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蛹は甲虫の夢を見るか?  作者: ろ~えん
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第一話

重苦しい沈黙に耐えかねた加藤は、思わず窓の外に視線をやった。

そこには、街路樹の枝がこちらに向かって伸びてきている。

その枝先を見るとも無く見ていると、蛹がくっついていた。

大きさからすれば、揚羽蝶辺りだろうか。

彼は、わざとらしく声を高めて言った。

「蝶ってのはさ、成虫になる過程であの蛹の中で段々羽や脚が生えて行くってのはまあ判るが、胴体が縮んで行くってのがどうしても理解できん。」

軽く頸を捻りながらそう言うと、春香が笑いながら言った。

「何にも知らないのね。蛹ってのは中で幼虫から成虫に段々形が変わっていくんじゃないわ。」

それは、加藤にとっては意外な話であった。

「段々形が変わるんじゃなければ、どうやって成虫になるんだよ?」

春香は教え諭す様に応える。

「蛹の中で、幼虫は一度どろどろに溶けるの。で、それを再構成して成虫になるのよ。言わば全身をガラガラポンでやり直す感じね。そうやって、全く新しい自分になるわけ。」

加藤は、感心して唸った。

その時、永田が口を挟んだ。

「それもちょっと違うよ。」

春香は、不満そうに尋ねる。

「じゃあ、どうなるっていうの?」

取り合えず永田と春香の会話になったところで加藤は立ち上がり、窓辺のコーヒーメーカーに歩み寄ると、カップを二つ取って熱いコーヒーを注いだ。

春香は、極めて優秀な探偵助手だが、コーヒーは淹れてくれないのだ。

永田は、コーヒーを受け取りながら言った。

「うーん、そうだね。まず羽や脚は、何もないところから生えて来る訳じゃなくて、幼虫の段階で既に、羽や脚やその他の成虫の体を構成する部分の基になる成虫源基と呼ばれる器官を体内に持ってるんだ。」

加藤が、意外そうな表情で言う。

「じゃあ、俺の言った羽が生えて来るって話の方が正しいのか。」

永田は頸を振った。

「いや、それも微妙に違っててさ。成虫源基以外の幼虫の体は、春香ちゃんが言ったみたいにどろどろに溶けて、成虫源基を成長させる栄養分になるんだ。だから、栄養分として分解・吸収されて成長の糧になる事を再構成と呼ぶんなら、体が溶けて再構成されるという表現も間違いとは言えないわけ。」

春香は、初めて聞く『成虫源基』という言葉を瞬時に検索し、概ね納得して、呟く様に言った。

「ふうん。じゃあ、その成虫源基を通じてアイデンティティが保たれるんだ。」

永田は、皮肉な笑みを浮かべた。

「もう、そこは解釈の問題だよね。幼虫の段階では何の機能も果たしていない成虫源基に、幼虫時代のアイデンティティが担えるのかどうか。むしろ、幼虫から見れば、寄生されている成虫源基によって消化・吸収されてそのアイデンティティが乗っ取られるという事なのかも知れないよ。」

それは、二人にとっては全く意外な解釈ではある。

「まあそもそも、昆虫がアイデンティティと呼べる程の自己認識力を持っているかどうか、という疑問もあるけどね。」

そこで一旦話が途切れたので、春香が話を元に戻す事にした。

いつまでも現実逃避していたら、困るのは加藤と永田の二人なのだ。

「まあ、そんな事は置いといて、今月ももう一週間過ぎたけど、お仕事の話が来ないわね。」

二人はその言葉に、ギクリとして黙り込んだ。

「いつまでもパパや社長さんに頼りっきりって訳にもいかないのよ。そろそろ、営業の仕方を考えてみたらどう?」

ネットワークという情報の大海をバックに持つ春香は、見た目はローティーンの少女だが、探偵業務の下調べから経理まで凡そ駆使出来ない技術は無く、事務所の実質的な切り回しは全て彼女がやっている。

むしろ『所長』の加藤と『副所長』の永田の仕事の実態は、ディスプレイから出て来る事が出来ない春香の『助手』に近いとも言える。

「永田商事の顧問料だけじゃ、ここの家賃とあたしの電気代しか出ないんですからね。」

ディスプレイの中でそう言う春香の顔には、ローティーンの少女には不釣り合いな、いかにも漫画に出てくる経理畑のオールドミスが掛けていそうな縁が吊り上がった眼鏡が掛かっていた。

