躍進距離五〇歩
すさまじい音とともに地面がえぐれ、地面を跳ねる砲弾がアルの頭上をかすめる。
戦いは申し合わせたように両軍の砲撃で始まった。
ブーンと大きな羽虫が飛んできたような音に堡塁の中の兵士達はみな震えていた。幾度と無く大地を震わせる砲弾は、ただそれだけで兵士達から平常心を奪っていく。
砲撃は数分間続いたが、あるときピタリと止まった。静かになっていく戦場に馬の蹄の音がわずかに響いた。
アルは胸壁に積まれた土嚢の隙間から前の方を伺う。敵の騎兵が二騎、ゆっくりとこちらに近づいているのが見えた。
軍使の目印である白い旗を持った男が一人、士官風の男が一人だった。
両軍が見守る中、その士官風の男は一体身体のどこから出てくるのだろう、とう言うほどの大声で言った。
「星の恩寵によるラゴール人の王にして知恵と理性の守護者、ロベール十五世陛下の名代にして、ウトラメール植民地総督エティエンヌ・フランソワ・ルゴー・ド・ヴェラネ閣下の言葉である――」
そこで息を使い切ったのか、男は言葉を切ると真っ赤な顔で続けた。
「アングリア王国の紳士ならびに兵士諸君、私は諸君らと砲火を交える栄に浴し、喜びを禁じ得ない。諸君らの勇敢な戦いぶりには、後の世にも賞賛の拍手が鳴り止むことはないだろう。そして先の諸君の忠勇極まる働きによって、アングリア女王の名誉は既に守られた。これ以上の流血は理性の時代にあってはあまりに悲劇的で、ロベール国王陛下の御心に沿うものでも無い。今こそ名誉ある降伏を!」
アルは耳を疑った。まるで攻囲戦も最終段階といわんばかりだ。一瞬の沈黙の後、各堡塁からは笑い声が一斉に湧き上がった。
「なめられたものだな。ま、逃げられるなら逃げたいさ」デイヴが塹壕の後ろを見て言った。
胸壁の通路はは二人の軍曹がガッチリと見張っており、逃げ出そうとするものがあれば切りつけようと見張っていた。
「たった数発の砲撃で敵は降伏、か。ラゴール貴族の考えそうな事だ」
「それで、まさか降伏するんじゃないだろうな」
ゴロゴロと重いものを引きずる音がした。堡塁に据え付けられたカノン砲をマーロウ大隊の男たちが動かしている。
「へへへっ、あいつらぶっ殺してやるぜ」
正規の砲兵は隅に押しやられていた。彼らは勝手に狙いを馬上の二人に狙いを定め、火縄のついた竿を火門に押し付けた。
突然の轟音と赤い炎を吹いて砲が唸りを上げた。砲弾の狙いはかなり逸れて、二人の騎兵の脇に着弾した。彼らの馬が驚き、その場で数回飛び跳ねた。
これが芝居がかった降伏勧告に対する簡潔な返答となった。騎兵はこれ以上は無用とばかりに急いで自陣に戻ると、それに前後してラゴールの陣地が急に騒がしくなった。
「始まるぞ、相棒」アルはそう言うと傍らの男を見やった。
「初めて相棒って呼んだな」彼は目を見張っていた。
太鼓と横笛の音が、命令の声が響く。敵は見事な手際で縦隊から横隊に隊形転換した。整列が終わって、一旦太鼓の音が途切れる。それに前後するように、敵陣後方がチカチカと数回光った。
「大砲だ! 来るぞ!」
アルは土嚢から顔を離すとその場に伏せた。今度は正確な狙いで堡塁をめがけて飛んできた。堡塁の土が鋼鉄の球形弾を受け止める。
着弾と同時に強い衝撃が走り、揺れるペンダントがアルの胸をくすぐった。
昨日、悪態をついて掘ったこの穴と分厚い壁が、今は何よりも心の拠り所だった。
砲撃がやみ、巻き上げられた土がパラパラ降る。その音に混じって聞こえてくるタンタンタンというリズムのある音。
それはやがて音の厚みを増して徐々に近づいてくる。アルは土嚢の隙間から再び覗いて戦慄した。
敵は一歩ずつ着実に近づいてきた。訓練された動きは九二連隊にも劣らない。
平原とは言え起伏のあるこの土地を列を乱すこと無く前進するのは高い練度の証だ。
彼らは白い軍服に身を包む。折り返した襟と袖は海のような深い青。
「海兵団だ!」民兵の誰かが叫んだ。
アルも密猟をしていた時にその存在は知っていた。半島入植初期からラゴール側の重要な港や国境を警備していた彼らは、元々、狭い船の上で戦うために訓練されいた。その為、森の多い半島ではその高い接近戦能力を遺憾なく発揮して恐れられていた。
さらに大元が海軍の彼らは戦列を組んでの戦いに縛られることなく、時には散開して柔軟に戦う精鋭兵だった。
浮足立つ民兵たちにマーロウは叫ぶ。
「怖がるな! 堡塁に居る限り敵の弾はほとんど当たらない」
至るところで太鼓の音が鳴り、それに砲弾の飛び交う音が交じる。マーロウは砲兵にカノン砲に応射するよう命じた。
放たれた砲弾はラゴール兵数人をなぎ倒し、敵戦列に穴を空けた。だが、その隙間をすぐに後方の兵士が埋め、敵の前進は止まらない。
背の低い堡塁のお陰で敵の砲弾はほとんど当たらずに頭上をかすめていった。アルも最初は砲弾が飛び去る時の不気味な音に心臓を掴まれたような心地になったが、それも次第に慣れてきた。
堡塁からの射撃は横隊射撃よりは効率が悪いだろう。だが堡塁の防護効果がそれを補って、最終的に敵にかなりの出血を強いることは間違いなかった。
「砲撃も案外当たらないもんだな」
突然マーロウに話しかけられ、アルは驚いて気をつけの姿勢を取ろうとした。マーロウはそれを片手で制すると独り事でも言うように続けた。
「この堡塁に居る限り俺たちは大丈夫だ。この堡塁は穴を掘って土を盛ってあるから、外から見た高さはかなり低い。敵も狙いをつけるのは難しいだろう。少しずつ減らして諦めさせればいい」
「そのとおりです、大尉。どうして俺に話すんで?」
「待ち伏せは好きだろう? 密猟者」
「私もだ」
伝令の早馬が一騎、砲撃をものともせずに堡塁の方へやってくるのが見えた。義勇騎兵の兵卒が堡塁に入ると、マーロウに敬礼して紙切れを手渡した。
「サー・ジェイムズからの命令です」
「彼が? 全く、何時から歩兵も指揮するようになったのやら」マーロウは皮肉に顔を歪めながら紙を開く。内容に目を通すと彼の顔から笑みが消えた。
「本気なのか? 正気とは思えない」
「『堡塁から五〇歩前進し、敵を攻撃せよ』だと?」
「はい」
「堡塁から出ろ? 自殺行為だ」
「しかし……、命令です」
「正規の命令系統に反してる。今の私は彼の指揮下にはない。ハートレイ中佐か、マクルーアン総督かを説得しろと伝えておけ」
伝令はなんとも言いがたい顔をして馬に戻っていった。マーロウはいらだちを隠すこと無く、拳を土の壁に打ち付けた。