第三話
加藤は、再び神田の部屋の前で典子を待っていた。
警察がどう判断するか判らないが、NIITからの相談となれば行動を起こす可能性が高いので、その前に再度確認をしておこうと思ったのだ。
鍵を受け取るとゴーグルを掛け、典子を下がらせてからできるだけ音を立てない様に鍵を開け、ドアを少し開けて下を覗く。
足許に仕掛けた髪は、そのまま残っていた。
隙間から中を窺い、内部に動く気配が無い事を確かめてから、ドアを開いた。
まずはそれぞれの窓に歩み寄ると、髪の毛のトラップを前回の画像と比較してみる。
開けられた形跡は無さそうであった。
次に、部屋の各所で前回の画像を呼び出して、今との差を比較する。
ざっと見る限りでは、目に見える差は無さそうに思えたが、シュガーポット周りだけは、明らかに状態が違っていた。
前回は注意して見ないと見落とす程度にうっすらと溢れていただけの砂糖が、今回は一目でそれと判る程に散乱している。
ポットの蓋を開けると、中は殆ど空であった。
改めて、室内の各所にある収納を全て確認したが、勿論前回同様に誰も居なかった。
次に、テーブル上にあった古新聞を丸めて筒を作ると、収納の内部も含めて全ての場所の天井を押し上げて見た。
天井板は微動だにせず、破らない限り通り抜ける事は出来そうになかった。
室内に誰もおらず、出入りした形跡も無いのに、変化がある、そう考えて頸を捻った所で、別の可能性に行き当たった。
毛髪のトラップはごく初歩的な物であり、プロなら気付いてもおかしくないのである。
加藤は、最後にドアにトラップを仕掛ける時にその写真を撮っておべきだったと、今更ながら後悔した。
ゴーグルのカメラしか持っていなかったので、目で見る事の出来ない場所は撮れなかったのだ。
プロなら、あのトラップを元通りに見せ掛ける事も出来そうな気がするが、実際にはそうはいかない。
元通りにするためには、元の状態を知っていなければならないが、トラップはドアの内側に仕掛けられているので、ドアから入った場合どうやっても『元通り』にする事は出来ないのである。
次は、手だけで操作できるカメラも持って来ようと心に誓った。
そうして、一通り確認が終った時点での判定は、シュガーポット周り以外には変化はなく、人の出入りもなさそうに見えるが、プロが出入りした可能性は否定できない、という所であった。
ただし、何故その『プロ』が砂糖だけを、それもかなり雑なやり方で取って行ったのかは、皆目見当が着かないが。
「NIITの太田さんからお電話よ。」
春香の声に、加藤は慌ててトイレから飛び出した。
「はい、加藤です。」
「ああ、加藤君。今、大丈夫かな?」
「ええ。何でしょう?」
「警察の方が、神田君の件で話を聞きたいそうだ。」
どうやら、松木が警察に行った様だ。
電話の向こうで人が替わる気配があった。
「こちらは、警視庁生活安全課の田口といいます。」
「あ、はい。カトナガ探偵事務所の加藤と申します。」
「松木さんに伺ったんですが、加藤さんは神田氏の部屋に入られた様ですね。」
とりあえず、ここは素直に認めておく方が良いと判断した。
警察相手に嘘を吐いて、後でばれると話がややこしくなる。
「ええ、依頼人と二人で二度。」
「依頼人はどなたですか?」
「それは守秘義務がありますから、令状無しで申し上げる事は出来ません。」
最終的には答えるにせよ、スタンスは提示しておく必要がある。
「不正な手段で入ったという事になると、守秘義務で済む話ではありませんよ。」
「いえ。こちらは、依頼人が神田氏から預かっている合鍵で入りました。」
もうこれで、依頼人の名前を言ってしまった様なものだが、どうせその気になれば向こうは令状を持って来れるのだから、大差はない。
「その時の部屋の中の様子を伺いたいのですが、署までご足労頂けませんか?」
この商売では、警察の機嫌は常に取っておくべきである。
