泥だらけのネズミ
「作業が遅れているのは……、ヘクター堡塁か。マーロウ大隊が作業している南側の遅れが心配だな」フォン・パウケンシュラーク少佐が声を上げた。
「あるいは百年後に完成するのかもしれませんな。この調子だと」
「ハートレイ中佐、冗談にならんからやめてくれ」
マクルーアンは皮肉か冗談かわからないハートレイ中佐の言葉にやきもきしているようだ。
「さあ、明日の主役のご登場だ」
彼らを待っていたのは赤い制服の集団。九二連隊の連隊旗を中心に三列横隊で整列していた。
正規兵の九二連隊兵はあえて堡塁には配置せず、予備戦力として敵の攻撃で弱まった部分の戦力の補強や、反撃の際の主力として温存することになった。
「捧げ――銃!」
マクルーアン達が隊列の中央に来ると、完全装備の兵士達はドラムと士官の号令とともに一糸乱れぬ動作で最高司令官に敬意を表わした。
馬上の将校たちは帽子をとってそれに答える。マクルーアンの帽子が頭に再び収まるや、再び号令が下り、兵士達はマスケット銃を肩に担ぎ、気をつけの姿勢をとった。
隊列を監督していた若い大尉が一人、マクルーアン達の馬に近づいてきた。
その大尉が査閲の準備が整った事を報告すると、最高司令官のマクルーアンは軽く帽子に手を当てて彼の敬礼に答えた。それを合図に周りの将校たちは馬から降りると、先ほどの大尉に従って査閲を始めた。
九二連隊の二つの大隊は二十人ごとに横一列に並び、人が通れるだけの間隔を空けて整列した。
マクルーアンたちは一列、一列順繰りに兵士を見て回った。赤い軍服を来た兵士達は一様に正面よりやや高い位置を見上げるように顔を少し逸らしていた。
将校たちはまるで時計や宝石を品定めするかのように、兵士達の装備の手入れの状態、靴の磨き加減、銃の発火装置が汚れていないかを見て回った。
アニエスは兵士達に適度に声をかけつつ、早くアルに新しい情報を伝えたい一心で堡塁の方をちらちらと伺っていた。
「文句なしだな、大尉」歩きながらマクルーアンが言った。
「フォン・パウケンシュラーク少佐の訓練のお陰です、閣下」大尉はとても神妙な顔つきで答えた。
「少佐の行進速度と歩幅に対するこだわりは話に聞いているぞ」
「練兵場のサーカス団長と揶揄する者もいるがね」
「この隊は一分間に何発撃てる? 大尉」
「一分間に三発です、閣下」
「戦場では二発だろうな、それでも十分だが」フォン・パウケンシュラーク少佐が補足して答えた。
「ラゴールは白兵戦が強いからな、突撃前に一人でも減らしておけるに越したことはない」
九二連隊の査閲は問題なく進んだ。兵士の士気は高く、ほとんどの兵士がマクルーアンの質問にもよどみなく答えていた。マクルーアンを始め、将官達は満足したようだった。
「彼らは金槌と鉄床でいうなら、金槌だ。民兵で抑えて、九二連隊が叩く」
「我々の持ちうる中で最も扱いやすい金槌と言っていいでしょうな」
「それでは次は鉄床の方だ」
鞍にまたがりながら、マクルーアンは言った。彼らが目指す次の場所は丘の上、そして構築中の各堡塁だ。副官や参謀を含めると三〇人くらいの馬の集団が堡塁から堡塁へ移動する様は非常に目立った。
どの堡塁でも、マクルーアン達が現れるたびに民兵たちの中から大きな歓声が上がった。
堡塁を悪戦苦闘しながら掘っているのはグレートティンバーの民兵たちだ。
決まった制服の無い彼らが、こうして土木作業に従事している姿は普通の農家の男たちにしか見えない。だが彼らは熱心に堡塁の建設を進めていた。
「嫌がらずによく働いてますな」関心した様子でハートレイ中佐がマクルーアンにいった。
「街を守るために自ら志願した連中だ。ムチを打たなくても済むから効率がいい」
この手の地味な野良仕事を一般的な兵士は嫌う。
少しでも矜持のある兵士は、銃を撃ち、刃を振りかざすのが自分たちの仕事で、それ以外は本業ではないと考えるのが一般的だった。そういう事情もあってマクルーアンは九二連隊を堡塁の作業に加えなかった。