春香に眼鏡は必要無いので、それは、少しでも深刻さを紛らそうという彼女なりのユーモアであろう。

しかし、いくら冗談めかしていても、その指摘は二人にとって耳が痛い物である事は間違いない。

その時、唐突に電話が鳴った。

呼び出し音が2度響いて鳴り止むと、ディスプレイの中で春香が受話器を取り上げていた。

「はい、こちらカトナガ探偵事務所です。」

電話の向こうで何やら口ごもる気配があり、三人は辛抱強く待っていた。

ここに掛かってくる電話の大半はセールスか請求であり、こちらが受話器を取った途端に立て板に水の勢いで用件を捲し立てて来る。

それに対して、ごく希に掛かってくる仕事の依頼は、多くの場合、電話が繋がったその瞬間でもまだ相手が躊躇い続けている。

だからそれを逃がすまいとすれば、決心が着くまでひたすら待つしかないので、こういうシチュエーションには慣れているのだ。

特にこういう相手は、少し驚いただけで思わず電話を切ってしまうので、春香なら最初の呼び出し音が鳴る前に電話を取る事だって出来るのだが、2コール待つ様に指示してある。

やがて、不安そうな声が流れてきた。

「あのぅ、荒川先生に相談したら、こちらを紹介されたんですが・・・」

一呼吸おいて、春香が尋ねる。

「そうですか。どのようなご相談でしょうか?」

「ええと、その・・・」

声を聞く限りでは、かなり若い女性の様だ。荒川先生の紹介というからには、学生なのかもしれない。

探偵事務所に電話するのは初めての経験だろうから、すらすらとは行かないであろう事は容易に想像出来る。

やがて、電話の向こうで絞り出すような声がした。

「彼がいなくなったんです。」

「そうですか。それはご心配でしょうね。本日はたまたま所長の手が空いております。こちらで直接お話ししませんか?」

優しげなその声に、ほっとした様子で相手は言った。

「わかりました。じゃあ、そっちに行きます。」

「道順は判りますか?」

「え、ええ。先生に聞きました。」

「今どちらに居られますか?」

依頼人は、荒川が教鞭を取っている大学の最寄駅の前に居ると説明した。

「それでしたら、ここまで二十分くらいで来れると思いますので、三十分後にこちらで。」

「よろしくお願いします。」

心細げな声と共に電話が切れた。

「さぁ、仕事よ!」


スタインリッジは、最近配属になったジョージ・デサリーヌ中尉の後ろ頭を見ながら、ぼんやりと考え事をしていた。

情報畑で生きるには、ちょっと意外かもしれないが、かなり強靭な倫理観が必要となる。

特に、この業界を定年まで無事に歩ききるには、それは必須の資質である。

この仕事は、ややもすれば不正に引きずり込もうとする誘惑が目白押しであり、しかも、その実行へのハードルはごく低い。

ただし、政府もそんな事は百も承知なので、何重もの鑑査システムが(見える物も見えない物も)構築されており、不正に手を染めておいてそれを隠しきるのは、まず不可能であるが。

では、それが有効な抑止として機能するかと言えば、必ずしもそうはならない。

と言っても、誘惑に目が眩んでその危険が見えなくなる訳ではない。

その程度の頭では、そもそもこの仕事は勤まらない。

では、何故手を出してしまうのかと言えば、キャリアを全て棒に振っても引き合う程の利益が見込まれるチャンスがざらに転がっているからである。

そして、一旦不正に手を染めた人間を、政府は絶対に信用しない。

だから、そういう人間は、順次ドロップアウトしていく事になる。

結局のところ、不正に手を出さず定年まで勤めあげるには、並外れた自制心が必要であり、それを現実の物とする為には、強力な倫理観が求められる。

そして、その強力な倫理観を支えるのは、愛国心による裏打ちなのだ。

スタインリッジがこの世界に入った頃は、軍の諜報部だけでなく、FBIもCIAも、白人ばかりであった。

愛国心とは、詰まるところ現時点での国内情勢を維持しようという欲求であり、そんな欲求はその国で支配階級に連なっている階層しか持ち得ない物である、少なくとも、彼を採用した上層部はそう信じていたし、それが当時の常識であった。

