第四話
加藤は、米国大使館の受付で名刺を差し出した。
「カトナガ探偵事務所の加藤と言います。アラン・スミシーさんとお話がしたいのですが。」
「その様な者は、こちらには居りませんが?」
受付嬢は、不審を隠しきれない様子で尋ねてきた。
「とりあえず、上の方に問い合わせてみていただけませんか。」
彼女は、納得がいかない様子ではあったが、電話を取ると言った。
「カトナガ探偵事務所の加藤さんとおっしゃる方が、アラン・スミシーにお話があるそうですが。」
そのまま、電話の向こうからの指示を聞いてから、加藤に向き直った。
「失礼ですが、どの様なご用件でしょうか?」
加藤は、辺りを警戒する風に見回してから答えた。
「ここでは、詳細な事は申し上げられませんが、安全保障に関係する恐れがある問題が発生しています。」
「ふむ。あいつらがまたやっかい事を持ち込んで来たか。」
「どうしましょう?安全保障云々ははったりだと思いますし、一旦追い返しますか?」
「そうもいかん。過去にあいつらが持ち込んできた問題は、本当にステイツの立場を危うくしかねない物だった。はったりかもしれんが、そうでなかったらまずい。それにな、アラン・スミシー窓口が存在するのは、こういう件に対処するためだ。多少空振りがあっても構わないから、とにかく取り次いでおけ。」
「判りました。」
加藤は、窓が無く部屋の中央に電話の載った簡素なテーブルと椅子があるだけの殺風景な部屋に案内された。
彼がこの部屋に来るのは二度目である。
所在無く座っているだけの様だが、その頭の中では懸命に、今回の対応を整理していた。
彼は、今回の件で典子の安全確保するために(多分その犯人であろう)中国に手を引かせる、という当面の目的に関して、日本政府はあてに出来ないと考えている。
米ソ冷戦の最中では、世界を動かす(あるいは不都合な動きをしないように押し止める)ゲームの主要プレイヤーは、アメリカとソビエトであり、その当時で既に世界最大の人口を抱えていた中国は、ソビエトの後塵を拝するバイプレイヤーに過ぎないと見なされていた。
そして、ソビエトの崩壊でこの第一次冷戦が終結してパクス・アメリカーナが実現したと思われた90年代においてもこの認識は大きく揺らぐ事は無かった。
その一方で、21世紀に入るやいなや、第一次冷戦構造下で常に割を喰わされてきたイスラム世界から、戦争と言える程の激しいテロが沸き起こり、旧西側諸国は焦眉の急と言えるこの国際テロ活動への対応に、忙殺される事となった。
この、まるでもぐら叩きを思わせる不毛なテロ対策に追われて、旧西側諸国は中国というバイプレイヤーが以前そのままではなく、今やかつてのソビエトを凌ぐ主要プレイヤーに育ってしまっている事に、敢えて気付かない振りをしていた。
そして彼等が、目前にひしめく無数のテロ組織のバックにこのプレイヤーの暗躍がある事を認めざるを得なくなった時、世界は既に米中対立を基軸とする第二次冷戦に突入していた。
日本は再び西側世界の最前線として、この巨大なプレイヤーと直面せざるを得ず、アメリカはまた日本を舞台とする東西対立というゲームをプレイしなければならなくなった。
その枠組の中で日本は、中国に隣接しているという地理的条件のみならず、近代において中国に対して加害者となったという歴史的経緯からも、中国の行う各種の(合法・非合法を問わない)諜報活動を十分に制扼する事ができず、結果的にその暗躍を黙認に近い状況で言わば放置していると見なされている。
日本を中国の太平洋侵出に対する防波堤と規定するアメリカは、この事実に強い苛立ちを覚えつつも、他に代替となる防波堤が存在しない以上、我慢しつつこれをサポートするしかない、という認識であると考えられている。
その前提で、今回の件が本当に中国の仕業だとしたら、日本政府がどう考えているにせよ即時に有効な手段を講じる事は無いだろうから、これを傍観する形となり、結果的にそれは、中国に対してその不法行為を消極的に容認するという間違ったメッセージを送る事になるだろう。
それは中国の行動をエスカレートさせ、太平洋侵出への足掛かりを強固にするための活動の活発化に繋がる可能性が高い。
従って、太平洋の安全が自国の安全保障に直結するアメリカ政府としては、これに対する制肘を行わないではいられないはずなのだ。
やがて、テーブルの上の電話が鳴った。
加藤が受話器を取ると、相手は言った。
「こちらはアラン・スミシーです。ご用件を伺いましょう。」
声の感じからすると、アラン・スミシーの『中の人』は前回とは違う人物の様である。こいつは何人目のアラン・スミシーなんだろうと思いつつ、今回の一件を全て語った。
「すると、貴殿方は今回の襲撃は中国の唆走による物だと考えている訳ですね。」
スミシーは、確認する様に言った。
「少なくとも、その可能性は考慮するべきレベルにあるでしょうね。」