「判りました。こちらで撮影した室内の写真を持って伺います。」
「これが一回目の状況で、こっちが二回目です。」
そう言って加藤は、写真の束を二つ差し出した。
「拝見します。」
そう言って受け取る田口に、加藤は言った。
「データは取ってあるので、それは差し上げます。」
後で問題にならない様に、データを保持している事と、証拠能力は低い(デジタルデータは改竄が容易だと見なされる)事をそれとなく告げた。
「ちょっと失礼します。」
そう言って田口は渡された束を横に置くと、足元の段ボールから封筒を取り出して中身をテーブルにぶちまけた。
それはざっと二十枚程の写真であった。
それを軽くデスク上に並べると、先程の束を手にして見比べ始めた。
田口の肩越しに覗くと、テーブル上に並んでいるのは警察が現場検証で撮ったと思われる写真であった。
加藤が入った時点の状況と比較しているのだ。
加藤が帰ってからやれば良さそうな物だが、今わざわざここで拡げて見せるという事は、加藤に見せようとしているのだろう。
現場写真を部外者に見せる訳にはいかないので、たまたま見えてしまった風を装っているわけだ。
これは、相当に好意的な姿勢である。
加藤がそれとなく依頼人の素性を明かした事に対する返礼ではあろうが、それにしても松木が(勿論田口も)加藤に好意を示す必要は無いのだから、恐らく太田が口添えをしてくれたのだろう。
そうやって肩越しに見る現場写真から、加藤達が出た後にかなり手荒に家捜しされた事が判る。
デスクの引出しは全て開け放しになり、書棚やマガジンラックは空で、その中身の本や雑誌の類いは全て床に散らばり、その中の幾らかは開いたまま臥せられていた。
次々と引き抜いてはざっとめくって、そのまま床に投げ捨てていったと思われる。
短時間の内に中を確認するとしたら、どうしてもこういう動作になる。
恐らく何か紙に書かれた物を探していたのだと思われるが、全てがひっくり返されている状況からすると、目的の物を発見する事は出来なかった可能性が高い。
これだけ痕が残る程に急いでいたのなら、目当ての物が見付かればそこで作業を打ち切る筈だからである。
「貴殿方は合鍵で入られたんですよね。」
そう言いながら田口は、さりげなくドアの鍵孔付近の写真を示した。
その鍵孔の横には小さな穴が空いていた。
ドリルで扉に小さな穴を開けてL字型のピアノ線を挿し込み、中のサムターンを引っかけて回すサムターン回しと呼ばれる不正解錠法の痕であろう。
手馴れた人間なら、鍵孔一つ辺り一分程で解錠出来ると聞いている。
後から入った何者かは、かなり急いでいたのか形振り構わぬ姿勢で臨んだらしい。
「何か取られた物はあったんですか?」
田口は頸を振った。
「元の状態が判らないんで、何とも言いようがありません。神田氏の交際相手の方に立ち会って頂いて確認しようかと思っています。」
「そうですか。」
羅は、報告に失望していた。
不法侵入という危険を冒してまで家探しをさせたのに、全くの空振りに終ったというのだ。
そのブレイクスルーに関する情報は勿論、ターゲットの失踪に関する情報も見つからなかった。
こうなれば、もう一段上の手段に訴えるべきだと決意した。
「はい、カトナガ探偵事務所の加藤です。」
「あの・・・佐山です。」
およそ一週間ぶりに聞くその声には、不安感が声に滲み出ている。
「どうしました?」
しばらく言い淀む気配があり、やがて助けを求める様に言った。
「ずっと後を跡いてくる人達が・・・」
人『達』となると、状況はかなりまずい。
素人の典子が気付くのだから、集団で跡いて来ているという事である。
行く先を確認するための尾行なら一人で十分だし、複数人でやる場合でも偽装のために一人ずつ途中で交代しながら追跡するのが普通で、同時に複数人が着く事は無い。
複数人で行動すれば目立つだけで、何のメリットも無いからだ。
つまり、ある程度の人数を必要とする『何か』をやろうとしている訳だ。