それは確かに間違っては居ないが、そういう階級的な要因を基礎とする愛国心は、ともすれば歪な優越感に立脚する偏狭さを伴う。

そこに人種的偏見が加われば、もう矯正不能ではないかとすら感じられる。

そこで、あらためてこの若者を見ると、彼は黒人(断じて『ニガー』ではない、『アフロ・アメリカン』だ)であり、本人によれば、祖父の代にハイチから新天地を目指して密入国してきた不法移民の三世という事だそうだ。

彼の祖父ジャンは、密入国後は屑拾いをしながら必死に息子のジャックをハイスクールまでやり、ジャックは配管工をしてその息子 (これがジョージだ)を大学までやろうとした。

しかし、その直前に資金が尽きてジョージは進学の夢を更にその(今はまだ居ない)息子に託さなければならないかと見えたところで、誰かが彼に、軍の奨学金の存在を教えた。

こうして、デサリーヌ家の三代に渡る夢である高等教育は、彼ら自身の努力の上に、国家が後援する形で為し遂げられた。

ジョージ・デサリーヌは、はじめの内は従軍経験を高等教育を受けるための便法と捉えて、規定期間(軍の奨学金を受けたら、卒業後はその分だけ軍に捧職しなければならない)だけの勤務で済ませるつもりだったそうだが、軍隊生活を送る内に、彼は思いがけないほどに軍の水があっている事に気付いた。