「東京近郊には、こちらで言えばサウスブロンクスに相当する様な半移民状態の外国人集団を抱える地域がいくらかあり、それらの中にはそういう悪さをするグループも色々とあるように聞いていますが?」
今回のスミシーは、どうやらニューヨーク近郊出身の様である。
それはともかく、奴等が中国政府とは関係ないただのギャングである可能性は加藤達も勿論検討していた。
「その場合は、私のクライアントはそんな集団とトラブルを起こした事は無いので、狙われたのはたまたまだった、という事になりますが、襲撃現場は、そういう集団のいる地域からは離れています。女性一人を通り魔的に襲うために、わざわざ人数を集めて遠征してくる確率は低いし、第一誰でも良いなら、連れの男がそれも二人も出て来た所で、もっと手軽な他のターゲットを探しに行くでしょう。」
「ほう。それで、思い当たる節はその『四次元コンピュータ』しかない、という事ですか。」
「ええ。神田氏は恐らくどこの政府でも何とかして手に入れたい人材でしょうし、今のところ、他に手掛かりは無さそうです。」
「なるほど。ところで、我々にそんな話をして良いんですか?」
その台詞には軽く揶揄する様なニュアンスがあったが、加藤はそのチャンスを見逃さなかった。
「貴殿方にお願い事をするのに、手ぶらという訳にもいかんでしょう。」
電話の向こうで、一瞬鼻白む気配があった。
やがて、気を取り直した様子でスミシーは再び言葉を継いだ。
「まあ、思い当たる筋を少々つついてみましょう。」
「申し訳ありません、中佐。」
デサリーヌ中尉は肩を竦めて頭を下げた。
『どこの政府でも』という表現(それは当然『アメリカ政府も』という事である)に引っ掛かる物があったので、それなら何で我々に頼って来るのか、という皮肉を込めてほんの軽口を叩いたつもりだったのに、それを逆手に取って、情報提供という形で対価の先払いをしたことにされてしまい、何らかの手を打たないわけにはいかなくなったのだ。
「少々軽率な火遊びだったな。」
そう言ってスタインリッジは、この機会に部下に教訓を与えておこうと思った。
「奴等は、あの国では珍しく平和ボケとは縁の無い油断ならない人間だ。私もあいつやプロフェッサー・アラカワには脚を掬われそうになったもんだ。それに、一般論で言っても、市井の人間を甘く見てはいけない。中には軍人以上に、場合によっては我々情報畑の人間並に油断できない相手も混じっている。それこそあいつらみたいにな。」
とりあえず、一通りの注意はした。
アラン・スミシーとしての初仕事でしてやられた事は、この男にとって今後の成長に繋がる良い経験となるだろうと思うと、カトウに感謝しても良いくらいである。
後は少しだけ肩の荷を減らしておいてやろう。
「まあいずれにせよ、中国の奴等が日本で好き勝手に振る舞うのを放置する訳にもいかんのだから、大失敗という訳でもないさ。」
その言葉に少しだけ気が軽くなったデサリーヌは、宙を見上げながら頭の中で心当たりを探した。
彼が出した結論は、トウキョウの中国大使館に居るミスター・ユイに警告する事だった。
PCのアドレス帳を開き、まあどうせ偽名なんだろうが、と思いつつユイ・フェイを探す。
特にこちらに対して本名を晒す理由は無いし、何より『岳飛』である。
それは、忠義の志に厚い南宋の将軍であり、北方の強大な異民族帝国金の圧力に抗して大いに気を吐いたが、奸佞な政治家である秦会に陥れられて誅殺された悲劇的英雄の名だ。
アメリカで言えば、ロバート・E・リーと名乗っている様な物だろうか。
やがて、目指す相手が見つかり、電話に手を掛けた。
「やあ、ミスター・ユイ。デサリーヌです。今、少しお時間を頂いて宜しいですか?」
「おお、これはデサリーヌ先生。御無沙汰しております。貴方のご用事なら、何を措いても対応致しますよ。して、本日のご用向きはなんですかな?」
相変わらず大仰な物言いだ、と苦笑しつつ話を続ける。
まずは当たり障りの無い事務上の話を2・3片付けた後、まるで着け足しの様に然り気無く、本題を提示する。
「ところで、ミスター・ユイ。我々は常日頃から重要な同盟国である日本の治安を重要視しています。」
そらきた、と岳は身構えた。
「特に最近は、ノリコ・サヤマの安全に大きな関心を抱いています。」
具体的な人名が挙がるとは思わなかったが、これは合衆国がそれだけ本気で警告に掛かって来ている証拠だろうと判断した。
「なるほど、お互いに大国として同盟国の安寧は重要な責務ですからな。」
その後もう少し取り留めの無い話をしてから、挨拶を交わして電話が切れた。
「とりあえずは、これで様子見だね。」
永田がそう言うと、加藤は尋ねた。
「ところで、俺達を救ってくれたのは誰だったんだ?」
「僕が知るかよ。僕も佐山さんも見てないんだからね。見たのはお前だけだよ。」
