと呆れをない交ぜにした夫の視線から逃れるように、由里香は言った。
「美味しそうだったんですもの……我慢出来なくて」
「……やっぱり」
「……ごめんなさい」
「いいですよ」
昭博は苦笑しつつ頷いた。
「今晩、少し覚悟してくださいね?食べ物の恨みは恐いですよ?」
「―――もうっ♪」
綾乃、早く寝ないかしら。寝ないなら寝かせてしまいましょう。あのクスリはどこだったかしら♪
最悪、後頭部を殴りつければ―――と、由里香がいそいそと動き出す。
その背中を見ていた昭博は、ふと思いついたように由里香に訊ねた。
「そういえば」
「はい?」
「僕、綾乃が悠理君と二人っきりでデートって初めて聞いたんですけど?」
「……」
「……」
「……そういえば、そうですね」
翌日。
「―――悠理君、お大事にって」
「……グスッ」
由里香は、部屋の加湿器に水をつぎ足しながら言った。
「もう。2時間もお風呂から出てこないから何しているかと思えば」
「……のぼせただけです」
「のぼせた挙げ句がお風呂場でひっくり返っていたなんて、もうびっくりしましたよ?その挙げ句が風邪を引くなんて」
「……ごめんなさい」
「感染ると困るから、悠理君には来てもらいませんけど、いいですね?」
「せっかくのチケットが……」
「お母さん達が買ってあげますよ」
「本当ですか?」
「ええ」
「ありがとうございますっ!」
チケットは、コートのポケットに。
じゃ、二人で三千円ね?
娘からチケットを受け取った由里香は、娘に差し出そうとしたお金を引っ込めた。
「……あの?」
「迷惑料の名目で、このお金はいただきます。お父さんと二人で美味しいものを食べてきますね?」
「意味が分かりませんっ!」
「有効に使ってあげるんです。あら……上演時間がもうすぐじゃない。綾乃?お粥はレンジの中だから、チンして食べて?」
「薄情者ぉっ!」
翌週。
「今度は大丈夫ですっ!」
綾乃は平べったい胸を精一杯そらしてそう宣言する。
一体、どうしてこんな平べったい胸になったのかしら。
私にしても、有里香にしても、少なくともウチの血筋じゃないはずだけど―――。
由里香はリビングでテレビを見ながら、買い込んできた水着を披露してはしゃぐ娘をチラと見た。
「今度はどこ?」
「ホテルのプールですっ!」
「ホテル・シャイニング?」
「そうですけど……」
綾乃は小首を傾げた。
「どうして、知ってるんですか?」
由里香は無言でテレビを指さした。
テレビの中では建物が燃えていた。
その建物は、綾乃も知っている建物だ。
『ホテル・シャイニングで火災』
そんなテロップが流れている。
「……」
ポトッ
綾乃の手から水着が落ちた。
「でも綾乃、よかったじゃないですか」
「何がですっ!」
「水着を着ること、堂々と回避する口実が出来て」
「よくありませんっ!っていうか、どういう意味ですっ!?私、水着で悠理君を悩殺させて―――!!」
―――その平べったい胸と幼児体型で?
