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蛹は甲虫の夢を見るか?  作者: ろ~えん
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第五話

「さて、変身の件について、教えて貰おうか。」

「何を?」

「何であんな姿になったんだ?」

「そんな事、僕が知るかよ。」

加藤はいたずらっぽく笑った。

「どうせお前の事だから、想像は付いてるんだろ?」

「お前なぁ、僕を一体何だと思ってるんだよ。」

永田は苦笑したが、一呼吸おいて話し始めた。

「とりあえず蛹を経由してあの姿になったんなら、神田氏の体内に成虫源基が存在したと思って良いだろう。だけど、成虫源基だけであんな変容はまず不可能だから、DNAに含まれているオートファジー機能が働いたのも確かだね。」

「オートファジー?」

「特定部分の細胞が自律的に分解して、他の細胞に吸収される機能だよ。オタマジャクシが尻尾が分解・吸収されてカエルになるとかそういうやつだよ。で、現在知られている人間のDNAに含まれているオートファジー機能で、あんな大規模な再構成は出来ないから、その機能は、例のサンプルAとBの差分に含まれているんだろう。そして、その強力なオートファジー機能は、成虫源基とセットにならなきゃ意味がない。」

「だけど、人間の体に成虫源基なんて物があれば、とっくに誰かが見つけてる筈だろ?」

「その辺は、多分さっきの『セット』の話と関係してくるんじゃないかな。」

加藤は、頭上に巨大なクエスチョン・マークを浮かべた様な表情になる。

「そもそも、DNAの差分がどこから来たかだけど、第一の可能性としては、あのサンプルAとBの差分は『増えた』訳じゃなく、元々DNAに含まれていた物だという事が考えられるね。」

「それはおかしいだろう。『元々』と言うなら、Bにも含まれてる筈だから、差分になる訳が無い。」

永田は、その指摘を一蹴する様に続けた。

「その部分が四次元的に折り畳まれていたら、三次元的には無いも同然だよ。四次元空間では、生化学的な反応も三次元空間とは異なるだろうから、三次元的には全く機能していなくてもおかしくはないんでさ。」

「ちょっと待て。何で四次元と三次元で化学反応に違いが出るんだ?」

「次元が一つ多いって事は、分子結合が可能な方向が二つ多いって事だよ。」

その指摘に少し考えた後、加藤は言った。

「つまり、三次元的に見れば全方向に結合があってもうこれ以上空きがない様に見える分子でも、四次元空間ではまだ結合が増える余地があるって事か。」

「そう。それに、熱の発生量の上限も変わる。熱の量はつまるところ分子の振動量だから、振動の可能な方向が増えれば保持できる振動エネルギーの量も増える。当然化学反応自体が異なる訳さ。」

頭の中を整理しようとしている加藤を置いて、永田は先を続ける。

こいつは頭の回転が早いしマルチタスクな奴だから、すぐに追い付いて来ると思っているからだ。

「脳の高次元機能が働きだした事で、高次元空間への移動が可能になり、それが原因でDNAの中の高次元的に折り畳まれていた部分が活性化した、という所かな。」

永田はそう言いながら、いつもならこの手の会話には喜んで割り込んでくる春香が、今日は何故か沈黙を守っている事に気付いた。

「なるほど、じゃあ成虫源基も高次元空間上に置かれているんで見つからなかったが、神田さんが高次元空間に移動した事で、DNAの差分と共に活性化されたわけだ。」

「まあ、そんな感じかな、と。」

そう言ってサーバ本体に目をやり、ディスクとネットワークのアクセスランプが激しく明滅しているのを見て、何か恐ろしく大量のデータアクセスを必要とする作業をしているのだろうと思った。

しかし、これだけ黙り込んだまま没頭する程の作業とは何か、となると見当も着かない。

まあ、いずれ何か結果が出たらまた話すだろうと踏んで、取り合えず好きにさせておく事にした。


典子は、一人になって落ち着いた事で、焦眉の急と言うべき問題を思い出した。

全く着の身着のままでここに来てしまったから、身の回りの消耗品は化粧ポーチにいつも入れている物しか持っていなかったので、そろそろ底をつきかけている。

ギリギリ化粧品ならば他人に頼んで買ってきて貰う事も出来なくはないが、生理用品となるとそれはとても堪えられない。

加藤達を引き留めたかったのは、不安以外にも買い物に付き合って欲しかったからでもあった。

しかし、加藤がここに残る事を『フェアではない』と言った事で、加藤らに付き合って貰う事は、同行する事が出来ない神田に対する裏切りの様に思えて、言い出せなかったのだ。

しばらく思案したが、やがて携帯を取り出すと近所の地図を確認した。

表通りのコンビニまで、三ブロック程歩けば良さそうだ。

「緊急事態だから、仕方ないよね。」

そう呟くと、典子は部屋のキーを手に取った。


「DNAの隠れていた部分が活性化する事と、虫になる事はどう繋がるんだ?」

永田は、軽く笑った。

「それこそ、僕に聞くなよって話だ。まああえて言うなら、昆虫はそれ以外の地球上の動物と驚くほど共通点が無い訳だけど、この点について、昆虫は地球外からやって来たんじゃないかなんて言う人間も居る。勿論それじゃDNAという共通の構造的基盤を持つ事が説明出来ないから、殆ど誰も相手にしないけどね。で、見たことが無いんで良く判んないが、もしかすると高次元空間ではああいう昆虫っぽい形態の方が、より適応出来るのかも知れんね。で、昆虫はその高次元空間で大きな進化を遂げてから、この空間に降りて来たと。」

「なるほど、だから高次元空間に移動した神田氏は、昆虫的な変容をする機能が作動したって訳か。」

「そういう事。勿論根拠は全く無いけどさ。」

その時、加藤の携帯が鳴った。

「はい、加藤です・・・え?・・・はい・・・はい。判りました。すぐ行きます!」

「どうした?」

「大変だ!佐山さんが撃たれた!」

「何?」

「とにかく、行くぞ!」

二人は事務所を飛び出した。


「どうした?」

スタインリッジは、デサリーヌの顔を見て驚いた。

いつも陽気でまず怒る事のない男なのだが、今の彼はどうみても頭から盛大に湯気を上げている。

「どうもこうもありませんよ、大佐。あのチンクども、こっちの警告を無視しやがりました。」

それは面白く無い話だが、この世界では相手にとって都合の悪い警告がそのまま聞き流される事は珍しくないので、それで一々こうやって湯気を上げていては、脳の血管が持たない。