民兵の装備は見るべくも無いだろう、身長も年齢も、服の色もそれぞれ違う。全体を見れば茶色い集団に見えるが、それは志願した彼らのほとんどが農民か開拓者だからだ。そして白髪交じりの年老人の隣に、ひげも生えていないような青年が並んでいる。
中にはバーンズビーの村人たちも何人かいて、アニエスを見つけると無邪気な笑みを返す。それが彼女にとって嬉しい半面、彼らが明日どれだけ帰ってこれるか心配でならなかった。
民兵は誰もが緊張していたが、話しかければ笑顔になった。中には開戦前、先住民との小競り合いでの武勇伝を滔々と語る者までいた。
そのせいもあって、アニエスは出来るだけ彼ら全員に声を掛けるようにした。彼らの中の一体何人が帰ってこれる分からないのだ。
「見た目以上の活躍を期待してもいいかもしれんな」マクルーアンも彼ら、急ごしらえの民兵隊に感心しているようだった。
「どうだい? 立派だろう。ここは女王陛下の宮殿にだって負けやしないさ」
「ワシらはタバコなんかより先に銃の扱いを覚えるんじゃからな! 兵役数年のラゴール兵なんぞに引けをとらんぞ!」
マクルーアンの目の前で、彼の父親くらい年老いた兵士が気勢を上げる。
「そうだな、ご老人。この土地を切り開いたのは間違いなく我々だ。過酷な自然の脅威を退け、森林を切り開いて村を作った。冬を耐え、春が来て村は街になり、そしてナレッジヒルは都市になった! 他の誰の手にも渡してはならない!」
マクルーアンの言葉に年寄り連中を中心に歓声が沸き上がった。マクルーアンは人を乗せるが上手いな、とアニエスは思った。
将たるものに必要な素質、それは明晰な頭脳や、的確な戦術眼だけではない。人を、兵をその気にさせなければ彼らは動かない。
そして逆に、命令に従うことを絶対と教えこまれた兵士達は、強力な指導者を必要とするのだ。
堡塁の視察も終わりに近づく。最後はマーロウ大隊のいるヘクター堡塁だった。こればかりはどうしようもないと、アニエスと共に歩く将校たちの足も鈍った。
アニエスは彼らがどんな集団かということは聞いたが、それは大した問題ではなかった。彼らに近づく事は不快ではあったが、アルに合わなければならない一心で足どりは速くなっていった。アニエスは作業を続ける民兵達の中からアルを探そうと視線を走らせたが、外から堡塁の中を直接覗くことは出来ず、胸壁を越えて堡塁の中に飛び込むしかないようだった。
アニエスが胸壁に手を掛けるとハートレイ中佐が引き止めた。
「ロタラン中尉、彼らには迂闊に近寄らないほうがいい」ハートレイ中佐は追いかけるように耳打ちした。
「わかっております中佐」
「本当に? あまり私情を持ち込まないでくれたまえ」
アニエスは何も言えなかった。ハートレイ中佐は少し悩んでから、自分の娘に接するかのようなの優しい声で小さく囁いた。
「彼に会うなら、ここに呼んでもらう方がいいだろう。連中もそれくらいのそれくらいの気遣いは出来るはずだ」
「え、ええ。そうします」初めて聞いたハートレイ中佐のそんな声にアニエスは驚くしかなかった。
「よろしい。では続けたまえ」ハートレイ中佐は階級を意識した口調に改めた。
堡塁の脇ではマーロウ中尉が気をつけの姿勢を保っていた。アニエスが近づくのを見つけると、敬礼し、表情らしい表情も作らずにアニエスを迎えた。
マーロウはパケナムの部下であるにもかかわらず、そのことを全く意識してないのではないかとすら思える節があった。現に先日の会議に出席した時も、パケナムを擁護するような発言をしなかった。
ならず者の集まりの大隊を、彼のような捉えどころのない人間がどうやってまとめているのかアニエスは疑問ではあった。
とにかく今は私の方が階級は上、なめられてはいけないと姿勢を正す。
アニエスは制帽に手を触れて彼の敬礼に答えると言った。