その言葉だけは、さすがに母でありながらも口にすることは避けた。
「―――大体」
「な、何です?」
「綾乃、昨日の夜、始まったって言ったでしょう?」
「……あ」
「デート以前に、もう少し、冷静に自分を見つめなさいな」
「―――はい」
「それにしても―――ホテルのプールですか」
「そうですっ!」
綾乃は言った。
「リゾート体験型、プール付きホテルに一泊で豪華食事も!」
「旅行会社から入手したの?」
「はいっ!」
「チケットの払い戻しが効きそうですね。来週に変更してもらいましょう。綾乃?カード出しなさい」
「……」
さらに翌週。
「悠理君は男の子です」
「……はい」
「未成年の立場で、男の子とホテルに一泊なんて、いくら何でもお母さんは許しません」
「……はい」
「罰として、お父さんとお母さんが、ホテルで一泊してあげます」
「……意味が分かりません」
「ついでに、由忠さん達も一泊しますから―――綾乃?よかったわね、プールだけでもこうして楽しめて」
「……」
場所はホテルのプールサイド。
正確には、ホテルに併設された屋内リゾート施設のプールゾーン。
そのVIP区画。
母が自分のカードでチケットを買ってきた。
金額はどうしても言わなかったが、目が遠くを見る母の視線が大凡の額を告げていた。
来月の引き落としが少し恐い綾乃は、それでも不満げに言った。
「悠理君が来ていません」
「仕事ですよ?」
どこから買ったのか、ワンピースの水着姿の母は、とても30代半ばとは思えない見事なプロポーションを披露している。
下手すれば、自分より細いんじゃないかと、綾乃は不安になるほど細いウェスト。絶対、この人は私の分まで横取りしたに違いないと言いたくなる立派すぎるバストとヒップが、母が大人の女性であることを教えてくれる。
三十代前半。
綾乃は、母以上に美人は芸能界で見たことがない。
その人の水着姿は、綾乃にとってもヘンに刺激的だ。
「……ぷう」
綾乃はデッキチェアに寝そべる母から視線を外し、悔しそうに自分の胸を見た。
「……」
すかすか。
そんな音がした気がした。
通り過ぎる男性達も、綾乃よりむしろ母親に視線を向けてくる。
いや、そこに今をときめくトップアイドル、瀬戸綾乃がいることに気づいているかさえ不安だ。
「遥香さん、遅いわね」
「お父さんは?」
「由忠さんと一緒にビールを買いに出てます」
「私も」
「ダメです」
「ううっ……」
「あっ……来ましたね」
白い水着。腰にパレオを巻いた女性が近づいてきた。
長い髪に透き通るような白い肌。完成されたプロポーション。
どんな巨匠でさえ作り上げることが出来ないだろう芸術品そのものが、そこにはいた。
すれ違う男女が足を止めて、その女性に視線を送る中、その女性は、綾乃達の前で一礼した。
「お待たせしました」
悠理の母、遥香だった。
「お招きいただきまして―――でも、よろしいんですの?」
由里香と比較すればやや劣るものの、それでも十分、見事と言える胸は水着からはちきれそう。すらっとしたボディラインは間近で見ると見事としか言い様がない。
由里香がグラマラスな美貌なら、スレンダーな知的美人。というところか。
……どんなに言い逃れしても、側にいるだけで、綾乃が受ける女性としてのダメージは軽くはならない。
「……どうしたの?綾乃ちゃん?」
「―――いえ」
目の前の女性は、はっきり美人すぎると思う。
母といい、この人といい、どうして私の周りの女性は美人ばかりなんだろう。
何より―――
すかすか。
自分の真っ平らが、本気で恨めしい。
胸のサイズは関係ないだろうが、この二人の近くにいると、本気で自分が霞んで見える。
―――私、アイドルなんですけど。
綾乃は精一杯、心の中で抗議してみたが―――無駄だった。
女として、自分の身の程を思い知らされた綾乃は、この日以降、ついに母を相手にデートという単語を口にしなくなった。
さらに翌週。
「行ってきますっ!」
「待ちなさいっ!」
玄関から出ていこうとした綾乃を由里香が止める。
「何ですかその格好は!」
フリッツヘルメットに防弾ベスト、背中にはリュック。腰には水筒とナイフをぶら下げ、手には自動小銃が握られている。
その下では季節に合わせた愛らしいワンピースが妙に浮いている。
「あっ!」
「わかったら!」
「対戦車ミサイルランチャー、忘れてました!」
「綾乃っ!」
結局、綾乃は念願のデートにこぎ着けた。
とはいえ―――
今度のお休み、買い物につき合ってください。
程度の代物だ。