「今どこにいます?」
「駅から家に帰る途中のコンビニです。」
「その跡いて来ている奴等は、中に入って来ましたか?」
「いえ、暗くてよくわかりませんが、外に居るみたいです。」
「判りました。そのままそこを動かないで。電話も繋いだままにしておいて下さい。すぐに行きます。」
そう言うと加藤は立ち上がった。
「おい雅弘、緊急事態だ。行くぞ!」
永田は運動神経はさっぱりだが、それでも男手はあった方が良い。
問題のコンビニは、駅からしばらく歩いた住宅街の中にあった。
概ね住宅街は、夕食時を過ぎると人通りが無くなるのである。
ここまで手を出さなかった所を見ると、典子の家に押し入るのが目的かもしれない。
「ごめんなさい、他に頼れる人が思い付かなくて。途中で変な気配がして、怖くなってここに飛び込んだんです。」
「大丈夫ですよ。良い判断でした。」
そう言いながらガラス越しに外を窺うと、闇に紛れるように数人の男達が屯しているのが判った。
こちらの方が明るいのでよく見えないが、五人以上居るようである。
さすがに防犯カメラ完備の場所で更に店員も居る状況で襲ってくる程に大胆な訳では無さそうだが、ここに朝まで居るわけにもいかないし、まだなにもされていない時点で警察を呼ぶ事も出来ない。
「とにかく、駅前まで戻りましょう。」
典子は不安げに頷いた。
ここはさしあたっては安全だが、彼等の行動は外から丸見えである。
加藤は上衣の内ポケットからペンを抜いた。
この商売は色々と物騒なので、護身用の武器を携帯したいところであり、同業者の中には伸縮式の警棒を携帯する者も少なくないのだが、警官に職務質問された時に見つかると話がややこしくなる。
そこで加藤は、タクティカル・ペンと呼ばれるボールペンを携帯している。
これは、やや大ぶりの全金属製で外見的には厳つい印象があるものの、要するにペンであり勿論字も書ける。
しかし、その先端は鋭く尖っており、またそのボディは薄いプレスではなく分厚い削り出し加工で形成されており、高い強度を持っている。
更に、一般的なタクティカル・ペンは軽量のアルミ合金で作られて使いやすさにも配慮されているが、彼のペンは154CMと呼ばれるジェットエンジンのタービンブレードに使用される鋼鉄より固いステンレス合金の削り出しで、結構な重量がある。
軽量のペンでは攻撃手段は刺突しかないが、そうなれば間違いなく傷害扱いとなるし状況によっては殺意も疑われかねないので、彼はこのペンによる刺突を言わば禁じ手としている代わりに、その重量と硬さを使って、小さな棍棒として使うのだ。
棍棒としては随分小さいが、彼が全力で降り下ろせば部位によっては骨折させる事も可能な代物である。
永田と二人で典子の左右を挟む様に並び、ごくリラックスした風に両手をだらりと下げて、空手に見える様にペンを右掌の内側に隠してそのまま店を出た。
もっと大きな武器なら、これ見よがしにぶら下げて相手を威嚇する事も出来るが、この大きさでは威嚇にはならないので、持っている事を覚られない様にして奇襲効果を期待する方が良い。
それと無く辺りを見回す風にして窺うと、男達が物影から出てきた。
加藤は典子を前に立たせて、後ろを遮る様に永田と二人で並んだ。
前に危険がないという保証はないが、後ろの差し迫った危険の方が優先順位は高いのだ。
加藤は小声で方向を指示し、典子はそれに従って進んでいく。
出来るだけ人通りがありそうな道を選んでいるが、夜も更けてくると中々そうもいかなくなる。
ついに、見通せる限りでは全く人影の無い道に差し掛かってしまった。
背後の靴音が急に速まる。
「右!」
加藤が叫んだ次の瞬間、永田の背後から棒が降り下ろされた。
それは永田の後頭部を狙った一撃であったが、永田は加藤が叫んだ時に反射的に右に体を避わしていたので、その打撃は左肩に入った。
