森林官の娘
道なき森の樹木の間を一人の男が掛けてゆく。人が通れると思えないような藪のなかでも、瞬時に足場を決めて狐のように駆けていく。
走れ、走れ。
アルは薄暗い山林を走りながらただそれだけを考えていた。担いだ銃がブラつくことが無いようにしっかりと左手で押さえる。
罠がバレた! 今日はなんてツイてないんだ!
「密猟者ァ、出てこい!」野太い声が森に響く。
バージルの声だ、アルはつくづく運の悪さを呪った。今自分を追っているのは猟師の中の猟師、森林官のバージル・ファーガソンだ。
予定外の人助けの後に待っていたのは災難だった。獲物から罠をはずしている所を巡回中の森林官にを見つかってしまったのだ。
森林官は問答無用でアルを撃ってきた。最初の一発は持ち前の機敏さでなんとか避けた。だが、逃げるので精一杯になるあまり、獲物を置いてきてしまった。
もちろん、獣人の毛皮もそのままだ。
大金を得るチャンスを棒に振った怒りに身を任せて、アルは森の中を鬱蒼と茂る木々を、大きく張った樹の根を飛び越える。
もちろん、黙って捕まる気はアルには毛頭ない。
この辺りは良く知った土地で、平地と変わらない速さでを駆けまわれる自信が彼にはあった。
獣道に合流したアルは足元の珍しい足跡に目に留まった。
アルは歩みを止め、注意深く観察した。
(靴を履いた人間、小さい足だな)
足跡は少し先の小川まで続いているようだった。これを利用しない手はないと、アルは続く足跡を追った。
しばらく行くと川のせせらぎが聞こえてきた。川を伝っていけば、足跡もにおいも残さずに逃げられる。相手が犬を使っている場合は特に有効だ。
河原の方から物音がするのが聞こえた。アルはとっさに身を屈め、草むらに隠れた。
草の間から覗く。一瞬、何かが遮った。
姿は高い草から一瞬見えただけだったので背格好はわからない。
危険を感じたアルは殺気を気取られぬように、銃の撃鉄をゆっくりと起こす。
バージルか、あるいは最近この辺りをうろつくようになった、商売敵のラゴール人猟師か。いずれにせよ、銃を手に取る理由は十分だ。
手に毛皮のような物を持っているようだが、同業者のようには思えない。
(何かよくわからないな。こうなったら……)
このままでは今日の収獲はゼロ。無駄に人助けをしたせいで腹も減った。ここいらで取り返さなけりゃ、明日もまともに飯を食える保障もない。
アルは意を決すると、草をかき分けて一気に河原へ飛び出した。
「動くな! その毛皮をこっちによこせ!」アルは野盗同然に喚いて銃を構えた。
「ひゃわわ」
裸の少女がそこにいた。肩まで伸びた髪が水に濡れてキラキラと輝いている。
恐怖と驚きに泣きそうな表情を浮かべた彼女にアルには見覚えがあった。
――というよりは見飽きたと言うのが正しいのかもしれないが。
「……なんだキアラか」
「見ないで!」
キアラ・ファーガソン。バージルとは血の繋がりのない親子。なぜ二人が親子になったかはバージル以外に知る者はいない。
アルにとってはまだ親父が生きていた頃に一緒に遊んだ幼なじみだ。
彼女が裸体を見られまいと必死にしゃがみ込む。アルもいきなりのことで唖然とするほか無かった。アルは気が抜けたように銃の構えを解く。
「なにをしているんだ、こんな所で」
「身体を、身体を洗っていたのっ」
「密猟者じゃなかったか……」
「みつりょうってなんですか、なんでもいいです、あんた何なの! ああもう!」裸体の少女はアルよりも小さな身体をさらに小さく丸めて叫ぶ。
「すまない、分かったから服を着てくれ」アルは銃を地面に置いた。
「取って、服、そこ」
恥ずかしさに頬を染めながら少女は指さす。その指先、アルの足元に服が綺麗に畳んでおいてある。
「これか、これだな」
「それ、早く!」
服を渡そうと歩み寄る。できるだけ彼女を見ないようにしながら。
「ああ、来ないで! なに見ようとしてるんですか」
「取れって言ったのはそっちじゃないか!」
「ああっ! もういいわ、そっちに取りに行くから後ろ向いてて。見たら石投げるからね」