「俺だって暗くて良く見えてねぇよ。見えたのはやけにメタリックな風合いの上着を着てた事くらいだ。」
永田は、頸を捻りながら言った。
「あの状況で僕達を助けたって事は、僕達の味方か中国の敵かだろ。」
加藤は、対話を思い出す様に考えながら答えた。
「スミシー氏の手応えからすると、アメリカは恐らく佐山さんが狙われた事に気付いていなかった。」
そして、少し考えてから尋ねた。
「日本の機関はどうだ?」
永田は、その問いを一蹴した。
「日本は、例によって諜報機関自体が気付いているかどうかってレベルだし、日本の機関なら、佐山さんを見守るよりは拘束して訊問しようとするだろうね。」
加藤は、もう少し食い下がってみた。
「公安は?あいつらなら市民を囮にして中国を誘き出すくらいの事は平気でやるだろう。」
公安とは、警察庁の中で治安維持のための諜報活動を主に担当する部局であり、一般の警察機構からはほぼ独立した存在である。
つまり、社会からの監視が全く働かない組織であり、国際的には秘密警察と見なされている。
その実態は非公開なので、一般的にはあまり知られていないが、いかにも秘密警察めいた活動形態で、目的のためには手段を選ばない組織だと思われている。
「公安なら、佐山さんを助けるなんて発想はしないよ。あいつらの言う『治安』には民間人の命は含まれていないからね。そのまま跡けていってアジトを確かめたら、黙って引き揚げてそれで終わりさ。」
「ふむ。」
加藤は、顎に親指を当てて考え込んだが、やがて顔を上げた。
「そもそもあいつは、佐山さんを救うつもりで介入したんだろうか?」
「そうじゃなきゃ何のつもりだって?」
「佐山さんを狙ってたのに、先を越されそうになったから、とか。」
「今回に限っては、その可能性は低いね。もしそうならあいつらをぶちのめした時点で、僕達が逃げるのを黙って見送る意味がないんでさ。こっちが警戒して仕事がやりにくくなるだけだからね。現に今彼女は警察の保護下にあるだろ。もし、彼女を救うのが目的じゃないなら、奴等をぶちのめすのが目的だった事になるけど、それならあのタイミングになる理由がないわな。」
実は、二人とももう一つ心当りが無い訳ではないのだが、あまり説得力がない話なので、その名前を挙げるのは躊躇われたのだ。
しかし、どう考えても他に思い当たる節がなく、その方向に触れない訳にも行かなくなった。
「うーん。こうなるとやっぱり神田氏の関係しかねえかな。」
加藤が言うと、永田も同意した。
「そうだねえ。その点について、佐山さんはどう言ってた?」
「神田氏の友人とかでは、特に心当たりは無いそうだ。」
「神田氏本人って可能性は?」
「それはもう、きっぱりと否定してたよ。そもそも、人を一撃で殴り飛ばす様な力持ちじゃ無いってさ。それに、もしあれが神田氏なら、自分に何も言わずに消える筈は無いとさ。」
岳の名前は、実は本名であった。
子供の頃はこの名前を誇らしく思い、いつか本当に岳飛の様な立派な愛国者になるのだと信じていた。
しかし、今の仕事についてから、彼の岳飛に対する評価は変わってきた。
軍には、客観的な事実を見ようともせず勇ましいだけの『愛国』的な言動を事とする小岳飛が掃いて棄てる程おり、他国との間で常に軋轢の種となっていた。
客観的に見れば、国際関係を損なうわけにはいかないのは至極当然の話であり、日本やその他アジア諸国を追い詰めて、その背後に控えるアメリカとの対決に到るなど、愚の骨頂である。
それが理解出来ない小岳飛達の姿勢は、西遼の圧力を除くために金に屈従する他はない程度の実力しかなかった宋が、その金と全面衝突する事が出来る筈がない、という事を理解出来ないままに『忠義』を盾に景気よく対金侵攻をぶち挙げる岳飛の姿を彼に想像させたのである。
今の彼には、もし奇跡的に金を降す事が出来たとしても、宋にその領域を維持する国力がない以上、それは単に華北に力の真空状態を作り出すだけであり、タングートを始めとするその他の外部勢力に格好の草刈り場を提供する結果となる事が見えていた秦会の苦悩が理解できる。
実際にジュルチン族の金が倒れた後に華北を制覇したモンゴル族とは、対話自体が成り立たず、そのモンゴル族が立てた元によって南宋が滅ぼされてしまった訳だから、どう見ても秦会の判断が正しかったとしか言いようが無い。
そして、今の彼は皮肉にも軍と外部との折衝役という、いわば現代の秦会の役目が課せられているのだ。
彼はその小岳飛達の無謀な言動の尻拭いに奔走させられる度に、岳飛を陥れた秦会の様な権力が自分にあれば、と痛切に思わざるを得なかった。
なにしろ秦会は、『もしかすると謀叛を企てたかもしれない』という『罪状』で岳飛を処刑出来たのだ。
今の彼からみれば、誠にうらやましい限りである。
その岳は、先程デサリーヌが言っていた名前を反芻していた。
確か聞いた事があるのだ。