永田が呻き声を挙げて前のめりになるのを横目に見て、加藤は左掌で典子の背中を強く押し出しつつ、ペンを握る右手を振り上げながら上体を後ろに捻った。
今まさに加藤の顔面に向けて棒が降り下ろされて来たところだったが、学生時代にバスケットで鍛えられた加藤の反射神経は、襲撃者の予想を上回っていた。
激しい金属音と火花が散り、ペンがしっかりと攻撃を喰い止めた。
襲撃者達は、見るからに運動神経が良くなさそうな永田がこれ程の反射速度を見せた事と、素手だと思っていた加藤が予想もしなかった得物でその打撃を受け止めて見せた事に軽く戸惑った様で、再攻撃に移るのが一瞬遅れた。
その隙に三人は打ち合わせ通りに前方へダッシュした。
それで僅かに距離を稼いだが、ハイヒールの典子が出せる速度は知れていた。
背後から凄まじい勢いで迫る殺気に、加藤は腹を括ると体を捻りながら叫んだ。
「雅弘!佐山さんを守ってそのまま走れ!」
「お、おう!」
運動不足の永田は既に息が上がりはじめていたが、典子の背中を被う様に押しながら、必死で走った。
加藤は後ろを向くと、躊躇う事なく先頭の男の額にペンを降り下ろした。
鈍い手応えがあり先頭の男がよろめきながら踞ったために、期待通りその後ろに続く二人の襲撃者は、一人目の背中が障害物となり三人は縺れ合いながら立ち止まった。
前頭部は人体では一番固い場所なので、いくら加藤でもこのペンで骨折させる事は出来ないが、それでも軽い脳震盪くらいは起こしているだろうから、とりあえず相手をしなければならないのは残りの二人である。
先に永田を攻撃した所を見ると、襲撃者達の目的は典子だけあり、加藤と永田はそれに対する単なる障害であると見なされている様だ。
最初の一撃は奇襲が成功する確率が比較的高いので、もし三人を倒すのが目的ならばより危険度の高い加藤に最初の一撃を加える筈だ。
しかし、典子一人を襲う(恐らくは連れ去る)事が目的ならば、ガードに穴を開ける事が優先されるから、見るからに闘争向きでない永田に奇襲を掛けるのが合理的な判断である。
ただ襲撃者達にとって想定外だったのは、永田は通常は見た目通りの反射速度でありその闘争スキルも相応に低いが、加藤が指示を飛ばした時だけは、条件反射的に(一瞬だけだが)鋭く反応する事が出来るという事を知らなかった事であろう。
いずれにしても、今の局面に関して言えば、典子を人目のある所まで逃がせばこちらの勝ちである。
だから、ここで加藤が殿軍となって時間を稼ぐのは、理に叶った対応の筈であった。
ペンを構えて睨み合う状況に持ち込めた事で、最早目的は達成できたと思われた。
その時、加藤の背後で永田の呻き声と典子の悲鳴が同時に上がった。
やられた!こっちが足留めしているつもりだったが、向こうも同じ目的だったのだ。
すぐにでも身を翻して助けに行きたい所だが、目前の男達に牽制されて身動きが取れない。
「助けて!」
典子の声が虚しく響く。
その時、永田でも典子でもない野太い悲鳴が上がった。
次の瞬間、目の前の男達の視線が一斉に逸れた。
男達は、加藤の肩越しに何かを見ながら、信じられないといった表情で、目を剥いてそのまま凍り付いた様に静止している。
恐る恐る振り向いた加藤の目には、10メートル程先で遠くの街灯からの乏しい光に照らされて、頭を抑えて踞る永田と、その向こうでこちらを向いて立ち竦む典子、そしてその更に向こうで横ざまに吹っ飛ぶ男と思われる姿が見えた。
更に目を凝らすと、さっき吹っ飛んだ男とは反対側の薄暗がりの中でも何かが横たわりながらもがいていた。
と、その時、典子の向こう側で何かが動くのが微かに見えた。
どうやら典子の向こう側に居る何者かが、二人の襲撃者をそれぞれただの一撃で左右に吹っ飛ばしたらしい。
凄まじい膂力である。
その何者かは、微かな灯りの中で身を翻し、そのまま闇に融ける様に消えて行った。
その背中の残像は奇妙な事に、まるで金属を思わせる光沢を放っている様に見えた。
