楽園に踏み入った不純物1-2
自室の窓から、ぼんやりと午後の空を眺めていた。
早く帰ればいいのに、と何度も嘆息を吐き出し、ヒリヒリと痛む頭部を濡らしたタオルで押さえつける。
あの男が自分の領域に土足で踏み込もうとしている。どうして、今更になって自分に会いに来たのか。忌々しい父親だった欲深い利己主義者の考えなど、いくら思考しても分からない。むしろ、分からなくて良かったとさえ思う。
居間ではグランツを柊が対応してくれている。
「柊先生……」
緩慢に形を変えて流れ行く雲は、何処に向かい、どのような形を最終的に仕上げるだろうか。
立て付けの悪い窓を押し開け、不変の青空を泳ぐ雲を視線で追ってみた。大衆娯楽の無い花の楽園では、自然と触れ合い、人間性を育む楽しみを身近に体感することができる。
浮かんでいる雲の形を自分なりに例え、これからどのような姿に変わっていくかを想像し、思い描いた形になった時は、小さな喜びを得られた。
人の生活圏から遠く離れた場所で過ごしているアレッタは、例えられる知識も少ない中、それでも懸命に――四歩後ろに立つ青年に気付くことなく想像を膨らませていた。
「犬? でも、犬種は……犬」
見たことがある犬。でも犬種が分からないので、犬としか例えられなかった。そんな可愛い生徒に吹き出しそうになる柊は、アレッタが見ているであろう雲を小さな肩越しにそっと見上げた。
「僕には、秋田犬に見えるなぁ」
「――っ‼」
目を大きく見開いて反射的に振り返ったアレッタは、そこに、いつから居たのか、柊が小さく笑って――ちょうど四歩分の距離を開けて立っていた。
「あはは、ごめんね。驚かせちゃったね。傷の具合はどうかな」
「傷は、大丈夫です。その……あの人は」
「グランツ殿は、リビングでくつろいでもらっているよ。どう、お父さんとお話できそう? 無理そうなら後日に改めてもらうけど」
「あの人は、父親なんかじゃありません……父親じゃないです。あんな人」
家名と自分の実績の為に母を犠牲にして、自分を作り出した業深い男。それでも父と慕っていた自分に、何の躊躇いもなく親子関係を否定して家を追い出した男を、どうして父親と認められようか。理由はともかくして、今更に父親面して現れたグランツと話す会話も無い。
柊はアレッタに目線を合わせて、諭す口調で言った。
「僕は二人に何があったかは詳しくは分からない。グランツ殿もその話題に触れようとしないし、アレッタの反応から見て、とても深い溝があるんだよね。だったら、なおさらお話しないと。でも、強制はできない。望むなら彼を追い出してもいい。二度とキミの前に現れないように言い渡してあげてもいい。選択するのはアレッタ、キミ自身だよ」
親子不仲というのも悲しい事だが、他人である自分が親子間の話題に口を挟む権利はない。偽善的だが、話し合いでの解決がもっとも望ましいと柊は考えていた。
アレッタの魔力路の開通儀式で失態を侵し、一度はアレッタの師を降りようとしたが、真っ直ぐに伸びようとする姿勢に、再び先生としてアレッタを優秀な魔術師に育て上げると決意をした。これから先、アレッタを狙う脅威を全力で払うと自分に誓った。
自分の歩むべき道を自分で選択してもらい、人として、魔術師として成長してもらいたかった。
「柊先生は、傍にいてくれますか?」
「近くにはいるよ。でも、グランツ殿は、アレッタと二人で話がしたいみたいだね。無理を言って僕も同席しようか」
「……いえ、私一人で話してみます」
「わかった。でも、安心して。何かあったら直ぐに僕は仲裁に入るから。さっきみたいな怪我は絶対にさせない。信じて欲しい」
「ありがとうございます。信じています。柊先生のこと」
力強い意志を表情に浮かばせる柊に、無意識に笑顔で礼を述べていた。その事を自覚したのは、柊が嬉しそうに微笑んでからだった。
「居間まで一緒に行こうか」
「お願いします、柊先生」
表情を引き締めて姿勢を正して一礼する――うなじを細い銀の髪が滑り落ちた。