やがて、その名を誰から聞いたかを思い出して、思わず舌打ちした。
羅扶である。
対日工作部で現地主管を勤めている上尉(大尉)だが、これが、どうしようもない小岳飛であった。
出世のためには勇ましい事を言わなければならないのが常識である軍の中でも、その言動の勇ましさと言うか無謀さではトップクラスの人物で、その言説の過激さから、日本駐在員の間では対日強硬派の領袖と見なされている。
岳から見れば、その言動は然るべき根拠に基づく堅い信念の表れではなく、何の根拠もない侮日的放言としか評価しようのない物であり、もう何度もその尻拭いのために散々走り回らされている忌々しい人物であった。
人民解放軍内部では、そういう威勢だけは良い『愛国的』な言動が高く評価される傾向にあるのだが、羅が始末が悪い点は、本人の言動が問題なだけでなくそもそも周りがそれをたしなめる事が出来ない、という所である。
奴は『太子党』の人間なのだ。
これは、共産党や人民解放軍の要職に着いている人物の子弟を(侮蔑的に)指す言葉である。
羅の場合は、蘭州大軍区副司令官である羅征中将の息子なのだ。
そして、太子党と(陰で)呼ばれる人間達は、ただ単に高官の子弟であるというだけではなく、それを前面に押し出してまるで王侯の様に傍若無人に振る舞うので、そう呼ばれるのである。
その羅が、少し前の会議の席上で「我が国に、再び偉大なる栄光を取り戻すための重大な秘密に関する緒を見出だした。」と言い出した。
それはどんな物なのか、という駐日大使の問いに対して羅は「今、説明する必要は無い。」と一蹴し、更に尊大な態度で「その秘密が我が手に入った暁には、世界は我々の膝下に跪く事になろう。」と大見得を切った。
要するに羅は、それを入手するための行動に協力せよ、と言うのである。
その具体的な手順として挙がったのが、ノリコ・サヤマを確保する事であった。
羅の大言壮語は今に始まった事ではないので、あまり真面目に聞いてはいなかったが、太子党の男が言う事であるから粗略にも出来ないので、口先だけでは協力は惜しまない事を約束していた。
これはかなり難しい話となるであろう。
彼は羅に何かを止める様に説得して、成功した事が一度もないのだ。
ともかく、これから奴の部屋に行って説得を試みるしかあるまい。
階級だけならこちらの方が上なのだが、呼んで素直に来る様な男ではない。
その日の午後には、永田は退院した。
事務所に帰って今後の対策を相談しようとしたところで電話が鳴った。
「少々お待ちください。所長、佐山さんです。」
春香に促されて電話を取ると、不安そうな声が聞こえた。
「あの、私はいつまでここにいれば良いんでしょうか?」
その答は加藤自身も、誰か教えて欲しいと真剣に思っているのだが、ともかく今の典子の不安を放置するわけにもいかない。
「その件について、少し話しましょう。出られますか?」
「あの・・・警察の山野さんから、出来るだけ外に出ないようにと言われていまして・・・」
「判りました。そちらのホテルのロビーでお話しましょう。着いたらクロークから電話します。ちなみにお部屋は何号室ですか?」
「はい、203号室です。」
「何の用だ?」
羅は、デスク上に足を投げ出したままぞんざいに言った。
いつもにも増して態度が悪いのは、恐らく何か機嫌を損ねる様な事があったのだろう。
管轄が違うとはいえ中校(中佐)である岳は、上尉風情にこんな態度を取られる謂れは無い、という不快感を圧し殺しつつ、穏やかに話しかけた。
「以前、君が話していた『偉大なる栄光を取り戻す』という件についてだが、その後進捗はどうだね?」
この男はその問いを、鬱陶しげに拒絶した。
「あんたに説明する必要はない。」
それはまさに、その質問が不機嫌の原因その物を指しているからだったのだが、岳を舐めきっている羅は、状況報告などついぞした事が無いので、岳にはそれを知る術は無かった。
この、全く取り付く島がない態度に、もうこれは、単刀直入に話すしかない、と腹を括った。
太子党だろうと何だろうと、上尉風情のご機嫌とりなど真っ平御免である。
「君の話に挙がったノリコ・サヤマなんだが、美国の諜報関係者から、彼女に手を出すな、という警告が入った。」
羅は、せせら笑う様に言った。
丁度良い、この中校を罵倒して、少しでも鬱憤晴らしをしてやろう、と考えたのだ。
「あんた、いつから美帝の狗に成り下がった?」
これだから、小岳飛どもと話すのは嫌なのだ。
岳は、それでも懸命にこみ上げる嫌悪感を抑えつつ説得を続けたが、やがて羅は、吐き棄てる様に言った。
「俺に給料を払っているのは美帝じゃない。人民解放軍だ!」
岳は、憤懣やる方無い想いを抱えたまま虚しく引き上げるしかなかった。
ホテルは、大通りから一本入った所にある古ぼけた建物であった。
捜査員の待機に使われるとかで、お世辞にも立派とは言いがたいが、まあ、汚れてはいなかった。