「走れ!」
ダッシュしながら加藤が叫ぶと永田は弾かれた様に立ち上がり、典子の背中を押しながら走り出した。
襲撃者達は、もう追って来ようとはしなかった。
ようやく駅前の灯りが見える所までたどり着いた時、永田が膝から崩れ落ちる様に前のめりに倒れ込んだ。
「おい、雅弘!聞こえるか!」
さすがに揺する様な事はしなかったが、耳許で大声を挙げて意識を確認しようとした。
全く反応がない永田の後頭部から背中にかけては、べっとりと血に濡れていた。
恐らく走り出す以前にほぼ失神状態で、反射的に手足が動いていただけなのだろう。
素早く辺りを見廻して、襲撃者達が来ていない事を確かめた後、携帯を取り出して119をコールした。
「少しの間、こいつを見ていて下さい。もし痙攣とかの異常が起きたら、119に電話して。ただし、救急車が来るまで触らない様に。」
典子にそう頼んで、そのまま駅前の交番に歩いて行った。
この状態を救急隊員が見れば、警察に連絡が行くのは間違いないので、無用な疑いを避けるためにはこちらから通報しておく方が良いと判断したのだ。
交番には若い警官が一人いただけだが、状況を説明して永田の所まで引っ張り出した。
警官は、俯せになった永田の様子を見るなり尋ねた。
「救急車は?」
「さっき呼びました。」
頷いた警官は、携帯無線機で本署を呼び出すと、手際良く状況を報告した後、手帳を取り出して質問を始めた。
三人の身許と関係、襲撃された状況と場所、襲撃者の人数を順に説明して行く。
やがて、救急車とパトカーが前後して到着した。
加藤は、救急隊員に永田の状態を説明し、隊員達が永田をストレッチャーに乗せると、二人とも付き添いで救急車に乗り込んだ。
そして救急車はパトカーの先導で救急病院に急いだ。
応急措置が済んだ所で、警官から二人への聞き取りとなった。
説明する内容は、最初に交番の警官に話した物と全く差がないのだが、同じ事を繰り返し尋ねられる。
やがて、永田が命に別状はない事が確認されたが大事をとって数日間入院と決まった所で、二人は『任意』で警察署に連れて行かれた。
そこでは二人は別室に入れられ、お互いの状況を知る事が出来ない様にされたが、その殺風景な小部屋はどう見ても取調室である。
その後は次々と人間が入れ替わりながら、また同じ質問を繰り返された。
それも、人が代わる毎に段々と威圧的になっていく。
どうやら彼等の頭の中には、典子を巡る加藤と永田の痴話喧嘩というシナリオが出来上がっている様で、一見すると質問の体を取っている様に見えて、その実あからさまに自分達の望む答に誘導しようとしていた。
そのまま窓の外が白み始めても延々と続くループにうんざりしかけた頃に、加藤は決心した。
あまり好ましい話ではないが、自分はともかく典子が同じ扱いを受けているのであれば、それこそ何を言わされるか判った物では無いので、ここは非常手段に訴えるのもやむ無しと腹を括ったのだ。
「そういえば、この件について『本庁の』生活安全課の田口警部補に、お話をしなければなりません。警部補が担当している『公的機関の関わる重大事件』との関連が疑われます。すぐに田口さんに連絡を取って下さい。」
なるべく深刻そうな表情でそう告げると、途端に相手の態度が変わった。
例え生活安全課とはいえ、本庁の人間の関係者となると、そうぞんざいな扱いも出来ない。
誰だって所轄のままで定年を迎えたい筈はないので、本庁の覚えが悪くなるのは避けたいのだ。
聞き取りと称する訊問はすぐに打ち切られ、インスタントだろうがコーヒーまで出てきた。
「佐山さんと話したいんですが。」
その言葉で折り畳み椅子の取調室から出され、ソファのある応接室に誘導された。
典子は放心したように座っていたが、加藤の顔を見ると無言のままぼろぼろと涙を落とした。
「もう大丈夫ですよ。じきに、『本庁の』田口警部補が来ます。」
