1話 春眠の春休み(前編)
初めまして、おはようございます。
私は今、カーテンを開けて早朝の眩しい光をいっぱいに浴びています。
嘘です。今の時刻は午前11時、世間では早朝と呼ぶには遅すぎます。道理で眩しいわけでした、ほぼ昼ですから。
取り敢えずベッドから体を起こして、眠い目を擦りながら箪笥を開けます。寝起きなので当然パジャマ姿の私は、私服に着替えてお母さんに会うなり、
「あー、勉強疲れたなー」
なーんて何食わぬ顔で呟くことによって、あたかも既に起きていたかのような雰囲気を醸し出し、11時起床の事実を隠蔽しようと思い立ちました。我ながら冴えてますね。
床に無造作に脱ぎ捨てられた、もこもこした水色のパジャマ。これは私が中学3年生の時に無理して大きめのサイズを買うように頼んだものです。これから伸びる予定の身長とか、主張し始める予定の胸とか考慮した結果の適切なサイズ選択だ、と言って譲りませんでしたっけ。このパジャマは今でもぶかぶかのままです。多分あと1年くらいは着れるでしょう。
ゆっくり着替えながら、部屋のカレンダーに目を向けます。今日は2041年3月10日、火曜日です。今日の予定は…ピアノの練習だけみたいです。
念のために付け加えておきますが、私は別に不登校なわけではありません。どこの学校にも春休みというものがありますが、それにしてはちょっと早すぎると思われちゃいますよね。私の通っている桜橋高校という所は、ちょっと変わってるんです。私立ですから癖があるのは当たり前ですけど。
この際軽く説明しておくと、桜橋高校は桜橋大学に付属している学校で、自慢ではありませんがそれなりに入るのが難しいと言われています。中学生の頃の私は勉強熱心でしたからなんとか合格したのですが、今考えるとどうして私がこんな所に入れたのか…。
私立はお金がかかるのでお母さんからやめてくれと言われていたのですが、桜橋高校は別でした。入るのが難しい分、諸費用は大学側が負担してくれるという制度があったんです。しかも大学生活までの未来も約束されているという大サービス。まあこのサービスによって、勉強離れしてしまう高校生も生まれてしまいそうですがね、私みたいに。
まあ要するに、桜橋高校は大学の付属高校なので、ちょっと変わった制度があるってことです。春休みが早めに始まるのもその一つです。今の私はバケーションモード。11時起床も道理、ですよね?
そんなこんなで着替え終わりました。さあ、私の名演技の時間です。お母さんの視界に私が映ったら、
「あー、勉強疲れたなー」
と何気なく一言。ここでポイントなのは、少し肩をほぐす素振りをして見せること。今まで眠っていたら肩なんて凝りませんからね。脳内リハーサルは100点満点、いざ出陣です。
慎重に、かつ普段通りに階段を下りていきます。お母さんの姿はなかなか見えません。
と、「ガタッ」
リビングで結構大きめの物音が…私はまだお母さんの姿を確認できていないし、きっとお母さんの視界にも私は入っていないでしょう。しかし私が階段を降りる音は聞こえているはず、作戦続行です。
「あー、勉強ちゅ…」
私という者は本当に…こんな所で緊張していては、社会の世知辛く塩辛い大海の荒波にいとも容易く巻き込まれてしまいますよ。滑舌にそれなりの自信を持っていた私にとっては、これは予想もしないアクシデントでした。
ですから、アクシデントによって動揺した私の心は美しき数学的帰納法の如く、次のアクシデントへの一押しになり…、階段を踏み外してしまったようです。
ガッシャーン。
床に勢いよく頭を打った私は、心地よい痛みに涙を浮かべながら思います。このままここで二度寝するのも悪くはないな、と。シャルアイフェードアウト…。
…あれ?
早くも軽い微睡みに飲まれ始めていた私はようやく、お母さんがなかなか来ないのに気が付きました。流石にこんな派手に物音がしたなら、お母さんも様子を見に来るでしょう。
本番でほぐし損ねた肩をさすりながら、体を起こしてリビングを覗きます。
そこには、きょとんとした風にこちらを見つめる大きな犬がいました。家で飼っている室内犬の、バクくんです。では物音の主というのは…。
「あなたでしたか…」
こちらへ寄ってきて鼻を押し付けてくるバクくん。そういえば、今は火曜日のお昼。お母さんは仕事に行っている時間です。
私は一体、朝から何と戦っていたのでしょうか…。おっと、朝じゃないですね。
取り敢えず、顔を洗って出直してきます。
さて、今日は特にすることも無く、家に誰もいないので退屈ですから、いつもの神社に遊びに行くことにしましょう。いつもの神社、というのはもとい、幼馴染の叶那ちゃんの家のことです。彼女も桜橋高校に通っているので、お互い春休み。彼女はきっと神社にいるでしょう。
昔から彼女はどこか変わっていて、私もまた同様に変わっていた為か、よく一緒に遊んでいます。
彼女は一癖も二癖もある性格ですが、私の良き理解者です。私の根拠の無い戯言も、彼女だけは信じてくれるのです。まあ、私も彼女以外に話したことが無いのですが。
…おっと、まだ「戯言」の内容を話していませんでしたか。失礼しました。
実は私、世界があと一年で滅亡することを知っているのです。
それは、桜舞い散る2042年4月3日の出来事。この日、世界は安らかな終焉を迎えます。
まあ、そんな事どうでも良いんですけどね。
[1話後編に続く]