そして、この恩恵をあらためて見直して、軍は彼がその一生を捧げるに足る組織であり、国家にこの恩を返す事は男子一生の事業たり得ると考える様になったそうである。

そうして、人種的偏見とは全く無縁の愛国者が出来上がったというわけだ。

デサリーヌは、彼から見れば、実にバランスの取れた立派な軍人である。

タバコもやらず、深酒もしないし、その生命を国家に捧げる事に躊躇いもない、あえてその欠点を探すなら、経験不足による青臭さが少々危うさを感じさせる程度であろうか。

いずれ、軍隊は彼らの様な新しいタイプの愛国者達によって支えられて行くのだろう。

他のセクションの同僚達も、概ね同じ感想であった。

軍における旧いタイプの愛国者は、恐らくスタインリッジ達が最後の世代となるだろうが、それはそれで好ましいと言えるのかもしれない。


「私が所長の加藤です。」

そう言って差し出した名刺には、『サイバー問題は全てお任せ。安心と信頼のカトナガ探偵事務所』というキャッチフレーズが印刷されている。

「どうぞ、おかけ下さい。」

促されて女は、スッキリとした外観のソファに座った。

簡素なそのソファはル・コルビジュのデザインで、一セットの値段で高級車が買える代物である。

ここを開設するときに永田の父が、「こういうものを安くあげると、商売自体を安く見られてしまう。」と言って、揃えてくれた物である。

衝立を回って永田が、トレイにコーヒーカップを載せて出てくると、テーブルに置いてから加藤の横に腰を下ろした。

「ご相談の用件をお伺いして宜しいですか?」

女は、落ち着かない様子で辺りを見回してから、尋ねた。

「あの・・・電話に出た女の人は・・・」

加藤は、穏やかに微笑んで言った。

「彼女は、ちょっと買い物に出ています。」

女は、一瞬だけ不安そうな表情見せたが、やがて気後れがちに話し始めた。

「えっと、私は佐山典子と言います。荒川先生のゼミの卒業生です。それで・・・」

そこで、一旦口ごもったが、意を決した様に後を続ける。

「彼がいなくなったんです。」

「それは、連絡がつかない、例えば電話に出ないとか、そういう意味ですか?」

「それもあるけど、マンションにも帰ってないみたいなんです。」

「外から見て、という事でしょうか?」

「合鍵を貰ってるんですけど、部屋の中を見ても帰ってきた様子が無いんですよ。」

取り合えずこの情報だけでは何も言えない。

「彼も社会人ですか?」

「ええ。」

「彼のお名前と、差し支えなければお仕事について教えて下さい。」

「神田龍平といいます。NIITで、コンピュータの研究をしています。」

NIITとは、経済産業省の持つ研究機関の一つで、最先端の情報技術研究を行う機関である。

そこの職員でしかも研究職となると、相当優秀な人物であろう。

「いつ頃から連絡が取れなくなったんですか?」

「もう、二週間くらいになります。」

「マンションに帰っていないのも、その辺りからでしょうか?」

「たぶんそうです。」

次は、かなり聞きにくい事を尋ねなければならない。

まずは、一般論から入る事にする。

「失踪する前に、何か変わった様子はありませんでしたか?」

「何かって?」

「そう、例えば何か悩んでいたとか困っていたとか。」

典子は、軽く頸を捻りながら答えた。

「特に、悩んでいた様子はありませんでした。むしろ、研究に大きな進展があったといって、張り切っていました。あと、忙しくて疲れてた見たいで、眠い眠いってこぼしてました。」

まあ、それも変化には違いないが、失踪に結び付く可能性は高く無さそうである。

「そうですか。ところで・・・」

本題に入る前に、少し間を置く。

気になる所でさりげなく中断を挟む事で、相手を引き込むテクニックである。

駆け引きの得意な相手だと、かえって警戒されてしまうので逆効果になるが、彼女はそういう事に慣れていなさそうなので、行けると踏んだのだ。

期待通り、典子は思わず軽く身を乗り出して来た。

「彼が失踪する直前に、何か仲違いをした様な事はありませんか?例えばちょっとした口喧嘩とか。」

虚を突かれた風で典子は一瞬口ごもったが、既に話に引き込まれて心理的に前のめりになっていたので、そのまま深く考える前に答えた。

「いいえ。特に何もありません。」

もし、何か思い当たる節があれば多くの場合口にし難い話になるので、返事に間が空く物だが、ごくあっさりと答えたところを見ると、本当に見当が着かない風である。

依頼人が隠し事をしていない様子なのが判ったのは良いとしても、これではヒントが少なすぎる。

「神田さんの写真はお持ちですか?」

「はい。」

そう言って典子は、スマホを取り出した。

「お手数ですが、先程お渡しした名刺のアドレスに、神田さんの写真を何枚か送信して頂けませんか?」

「あ、はい。」

典子が名刺を取り出すと、加藤はその左肩に印刷されている二次元バーコードを指差した。

「これがアドレスです。」

典子はアプリを起動してアドレスを読み込むと、手馴れた様子で写真をメールに添付して送信した。

「ところで、お二人はどうやって出会ったんでしょうか?」

「彼は荒川ゼミの先輩で、明峰学園を卒業したあと帝都大学の院に進学しました。そしてそこから研究者としてNIITに入ったんです。」

なるほど、どうやってFラン大学の明峰からNIITに就職出来たのかという疑問が解けた。いずれにしても相当優秀だったのは間違いなさそうだ。

「それで、私が三年生の時にOBとしてゼミ旅行に遊びに来た彼と出会いました。彼は、本当に優しくて私の事を一番に考えてくれる人で、私を置いて黙って何処かへ行ってしまう様な人じゃないんです。最初のうちは、何となく頼り無い人みたいに見えたんですが、私が事故に遭って緊急手術しなきゃならなくなった時に、田舎から両親が出てくるまでずっと付き添って、面倒を見てくれたんです。特に、私は麻酔が効きにくい体質で、手術前後の痛い痛いって泣き叫んでいる間、ずっと側にいて手を握って励ましてくれた優しい人なんです。」