視線を床に落とすのは、緊張する表情を隠し、意を決する時間が欲しかったから。髪が顔全体を覆ってくれているのは、とてもありがたかった。
「さぁ、前を向いて。魔術師たる者、常に己の道を見極めて歩かなくてはならない、だよ」
「魔術基礎の教科書に載っていた、第一文ですよね」
「素晴らしい! 流石は将来有望な魔術師さんだ。即答だったね」
「それは、柊先生の教え方が、上手だったからです」
「それほどでも……あるのかなぁ?」
緊張を解そうと、慣れない冗談を言って自分を笑わそうとしてくれている事くらい、直ぐに察しが付く。
緊張が全く無くなったわけではないが、わずかな温かい勇気を分けて貰えただけで十分だった。
元父親と何を話すかは分からない。傀儡のように扱われていた時の自分とは違う所を見せつける事が、自分を捨てた彼へのささやかな見返しだと終点を定めて挑む。
自分は一人ではない。
魔術名家ではないが、AAランクという現存最高位の魔術師が付いていてくれるという考えはなかった。自分を大切に見守ってくれる先生が付いていてくれている。アレッタにとっての柊という存在は、魔術師としての価値より、人としての価値の方が上回っていた。
螺旋階段をゆっくりと降り、扉の前に立ち一呼吸を置く。
扉に嵌め込まれたガラスからは、手元の資料に目を落とす厳格な顔付きをしたグランツの姿。一瞬だけ鼓動が拒否反応で跳ね上がるが、欲望の為に作り出されただけの弱い自分ではないと否定して、恐怖を無理やり払拭した。
捻るノブはいつもより重く感じ、一息に扉を押し開けた。
背後からは柊が立ち止まっている気配がする。
扉を後ろ手に閉め、薄い木製扉の隔たりが一枚あるだけで急に心細くなる。それでも確かに柊はそこにいてくれている。
資料から顔を上げたグランツの瞳から得られる感情――長時間待たされた苛立ちと、まさか自分の目の前に一人で姿を現した驚きが入り混じっていた。
「お待たせいたしました。先程は取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。お父様」
「構わん、席に着け。俺も高ランク持ちだ、そこまで暇ではない」
銀の長髪を小さく揺らして歩くアレッタをグランツの視線が追う。堂々とした足取りで、小さなテーブルを挟んだ対面に腰を浅く掛けた。
「お前には、売春なり乞食でもして生きろ、と言ったはずだが?」
「最初はそのつもりでした。いえ、生きる道を歩めるとは思っていませんでした。ただ、親切な方が、私をここに連れて来てくれました」
「ふん! お前の名付け親の、あの医師だろう。まったく……余計な事をしてくれたものだ」
扉を一瞥したグランツは、そこに柊の姿が無いのを確認した。
「柊先生でしたら、この会話を聞かないと約束してくれています。安心してください、お父様」
「そのようだな。用件を言う、フォルトバイン家に帰って来い。お前を苛めていた給士共は一斉に解雇した。もう、誰もお前を苛めたりはしない。これからは、家族として、フォルトバイン家の無道に沿った魔術師になってもらう」
予想できなかった申し出に、アレッタは言葉を失った。
自分を勝手に作って、勝手に捨てた親が、今更になって帰って来いというのは虫の良い勝手な話だ。アレッタの心中は表情にこそ出してはいないが、憤懣の情が荒れ狂っていた。今にも捌け口を見つけて、言葉という媒体を通して発散したいくらいに。
だが、ここで下手に感情的になれば、迷惑を被るのは柊だという事くらい、幼いアレッタにも考えが行く。あくまでも冷静に、穏便に話を決着させ、グランツにはこの花園を一人で立ち去ってもらわねばならない。
「理由を……理由をお聞かせください」
彼の挙動や口調といった機微の反応を観察し、彼の胸中に植えた欲望の種を見抜く。
柊の教え――四季の移り変わりを機微に観察する。
四季を人に変えただけで本質は変わらない。物事の些細な流れを見極める基本を忠実に遂行するべく、全意識をグランツに注ぎ込む。
こんばんは、上月です
次回の投稿は23日の21時を予定しております!