ティーンエイジャーではあるまいしその程度の事は理解していて然るべきなんだがと、内心で軽い失望をおぼえつつ尋ねた。

「何があったんだ?」

「さっき極東支局から報告がありました。チンクどもがノリコ・サヤマを撃ちやがったそうです!」

「何だと!容体は?」

「背中を撃たれて緊急手術中だそうです。素人をしかも後ろから撃ちやがって、あのくそったれどもが!」

どうやら、デサリーヌが怒っているのは、警告を無視された事より、ノリコが撃たれた事に対してであるらしい。

諜報の世界には、プロの矜持に掛けて素人には出来るだけ害を及ぼすべきでないという不文律がある。

実際には、そうそう綺麗に行く物ではない事がおいおい判ってくるのだが、それでも理想は(無いよりは)あった方が良い。

双方が『手段を選ばない』事に抵抗を感じなくなるとすれば、それは泥沼のエスカレーションという道であり、その行き着く先は戦争なのである。

「ふむ。そうなるとこっちもなめられっぱなしという訳にもいくまい。」

そう言うと、アドレス帳を開いてある番号を示した。

「今すぐここに電話して、それを教えてやれ。」

その番号の人物の所属名は『公安』とだけ書かれていた。

「了解しました!」


病室には山野巡査部長が待っており、病室なのにベッドが無かった。

「佐山さんは?」

加藤の問い掛けに、山野は心苦しそうに答えた。

「今は、手術中です。ついさっき入ったところで、2~3時間はかかると言う話でした。」

続けて尋ねる。

「何が起こったんですか?」

山野は軽く頸を振ってから、ぽつぽつと説明を始めた。

「警羅中の警官が、銃声らしき音を聞いて現場の脇道に飛び込んだら、佐山さんが路上に倒れていて、三人の男達が逃げるところだったそうです。と言うか、一人は動けなくなっていた様で、それを二人が両脇から支えて引きずりながら逃げていったと報告がありました。その警官は倒れている佐山さんを確認したところ、背中に撃たれたと思われる出血痕があったので、逃走者達を追いかけるのを断念して救急手配を優先した、とのことでした。そしてここに緊急搬送してそのまま手術室へ入りました。逃走者については、現在捜査中です。」

永田が尋ねる。

「傷はどうですか?」

「判りませんが、医師は生命の問題は無いだろうと言っていました。ただし、脊髄を損傷している可能性が高いので、重大な後遺症が懸念されるそうです。」

「何で外出したんでしょう?」

加藤が尋ねると、山野は軽く頸を振った。

「恐らく近所のコンビニに買い物に行ったんでしょう。現場にコンビニ袋が落ちていました。」

「何故、撃たれたんでしょう?」

加藤の問い掛けに山野は、無言で頸を振った。

「目撃者に聞いてみようか。」

永田がそう言うと、山野は怪訝そうな表情になった。

「目撃者と言うと?」

加藤は一瞬考えてから言った。

「そうだな。山野さんにも見てもらった方が良いだろう。山野さん、すみませんが、今からここに目撃者を呼んで話を聞こうと思います。しばらく誰も入ってこない様に話してもらえませんか。」

「まあ、本当に目撃者の話を聞けるのなら・・・」

そう言って山野は、主の居ない病室を出るとナースステーションに向かった。

話をつけて帰ってくると、カーテンが全て閉められていた。

「こちらから呼ぶまで、誰も入ってこない様に話しました。もし佐山さんの状況に変化があったら、電話が入ります。」

「ありがとうございます。」

加藤が礼を言っている横で、永田は宙に向かって呼び掛けた。

「神田さん、緊急事態です。出てきて話をしましょう。」

山野は、目の前の薄暗い空間が揺らぐのを見て、疲労で目が霞んだかと思ったが、突然大きな人影が出現した事に軽い驚きを覚えた。

しかし、暴力事件という修羅場を日常的に経験して胆が据わっている彼は、取り乱しはしなかった。

ただし、薄暗い中で目が慣れていくにつれて神田の異様な姿は認識できた様で、ゆっくりとその顔に驚愕の表情が広がって行った。

四人はしばらく無言で向き合っていたが、やがて喘ぐ様に山野が言った。

「こちらはその・・・もしかすると、この間の話のか・・・」

『怪物』と言いかけたのだが、修羅場慣れした彼の強靭な自制力は、咄嗟にその言葉を呑み込ませた。

「はい、そうです。神田氏の今の姿です。」

加藤がそう言うと、永田は続けて言った。

「詳しい説明は省きますが、神田氏は今、三次元と四次元を任意に往き来出来る能力を持っており、佐山さんを四次元から常に見守っています。」

その言葉に山野は納得した様に言った。

「つまり、逃げる男達が引きずっていた男は、貴方が叩きのめした訳ですか。」

「ハイ、ソウデス。」

「一体、何があったんです?」

「典子ハ、こんびにニ行ッテ買イ物ヲシタ後、店ヲ出マシタ。ソノママほてるニ戻ロウト小路ニ入ッタトコロデ、三人組ガ後ロカラ接近シタンデス。私ガ警戒シヨウト注意ヲ向ケタ時ニ、典子ニ追イ付イタソノウチノ一人ガ銃ヲ抜キマシタ。急イデ後ロニ立ッテ全力デ殴リ飛バシタンデスガ、ソノ瞬間ニ典子ガ撃タレマシタ。」

あんな街中の、それも警視庁からそう遠くない場所で銃を撃ちたい奴が居る筈がない。

恐らく犯人は、典子の背中に銃を突きつけて脅そうとしたのだろう。

一般的には『暴発』といえば、銃が機械的に誤動作して発射される事故を想起するが、暴発の本当の意味は『意図に関係無く撃発が起こる事』であり、殆どの場合、誤って引き金を引いてしまった事が原因である。