「お付き合いはどのくらいですか?」

「ええと、四年くらいになります。」

まずは、十分に気心が知れていて良い交際期間であろう。

「ところで彼は、NIITでどういう研究をしているか聞きましたか?」

典子は少し困った様な表情になった。

「その・・・コンピュータ関係の研究なんですが、良く解らないんです。」

これは、ちょっと気になる所である。

典子も荒川ゼミの出身なら、情報技術が専門のはずだから『良く解らない』というのは少々不自然だ。

「まあ守秘義務もあるでしょうから、詳しく説明してくれなかった、という所でしょうか?」

典子はきっぱりと頸を振った。

「いえ、そういう話じゃなく、けっこう詳しく教えてくれたんですが、あまり理解できなかったんです。」

教え方の上手さでは定評のある荒川のゼミ出身者が、情報処理関係の技術について理解できなかったとはどういう事だろう。

加藤の表情を読み取った典子は、説明した。

「ええと、何て言うか、やってる事は『四次元コンピュータ』の研究だって言ってましたが。その四次元っていうところが良く解らないんですよ。」

「四次元コンピュータですか?」

あまり聞いた事がない言葉である。

まあ、さしあたって今の件に関係は無さそうなので軽く流しておく事にする。

「取り合えず、その彼の部屋を見ておきたいんですが、明後日の土曜日は空いていますか?」

「え?あ、はい。空いてます。」

「では、彼の部屋の前で待ち合わせましょう。10時で良いですか?」

「はい。お願いします。」

その他必要と思われる話をざっくりと聞いた上で、そろそろ商談に入る事にした。

稼がなければやって行けないのである。

「ところで料金ですが、人探しという事で基本的には、一週間で15万プラス必要経費となります。もし、それ以降で追加の調査をお望みでしたら、週単位で一週間毎に人数かける10万円と必要経費です。まあ、よほど特殊な場合以外は一週間を越える事は無いと思いますが。」

これは、大体一週間あれば調査できるという意味であるが、もしそれで結果が出なかった場合、それ以上やっても恐らくは無駄だ、という含みもある。

その場合は、大なり小なり警察事案となるレベルの事態であり、その大半は対象者が既にこの世に居ない事を示している。

とは言え、不安に苛まれている依頼人に、現段階でそれを言うわけにもいかないのだ。

費用については、荒川にある程度聞いていた様で、典子は特に異を唱える事もなく受け入れた。


依頼人が帰ると、春香が言った。

「NIIT研究職の神田龍平、『高次元幾何学の情報処理技術への応用』チームだって。」

依頼人の話を聞きながら検索していた様だ。

加藤は、要領を得ない表情で永田を見た。

「話くらいは聞いた事があるよ。確か時間軸方向への移動技術の情報処理への応用とかいうやつだね。」

「時間軸方向への移動って、つまりタイムマシンって事?」

春香の問いに永田は頸を振る。

「もしかするといずれはそういう話も出てくるかもしれないけど、今のところ送れるのは電気信号だけで、しかも未来へは送れないし、過去方向も出発時点より遡る事は出来ていないはずだね。」

「それじゃどこへも送れないって事か?」

「まあ、そうかな。」

加藤が不審そうに言った。

「じゃあ、何の意味があるんだ?」

永田は、手を顎に当ててしばらく言葉を探していたが、やがて言った。

「光円錐って知ってるかい?」

春香はその言葉を瞬時に検索して理解したが、先回りせずに永田の説明を聞いてみる事にした。

「取り合えず話を簡単にするために、二次元の平面と直交する時間軸を想定して。」

加藤は、良く解らないまま言われた通りの物を想像した。

「で、ある瞬間に、その平面上の任意の一点が光ったとしようか。」

取り合えず頷く。

「そうすると、その任意の一点を中心にした光の輪が時間の経過と共に拡がって行くわけだね。」

まだ、加藤には何が言いたいのか良く解らない。

「ここでさっき、この平面には時間軸が直交していると仮定したろ。」

「ああ。」

「つまり、この世界で時間が経過するというのは、上に上がるという事なわけだ。まあ、下に下がるでも良いんだけど。とにかく二次元平面に直交する方向に移動する事を意味している。だから、『時間の経過と共に拡がって行く光の輪』は、単に平面上で拡がるのではなく、拡がりながら縦に移動するので、未来に向かって口を開いた円錐形になる。これが『光円錐』だよ。」

「で、それが今の話とどう関係してくるんだ?」

話が見えないまま焦れてきた加藤は、少し急かした。

「もし、この円錐の内側から外側に出ようとすると、円錐の表面を突き抜けなければいけない。つまり、円錐表面よりも浅い角度で移動しなきゃならないんだ。そして、この場合の角度ってのは『単位時間当たりの移動距離』つまり速度で決まるから、角度を浅くするという事は単位時間当たりの移動距離を大きくする、要するにスピードを上げる事だね。その一方で、円錐表面の角度は光速で決まる。つまり、光円錐から出るには、超光速を出さなきゃならんって事なわけだ。しかし、今のところ質量を持たない情報も含めあらゆる物で超光速を出す方法は見つかって無いんで、結果として光円錐の内外相互の移動は不可能、つまり互いに相手に影響を与える、言い方を変えれば因果関係を結ぶという事が出来ない、ある意味別の世界なのさ。」