「最初からそうすりゃいいのに……」
アルが森の方を向くと背後から足音が近づいてきた。河原は石だらけで歩きづらそうだ。
一度、よろめいたのか、小さな悲鳴が聞こえた。
「見ないでよ……」
彼女は再びアルに振り向かないように念押しした。
盛大に河原の石が崩れる音。背中に軽い衝撃と細い悲鳴が聞こえた。唐突に訪れた衝撃にアルは抗う事ができず倒れる。
「うわっ」
誘われるような、甘く不思議な香りがアルを包んだ。受け身をとった右手には川原の石よりも柔らかい感触。目を開けると目の前には例の少女の顔があった。
間近でみると結構かわいいじゃないか。
「ててて、だから河原は苦手なんですよ……って何しちゃってんですか!」
「すまん、大丈夫か」
「んっ……、ありがと」
アルは驚いてキアラを抱き起こした。同時に二人はキアラの胸元にあたっているアルの右腕に気がつく。
彼女は驚き、アルの右手を払い、手にした服で胸元を必死に隠す。
「意外と……あるな」
「ほんとっ、あんたはどうしようもない、ああっ! もう!」
キアラの顔が羞恥の色に染まった。ひょっこりと、髪の間から獣の耳が現れる。
亜人、この半島に昔から住んでいる者達を後から来た入植者たちはそう言った。
かつて、魔法が世界中にあふれていた時代、人間達が戦った相手だ。かつては猛獣同然の外見と人並み外れた怪力を誇り、人間の生存圏を脅かしてきた。
だが、七五年前にすべてが変わった。流星の夜、突然の魔力消失によって彼らは徐々に弱体化し、半島での影響力も急速に低下した。
かつても獣の姿のまま二本足で闊歩していたが、今となっては部族間で差があるものの、はほとんど人間と容姿は変わらない。
流星が彼らに残した、数少ない太古の痕跡が大きな犬歯と耳。
そしてこの娘から出る甘い香りの正体は、石鹸で洗った髪の毛の匂いなどで決してない。本来彼にとって獲物となるべき獣の匂いだ。
「すまなかった。だから……」
「だからなに!?」」
「だから、その、服を着てくれ」アルは後ろを見ないように言った。
「……あ」
少女はその言葉に我に返り、慌てて散らばった服をたぐり寄せる。気まずい沈黙の中、衣擦れの音が余計にアルの心を僅かに乱した。
「もう大丈夫よ」
少女の声にアルは振り向く。頭から生えていた耳は髪に隠れて見えなくなっていた。
キアラは以前と比べて、顔は幼さがまだ残るものの、体の方は色々な意味で肉付きもさらに良くなっていた。服はところどころ擦り切れてはいるが定期的に繕っているようだった。派手ではないが清潔感はある。
「お前、また大きくなったか?」
「私も十七なんですから。立派な淑女でしょ?」
「今の時代、学もなきゃ大陸では淑女と言わないらしいぞ」
「もう、なによ! アルだって、こんな所にいて大丈夫なの? さっき鉄砲の音がしたじゃない。もしかして、まだ密猟をしてるの?」
「そ、そんなわけないだろ。今は開拓者向けのガイドをやってる」
「そうには見えないけど」
「俺だって真っ当に生きてるつもりだぜ?」
アルはとっさに嘘をひねり出そうしていたせいで、近づいてくる猟犬の足音に気づかなかった。草がざわつき、森から猟犬が飛び出した。
「犬!? バージルのおっさんのとこの!」
犬はアルに吠え立てて、森の主に獲物の居場所を告げる。アルは犬を黙らせようとなだめたり、命令してりしたが無駄だった。犬は噛みつく勢いでさらにアルを威嚇するだけだった。
「パティ!」
キアラは犬に近づくと両腕で抱きかかえて『よしよし』と丁寧に毛を撫でたた。犬はすっかり大人しくなって、じゃれ合いながら顔をキアラにうずめた。
「アルってば、まさか父さんに追われてるの?」
「犬でおびき出そう、ってわけか」
「今はまっとうだなんて嘘なのね?」
「……」
アルは答えに窮する。その沈黙でキアラは確信した。
「信じられない! 捕まれば最悪縛り首よ。普通の猟師じゃだめなの?」
キアラはアルが嘘をついていると知ると烈火のごとく顔を赤くした。
「都市の免状はアングリア以外との毛皮の売買を禁止してるだろう」
アルは開き直って続ける。