警視庁という太い固定客がいるので、外観を気取る必要が無いのであろう。
中に入ると、内装は外観よりはかなりましであった。
警視庁御用達という点で、経営は楽なのだろう。
クロークで名刺を見せる。
「カトナガ探偵事務所の加藤です。203号室の佐山さんにお会いしたいのですが。」
「はい、お話は伺っており・・・」
クローク係はそう言いかけた所で、カウンターの内側で小さな警報音が鳴り、視線を下に落とすとさっと青ざめた。
「203号室だ!」
「え?」
何が起こったのか尋ねようとする加藤らを無視して、クローク係は階段に向かって走り出す。
「行くぞ!」
加藤は永田に声をかけると、その後を追った。
「お客様!大丈夫ですか!」
クローク係は、ドアを激しく叩きながら呼び掛けた。
ドアの向こうから悲鳴と、何とも表現し難い音、敢えて言うならノイズとしか言い様の無い音が聞こえた。
クローク係は腰のマスターキーを掴むと震える手で解錠し、ドアを押し開いた。
そして、室内に足を踏み入れた所で、そのまま棒立ちになってしまった。
続いて突入しようとした加藤は、その背中に突き当たってよろめきかけたが、躊躇う事なく男を押し退けて前に出た。
そして、手を掴まれて必死に抵抗している典子と目が合った。
懸命に抗う典子が悲鳴を上げる度に、被せる様に形状し難いノイズが響き渡る。
そのすがる様な眼差しを見た加藤は、ペンを抜いて突進した。
それは殆ど反射的行動であり、相手の異常な姿は意識されていなかった。
彼は振り上げたペンを、相手の側頭部とおぼしき所へ勢い良く降り下ろしたが、乾いた音がしてその一撃は軽く弾き返された。
相手は何事も無かったかのように典子の手を掴んだままで、こちらへ向き直る事もしない。
加藤は咄嗟に目標を変えて、典子を掴んでいるその指に打撃を加えた。
ここも頭同様に堅かったが、それでも指へ集中する打撃はそれなりに効いた様で、相手は手を引っ込めかけたので、典子は全力でその手を振り払った。
典子は飛び込む様に加藤の背後に隠れ、加藤はそれを庇う様に立ちはだかった。
そうして相手と向き合った所で、ようやくこの相手の姿が尋常でない事を認識した。
それは、一言で表現すれば、人間大の甲虫であった。
眼は巨大な複眼で、その額からは二本の触角らしき棒が伸びており、その口は左右に開くと思われる尖った顎になっている。
そして、今のこの格好が何かのコスチュームでないなら、その全身は見るからに堅そうな殻に覆われていた。
まさに怪物としか言いようが無かった。
怪物は、加藤を無視してその背後の典子に手を延ばそうとする。
加藤はペンを振り上げて手当たり次第に打撃を加えたが、それは、全て弾かれてしまった。
ついに加藤は、禁じ手である突きを繰り出したが、それすらも虚しく殻の上を滑って反らされてしまった。
「DNAキャッチャーだ!」
永田の声に我に返った加藤は、ペンの蓋に手を掛けて引き抜いた。
その下は、鋭い爪が王冠の様に円形に並んでいる。
襲われた際に襲撃犯の皮膚組織を採取する器具という触れ込みの機能で、DNAキャッチャーと名付けられているが、有り体に言えば凶器である。
怪物が再び踏み出して来た所で、加藤は躊躇う事なくペンを突き出した。
ずらりと円形に並ぶ鋭い爪は、大きな摩擦を生じて怪物の殻に喰い込んだ。
その瞬間に、加藤が躊躇う事無く体重を乗せた突きを入れると、嫌な手応えがして、ペンは怪物の殻を突き破った。
怪物は(そのマスクの様な顔から表情を窺う術は無いが)怯んだ様な動きをみせた。
再度、何とも言いがたい不快な音が響いた。
その場の全員が立ち竦む中、その音は再び聞こえた、というよりも、彼等の全身がそれを振動として感じ取った。
それは千匹の虫が羽ばたく様な音であった。
凍り付いた様に身動ぎもせずに向かい合ったまま更にその音が響いた時、ようやく彼等はそれが言葉になっている事に気づいた。
(ノン、ハナシヲキイテクレ)
それを理解したらしき典子の、加藤の肩にしがみついたままで痙攣する様に頸を振るその瞳が、恐怖に塗りつぶされている事を見て取った怪物は、その場で身を翻した。
その背中は、まるで黄金虫の様な複雑で金属的な色彩で光を反射していた。
と見る間に、怪物は何もない筈の空間で、あたかもドアをくぐる様に音もなく消えていった。
何が起こったのか判らず、四人はただ呆然と立ち竦んでいた。
「あ!」
加藤の突然の叫び声に、叫んだ本人を含め全員が我に返った。
「何?」
永田が尋ねると、加藤は呟く様に言った。
「今のあの背中、あの時見たヤツだ。」
やがて、クローク係の通報で山野が警官を連れてやって来たので、四人は今しがた見た物を懸命に説明しようとした。
山野としてはとても信用できる話ではないが、四人が異口同音に同じ状況を説明する以上、むげに否定も出来ない。