「あ。」

加藤は、ようやく気付いた。

「て事は、二次元平面上で移動しながら時間軸上は出発点に居る、というのは、時間軸に対して垂直に移動する事で、光円錐から出る、要するに別の世界との通信ができる、という事か。」

「そういう事。といっても『別の世界』ってのは解釈上の問題なんであって、実質的には超光速通信だと考えた方が適切だけどね。」

「なんか凄そうだな。」

「うん。まあ、凄いっちゃ凄いんだけど、今のところ達成出来ている通信は、遠距離とはとても言えない。せいぜいマイクロメートルのオーダーなんよ。」

「マイクロメートルじゃあ、使い途が無いだろ?」

「それで、四次元コンピュータなわけでね。コンピュータ内部の情報伝達を行っているバスの長さは精々数十マイクロメートルだから、そういう意味ではマイクロメートルオーダーの通信だと言える。その一方で、量子コンピュータの実現によってコンピュータの演算速度は事実上無限になったわけだけど、そこから発生する膨大な情報が、コンピュータ内部のバスでサポートしきれる量を軽く越えてしまうんで、今のコンピュータの動作速度を決定するボトルネックは、CPUのクロック数じゃなくてバスの転送速度なのさ。そして、どれだけバスの改良で転送速度を向上させても、無限の演算速度から発生する情報量は無限だから、ボトルネックである事に変わりはない。だから、発信時点まで時間を遡る通信が出来れば、バスによる遅延は0になる。つまり、事実上動作速度が無限になるって事さ。」

「なるほど。つまり、現段階で可能な時間軸移動の現実的応用って事だ。」

「まあ、そんなところだね。」


羅扶は、少々苛つき始めていた。

彼は、人民解放軍の上尉(大尉)である。

今は、駐日大使館に所属しているが、いわゆる駐在武官ではない。

駐在武官とは、外交施設に軍を代表して駐留し、施設の警護と文官である大使達には出来ない軍事関係の交流を担当するポストであるが、日本クラスの国に上尉では貫目が足らないのだ。

だから、駐在武官としては、もっと階級が上の奴がいる。

とはいえ、羅扶はエリートなので、駐在武官ごとき(仮にそれが中校(中佐)であっても)に頭を下げる必要はない。

それに、彼は対日工作部の現地統括という重要かつ表立って名乗れないポストに就いており、式典や何やで表に出ては愛想を振り撒く駐留武官などやっている暇はないのだ。

その彼が、今まで根気よく各所に蒔いてきた種子の一つが、ようやく芽を出しそうな気配があり、ここしばらく上機嫌できた。

日本政府の研究機関であるNIITに清掃婦として潜入させていた部下が、中々面白そうな話を拾ってきたのが、その始まりであった。

毎度ながら、この国の情報管理の甘さには苦笑するしかない。

仮想敵国のエージェントが(国籍を台湾に偽装しているとはいえ)政府直轄の研究機関に雑作もなく潜り込めて、喫煙所や食堂で最新研究に関する噂話を拾い放題なのだから呆れる。

彼の国なら、漏洩犯と情報管理責任者は足に鉄球を繋がれて強制労働に就かされているだろう。

その元ネタは、ほとんど意味不明な雑談の断片だったが、部下の嗅覚に引っ掛かる物があった様で、報告として上がってきた。

羅自身もその意味を掴みかねたが、彼の部下の中でも特にお気に入りの女であった事もあり、その件に関する継続的な情報収集を命じた。

そして、ある程度集まった情報は、やはり意味不明ではあったが、これを本国の研究機関に送って、分析させてみた。

勿論、愚かな駐在武官などは通さず、彼の様なエリートだけが持つ特殊なルートを通してである。

手柄を横取りされてはたまらないからだ。

その回答は、もしかすると世界を大きく変えるブレイクスルーとなるかもしれない発見の可能性あり、であった。

ようやく彼の実力を本国に理解させる機会が到来したと、羅の胸は高鳴った。

ただし、それはまだきわめて曖昧模糊とした話だったので、見込み違いだったときに面目を喪う恐れを考えてしばらく様子を見守らせていたのだが、その内に問題の中心にいる男が失踪してしまったという報告が入った。