今回は、神田が殴り飛ばした衝撃で、思わず引き金を引いてしまったのだろう。

とは言え、素人の神田にその判断の誤りを問うのは酷という物であろう。

むしろ責められるべきは、撃つ意思もないのに引き金に指を掛けた状態で銃を扱った犯人の迂闊さだと言える。

いずれにしても、今の神田の臂力で手加減無しの一撃を喰らった犯人もただではすむまい。

恐らくむち打ちで済めば幸運だろう。

その時、山野の携帯が鳴った。

山野は立ち上がると三人に背を向けて電話を取った。

「はい、三課の山野です。はい。はい。はい・・・」

相槌を打ちながら、その声色は急速に不機嫌になっていき、とうとう黙り込んでしまった。

カーテンが閉まったままの薄暗い中でも、横から見るその表情が苛立っているのが一目で判る。

やがて、山野は吐き出す様に言った。

「私は宮仕えの身ですから、課長がそうおっしゃるなら、そうするしかありませんが、本当にそれで良いんですか?」

また、しばらく黙って聞いていたが、投げやりな調子で言った。

「ええ、判ってますよ。泣く子とコーアンには勝てません。それでは。」

乱暴に電話を切ると、三人に向き直って言った。

「この件の捜査は打ち切りだそうです。」

「何故公安が?」

加藤の質問に、山野はしまった、という顔をした。

「申し訳ありませんが、私はそれについては何も言えません。」

無念そうにそれだけを言って、頭を下げた。

「犯人が中国の奴等だと確定したから、揉み消して貸しにしようって所だろうね。」

永田の推測に山野は無言であったが、その表情は同意を示していた。

そのまま四人は、互いに視線を反らせつつ所在無げにしていたが、唐突に永田が言った。

「佐山さんの手術もそのうち終わるし、いつまでもここをロックアウトしている訳にもいきませんから、神田さん、申し訳ありませんが、あちらに戻って貰えませんか?」

神田は(多分)寂しげに頷くと、身を翻してそのまま消えた。


「はい、はい。・・・勿論ですよ。はい。・・・ええ、我が中華人民共和国にその様な不心得者なぞ、おる筈がありません。はい・・・」

岳飛は、盛大に冷や汗をかきながら、日本の公安警察からの電話に応接していた。

向こうは、ノリコ・サヤマが撃たれた件について、明言はしないがこっちの人間の犯行である事を知っていると匂わせて警告をしている。

こちらが当面の間大人しくしていないと、その証拠が漏洩されて中国政府がその面目を喪う事になるぞ、という訳だ。

岳は、言質を取られない様に細心の注意を払いつつ、当分その活動を自粛する事を約束せざるを得なかった。

電話を切ってから、呪いの言葉を吐いて立ち上がり掛けた所で、思い直した。

羅扶の所に直に警告しにいっても、あの糞野郎が大人しく聞く筈はない。

彼は電話を取り上げた。

「こちらは駐日武官の岳です。」


やがて手術が終わり、目を閉じたままの典子が、ストレッチャー兼用のベッドに乗せられて帰って来た。

医師は、山野に向かって言った。

「その・・・患者さんのご家族と連絡をとっていただけませんか。なるべく早く。」

「はい、今連絡を取ってこちらに向かってもらっています。ただ、なにぶんにも遠方でして、早くても夕方になるかと・・・」

山野は、そう言いかけたところで表情を堅くした。

『なるべく早く』というニュアンスの意味する所に気付いたのだ。

「その・・・そんなに容体が悪いんですか?」

医師は一瞬躊躇ったが、警察官なら良いであろうと判断して、話し始めた。

「弾丸の摘出は無事終わりました。生命の危険は、取り合えず無さそうだと思っていただいて結構です。ただし・・・」

そこで彼は口籠った。

急かしても意味がないのは解っているので。三人はその続きを辛抱強く待った。

やがて、覚悟を決めた医師は、言葉を続けた。

「恐らく、下半身はもう動く事は無いでしょう。」

それを聞いて思わず典子に目をやった加藤は、飛び上がりそうになった。

典子と目が合ったのだ。

その反応に、全員が一斉に典子を見た。

医師は、自分の失態が信じられないかのように、呆然と呟いた。

「馬鹿な。麻酔が・・・」

加藤は、心の中で舌打ちした。

典子が以前、自分は麻酔が効きにくい体質だ、と語っていた事を失念していたのだ。

いずれは本人も知らなければならないとしても、せめて、彼女を支える家族が到着するまで、伏せておくべきであった。

典子は取り乱す様子はなく、無言のまま、はらはらと涙を落としていた。

「先生、この後の処置は?」

加藤が尋ねると、医師はこの失態に狼狽しつつ言った。

「い、いや、一先ず術後処置も終っていますから、当面はしばらく安静にして貰うだけですが・・・」

「では、申し訳ありませんが、しばらく我々だけにして貰えませんか?」

自らの不注意をどうリカバリしたものかと途方に暮れていた医師は、その言葉に、何か考えがあるのだろうと思って、看護師達と共に部屋を出た。

「おい。」

そう言いながら加藤が視線を窓に投げたのを見た永田は、すぐにカーテンを閉ざした。

「神田さん、五人で話しましょう。」

加藤が呼び掛けると、すぐに神田が現れた。

加藤としては、今の典子を、家族が到着するまで精神的に支える事が出来るのは神田だけだと考えていたのだが、彼女の表情の変化を見て、その判断が間違っていなかった事を確信した。

「のん、本当ニ済マナカッタ。」

神田が頭を下げると、典子は横たわったまま弱々しく頸を振った。

「貴方のせいじゃ無いわ。」

二人が、それ以上に言うべき言葉を見つけられないでいる様子だったが、その時永田が声を掛けた。

「この結果自体は全くの不幸な事故で、神田さんの責任じゃありません。それに、あそこで貴方が介入していなければ、もっと不幸な結果になっていた可能性も十分にあり得ました。」

その言葉は、神田に話し掛けている様に見えるが、それを本当に聞かせたい相手は典子である事は明らかだった。

「本当は、後日改めて相談する約束でしたが、こういう事態になってしまったんで、あの取り決めは一旦破棄しましょう。」

加藤がそう言うと、永田が続けて言った。

「そうですね。愛情に関する事は脇においても、貴女は神田さんについて行く事を前向きに検討する価値があるかも知れない。」

「おい!ちょっと・・・」

何て事を言い出すのかと非難しかけた加藤を制して、永田は言葉を続けた。

「もし、神田さんが昆虫の様に蛹の中でその体を再構成したのなら、佐山さんの体を同じ様に再構成すれば、また動ける様になるかも知れない。」

「だってお前、それは・・・」

加藤の抗議を無視して、永田は更に話し続ける。

「ただしそれは、今の神田さんと同じ姿となる、という事です。もう一つ忘れてはいけないのが、今の神田さんが以前と全く同じアイデンティティを保持しているとしたら、それは神経系は再構成の対象にならないという事かも知れない。つまり、そうなっても下半身は動かないままという可能性もある、という事でもあります。」

その時、加藤の携帯から声がした。

「大丈夫。再構成すれば佐山さんの脚は必ず治ります。」

山野と神田は、その声に飛び上がる程に驚いた。

「これは失礼、今のはうちの秘書です。で、何で保証できるんだ?」

加藤は尋ねた。

「神田さんの今のDNAから、成虫源基の機能と四次元的な成長反応をシミュレートしてみたの。今の神田さんの体は、体表面から少なくとも脊髄までは全て以前とは違う構造になっているでしょう。つまり、最低でもそこまでは再構成されている筈だって事です。」

なるほど、何を一生懸命やっているのかと思ったら、そういう事だったかと永田は得心した。

それほど高度な作業なら、春香と言えどもとても片手間で済ませられる物ではない。

それにしても『少なくとも』という言い方は気になったが、その意味を敢えて口にするのは自制した。

全員が沈黙し、考え込む典子を見守っていた。

神田も、特に決断を促そうとはせず、典子の意思に任せようと考えている様に見えた。

やがて、典子の両親から東京駅に着いたという連絡が入った。

「取り合えず、我々は退席しましょう。」

加藤がそう言うと、神田は音も無く姿を消した

「後は宜しくお願いします。」

山野に声を掛けて、加藤と永田も部屋を出た。


岳は、羅扶の執務室を訪れた。

羅は、いつも同様に足をデスクに投げ出したまま、噛みつきそうな表情で岳を睨んだが、いつもの悪態はぐっと呑み込んで、吐き出しはしなかった。

太子党の連中は多くの場合、自分達の『権威』の基盤が思いの外不安定な物である事に気付いていない。

彼等の特権を保証している父親達、つまり共産党や人民解放軍の特権階級の実態とは要するに、熾烈な闘争を繰り返して特権階級に登ってきた人間の集団であり、そうやってここまで来た以上、今後もそれ以外の生き方は出来ない。