結局、どう報告書を書いたものかと頭を抱えたあげく、「異様な風体の男が侵入して保護対象者を連れ出そうとしたが、拒まれたのでそのまま逃走した。」という曖昧な記述にする他は無いと溜め息をついた。
「皆さんのお話の通りなら、佐山さんの安全を確保するには24時間直接監視下に置く以外には無さそうです。帰って上司と相談してみますが納得してもらえるかどうか・・・」
典子は、無言のまますがる様な眼差しを加藤に向けている。
「判りました。部屋をツインに変えてもらえますか?」
「え?ああ、上の階のツインが空いていますが・・・」
クローク係の答に頷く加藤に、永田が尋ねる。
「どうすんだよ?」
「お前と俺が、交代で付き添うんだよ。」
「やっぱりそれしか無いかね。」
「まず、俺が付くから、後で交代な。」
永田は頷いた後で言った。
「ペンを貸して。」
加藤は、良く判わからない表情で、ペンを渡した。
永田は、ティッシュを二・三枚掴むと、ペンのDNAキャッチャーを丁寧に拭き取ってからそれを丸めてポケットに入れ、ペンを返した。
「佐山さん、神田氏の部屋の合鍵を貸してもらえませんか?」
典子は、無言で加藤を見る。
「大丈夫。こいつは体を張って貴女を護った男ですよ。」
その言葉で納得した典子が鍵を渡すと、永田が言った。
「後で交代するときにお返しします。」
そう言って部屋を出た永田は、歩きながら電話を掛けた。
「あ、春香ちゃん?大至急先生に連絡をとって。頼んで欲しい事があるんだ。」
ツインに移った二人は、テーブルを挟んで座っていたが、気を紛らわそうと加藤が話しかけても、典子は上の空で生返事を返すだけであった。
余りに気詰まりな状況に、とりあえず何か音があった方がましだと加藤がTVを着けたが、典子は画面に目を向けているだけで、全くその内容には意識が向いていない様子だった。
「で、どうなった?」
唐突な問い掛けに、永田は軽く面食らった。
「どうって、何がだよ。」
加藤と交代するために、典子の部屋に入った途端の質問だったので、咄嗟に何を言っているのか理解出来なかったのだ。
「何か調べてたんだろう?」
「え、ああ。多分近いうちに答がもらえる筈だけど・・・」
その時、永田の携帯が鳴った。
発信者を確認すると彼は、携帯をテーブルに置いて、ハンズフリーモードで通話を選択した。
「はい、永田です。」
「荒川だ。生物学科の学生に大至急で頼んだDNA分析の、仮報告が来た。」
永田は、驚いた。
「随分と早いですね。」
「あっちの教授に掛け合って、レポート代わりの実習扱いにしてもらったんで、最優先でやってくれたんだよ。」
「なるほど。で、どうでした?」
「数値的な評価はこれからだが、とりあえず、ほぼ一致しているそうだ。」
「ほぼ?」
「そうだ。その学生が言うには、こんな一致のパターンは見た事が無いと言っている。」
「というと?」
電話の向こうで紙をめくる音がして、返事が帰ってきた。
「サンプルBの情報は全てサンプルAに含まれているが、サンプルAにしか無い情報が幾つか有る。コンタミの可能性は否定できないが、一般的なコンタミならもっとはっきり違いが出る物だそうだ。」
「あの、コンタミって何ですか?」
加藤が割り込んだ。
「調査対象のサンプルに、別の物が混じっている、つまり汚染されてるって事だよ。」
永田が短く説明した後続いて尋ねた。
「じゃあ、Bを基準にすれば、DNAは一致しているという事ですね。」
「まあ、そんな感じだな。」
加藤は永田を見た。
「どっちがペンから取ったやつだ?」
「Aだ。で、Bは神田氏の部屋のゴミ箱を漁って見つけた髪の毛だよ。」
加藤は腕組みをした。
「うーん。じゃああの化物は神田氏だってぇのか。」
「DNA分析が間違ってなけりゃ、そうなるね。」
その言葉に、典子は青ざめた。
「まあ、確かに辻褄は合ってるな。佐山さんを助けに来たり話し掛けてきたり・・・」
そこで、典子が無言のままはらはらと涙を落とし始めたのに気付いて、加藤は言葉に詰まった。
二人は典子が落ち着くのを辛抱強く待った。
やがて典子は、独り言の様に言った。
「やっぱりそうだったんだ。」
「そう、というと?」
典子は少し言葉に詰まった様だったが、意外に落ち着いた調子で喋りだした。
「私を『ノン』と呼ぶのは龍平だけです。認めたくは無いけど、あれは龍平です。」
その様子を見る限りでは、この結論をある程度覚悟していた様だった。
その時、電話に春香が割り込んできた。
「えーと、サンプルの生データを調べてみたんだけど・・・」
その言葉に、加藤も永田も特に驚きはしなかった。
ネットワークが繋がっている限り、彼女に入れない場所は無いし、彼女が本気を出せば、その能力は学生程度では比較にならないのだ。
「何か判ったの?」
永田が尋ねる。
「うん。サンプルAとBの差分は、コンタミじゃ無くて一つのDNAの一部よ。」
「じゃあ、純粋にAの方がDNA情報が多いって言う事?」