映画もプールも何もない。
町中を散策する程度だ。
本屋をのぞいて、文具店でカワイイ新作アイテムを探して―――
だが―――
「こっちこっち!」
「はいっ!」
綾乃はそれさえ出来なかった。
デート開始からわずか30分。
綾乃は水瀬に手を引かれて走っていた。
後ろからは無数に近い人々が自分達を追いかけてくる。
天下のトップアイドル。
町中にはそのポスターがあちこちに張られている。
正直、どんな指名手配犯より逃げ場がない。
必ず見つかって声をかけられる。
そして、追いかけられる。
綾乃のファン達だ。
角を曲がったところで水瀬が偽装障壁を展開、ファン達をやり過ごす。
「ご……ごめんなさい」
「いいよ?」
壁に張り付くようにして、魔法によって壁の一部になっている二人。
綾乃はその間、水瀬に抱きしめられている。
普段なら嬉しいだろうが、何だかとても申し訳なくさえ思える。
「綾乃ちゃんは有名人だもん。こんなの、綾乃ちゃんが頑張っている証拠みたいなものじゃない?」
「―――はい」
綾乃は浮かない返事しか出来ない。
結局、二人が落ち着くことが出来たのは、夕方、近くの公園のベンチでのことだ。
「何か―――大変だったね」
悠理も少し疲れた声だ。
「……」
「お昼もコンビニのおにぎりだけだったし」
「……」
「……綾乃ちゃん?」
「……さい」
「へ?」
「ごめん……な……さい」
グスッ
綾乃の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私……やっぱり、ダメだったんです……デートなんて、すること出来なかったんです……」
「……綾乃ちゃん?」
「散々、悠理君に迷惑かけてばかりで……これじゃ……」
今日一日。
ファンから逃れることが出来たと思えば、別なファンに見つかり、それから逃げればまた別な―――その繰り返しだった。
デートというより鬼ごっこに近い騒ぎ。
買い物も何も出来ない。
コンビニでおにぎりを買うのが精一杯だった。
楽しくも何もない。
デートにかこつけて、悠理君に迷惑をかけ続けた。
そんな罪悪感で綾乃の心は締め付けられそうだ。
「……あのね?」
ハンカチを差し出しながら、水瀬は言った。
「似たようなこと、他の人にも言ったことがあるんだけど」
「……」
「綾乃ちゃんは、何がしたかったの?」
「……えっ?」
「今日一日、何がしたかったの?」
「えっと……」
「デートでしょ?」
「……はい」
「デートって、何するの?」
「……」
意味が分からない。
デートで何をする?
……
デートって、何をするの?
私、デートで、何がしたかったの?
単なる買い物?
単なるお食事?
それなら、二人でなくてもいいじゃない。
悠理君と二人で、何がしたかったの?
「……あのね?」
水瀬は言った。
「僕、今日一日、とっても楽しかった」
「……ウソです」
「ウソじゃないよ。鬼ごっこみたいで、綾乃ちゃんと二人でどこまで逃げられるか、結構、ワクワクしていた」
「……迷惑、だったでしょう?私が、こんな立場だから、普通のデートが出来なくて」
言いつつ、綾乃は、『普通のデート』がどんなものか、説明出来ない自分に気づいていいた。
「ううん?」
「……」
「二人で何かして、楽しめればデートだと思うんだ。だから、綾乃ちゃんが楽しめれば、今日、僕達は立派にデートしたことになるんだよ?」
「……あっ」
綾乃は驚いたように水瀬を見た。
その顔は楽しそうに笑っていた。
あれほどの目に遭いながら、それでも最後に笑ってくれていた。
綾乃は、それが何より有り難く、嬉しい。
「綾乃ちゃんがアイドルだから出来た鬼ごっこデートだよ。綾乃ちゃんが普通の子だったら出来ない、つまり、世界中で綾乃ちゃんと一緒じゃなきゃ出来ないことを、僕は楽しんだ」
綾乃にとって、背中が震えるほどの感動が、そこにいた。
「世界でたった一つのデート。楽しかったよ?またやろうね?」
「……はいっ!」
帰り道。
暗がりもあってか、鬼ごっこは発生しなかった。
―――残念。
―――また次回♪
最後は、綾乃も笑ってそう言えた。
―――じゃ、また学校で。
―――おやすみなさい。
笑顔で、別れることが出来た。
あれほどの苦労を、世界でたった一つ。と笑ってくれる男の子。
その背中が遠ざかっていく。
「―――悠理君っ!」
綾乃は、その背中に告げた。
「私っ、絶対に間違っていませんからね!?」
そう。
私は悠理君が好き。
悠理君を好きになったことは、間違っていなかったんだ!!