今更その闘争から降りても、周囲はいつ戻ってくるか判らない潜在的競争者と見なして警戒を解く事はないし、むしろ後顧の憂いを絶つために反撃能力が無い内に潰しておくべきと考える者ばかりだから、下手をすれば命すら危うくなる。

つまり、一旦ある程度の高さまで登ってしまうと、警戒しあい足を引っ張りあう以外の生き方はもう不可能なのだ。

だから彼等は、表面上は友好的に微笑みあいながらも、その裏で常に同僚達の粗を血眼で探し続けている。

そして、自制心の足らない息子世代の行状は、その格好の弱点となるのだ。

そこで、岳の掌には今回は二つの選択肢があった。

一つは、羅征のライバルに今回の件を伝えて、この糞野郎を父親もろとも失脚に追い込む事であり、もう一つは、羅征本人に今回の羅扶の失態を『ライバルに知られない内に』警告して恩を売った上で、父親から圧力を掛けさせて、この糞野郎の優位に立つ事だった。

前者を選択してた場合、上手くいけば二度とこの小岳飛に悩まされる事はなくなるだろうが、もし羅征がその危機を上手く切り抜けたら、大きな遺恨を遺す事になる。

つまり、話を持ち込む相手の力量と地位の選択が重要である。

それに対して後者を選んだ場合、父親である羅征がこちらの話を聞き、これを受け入れて感謝するだけの度量が有るかどうかが問題となる。

概ね太子党と呼ばれる世代は、どうしようもない糞どもばかりだが、その親世代の多くは単に有能なだけでなく、その地位に着くために大変な努力を重ねてきた苦労人であり、目下の者を蔑ろにしたりはしない人物が多い。

羅征中将もそういう人物であると思われる。

この父から何故あの息子が生まれるのか?とは、太子党の面々とその親を両方見た人間なら一度は抱く疑問だが、その答はまことにつまらない物である。

要するに彼等はその地位に着くための努力に忙しすぎて、自らの子弟教育に時間を割くゆとりがなく、その間に子弟を通じて出世株の人間に取り入ろうとする周りの有象無象が追従を重ねて勝手にスポイルするのだ。

そういう意味で太子党の醜態はある意味父の責任ではなく、また激務の中でそんな事をしていられる程の余裕は無いのは重々承知しているが、それでもこの事態の責任は親である羅征に取って貰うのが筋という物であろう。

それに前者を選択して、上手くこの小岳飛の排除に成功したとしても、それを押し退けた次の小岳飛が出てくるのは間違いない。

それなら、この糞野郎に手綱を付けて(少なくとも当面の間だけでも)逆らえない様に持っていく方が良さそうに思われた。

それらの考察からの総合的判断として、彼は羅征中将に内密に話を持ち込む事にしたのだが、その選択は誤っていなかった様だ。

今の様子からしてこの糞野郎は、息子の暴走のせいで中日関係にヒビが入りそうな状況であるという警告を受けた父から、相当に締め上げられたと見える。

「今回の君がしでかした件について、『公安』から警告があった。」

羅中将からは、遠慮無く叱責してくれ、と言われている。

羅は、相変わらず無言のままこちらを睨んでいる。

「これがどういう事か、判るかね?」

そう穏やかに尋ねてから、彼は辛抱強く返答を待った。

やがて羅は、不承不承に短く答えた。

「ああ。」

岳は、悲しげに頸を振った。

「まだ判らん様だな。」

羅は、何も言わなかった。

「いいかね。君の今回の暴走のせいで、我々は対日工作を当面の間自粛せざるを得なくなった。これは、我が政府にとっては、極めて重大なマイナスとなる。」

岳が諭す様に言うと、羅は吐き捨てる様に言った。

「そのくらい判ってるよ。」

岳は大きく息を吸うと、仁王立ちになって怒鳴った。

「判っているのなら、その態度は何だ!」

羅は、予想もしなかった怒号に軽く飛び上がってから、それでも懸命に強がる様に睨み返して来たが、やがて岳の視線が示す非難の強さに根負けして、憤懣やる方なしといった表情で机から足を下ろした。