「うん。染色体の数も多いし、物によっては長さ自体が長い染色体もあるよ。」
永田は、考え込んだ。
「おい、どういう意味なんだよ。」
加藤にせっつかれた永田は、考え考え答えた。
「つまり・・・ここに現れた怪物は・・・神田さんだが、同時に人間では・・・ない、という事だね。」
「ま、まぁあの格好を見れば・・・」
そこまで言って典子の視線に気付き、慌てて頭を下げた。
「すいません。そういうつもりで言った訳では・・・」
典子は以外なくらいさばさばとした調子で遮った。
「いえ、その点は私も判っています。」
典子が案外冷静なので、永田は先を続ける事にした。
「あの変化は、DNAレベルでの変容でもなければ説明はつかないよ。」
そうして、不意に永田は、虚空に向かってごく軽い調子で言った。
「神田さん。出てきませんか。」
その言葉のあまりの意外さに二人は絶句したが、それに構わず彼は続けて呼び掛けた。
「その辺にいるんでしょう?」
「お、お前何で・・・」
ようやく我に返った加藤が尋ねようとすると、永田は被せぎみに言った。
「この前のタイミングを考えてみろよ。あんなに都合良く偶然に助けに来れる訳がない。ずっと佐山さんのすぐそばで見守ってるからこそ、あんな芸当が出来たんだよ。」
その時三人は、目の前の空間が不意に陽炎の様に揺らぐのを見た。
それに続いて、彼等は何とも表現しがたい違和感を覚えた。
それは、人間大の実体が目の前にあるという明確な皮膚感覚つまり気配と、そこには何もないという、明瞭な視覚との相克であった。
もう明らかにそこに『居る』としか言いようが無いのだが、それでもその空間は空っぽのままである。
その時、典子が言った。
「龍平、出てきて。この二人は私達の味方よ。」
更にしばらく躊躇う様な気配があったが、やがて目に見えないゲートを潜って、それは唐突に出現した。
幾らかは覚悟していた筈だが、やはり典子にとってその姿は衝撃的だった様で、ごく短く悲鳴を漏らしかけたが、健気にも彼女はその悲鳴を呑み込んだ。
「喋れますか?」
永田の問に、部屋の空気全体が音を立てた。
(ドウデス?キコエマスカ?)
相変わらず耳障りだが、それでも昨日よりはかなり聞き取り易くなっていた。
三人は無言で頷く。
そのまま四人、或いは三人と一体はしばらく無言で向かい合っていたが、やがて永田が口火を切った。
「差し支え無ければ、なぜそんな姿になったのか、伺えますか?」
怪物は少し頸(らしき箇所)に指をやっては空を掴むという動作を繰り返していたが、やがて声が響いた。
(ハジメハ、ナニモワカラナイママ、ケンキュウヲツヅケテイマシタ。トコロガ、ダンダントイママデミタコトガナイホウコウガボンヤリミエテクルヨウナキガシダシタンデス。)
他の二人が茫然と聞いているだけの状態なのに、永田は何かを感じた様に頷いた。
(ドウリョウニハナシテミマシタガ、ボクイガイハダレモソノホウコウハミエナカッタヨウデシタ。)
「その方向は、赤かったり青かったりしたんですか?」
(エエ、ソシテソノホウコウハ、トテモナツカシカッタンデス。)
「懐かしかった、とは?」
(イツカソッチヘカエリタイ、ト感ジマシタ。)
「それで?」
(ソノ感覚ヲモトニ研究ヲ続ケテイルウチニ、ダンダントボンヤリシテイタ方向ガハッキリ見エル様ニナッテキマシタ。)
「共感覚が試行の繰返しで強化されていった訳ですね。」
(多分ソウナンデショウ。ソノ頃カラ、急ニ強イ眠ケガ襲ッテ来ル様ニナリマシタ。ソシテ、家ニ帰ッタ時ニソノママ倒レ込ンデシマッテ、気ガツイタラアッチデ横ニナッテイタンデス。」
「あっちというと?」
「ウーン。」
神田は再び、唸りながら口許の下に手をやる動きを見せたが、その口許には水平な牙の様な顎しかないので、先程同様にその指はそのまま空を掴む。
それを見た永田は、ようやくこの仕種の意味に気付いた。
それは、今は存在しない架空の顎に手をやる動作だったのだ。
「高次元ダト思ッテモラエレバ・・・」
「ふむ。」
今度は永田が顎を捻った。
「体ハ固クナッテ関節ダケガ辛ウジテ動カセル状態ガシバラク続キマシタ。ソシテ、ソノ関節モダンダン動カナクナッタンデス。」
「動けなくなったんですか。」
「ハイ。ソノウチ完全二動ケナクナッテ、ソレカラハズット眠ッテイマシタガ、目ガ覚メルト殻ノ中にイタンデス。ソノ殻ヲ破ッテ外二出タラ今ノ姿二ナッテイマシタ。」
「つまり、蛹になっていた訳ですか。」
「蛹?ナルホド、ソウデスネ。」
「完全に蛹になる前に、何度か部屋に戻ったんですか?」
その言葉に、表情は判らないが軽く身動ぎしたことで、驚いたであろうと思われた。
「エエ。」
「砂糖を何に使ったんです?」
「ソノ・・・オナカガスイテ・・・」
なるほど、手っ取り早くカロリーを摂取するなら、砂糖は合理的な選択肢である。
「その後は、何を食べているんですか?」