これは、由々しき事態である。

もし、他国に先を越されたのであれば、彼の怠慢とされるかもしれない。

遅ればせながら、何らかの行動に出るべきかもしれないと、考え始めていた。

まずは、間接的なアプローチを止めて、直接的な情報の収集を検討する事にした。


約束の時間に部屋を訪ねると、典子は既に部屋の前に立っていた。

一応念のために呼鈴を鳴らして見たが、応答は無かった。

典子はショルダーバッグから鍵束を取り出すと、手馴れた感じで鍵を開けた。

加藤は、促されて一礼するとドアをくぐった。

取り合えず框で靴を脱ぐ代わりに、ポケットから引っ張り出したビニール袋を靴の上から履き、続いて使い捨てのビニール手袋をはめる。

変に痕跡を遺すと、後で警察が入ってきた時に面倒な事になるので、仕事上の当然の注意である。

「人の家を汚すわけにはいきませんからね。」

怪訝そうな表情の典子に、苦笑しながら説明するが、あまり納得した様子はない。

手袋はともかく、靴の上からビニール袋を履く理由にはなっていないからだ。

そちらは、中に隠れている人間がいた場合に、襲撃を受けて緊急に退避するにしても逃亡する相手を追い掛けるにしても、靴を履き直す時間が致命的な遅れとなる事を避けるための心得なのだが、今それを説明して変に怯えさせても意味がない。

加藤は、ポケットからウェアラブル端末のゴーグルを取り出すと、掛けながら尋ねた。

「さて、前回と何か変わった様子はありませんか?」

典子はざっと部屋を見回してから言った。

「いえ、特には。」

「そうですか。」

そう言いながらキッチンに向かった。

彼が見ている物は、全てゴーグルによって録画されている。

冷蔵庫を開けて見た。

独身男性にしては野菜他の素材が多く、ラップのかかった惣菜の皿も見受けられる。

ただし、野菜は総じて萎びていた。

「彼は料理をするんですか?」

「いいえ。その皿は私が作った残りです。」

なるほど、合鍵を貰っている事も含めて、半同棲というところか。

冷蔵庫の中身を写真に撮りながら、更に尋ねる。

「何か増えたり減ったりしていませんか?」

典子は中を覗いてから頸を振った。

続いて、レトルト食品やカップラーメンが無造作に放り込んである棚を指して再び尋ねた。

「こちらはどうです?」

料理をしないなら、典子が居ない間に変化が起こるとすればこっちの方だろう。

典子はしばらく以前の状態を思い出そうとしている様子だったが、やがて頸を振った。

加藤は、その棚を写真に撮ってから、流し台へ向かった。

流しを覗くと完全に乾いており、水切籠に伏せられたマグカップにはうっすらと埃が載っていた。

水切籠を見て、更に埃の状態が判る様に、ゴーグルのカメラをクローズアップした。

「これは、あなたが洗ったんですか?」

「多分そうです。」

「最後に洗ったのはいつ頃ですか?」

「彼が居なくなる直前です。」

人が居なくなると、埃は驚く程の早さで積る。

埃は勿論空気より重いので、どんな状況であろうと下降する傾向にあるが、同時に、気流に逆らえる程の重さも無いので、人間が生活している事による気流の変化だけでも下降が阻害され、更には一旦落ちた物まで再度巻き上げられるので、目に見えるレベルまで溜まるには中々時間がかかる。