「とにかく、当面君は対日工作班から外される。これは、大使閣下の意向による私の決定だ!」

決め付ける様に言った後で、穏やかに尋ねた。

「判ったかね?」

「あ、ああ。」

不満げにそう言ってから、岳の眼差しがいっそう険しくなったのを見て取って、居心地悪そうに肩を竦めつつ再度答えた。

「はい、判りました。」

いつもの羅なら、管轄が違うとせせら笑う所だろうが、流石にそこまで愚かでは無かった様だ。

それを確かめるために、本来なら『上からの決定』とだけ言えば良い所を、わざと『大使の意向による自分の決定』だと告げた。

法治主義が根付いていない中国では、命令のルートは往々にして所管よりもその時々の力関係が優先される。

彼は、今は自分の方が強いのだという事を明示し、この小岳飛はそれを受け入れたのである。

それは、詰まるところ猿のやるマウンティングであり、どうみても理性のある人間の行為ではないが、猿山で生きるには猿のルールでやっていくしかないのだ。

これで、今後は少しはやり易くなるであろう。

羅扶の部屋を後にした岳は、これでひとまず肩の荷を下ろした気になっていたが、もう一つ後始末がある事を思い出した。

本当ならあの糞野郎自身にやらせたい所だが、そもそも小岳飛に『穏やかに話し合って頭を下げる』等と言う高度な芸当が出来る頭はない。

溜め息をついて自らの執務室に戻ると、淡々と準備に取り掛かった。


事務所の電話が鳴った。

「エラい所から電話よ。」

「「エラい所?」」

加藤と永田の声がハモる。

「非公開番号だけど、多分中国大使館ね。」

非公開の番号でも、春香なら名義人を調べてどこの関係か目星を着けるのは、そう難しくない。

二人は顔を見合わせた。

「どうする?とりあえずあたしが出ようか?」

「あ、いや、俺が出る。」

そう言って加藤が受話器に手を伸ばした。

「カトナガ探偵事務所です。」

ユイと申します。『今回』の件でお話がしたいのですが。」

初めて聞く名前だが、『今回』というと、典子の件以外に思い当たる節はない。

「どのようなお話でしょうか?」

「申し訳ありませんが、電話ではちょっとお話し出来かねますので、出来れば直接会ってご相談したいと存じます。」

まあ、直接会って話す事については、加藤にも異存はない。

「判りました。どこへ伺えば宜しいですか?」

相手は、大使館と加藤の事務所のほぼ中間地点にある駅近傍のイタリア料理店を告げた。

双方のホームグラウンド以外ならどこでも大差は無いのだが、わざわざ中間地点を選ぶ事で、膝を屈する訳ではないがそれなりに配慮はしている事をそれとなく示した訳だ。

勿論、相手側が指名した場所なのだから、何らかの工作の余地はあるのだが、疑い出せばキリがない。

「では、『私一人』で伺いましょう。」

この事務所の電話番号を知っているのだから、二人でやっている事も当然知っている筈なので、加藤一人の口を封じても永田が警察に駆け込む事になるだけだと警告したのだ。

「結構です。それでは2時間後に。」

受話器を置いた直後に、再度電話が鳴った。

「今度はアメリカから。」

さすがに春香でもアメリカの電話の所在地は確定出来ない。

加藤はそのまま受話器を取り上げた。

「はい、カトナガ探偵事務所です。」

「アラン・スミシーです。」

二人は再び顔を見合わせた。

その沈黙をどう取ったのか、スミシーは声を掛けて来た。

「今、お時間はありますか?」

「ええと、ちょっとこの後用事が有りまして・・・」

「その『用事』の件で、今お話ししておきたいのですよ。」

どうやら先程のユイからの電話の背後にはスミシー(あるいは合衆国)が関与しているらしい。

「わかりました。出来れば手短にお願いします。」

「まず、中国大使館のミスター・ユイにそちらを紹介したのは私です。今回の件では、ご期待に沿える結果とならなかった事は、大変遺憾に存じますが、いずれにしても何らかの収拾を図らざるを得ない事は、ご理解戴きたい。」

まあ確かに、出来てしまった事についてスミシーを責めても得るところはないし、そもそもこちらがレトリックで無理に巻き込んだ様なものなのだから、スミシーの責任を云々するのはお門違いだとも言える。

ともかく今は収拾を考えない訳にはいかない。

「その点については、同意しましょう。」

「それで、中国としては、ミス・サヤマに『非公式に』謝罪する意思がある、と言って来ました。」

「あちらにその意思があるとしても、佐山さんはそんな物を受け入れるとは思えませんね。」

やや皮肉めいた言い方をしたが、スミシーはそのニュアンスを意にもとめず、そのまま話を続ける。

「現状で一番悪いのは勿論中国ですが、ここで彼等をあまり追い詰めるのは得策とは言えません。適当な所で手打ちにしないと、佐山さんは勿論の事、貴殿方の安全も保証できなくなります。」

まあ、それはそうだろう。

一般論としても、大国とは本来傲岸不遜な物であり、その中でも中国のプライドの高さは群を抜いている。

その中国が、非公式にせよ謝罪しようというのだから、これはもうほぼ限界まで姿勢を低く取っていると見て間違いあるまい。

これを蹴れば、中国の選択肢は逆ギレのみとなるだろうし、そうなれば結果は再度の襲撃であろう。

「おっしゃる事は判らんでもありませんが、それを我々に言って何をしろと?」

「我々もそうですが、中国側がミス・サヤマに直接コンタクトを取る訳にはいきません。なんとか、仲介願いたいと考えています。」

「ご期待に沿えるかどうかは判りませんが、とりあえず会って話してみます。」


レストランで岳の名前を告げると、個室に案内された。

まあ、当たり前の事で、これからしようとする話し合いが、不特定多数の前で出来る話であるはずがない。

部屋に入ると、男が立ち上がり右手を差し出した。

「初めまして。岳飛ユイ・フェイと申します。」

加藤はその手を握るのを一瞬躊躇した。

「大丈夫ですよ。指に毒針を仕込むのは、映画やミステリーだけです。」

その苦笑混じりの言葉が本当かどうかは判断つきかねるが、携帯を通じて春香と永田がモニタしており、異常があれば即座に録音データを手に警察に駆け込む手筈になっているのだが、その程度の事は相手も当然理解している筈だ。

加藤も手を伸ばして握手を交わした。

「ご存じでしょうが、カトナガ探偵事務所の所長の加藤です。」

二人は向かい合って席についた。

「何でもお好きな物を頼んでください。」

岳が友好的な表情でそう言うと、加藤は馴れ合うつもりがない事を示すために、意識して事務的に答えた。

「出来れば本題に入りたいのですが。」

岳はあくまでも友好的な表情を保ったまま、話し始めた。

「それでは、まずは今回の不慮の事態については、誠に遺憾に存じます。我々としては、ただ単にミス・サヤマを友好的にご招待申し上げたかったのですが、不幸な偶然により、あの様な仕儀となってしまいました。」

これは、いわゆる半ば嘘半ば本当の『半真実』というやつだ。

『警視庁の膝下で銃撃』という事態を起こしたかった筈はないのだから、まあ『不幸な偶然』ではあろう。

しかし、本人の意思に関係なく連れ去ろうとし、拉致後もまず穏やかな扱いをする意思は見えなかった訳だから、『友好的な招待』を意図していた筈は無い。

加藤は不快感を覚えたが、反論してどうなる物でもないので、続きを促した。

「それで?」

「我々は、ミス・サヤマのご不幸に対して心痛の限りであり、お見舞を差し上げたいと存じます。」

そう言ってテーブルの上に差し出された封筒に、加藤は驚いた。

はっきりと『遺憾の意』を明言しただけでもましな方で、賠償まで考えているとは思っても見なかった上に、その封筒は指数本分になろうかという厚みを持っていたのだ。

「このお見舞いをミス・サヤマにお渡しする仲介をお願いしたいのです。」

ふむ、と一呼吸おいて加藤は考えた。

これを受け取らなかったとしても、典子に今回の理不尽な災厄に対する憤懣を晴らす手段はない。

公安が介入した時点でもう警察は当てに出来なくなったし、何らかの(例えばネット等を使用して)方法で広く世間に訴えたとしても、中国が否定すればそれで終わりであり、その後で彼等は全員『失踪』する事になるだろう。

だから、同じ泣き寝入りせざるを得ないのなら、何も無いよりは金を受け取った方がましだ。

ただし、典子がそれを受け取るかどうかは、また別の問題であるが。

加藤の沈黙をどう受け取ったのか、岳はもう一つ封筒を差し出した。

「こちらは、貴殿方がお納め下さい。」

先の封筒よりはずっと薄いが、それでも紙幣が五枚や十枚では無さそうである。

「仲介料ですか?」

「まあその様な物ですが、万一仲介が不調に終わっても、ご返却戴く必要はありません。永田さんへのお見舞も含めた迷惑料だとお考え下さい。」

「判りました。ともかく佐山さんに話してみましょう。」

そう言って加藤は、二つの封筒を受け取った。


岳は、加藤が二つの封筒を受け取った事で大きな安堵を覚えたが、それを表情に出す事は無かった。

この国の基準でいうと、下半身不随という障害を思えば十分とは言い難いが、それでもそれなりに良い車が買える程の額を用意したのだ。

彼の国なら、4・5人分の人命に相当する金額である。

今、大使館の機密費用金庫には大きな隙間が出来ており、その隙間は、いずれ羅征中将に埋めて貰う必要がある。

これ程の金額を持ち出した理由は、大きく二つあった。

ひとつは、今は息を潜めて大人しくしているしかないが、今のうちに和解の形を調えて、のちのち日本の公安が被害者を担ぎ出して無理難題を仕掛けて来ない様に手を打っておく必要があるという点だ。

