プロローグ:1-2
今日はとても大切な日だった。
いかに業務が山積みであろうと、この日だけは全ての責を投げ出さなければならない。
日が昇るよりも早く、シェルシェール・ラ・メゾンを発ち、足場の悪い道を世界が誇る日本車で走り抜けていく。
「また、明日から業務詰めですね。全てを放棄したくなる気持ちが、今なら分かります柊先生。ですが、私は投げ出しません。柊先生の意思を受け継いだ者としての責務を全うします」
過去を共に過ごし、初めて自分という存在を認めてくれた青年の微笑みが思い起こされる。この先もずっと自分に向けてくれるものだと思っていた彼の優しさ。この時期になるとどうしても強く思い返し、今は無き尊敬した相手との想い出に縋ってしまう。
途中で休憩を挟みながら、一度町へと立ち寄った。
いつもの親衛隊風の衣装ではなく、日常に溶け込めるスーツ姿。
アレッタが車を降りれば、誰もが気さくに声を掛けてくれる。この町はシェルシェール・ラ・メゾンが外界との中間地点として造り、職を求める者達を住まわせている。お陰で日用品や注文受け取りが楽になり、この街の住民は孤独に探求を求める魔術師達にとって、良き友となってくれている。
「アレッタ様、お久しぶりでございます。今日は柊様の命日でしたね。ちゃんと花は用意してありますよ。と言っても、柊様が育てられていた花達には見劣りしますがな」
老人はカッカと笑うが、アレッタは首を横に振るった。
「そんなことはありませんよ。カロさんの花は、柊先生も大変褒めていましたから。花は愛情と手間を掛けてあげれば、どの宝石とも比較できない美しきを咲かすと。カロさん程の花を愛する方に育てられる花達は幸せだ、とよく言っていました」
「それはそれは、ワシはただの老いぼれです。昔はよく庭園の写真を見せていただきましたよ。あの庭園こそ、誰もが夢見る花の楽園でした。理想を作り上げたお方を亡くしたのが惜しい」
「そう……ですね。申し訳ありません。カロさんともう少しお話をしていたかったのですが」
「いやいや、此方こそ余計な話に付き合わせてしまった。ちょっと待っていてくださいよ。直ぐに花を取って来ますから」
背を丸めたカロは、店の奥に引っ込んでいった。
店内は多様な花の匂いで包まれている。とても甘く、とても軽く、とても心安らぐ澄んだ香り。カロ老人の大切な愛し子たちは、花弁に小さな水滴を付けて、無邪気な笑みを浮かべる子供のように眩しかった。
「どの花も、緑の色香を纏っていて、仲良しなのね」
緑の色香とは、花弁や茎の色の事ではない。
アレッタが生まれ持った能力――草花の気持ちを理解し、会話する事が出来る。花々の感情は、花弁に纏う色合いで見て取れた。
緑は成長を指す健やかな色。その色の濃度によってもまた具合が変わってくるが、ここの花達は何一つストレスなく、自由気ままに育っている。それだけでカロの人となりが分かってしまう。
そんな美しくも若々しい花を見て回っていると、花束を持ったカロが戻ってきた。紙で丁寧に包まれた花達も、瑞々しい緑色の気を纏っている。
「アレッタ様、お代はよろしいので、持って行ってください」
「そういう訳にはいきません。カロさんの育てたこの子たちの為にも、お支払いはさせていただきます。職人の働きに見合った額を支払わねば、その手腕と愛情に失礼ですから」
「はっはっは、相変わらず強情で真面目な方ですな。柊様といらっしゃった時も……っといけない、いけない。歳を取るとどうも話し込んでしまう。では、ワシが折れるとしましょう」
苦笑するカロに代金を支払い、花の束を受け取った。胸に抱いた花は、墓前に捧げる手向けの花。本来であれば菊の花を手向けるべきだが、あえて菊を含めた数種類の花を包んでもらっている――花を愛していた柊が喜ぶように。
助手席に花束を横たえさせ、再び町から深い森へと入った――居城からこの町の道程は、ある程度舗装されてはいたが、ここから先は根や岩が剥き出しになる獣道。通り慣れた道とはいえ慎重に越したことは無い。
町から五時間掛けてようやく錆びた正門に辿り着き、車をその場で停車させると、午後二時を回っていた。軋轢音を立てながら手動で門を開け――かつては四季折々の花が咲いていた庭園を見渡す。
今は主人を失い、美しく栄えるように育つことを忘れた青草と枯れ木ばかり。
かつての記憶を思い返しながらアーチを潜り抜け、カバンから大きなカギを取り出す。剥げ上がっている扉の錠前に捻じ込み、ガチャリと大きな音が扉越しに反響した。蝶番部分の油が枯れ、スムーズではないが扉を押し開く。
薄く積もった埃に足跡を作りながら、吹き抜け式エントランスホール右奥の螺旋階段を上った。
エントランスホール突き当り左右にある、螺旋階段から東通路と西通路へと行き来する事が出来る。
西通路最奥の部屋に辿り着き、身なりを直して一呼吸した。
「柊先生、ただいま戻りました」
室内の書棚にはびっしりと草花の参考書や図鑑が収まっており、眠る為のベッドと使い込まれた木製机。その上には親指程の結晶体が幾つか転がっている。
この部屋はアレッタが先生と呼び慕っていた柊という男性の部屋。あの時から何一つ手を付けず、最低限の掃除だけを済ませていた一部屋。大事な人の部屋だからこそ、ありのままで留めておきたいというアレッタの主張。
キルツェハイドも墓参りには来てはいるようが、屋敷内にまでは足を踏み入れていない。アレッタと柊の二人の思い出に、土足で足を踏み入れる真似を良しとしない彼なりの配慮。そこまで気にすることでもないと思うが、頑なに首を縦に振らない彼の意思を尊重した。
「もう、何年も枯れてしまっていますね。そろそろ、閉じるべきなのでしょうか」
アレッタは少し寂しそうに呟いた。
誰からも返事なんて得られないことは分かっていても、口にして誰かしらの――最愛の師からの言葉を期待してしまう。
瞳を閉じ、意識を過去に沿わせれば、あの陽だまりの日常と、彼の優しく落ち着いた声音が迎えてくれる気がしてならなかった。
「私はいつまで咲き続ければいいのでしょう。いいえ、枯れ続けているのかもしれませんね。あの時から……」
紫色の瞳は永遠と先の見えない未来を眺めつつ、過去への記憶を懐かしむように思い出していた。
こんばんは、上月です
次回から本編に入っていきます。
幼少時のアレッタがどのような道を――無道を歩んで現在に至ったのか。
次回の投稿は5月2日の23時を予定しております!