普遍花1-1
身体の異変を感じてしばらく経つ。
頭の中で囁く異形の声を無視して過ごすのも慣れたもので、最近ではへをを曲げてしまったのか、囁き声は聞こえない。アレッタにとってそれは良いことであるはずなのに、どうしてか少し不安な気持ちが勝っている。
地下空間はクラウスとアレッタと聖羅の三人で厳重に結界を張り、扉の前には机や木箱を重ねて物理的な封鎖も施した。
回復した聖羅は日本へと一度帰国することになった。
魔術媒体の調子が悪いらしく、休養ついでに新調しに行くと言っていた。
日本に強い憧れを持つアレッタは心底、聖羅をうらやましがった。柊が産まれ育った土地。とても自然豊かで独立した文化と礼儀を重んじる国家。アレッタが抱いている理想の姿。
「まあ、そのうち一緒に日本で暴れてやろう」
そう言い残して彼女は日本へと渡った。
それから二日、アレッタはいつもの業務に追われ、自分の探求はおろか、幹久や香織との時間も作れなくなっていた。
気付けば夜になっていて、朝になっている。
そんな日が続いたある日にクラウスが訪ねてきた。
「クラウス様が私の部屋にいらっしゃるなんて珍しいですね。すみません、お茶菓子も無い部屋で、なんのおもてなしもできないんです」
「ああ、知っているから大丈夫だよ。ワシが持ってきた」
手には酒とつまみ。
「休息も仕事だぞ。まあ、付き合いなさい。年寄りの我儘だよ」
「そんな、我儘だなんて」
きっと何か話があるのだろう。
でなければわざわざ高価そうな酒なんて持参しない。机の書類の山を目の届かない場所にずらして応接用の対面ソファーへと移動した。
グラスに注がれる赤。
互いに軽く持ち上げて視線で乾杯をして一口。
やっぱりビールがいい。
アレッタの内心の感想。
ソーセージと一緒に飲むビールで一杯やりたい。
アレッタの内心の願望。
「ワインはお気に召さなかったようだ。次回はソーセージとビールでも持参しようかの」
「えぇ!? ど、どうして私の考えていることが」
「……いや、なんとなく言っただけだったんだが。そうか」
クラウスは自分のグラスの赤を眺めてから苦笑した。
「それで、お話というのは」
「……は?」
「いえ、ですから何か大切な話があるからいらしたのでは」
「いや、話というよりかは、世間話でもして息抜きがしたかっただけじゃよ」
「え」
「え」
互いに目を丸くして見つめ合い沈黙。
「あの、すみませんでした」
「ワシの方こそなんだかすまないな」
気まずい雰囲気が続く。
「ああ、忘れていたよ」
クラウスがこの空気を打破した。
いったい何を思い出したのか。アレッタはワインをちょっとずつ口に含めながら、彼の言葉に意識を向ける。
「アレッタ。明日にちょっと出掛けてもらいたいんじゃよ。なあに、ちょっとイギリスまでだ」
「あの、ここからイギリスまで、結構な距離がありますが」
「はっはっは」
「急ですね。依頼ですか?」
「そう、大切な依頼だよ。ワシからのな」
クラウスからの依頼を受けるなんて初めてのことだ。
何か事情があるのかもしれない。わざわざアレッタを使命して依頼するのだから、AAランク相当の危険な任務なのかもしれない。アレッタは気持ちを入れ替えて、少々前傾姿勢になって詳細を聞く。
「その依頼、というのは」
「頼む!」
いきなりクラウスが頭を深々と下げた。
さすがにこれにはアレッタもびっくりして、どう反応すればいいのか分からなかった。あたふたするアレッタはとりあえずクラウスに頭を上げさせた。
切羽詰まった彼の反応。
気を引きしめて挑まねばと生唾を飲んだ。
「一ヶ月後に給仕の女の子の誕生日なんだ! 最近の若い子がどういったものを好むのか、ワシにはわからんのだ! なにかヒントを得ようとその子の部屋に忍び込んだんじゃが、イギリスのなんとかというブランドの下着の切れ端を壁に貼ってあったんだ。どうか、それを買ってきて欲しい」
「…………」
「頼む、アレッタ!」
「…………」
「ワシでは買いに行けんのだ!」
アレッタは微笑んだ。
「お断りします」
結局数時間の説得の末、その下着を買いに行く、お使いの依頼を受けた。
こんばんは、上月です。
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