とはいえ、日本の公安は厄介な相手だがまだあしらい様もある。

しかし、もう一つの理由であるアメリカは別だ。

あの小岳飛は愚かにもアメリカという虎の尾を踏みに行ってしまった。

これをいくら言葉で謝罪しても、その怒りが収まる事はあるまい。

今は、アメリカが『重大な関心』を持っていると明言したノリコ・サヤマにそれなりに丁重な扱いをする事で、アメリカの意思を重要視している事を示すべきである。

ここは『安く上げる』事など考えている場合ではないのだ。

ただし、それも全て、ノリコ・サヤマがこの封筒を受け取るならば、という仮定の話であり、岳は祈る様な想い(勿論それを表情に出す様な素人ではないが)で差し出したのだった。

このカトウという男は、デサリーヌに聞いた限りでは物事を安請け合いする人物では無い様なので、封筒を受け取った以上、何らかの成算があるのだろう。

「では、もし説得が不調に終わった場合、こちらは、」

そう言って加藤は厚い方の封筒を持ち上げて見せた。

「お返しします。取り合えず結果がどうなっても、連絡は致します。先程の番号に掛ければ宜しいですか?」

その言葉に、岳は一瞬驚いて軽く間が空いてしまった。

先程の電話は、番号非通知で掛けた筈なのだ。

「あ、はい。それでお願いします。」

なるほど、油断できない奴だと聞いていたが、確かにその様だ。

この男は、非通知指定を無効に出来る何らかの手段を持っており、その手の内をさりげなく見せる事で、それ以外にも色々な手段を持っている可能性がある、つまり安易に暴力的解決に出る訳にはいかない相手であるをこちらに示したのだ。

岳が学んできた日本の言い回しで言えば『衣の下の鎧』をちらりと見せたのである。

「良いご報告が戴ける事を期待しています。」

一呼吸置いて、岳は付け加えた。

「あ、そうそう。ご迷惑をお掛けした愚か者は、然るべき報いを受けました。もう、この様な愚劣な行き違いは起こらない事を御約束します。」

それを聞けば、もうこれ以上話し合いは必要無いと判断したらしく、加藤は立ち上がった。

「それでは、これで失礼します。」


「さあ、どうしたもんかね?」

2通の封筒を前に、加藤は呟いた。

「どうったって、引き受けちまった以上、佐山さんの所に持って行くしかないデショ。」

永田の指摘に、加藤は腕組みをして考え込む様に言った。

「まあ、そりゃそうだが、受け取るかね?」

「交渉事はお前の方が得意だからあれだけど、何となく最初からこれを出して話をするのは、良くない様な気がするな。」

「ふむ、まあそれであっちが感情的になったら、話の進めようが無くなるからな。」

そうして、少し考えてから加藤は続けた。

「まあ、少し話して様子を見てから、大丈夫そうなら出すか。」

「あと、出来れば神田氏には立ち会って貰いたいな。」

「まあ、そうだな。」


典子の病室を訪れると、彼女の両親は不在だった。

「ご両親は?」

「父は仕事があるので帰りました。母は無理を言ってこの部屋に泊まらせて貰っていたんだけど、いつまでもそういうわけにもいかないので、近くにホテルを取る事にして、その宿探しとついでに色々な買い物をするから、夕方まで帰りません。」

そう話す典子の声は、予想外に平静であった。

これは、話をする千載一遇のチャンスかもしれない。

ただし、その平静さその物が気にかかるのではあるが、まあ、その辺りは話を進めていく中で見極めるしかないだろう。

ここで、落ち着いて話すには神田の立ち会いは必須だが、そうなると、それ以外の人間が居てはまずい。

山野の時は、あくまでも緊急事態だったのだ。

加藤が目配せすると、永田はナースステーションに行き、これから込み入った話をするので、しばらく病室に来ないで欲しい旨を伝えた。

手術直後の医師の失敗は病棟全体で共有されていた様で、ナースコールがあるまで誰も入らない事を約束してくれた。

病室に戻った永田がOKサインを出すと、加藤が虚空に向かって呼び掛けた。

「神田さん、佐山さんにお話があるんですが、立ち会って頂けませんか?」

何も無い空間が揺らぐと、神田が音もなく現れた。

「何のお話ですか?」

典子は怪訝そうに尋ねた。

「実は、今回の件で中国大使館から我々にアプローチがありました。」

その言葉に典子は表情を堅くしたが、怒りを示しはしなかった。

「あいつらは、今回の件について非を認めており、その上で貴女のご不幸は、その意図する所ではなかった、と弁解しています。」

言い終わった途端、典子の顔に血が昇るのがありありと見てとれた。

「何よ!その言い種!」

叫ぶ様に言葉を吐き出し、更に続ける。

「誰のピストルが撃ったのよ!たまたまそこに転がっていたとでも言うの!?」

なおも、言い募ろうとする典子を、神田が優しく制した。

「ノン、傷ニ障ルヨ。」

この感情の爆発を見て、加藤は内心で少し安堵した。

感情が爆発するなら、少なくとも事態を認識できているという事だし、同時に外界への関心を喪失している訳でも無い事を示している。

つまり、最初に見せた冷静さは感情の喪失による物ではない、という事だ。

典子は、神田の手を払い除けると、なおも思い付く限りの罵倒を並べ立てた。

加藤は、神妙な顔でその一つ一つを正面から受け止め、控え目に同意の相槌を打った。

彼は、恐らく典子の中で今回の理不尽極まりない結果を到底受け入れがたいとする真っ黒な感情が日ごとに圧力を増して、ごく薄い表層が膨れ上がりその緊張が限界に近付いているのではないか、と思っていた、と言うよりはそうあって欲しいと願っていた。

そうでなければ、典子の精神が壊れ始めている事になる。

だから、この反応はむしろ好ましいと言える。

そして、こんなどす黒い感情を抱えたままで日々を過ごして、少しづつ収めて行くのは、表面上は平静で問題なく見えても、その過程で彼女の心がその圧力に耐え切れずに、好ましくない変性を生じる恐れが高い。