その言葉に、典子を監視する様にその背後に立っていた警官が、ピクリと肩を動かした。
彼等は典子を与し易しと見て、相当締め上げた様だ。
警官は、いかにも何か言いたげな表情であったが、加藤はわざと気付かない振りをした。
羅は怒鳴った。
「それで、貴様らはまんまと逃げられたのか!」
怒号の勢いに、部下達は一斉に肩を竦み上がらせた。
男達の中で、全く無傷なのは二人だけで、残りは大なり小なり包帯やら何やらで負傷の痕が窺える。
中には頸椎を痛めたらしく、ごつい首輪を嵌めている者さえいるのだ。
しかし羅には、その惨状に配慮する必要など、全く思い浮かばなかった。
彼の様なエリートにとって、『部下』とはいくらでも替えのきく道具に過ぎないのである。
男達は、誰も言葉を発しようとはしなかった。
この上司の機嫌を損ねればどんな弁解も効かない事が、経験上判っていたからだ。
「貴様らは、大の男が五人も掛かって、女一人連れてくる事も出来ないのか!」
再び肩を震わせつつ男達は、俯いているしか無かった。
「しかも、向こうは女一人に男二人だったそうじゃないか。八大胡同のポン引きでも、貴様らよりはましな結果を出すぞ!」
羅は、そのまま部屋の外まで響くほどの声で罵倒を続けていたが、やがて、それに飽きて低い声で尋ねた。
「本国に送還されて清掃局に送られたいか?」
男達は一斉に(首輪をしている男は苦痛に顔をしかめつつ)頸を振った。
「なら、もう一度だけチャンスをやる。成功するまで帰って来るな。」
本当に田口は夜明けと共にやって来た。
それはつまり、所轄から連絡が入った直後に(恐らくは)叩き起こされたという事であり、この件について本庁が相当に本気で向き合っている事を示している。
「お早うございます。お怪我はありませんか?」
「佐山さんと私は無傷ですが、私の相棒はかなりやられました。」
「そうですか。それは災難でしたね。」
そう言った所で、典子の憔悴ぶりから何かを感じ取った様で、傍らの警官達に向かって尋ねた。
「おい、この方々に失礼は無かったろうな?」
警官達は、目を泳がせながら曖昧に頷いた。
加藤は、この場を紛糾させるより早く典子を安心させるべきだと思ったので敢えて異を唱えなかったが、彼の苦笑混じりの表情を見て、田口は概ね事情を理解した様であった。
「まあ、その辺は後でゆっくりと確認しよう。」
その言葉で警官達が青ざめるのを見て、それまで唇を噛んで怒りに堪えていた様子の典子が、ようやく表情を和らげた。
そこへ、もう一人の刑事が入ってきた。
「本庁捜査三課の山野です。」
三課といえば暴力事犯を担当する部署である。
そうして今度は田口と山野による聞き取りが始まったが、彼等は終始二人を被害者という前提で質問し、丁寧に事実確認だけを行っていった。
やがて、一通りの聞き取りが終わった所で山野は顔を挙げると、周りで居心地悪そうにしている所轄の中で一番年嵩の警官に尋ねた。
「で、襲撃現場の状況はどうでしたか?」
警官は、再び目を泳がせながら言った。
「えーと、これから確認の人間を出します。」
「今まで何をやってたんですか!」
山野の叱責に、警官達全員が飛び上がった。
とりあえず、これで溜飲が下がったので、加藤はこの件をこれ以上追求するのは止めておく事にした。
「さて、これからどうするかですが、我々としては、佐山さんがご自宅へ帰るのはお薦め出来ません。」
田口の言葉に、加藤も頷いた。
元々、駅に戻ろうとしていたのも、単に人出がある所というだけではなく、家を突き止められている危険を考えて、駅前のビジネスホテルか何かを探して典子を泊まらせようと考えていたからなのだ。
まあ、夜明けまでここで足留めを喰らった事で、この一夜の安全は(結果的に)確保された訳だが、いずれにしてもしばらくは、帰らない方が良さそうだ。
「宜しければ本庁の近くで、安全でそれほど高額でない宿泊施設をご紹介出来ますよ。まあ、あまり綺麗ではありませんが。」