不思議な恍惚感に包まれ、綾乃は何度もそう言い聞かせ、そして一日を楽しく思い返した。
心の持ちようだろう。
あれほど大変だったはずの一日が、思わず笑ってしまうほど楽しい。
―――悠理君、どさくさにまぎれてお尻をさわっていました。
―――今度、ダイエットしなくちゃ。
―――二人で分け合ったコンビニのおにぎり、おいしかったなぁ。
思い出すだけで幸せになれる。
本当に、楽しかった。
何より、悠理君の優しさが、嬉しい。
綾乃にとって感動のシーン。
あの公園での言葉を、綾乃は一字一句覚えている。
「似たようなこと、他の人にも言ったことがあるんだけど」
水瀬は、そう始めた。
あの感動の言葉達―――
似たようなこと、他の人にも言ったことがあるんだけど。
似たような―――こと?
他の人にも―――言った。
「……」
綾乃の思考は、そこでループした。
似たようなこと、他の人にも言ったことがあるんだけど。
似たような―――こと?
他の人にも―――言った。
似たようなこと、他の人にも言ったことがあるんだけど。
似たような―――こと?
他の人にも―――言った。
……
……
ガンガンガンッ!
夜中、突然物置から生じた音に、由里香達は驚いて物置に駆けつけた。
電灯に照らされた物置の中では、髪を逆立てた綾乃が何かを熱心に造っていた。
「何をしているの!」
一心に金槌を振るい、鋸を握る綾乃は、丑の刻参りの女性もかくやといわんばかりの殺気に満ちあふれている。
「……あれ?」
昭博の前で娘が作り上げているもの。
木製の台に高々と据え付けられた木製の枠。
それは、かつて海外研修に出た際、フランスで見たことのある代物だった。
「綾乃?これは―――ギロチンかい?」
「そうですっ!」
娘は振り返ることもなく言った。
「あの浮気者のクビを跳ねてやるんですっ!」
「だからやめなさいっ!」
由里香は怒鳴った。
「ご近所迷惑ですっ!それに、悠理君の治療費は綾乃持ちなんですよ!?悠理君、普通のクスリが効かないから治療費高いんですっ!あなたのギャラから天引きされるんですよ!?いくら私がそこから3割もらえるからって!」
「何ですかそれは!?」
「由忠さんのご厚意です!」
「意味がわかりませんっ!」
「綾乃を叱る代金です。由忠さんの提示した額は1割。私は5割を要求して、熾烈な攻防の末、あなたが起こした不始末のもみ消しを口実に、たった3割で妥協しなければならなかった私の無念がわかりますか!?」
「知りたくないですっ!私は悠理君が誰と浮気したかと、その処刑以外に興味がありませんっ!」
「処刑するならこんなギロチンなんて洋風なもの使わずに、もっと残酷で苦痛を長引かせる方法を考えなさいっ!昭博さんっ!」
「は……はい?」
「何逃げようとしているんです!父親として大学教授として、何かアドバイスしてあげてください!」
「あの……随分ね?論点がずれてる気が」
「3割をより高額にするためには必要な行為ですっ!さぁ綾乃?お父さんからきちんと教えてもらいなさい?」
「はいっ!お父さんっ!」
「……」
昭博は、むしろギロチンでクビをはねられたい心境で天井を仰ぎ見るのが精一杯だったという。