だから、わざと中国側の(ある意味で身勝手な)言い分を、オブラートに包む事無くぶつけて、その薄皮を弾けさせる針の一突きとしたのだ。

とにかくその中で鬱窟する物の全てとは言わないまでもその大半をぶちまけてもらわなければ、全員が先へ進む事は出来ないのである。

その結果として、今の加藤は中国の代理人として罵倒を受ける立場になった。

ある意味理不尽な話ではあるが、彼自身は初めからこれを全て甘受する気でいた。

それは、依頼者を護る事が出来なかった彼なりのけじめだったのである。

神田は、激昂した典子が大きく身動ぎをしようとすると肩を抑えて抑止はするが、それ以上に取りなしはしなかった。

神田にとっては特にそうするべき理由は無いし、またそれ以上に(恐らくは初めて目の当たりにしたであろう)典子の感情の爆発に戸惑い、途方に暮れている様だった。

やがて、典子の中で膨れ上がり赤熱していたものが粗方噴出した様で、その奔流が少しづつ細り始めた。

よし、もう少しだ。

理不尽な感情の奔流を正面から受け止めるのは、誰にとっても辛い事である。

特に、他人の感情を読み解く高い天性のスキルを持つ彼にとって、その辛さは人一倍堪える物であり、そろそろ限界に近付いていた。

出来れば、預かった封筒を今すぐこの場に投げ出して、話を進めたかったが、まだ、それをするには典子の感情の圧が高過ぎた。

十分に下がったという見きわめが着かない内にそれをすれば、彼女は奔流の勢いの残余に押し流されて、よく考える前に受け取りを拒否してしまうだろう。

そして一旦拒否してしまえば、その判断を撤回する事は一種の敗北と感じられる事になり、お互いに大変に大きな負担を強いられる。

特に、今の彼女にこれ以上の負担と精神的な傷を負わせる事は、何としても避けなければならない。


デスクの電話が鳴った。

「はい。」

この番号は彼の直通なので、名乗る必要はない。

「岳です。」

「何でしょうか?」

デサリーヌは、わざと素っ気なく応じた。

「カトウ氏は、仲介を引き受けてくれました。ご協力感謝します。」

「それは結構ですね。これを機会に貴殿方の自制心が『これまで以上に』機能する事を願っていますよ。」

あえて挑発的な言い方をする事で、合衆国ステイツが今回の件を不快に思っている事を伝えた。

岳は、いつも通りの如才ない言い方でそれを軽く受け流しつつ、事態の収束と今後同様な問題の再発を防止する努力に全力を挙げる事を約束して、会話を終えた。


ようやく、典子の言葉の端々に、逡巡を思わせる弱いニュアンスが混じり始めた。

勢いに任せてひたすら怒りの感情を迸らせた結果、ボルテージが目に見えて下がってきたのだ。

もともと体力を大きく消耗しており、それほど怒りの姿勢を持続する事は出来ない状態だったので、電池切れもそれなりに早かった訳である。

頭に昇った血が下がるにつれ、今ここで加藤を罵倒している構図がおかしいという事実が認識されてきた。

やがて典子は、吐き出し掛けた呪詛の言葉を途中で呑み込み、そのまま黙り込んだ。

居心地の悪い沈黙が続いたが、加藤は神妙な表情で次の言葉を待ち続けた。

永遠に感じられる程の沈黙の後、典子はややばつの悪く消え入りそうな声で言った。

「貴方が悪い訳じゃ無いのよね。ごめんなさい。」

「いえ、依頼者を護れなかったのは、全くのところ私の責任ですから、貴女のお怒りは、当然でしょう。」

その言葉は、典子の罪悪感を減少するどころか、より増幅した。

「とんでもない。貴方の責任じゃありません。」

これで、典子は事実上加藤に対して負い目がある事を認めた。

今がチャンスだ、と加藤は内ポケットから封筒を取り出した。

「これは、奴等からのせめてもの償いです。」

典子は、加藤に対する罪悪感から、それを半ば反射的に受け取ってしまった。

「中をあらためて下さい。」

促された典子が封を破って逆さにすると、帯封がついたままの紙幣の束がばさばさと落ちた。

これは正に『結構な額』ではある。

典子は、シーツの上に散乱する札束を無言で見ている。

三人の男達が固唾を呑んで見守るなか、典子はその紙幣に視線をやりながら、実際にはその向こうにある何事かを見通そうとしている様子だったが、やがて微かに頷いてから言った。

「加藤さん、永田さん。今日はこれでお帰り下さい。」

その目には、怒りも迷いも無かった。


事務所の電話が鳴った。

「はい、カトナガ探偵事務所です。はい、はい、・・・ただいま、所長に代わります。佐山さんのお母様からよ。」

あれから二日たっている。

「はい、加藤です。この度はこちらの不手際で、誠に申し訳ない事に・・・はい、はい・・・」

加藤は困惑した様子でひたすら相槌を打っているが、その声の調子は、どうも、難詰されている様子では無さそうだった。

「はい、・・・そうですか。」

加藤の声は明らかに落胆していたが、その一方で何故かほっとしている様にも感じられた。

「はい・・・、それはお嬢さんが熟慮した上での決断でしょうから、間違いは無いと思います。・・・その封筒は、名前は出せませんが今回の件に責任のある、ある団体から佐山さんに対してお詫びのしるしとして支払われた物です。・・・ええ、今後の金銭的な面については、神田さんがついているので、問題ないでしょう。それがお嬢さんの意思であれば、ご両親の方でお納め戴くのが宜しいかと。・・・はい、神田さんは事情があって今こちらに来られませんが、全力でお嬢さんを支えていかれるでしょう。・・・ご連絡ありがとうございました・・・失礼します。」

電話を置いた加藤は沈んだ調子で言った。

「お母さんが外出している間に、佐山さんが手紙と例の封筒を置いて居なくなったそうだ。」

「そうか。」

永田も特に驚いた様子では無かった。

「もう帰っては来ないんだろうな。」

永田の呟きに、加藤も無言で頷いた。

そのまましばらく沈黙が続いたが、やがて加藤が尋ねた。

「さて、『第二以降の可能性』について聞かせて貰おうか。」

「あ、覚えてた?」

「『第一の』と言ったからには、最低でも後一つは可能性が存在する筈だよな。で、幾つ有るんだ?」

永田は苦笑しながら答えた。

「僕が思い付くのは、後一つだけだね。」

「ふむ。『第一の可能性』が、成虫源基とあのDNAの差分は四次元的に折り畳まれていただけで元々含まれている物だ、な訳だから、第二の可能性は外部から挿入された物だ、って事だよな。」

「そう。」

加藤は頸を捻る。

「そもそもDNAが外部から入ってくるなんて事が有り得るのか?」

「えっとね、キリンの頸が何で長くなったか、って話は知ってる?」

加藤は、頸を振った。

「古典的な進化論では、漸進的な突然変異と自然淘汰で説明される。つまり、突然変異で少し頸が長い個体が生まれ、こいつが頸が長くない他の個体より生存上で有利なのでその特徴を受け継ぐ子孫を残す。で、その子孫達の中でも、より頸の長い個体が、より有利なので他の個体を圧倒して子孫を残す。それがずっと積み重なってああいう形態になった、って訳だね。」