「イエ、ソノ後ハ特ニオナカハスキマセン。」
どうやら砂糖の摂取は、変態完了まで人間の体を維持するのだけが目的だったとみえ、今の体は食事を必要としないらしい。
確かに、完全変態で成虫になると食餌を必要としなくなる昆虫は珍しくない。
ただしそういう昆虫は、例外なく完全変態後は短命である。
「全くお腹が空かないんですか?」
「エエ。デモ、長時間コッチニ居ルト何ト言ウカ疲レタ様ナ感ジニナリマス。」
「その時は、どうするんですか?」
「アッチニ戻ルト、スグニ快復シマス。」
その答に、永田は一先ず安堵した。
こっちでやっている『食事』とは異なる様だが、あっちでも何かエネルギーを補充する手段はあるようなので、カゲロウの類いの様に成虫になったら残り寿命は数日、という話では無さそうだ。
「それで、あっちから佐山さんを見ていた訳ですか。」
「のんノ事ガ心配デ・・・」
「最初に暴漢達を撃退した時に、何故名乗らなかったんです?」
「アノ時ハ、マダ上手ク喋レナクテ。」
「それで、喋れる様になるのを待って、話しに来たと。」
「ハイ、ソウデス。」
確かに、前回の声は歪んだ雑音の様なもので、永田達も何度も繰り返した末にようやく聞き取れた程だから、それ以前だと、本当に何を言っているのか判断するのは不可能だったろう。
そして今回の対話も、初めは雑音の中から意味を必死に拾い上げなければならない状態だったのに、対話の最中にもその言葉はどんどんと聞き取り易くなっていき、今やかなり変わってはいるがそれでも声だと感じられるレベルになっている。
この数十分間での上達ぶりは、目を見張る物がある。
これがそのまま彼(彼等)の適応力なのだとしたら、まさに恐るべき能力ではある。
ここで永田は、改めて典子を観察した。
恐らく話自体には付いて来ている様ではあるが、感情的には理解できている訳では無さそうだ。
まあ、いきなりこの状況に直面して、納得できる人間はそうは居ないだろう。
「ねえ、神田さん。佐山さんに話があるんですよね。」
神田は頷いて、典子に向き直った。
「のん、僕ハコンナ姿ニナッテシマッタケド、君ノイナイ人生ハ考エラレナイ。マダ僕ヲ愛シテイルナラ、一緒ニ来テモラエナイダロウカ?」
典子が呆然としたまま無言で身動ぎもしないのを見かねて永田は再び割って入った。
「貴方が佐山さんを連れて行きたい気持ちは判りますが、今この場でそれを選択しろというのは、いくらなんでも無理でしょう。貴方が佐山さんを愛しているなら、彼女に時間をあげるべきだと思いますよ。」
神田は考え込む様にしばらく黙っていたが、やがて言った。
「デハ、ドウシタラ良イノデショウ?」
「そうですね。とりあえず、こちらの時間で三日待って下さい。三日後にまた話しましょう。その時は、我々もまた立ち会いますから、そこで改めて、話し合いませんか。そしてその間は、助言を求められた時を除いて、彼女の検討に干渉しない事にしませんか。」
話し合いを続ける内に、何となく神田の表情が読める様な気がしてきた。
勿論、今の彼の顔の表面は(恐らくはキチン質の)殻に覆われているので、人間の様に顔面筋肉の動きを外部から窺うのは不可能だから、本当の意味での表情が出る事は無いだろう。
しかしその仕種の端々に、人間的な動作が顔を出すのだ。
例えば、先程考え込む際に(存在しない)顎に手を当てようとした様に。
これはつまり、神田がまだ(外観がどうであれ)その内に人間性を保持しているという事なのだろう。
恐らく今の神田は、この提案を受け入れるかどうかで躊躇っている様だ。
ここはもう一押しするべきであろう。
「あ。勿論、助言を求められた時以外は干渉しないというルールは、我々にも適用されます。それで宜しいですね。」
念押しする様に典子を顧みると、彼女は真剣な表情で頷いた。
それを見て、ようやく(心からでは無いにせよ)納得したらしい神田は、同意した。
「判リマシタ。のん、三日後ノこの時間ニマタヤッテ来ル。ソレマデニ僕ニ相談シタイ事ガアレバ、コノ人ガ・・・」
「永田です。」
「永田サンガヤッタ様ニ呼ンデクレレバスグニ来ル。」
神田は立ち上がると、そのまま消えた。
「さて、それでは我々もおいとましましょう。」
そう言って加藤が立ち上がると、典子は軽く動揺を見せた。
こんなにすぐに出ていくとは思わなかったのだろう。
加藤は、典子に穏やかに話し掛けた。
「神田さんは、貴女に考える時間を与える事に同意すると、すぐに出て行きました。だから今、我々がここに残るのはフェアではありません。」
一見するとただ出ていく理由を説明しただけの様だが、恐らく神田がこの会話も聞いているだろうから、『フェア』という言い回しで、彼等のスタンスが神田と対立するものである事、即ち神田に付いていく事に不賛成である事を、それとなく伝えたのだ。
その意図は典子にも伝わった様で、彼女は落ち着いた表情で頷いた。