「そちらにアルヴィン・ウォーデンという兵卒は?」
「さあ、彼がどうかしましたか?」 マーロウは初めて名前を聞いたかのように答えた。
「彼と話がしたい」
「失礼ですが閣下、ウチの兵卒とは話をされない方がよろしいかと」
「なぜです、先程も民兵と話してきましたが?」
「いや、分かりました……、軍曹! アルヴィン・ウォーデンという男の所へ案内して差し上げろ」
そばにいた軍曹が大声で了解を告げると、アニエスを連れて列へ入っていった。大隊の兵士達は女の指揮官という存在に興味津々で、大半が見ていて気持ち悪くなるような笑みを浮かべていた。
マーロウはそのままパケナムの馬が居る方へ去った。間を置かず、群がる兵士達の中から低い背の見慣れた顔が見えてきた。少し痩せただろうか、きっと顔についた泥がそういうふうに見せるのだろう、彼はついさっきまで地面を掘っていたのだがら。
「どうぞ、閣下」軍曹が道を空けた。他の兵士が邪魔しないように抜身のサーベルを手にあたりを警戒してくれている。
アルはアニエスの顔を見ると驚きと困惑の表情を浮かべた。
「……外が騒がしいと思ったら、アニエスか」
「アル、ずいぶんと汚れてるわね。まるで死人みたい」
「だけどまだ生きてる」アルは無理におどけるように言った。アニエスも冗談半分に笑った。
「キアラは元気か?」
「ええ。今は村長が街の中で面倒を見てくれているおかげでだいぶ落ち着いてきたわ」
「村を出たばかりの頃は自分一人で戦う勢いだったからな。それを聞いて安心した」
キアラに戦場は似合わない。例え並の男より射撃が上手かったとしても、彼女の心はまだ回復していない。
アニエスは近づく馬の蹄の音に気づいて、とっさにアルから顔を離した。二人の目の前にはあのパケナムがいた。
「失礼。旧知の友との再開を邪魔してしまったようだ。いや、逢引きかな」馬上からパケナムの押し殺したような笑いが降ってくる。
アルは極力無視しようと努力したが、意外にも普段冷静なアニエスはそうすることが出来なかった。
「あなたは一体誰の味方なの? こんな犯罪者ばかり集めて武装させるなんて」
「合理的だろう? こんな連中でも弾除けの壁ぐらいにはなるからな」
「それで合理的だと思っているなら最低だわ」
「そう目くじらたてなさんな、これでも連中は恩赦と引き換えに戦列に加わったんだから」
「彼らが望んで兵士になったとでも?」
「そう。自らの罪を悔い改め、女王陛下への忠誠をもって贖罪とする!」
パケナムは役者のような気取った手振りまで交えて熱弁をふるう。
「女王陛下に奉仕するチャンスを与えたのだ。感謝されてもいいくらいだ」
「アルを開放しなさい!」
「明日はもう戦いだ! 今更蒸し返されても目の前の男はどうにもならないぞ!」
そしてアルの方へ向き直ると「いい働きを期待しているぞ」と投げかけ、馬を取って返した。
「まって……!」なおも食い下がろうとするアニエスの腕を引き止めたのはマクルーアンだった。
「兵が動揺する、彼の言うとおり戦いはもうすぐ……」
だが、引き止めたマクルーアンはアニエスのわずかな異変に気づくと、力が抜けたように腕を離した。
アニエスは震えていた。離れ離れの仲間、まとまらない味方同士、差し迫った戦い。何一つ好転しないこんな状況で、明日すべてを成功させることが出来るとは思えなかった。
アルもまた明日の戦闘に生き残れるかどうかすらわからなかった。使い慣れた道具も奪われて、粗末な武器をあてがわれた今のアルはとても弱い。
「アニエス……」
不安が支配する中、丘の方から乾いた砲撃の音が響き、その場にいた全員が丘の方を振り向いた。
「砲兵隊が発砲しているぞ!」
ハートレイ中佐は部下に望遠鏡を催促すると、すぐさま手にとって砲弾の飛んだ先へ向ける。アニエスも自らの望遠鏡を取り出すとそれに習った。
マクルーアンがハートレイの望遠鏡をひったくると、川の対岸を見つめた。