しかし、気流の乱れを起こす存在が居なくなると、重力に逆らえない埃は、どんどんと落下する。

外気との交換で補給されなければ、最初の一週間でほぼ全てが落下するのだ。

つまり、このカップが洗われてから、最低でも一週間以上は経過しているわけで、典子の言っている事は恐らく事実であろう。

小さな食器棚のガラス戸は開いたままになっており、来客用の予備と思われるカップと、インスタントコーヒーの瓶とシュガーポットが並んでいた。

その状態を撮った後でコーヒーの瓶を持ち上げると、蓋を回そうとした。

それは意外な程の固さであったが、力を加えると空気が流れ込む小さな音がして急に軽くなり、蓋が空いた。

中のシールは密閉されたままである。

コーヒーを元の位置に戻してシュガーポットに目をやると、周りの埃が僅かに光って見えた。

目を近付けて見ると、薄く砂糖が散っているのだった。

その状態をクローズアップで撮っておいた。

「あなたが最後に使った時には、コーヒーの残りはどのくらいでした?」

「彼が居なくなる前日にメールがあって、コーヒーが無くなりそうだと言われたんで買ってきました。その日はその残りで丁度足りたんで、空き瓶を捨てて、新品はそのままここに置いたんです。」

加藤がポットの蓋を開けると、砂糖は半分程になっている。

「砂糖の残りはこのくらいでしたか?」

「いいえ。だいぶ少なくなってたんで、飲んだ後で使いかけの砂糖の袋を全部入れたら、九分目くらいになりました。」

中の状態を写真に撮りながら尋ねた。

「それ意外に砂糖の袋があったりは?」

「あまりインスタント食品以外は買い置きとかしない人なんで、それ意外は無いと思います。」

減ったのは、目分量で軽く一掴みといったところか。

およそコーヒーに使う量ではないし、そもそもコーヒーは減っていない。

つまり、典子が最後に神田と会った以降で、砂糖だけが使われたという事だ。

続いて部屋の各所をゴーグルで記録しながら、変化の有無を順に確認する。

以前の状態を覚えていない場所も多かったが、少なくとも状態が変わっていると判断できる物は他に無かった。

一通り確認した後で、何か置き手紙の類いでも残っていないかと再度確認したが、それらしい物は見当たらなかった。

調べ終わったところで、全ての窓が内側から施錠されている事を確認すると、ポケットから補修テープを取り出した。

加藤は、こういう場合は基本的にセロファンテープではなくこちらを使う。

表面がつや消し加工になっているので、この方が目立ちにくいのである。

毛髪を一本ずつ抜いては窓の下隅に当てて、その両端を窓と窓枠にテープで固定する。

窓が開くとテープで抑えていた毛が抜ける事で、後でそれと判る様にするためだ。

「今日はここまでにしましょう。」

そう言うと、典子は不承不承ながら頷いた。

加藤は、ドアの前で頭に手をやりかけたところで典子の方に向き直ると言った。

「申し訳ありませんが、髪を一本頂けませんか?」

典子は怪訝そうな表情になったが、一本抜いて渡した。

加藤はしゃがみ込むと、その一端をテープでドアの内側に貼ってから典子を促して外に出た。

ドアの外で再びしゃがみ込むと、閉まりかけのドアを肩で抑えつつその隙間から手を突っ込んで、もう一端を内側の壁に貼り付けた。

この作業は外からしないと意味がないので、半開きの状態で貼らなければならないため、髪は長い方が都合が良い。

典子の髪は、ショートカット気味ではあるが加藤より長いのだ。


典子と別れて事務所に戻ると、加藤は春香に尋ねた。

「どうだ、何か気付く事があったか?」

ゴーグルは、記録手段であると同時に春香の目でもあるので、WiFiが有効な場所ならどこでも春香は、リアルタイムにその映像を見る事が出来るのだ。

「砂糖が零れて居るのは気付いた?」

「ああ。」

「砂糖は、埃の『上に』載っていたでしょ。」

虚を突かれた加藤は、思わず問い返した。

「え?そうだったか?」

ディスプレイに新しいウィンドウが開き、シュガーポット周りをクローズアップした動画が表示された。

画面が静止し、その砂糖のこぼれている箇所が拡大される。

確かに砂糖の粒は薄い埃の上にあり、その上には埃が載っていない。

これはつまり、砂糖を使った誰かは、部屋が一旦無人になって一週間以上経過してから部屋に入った事を示している。

侵入者を探知するための髪の毛の仕掛けは、探偵としてのたしなみ程度の物であり特に何か当てがあってした事では無かったが、もしかすると今後何か意味を持ってくるかもしれない。

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