まあ納得できる説明ではある、と加藤は思った。

「でも、この説明には幾つか弱点がある。その一つが、この説明が正しいなら、だんだん頸が長くなっていく過程の中間種と呼ばれる個体の化石があるはずだ、って事なんだけど、今のところ、そういう中間的な個体の化石は見つかってない。この点について、古典的進化論ではぶっちゃけると『たまたま見つかっていないだけ』だと説明しているんだ。」

「何か、エラい投げやりだな。」

永田は笑った。

「まあ、我々素人目にはそうなんだけど、全ての化石が掘り出されている訳じゃ無いし、そもそも化石になるのにも色々と難しい条件が揃わなきゃならないから、地球上に今まで存在した全ての種の内で化石が残っているのは5%程度と見積もられている。つまり95%の種は、存在したという証拠自体が残らないから、強ち投げやりな言い分という訳でも無いね。」

「ふむ。」

「ま、それはさておき、これに対する反論として提唱されているのが、ウイルス進化説なんだ。ウイルスってのはそれ自体は増殖の手段を持たないから、他の生物の細胞核に入り込んで、自分のDNAを書き込んでしまう。と言うか、ウイルスってのはDNA自体が本体で、後はそれを保護する殻とDNAを生物の細胞核に送り込む注射器だけで出来てると言える。そしてDNAを書き込まれた細胞は、自分が分裂するのを止めて、ウイルスを大量生産する工場になってしまうんだ。」

「それは聞いた事がある。」

「で、その過程でウイルスのDNAが混じった細胞が、それを取り込んだままでそれなりに正常っぽく機能する事が有り得るんじゃないか、というのさ。」

「どういう事だ?」

加藤は、頸を捻る。

「ウイルスのDNAが挿入される場所やタイミングによっては、細胞がまるごとウイルス工場になる訳ではなく、部分的に書き換えられた状態のまま自己複製を行う、つまり、書き換えられた状態がそのまま自分として機能するって考えてる訳だよ。」

「でも、全く別のDNAが挿入される訳だから、それで正常に機能するかね?」

「まあ、殆どの場合は正常に機能する事は無いだろうね。だけど、ごく稀にそれがそのまま機能して、ただし、以前とは構造が違うので、体全体に従来とは異なる影響を及ぼす可能性があるんじゃないかって言うのさ。キリンの場合で言えば、体全体が極端に長く伸びる様にね。で、過去のどこかの段階で、キリンの先祖だけが罹患するそういうウイルスが大流行した結果、ある世代以降が突然にあんな姿になった、と言う説だよ。」

加藤の表情が固くなった。

「DNAの話は、それで説明がつくかもしれんが、成虫源基はどこから来るんだ?」

「前に言った通り、こんな強力なオートファジー機能は、成虫源基と対にならなきゃ意味がない。だから、DNAの挿入と成虫源基は一緒にやって来た、と言うよりは、成虫源基がDNAの追加分を書き込むウイルスを持って入り込んで来た、って事になるんだろうな。」

加藤の表情に軽い嫌悪感が浮かんだ。

「それじゃあ、まるで寄生虫みたいじゃないか。」

「『みたい』じゃない。この解釈が正しければ、成虫源基は寄生虫そのものだね。」

その言葉に加藤は、はっきりと怒りを示した。

「お前、それが判ってて何で勧めたんだ!」

永田は宥める様に言った。

「まあ、そういう解釈もある、ってだけさ。何にしてもサンプルが少なすぎて判断は出来ないよ。」

「それにしたってお前・・・」

更に言い募ろうとする加藤を制する様に両掌を拡げて、永田は言った。

「もう、我々は一度、反対のスタンスを彼女に提示してしまっているからね。あそこで反対のスタンスを取り続けるって事は、佐山さんに一生車椅子で生きろと言うって事だよ。だから、その意見を取り下げる事を表明するしか無いでショ。」

加藤は、不満げな顔で黙り込んだ。

「あの姿になって生きる事と、この先の長い人生を車椅子で生きる事と、どっちがより辛いのかは、僕らにゃ判らんね。それにね、もし仮に成虫源基が寄生虫だったとしても、あの変化が『寄生』なのか『共生』なのかはなんとも言えん訳だしさ。」

永田が俯いたまま呟く様に言った後、気を取り直す様に加藤が言った。

「まあ、どんな姿になっても、佐山さんは佐山さんだからな。」

その言葉に永田は、顔をあげた。

「ねえ、春香ちゃん。『少なくとも脊髄までは』って言ってたけど、本当のところ、どこまで再構成されるの?」

春香はしばらく黙っていたが、やがて話し始めた。

「確定的な事は解んないよ。ただのシミュレーションだし、サンプルも少なすぎるから。だけど、多分大脳まで全部再構成されるでしょうね。」

その言葉に加藤は、再び色をなした。

「おい、そりゃまずいだろ!それじゃあ佐山さんは佐山さんじゃ無くなるって事じゃないか!」

永田は、それを宥める様に言った。

「そうとも限らんでショ。そもそもアイデンティティって物自体が明確に定義出来てる訳じゃないし、全てが脳にあると決まってる訳でもないんでさ。」

加藤は、納得には程遠い表情で永田を睨む。

「臓器移植を受けた患者が、ドナーの人格を部分的に受け継いだんじゃないかと思われる報告もいくつかあるしね。これが本当なら、脳以外の器官もアイデンティティを担っている可能性がある、という事だよね。」

「どうやって?」

「判んない。遺伝子の様に全ての細胞にアイデンティティ情報が載ってるのかも知れんし、もしかしたら、体を構成する細胞と紐付けられたアイデンティティ情報の集合体がどこか他所、例えば別次元に存在しているのかもしれない。もしそうなら、『魂』が実在する事になる訳さ。」

加藤は、まだ納得出来ない様子で尋ねた。

「何か、裏付けになる物はあるのか?」

永田は、頸を振った。

「無いよ。だけどね、あの姿になっても神田さんは人間だった頃の仕種らしき物が無意識に出ていた。特に、もう存在しない筈の顎に手をやる仕種は、あの姿になってから学習する事はあり得ない動作だから、元々持っていた物がそのまま残っていると考えなければ説明が着かないんだよね。それに、神田さんは再構成されても佐山さんを愛していたろ?」

二人は黙ったまま視線をテーブルに投げてじっとしていた。

やがて、永田は頸を振りながら言った。

「佐山さんはもう成人なんだし、その彼女が選んだんだから、僕達がとやかく言う事じゃ無いでショ。」

そこで一旦言葉を切ってから、付け加える様に言った。

「神田氏と同じ体になる事を選んだのか、障害の残らない体になる事を選んだのかは判んないけどね。」

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