これはありがたい申し出ではある。
警視庁が保証するなら、安全は問題あるまい。
それに、夕べの奴等が何者であるとしても、警視庁のお膝元で騒ぎを起こす度胸は無いだろう。
「ぜひ、そうするべきです。」
加藤は強く薦めた。
「そうしていただければ、我々も追加の聞き取りがしやすくなりますし。」
山野も促したので、典子は加藤をちらりと見て加藤が頷いたのを確かめると答えた。
「それじゃ、お願いします。」
加藤がアパートに帰ってシャワーを浴びていると、病院から連絡が入った。
永田の意識が回復したというのである。
彼は寝るのを諦めて、そのまま病院に向かった。
「どうだ?」
永田は、頭にすっぽりとネットを被せられている以外は、特段問題は無さそうであった。
ネットの下の包帯のそのまた下は、多分綺麗に刈り上げられているのだろう。
風采を構わなすぎる永田は、前髪が目に入るまで髪も切らないのでいつもボサボサのままにしているから、こうやって綺麗さっぱり刈り上げるのもいい経験だろう。
「ああ、後ろ頭の傷が痛むだけだよ。」
「痛いのは傷だけか?頭の『中』は?」
「痛みはないし、先生も問題無さそうだと言ってた。」
まずは、ひと安心といった所か。
「それでね、」
そう言いかけた所で、加藤の携帯が鳴った。
「はい、加藤です。」
「警察庁の山野です。今お時間はありますか?」
「ああ、はい。大丈夫ですよ。」
「ご足労をおかけして申し訳ありませんが、現場検証を行いたいので、昨日の襲撃現場まで、来ていただけませんか?」
「はい、判りました。」
加藤は電話を切ると、永田に言った。
「現場検証したいそうなんで、昨日の現場に行ってくる。」
現場には黄色と黒の立入禁止テープが張り巡らされており、山野と二人の鑑識課員が典子と話をしていた。
受け答えをしながら不安そうに辺りを見回していた典子は、加藤に気付いて一気に表情が明るくなる。
それに続いて山野も振り向くと、快活そうな調子で声を上げた。
「ご協力ありがとうございます。」
「いえ、それよりどうですか?」
その問いに山野の顔が曇る。
「どうもいけません。殆ど痕跡らしい物が残っていません。辛うじて血痕らしき物が見つかったので、後で永田さんのDNAと照合させてもらいますが・・・」
あの場で出血が確認できたのは永田だけなので、恐らく血痕はみんなそれだろう。
「近所の聴き込みでは、襲撃後に何人かがこの辺りでごそごそしていたそうなので、証拠隠滅されてしまった様な感じですね。」
「ふむ。」
随分と手際の良い話である。
二ヶ所の現場を、短時間にそれだけ綺麗にしていったのなら、かなり人数を投入している筈で、恐らく襲撃自体が前もって準備された行動だったと見て良いだろう。
どう見ても、プロの仕業だ。
こうなると神田の身が案じられるが、少なくとも昨日の奴等の手中には居ないようだ。
神田を確保していれば、典子を襲う必要はないのだから。
病院に戻った加藤は、永田に状況を説明した。
一通り聞き終わると、永田は唐突に言い出した。
「襲って来た奴等は、多分中国人だよ。」
「何で判る?あいつら何も言わなかった様だが?」
「待ち伏せしてた奴等の一人目が吹っ飛んだ時に、二人目が上げた悲鳴が、中国語だった。」
「アイヤーってやつか?」
「まあそんなとこ。『操你妈』って言ったんだ。」
いくら訓練を受けていても、咄嗟に出る感嘆詞まで偽装するのは難しいのだ。
「もし、中国の情報機関なら、手荒な手段も躊躇わないだろうね。」
「どうしたもんかね?」
加藤は肩を竦めた。
さすがに、本当に大国の諜報機関が出て来たとなると、明らかに手に余る。
「ここは、夷をもって夷を制する式のやり方しか無いんじゃない?」
「スミシー氏か?」
永田が頷いた。
「興味を持つかな?」
「今の時点で判ってる事が間違いないなら、持つだろうね。それに、このご時世に中国が同盟国で暴れてるとなれば、放っておけんでしょ。」