「軽騎兵の斥候だ、畜生。戦いは明日で間違いない!」マクルーアンが毒づくと、望遠鏡をハートレイにつき返した。
アルには北に流れる小川の対岸に米粒ほどの騎兵が群れているのが見えた。砲弾は騎兵のかなり手前の川に落ちて数本の水しぶきを上げている。
「こっちにも見せてくれ!」
「斥候だな」アルはアニエスの方を確かめる。アニエスは望遠鏡を手にしたままレンズに映るものが信じられないと言うように目を見開いていた。
「どうした、何が見えた?」あまりのアニエスの表情にアルも動揺した。
アニエスは唇を震わせ、望遠鏡をアルに渡した。彼も同じように望遠鏡を覗きこんだ。
ドスタンが馬上でこちらを見据えていた。
「まさか!」
こちらが見えていると言わんばかりの視線だった。
驚いてレンズから目を離したアルにアニエスがさらに驚くべき事実を告げる。
「彼はこちらに向かってしゃべっているわ」
「何だって?」アルは再びレンズの向こうを見る。
ドスタンの唇が確かに動いていた。唇の動きだけだが確かにこう読めた。
『取られたら取り返せ』
何度と繰り返すドスタン。
その言葉示すものはキアラの身事か、それともアニエスの聖槍か。おそらく両方だろう。そんな下らない言葉遊びで二人を煽っていると知ったアニエスは悔しさに顔を歪めた。
初の獲物相手に勇み立つ砲兵隊は、攻撃の手を緩めなかった。しばらくして砲撃の第二波が降り注ぐ。
初弾の誤差を修正した正確な射撃が軽騎兵たちを襲う。
ドスタンはしぶきと土煙の中、微動だにしなかった。そうする必要が無いと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべたままだ。
砲弾は彼らの頭上に降ること無く、物理法則をねじ曲げたとしか思えない軌道描いて消えた。
アルは悪い予感がして、望遠鏡を走らせる。
ドスタンの傍らの旗手が持つ軍旗いた。
その旗竿の穂先が陽光を受けて異様な光を放っているようにアルには見えた。
「ね、これでわかったでしょ。私が言ってることが本当だって」
「ああ、なんて大胆なやつだ」
「大胆? 彼の言葉を見たでしょう? ドスタンは私達には無理だと思っているのよ」
アルはキアラの生存について確証を深めていった。だが助けだすというのはまた別の話だ。こんなに敵は強大なのに、一体どうすれば。
小競り合いを見ていた士官や将校は目の前で繰り広げられた光景を未だに理解できずにいた。砲兵が騎兵に対してかすり傷ひとつ付けられないなど、命中率だけでは説明がつかない。
「どうなっている?」
「砲兵隊め! 何をしてるんだ!」パケナムが気炎を上げた。
「彼らは悪くない、何かがおかしい」
疑問を口にするが原因が分からない不気味さが尾をひいた。このような戦場伝説は兵士にいい影響を与えないと、彼らは思っていた。
砲撃が再び止むと、ドスタンの部下たちは素早く手にした地図に地形や敵の陣地を書き留めた。彼らは手早く作業を終えると、三回目の斉射が行われるよりも先に軽々と引き上げていった。
「総督、今すぐ追撃すべきだ」怒りも冷めぬままパケナムが進言する。
「無駄だ。距離が離れすぎている」
「それではこちらが馬鹿みたいじゃないか」マクルーアンはパケナムの言葉を無視すると、部下に命じて言った。
「砲兵隊にも弾の無駄だから会戦までは発砲を控えるように言え。まったく、連中はおもちゃがあれば使いたくなるのは分かるが」
「敵に大砲の数を教えたようなものだ」
「明日は難しい戦いになりそうだ」
「それはもとより変わらないだろう」ハハ、と笑ってマクルーアンは馬に乗った。
砲撃はやみ、しばしの静寂が戻ってきた。この小競り合いは陣地にいたほとんどの人間が目にしていた。
アルの問いかけにアニエスは無言で彼の元を去った。彼女は他の士官と共に従卒が引いてきた馬に乗ってテントに帰っていった。