「ラゴール人と取引できなくなるのは御免さ、俺達の女王陛下と違ってラゴールの王様は気前がいい。支払いはいつも銀貨だからな」
半島の毛皮は大陸世界では珍重されていて、入植者にとって貴重な現金収入の一つになっている。多くの入植地を持つアングリア政府は独自の狩猟免状を発行することによって毛皮貿易を独占しようと考えていた。
「あんたなんか、捕まっちゃえばいいのよ」
「なら今すぐ俺をとっ捕まえて、突き出したらどうだ」
「それが出来ないのは、知ってて言ってるでしょ……」
「だろうな。だからこうしてきてるんだ」
「お願い、密猟なんて危ないことはやめて。アルの素質は父さんも認めてるんだから」
「バージルのおっさんが? 冗談だろ」
「自制と忍耐を学べば良い猟師になるって。森林官にだってなれるって」
「よせよ。誰かに雇われるなんて御免だ。俺は自由な猟師なんだ。誰かに縛られるのも、誰かを縛り上げるのも御免だ!」
これは本音だった。父の最期を見てから人が人をを裁く事は出来ないと知った。森林官なんて判事の手先だ。
「今の生活を続けるつもり? いつか命を落とすことになるわよ!」
キアラは凄い剣幕でまくし立てた。その目には涙が浮かぶ。
アルは黙った。言い返せなかった。
最近、毛皮貿易を巡ってラゴール王国とアングリア王国の入植者同士の対立が激しくなってきている。今のところは小競り合いで済んでいるが、それも死人が出るか、大陸の方でまた戦争が起きれば今度はこの界隈でも戦争になると噂が立っていた。
「解った、解ったから泣くのはよしてくれ」
「解ってないじゃない……それに泣いてなんかないわ!」
犬の鳴き声で思考を中断された。アルは自分の今の状況をすっかり忘れていた。
アニエスを泣かせてしまったアルを非難するように、パティの鳴き声が段々と大きくなっていく。バージルに見つかるのも時間の問題だ。
アルは辺りを見回した。森林官は密猟を犯す者に音もなく近づき、姿を見せること無く撃ち倒すという。
木陰がざわついたようなそんな気がした。アルは戦慄した。
バージルだ。こっちの足跡を消す余裕はなかったし、居場所なら犬が吠えた時にとっくにバレている。
なぜ向こうは仕掛けてこない? 何かの罠?
アルは疑心暗鬼にかられ、考えるよりも先に身体が動いた。
「イヤっ、なにするのよ」
アルはキアラの腕を掴み自分のそばに寄せた。キアラは顔を真赤にして抵抗するが、密猟者の腕はそうは簡単に解けない。
「まさか自分の娘ごと撃ったりはしないだろう、さ!」
「どうして……」
「俺には学はない。自分の名前だって書けやしない。そういう人間がこの厳しい大半島で生きていくにはな、これしかないんだよ」
静かにアルが自嘲気味に吐き捨てた。
アルの言葉は少なからず真実が含まれていた。貧しい者の大抵は学校には通ったこともない。
農家に生まれれば畑を耕し、都市に生まれれば工場で糸紡ぐ。貧しい家に生まれたならば、誰もが働かなければならない厳しい現実がそこにあった。
あまつさえ早くに親を亡くしたアルがまともな道を外れて生きていくのは自然な成り行きだった。
「勘違いしてる、たくさん」キアラは悲しい顔でつぶやいた。
「だからなんだ?」 アルは自暴自棄になっていた。
「……たくさん有りすぎてここじゃ全部言えないけど、一つ教えてあげる」
「ここの森林官の娘は……身体にも武器を隠しているのよ!」
キアラが歯をむいた。人ならざる牙が口元から覗く。肩越しにアルは噛み付かれ、同時に鋭い痛みが肩に走った。キアラはその隙に緩んだ手から逃れて走り去る。
「くっ」
不意を突かれたアルは、その直後に猟犬パティの体当たりを受けて倒れた。しりもちをついたアルが目をやると離れた所にキアラ、そこに向かってかけていく犬が見えた。
逃げなければ。このままでは狙い撃ちにされる。
アルが走りだした瞬間、茂みのどこからか銃声が聞こえ、脇腹に強い衝撃を受けた。以前酒場の酔っぱらいから受けた拳とは比べ物にならない苦痛だった。
アルは初めて撃たれた銃弾の痛みに悶絶し、何か言おうとして、そのまま倒れた。