女王陛下万歳!
途中の廊下は大理石を敷き詰めた床に、白塗りの壁。天井は見上げるだけで首が痛くなるほど高い。廊下には石膏で出来た胸像や人物画が等間隔に飾ってあった。アルはなんの為の物かすら理解できなかった。
馬の主は総督の秘書だった。彼はしきりに義勇騎兵隊の非礼を詫びて行き違いがあったと釈明した。彼はあまり騒ぎになると良くないので、まずは数名の代表が総督に会った方がいいと説明した。バーンズはこれに同意した。バーンズは自分に加えて、アルとバージルの三人を村の代表に、騎兵の代表としてアニエスを連れて行くことにした。
そう言うわけでアルは今、総督の執務室にいる。
秘書が扉を開けると、正面にきらびやかなフロック・コートを着た初老の男が視界に飛び込んできた。彼はトレーにティーカップを載せたまま壁ぎわに立っていた。
「あんたが総督様、かい?」たどたどしくアルが尋ねると彼の方は取り乱した様子もなく自らの主を指し示した。
その指差す先に目的の男がいた。大きな身体が小さな椅子に収まっていた。はちきれんばかりの腹の肉をなんとか服の間に詰め込んだ、そんな具合だ。
巨漢の彼はこちらの存在に気がつくなり、とんでもなく大きな声さけんだ。
「おお、レイカー! バーンズビーのバーンズじゃないか! 話は聞いたぞ、一等おっかないのが出たんだってな! ラゴールの連中とうとう前と後ろの区別がつかなくなったか!」
ひとしきりまくしたててら、乱暴に立ち上がる。その勢いで椅子が後ろに倒れるのも気にする様子もなく、バーンズを強く抱擁する。
「おい、いつもこんな感じなのか」アルが総督に聞こえないようにバーンズに質問する。
「酒に酔ってはいないぞ、恐ろしく頭が回りすぎて、自分でも制御できてないんだ」
彼は椅子に座ろうとしてそれが倒れているのに気がつくと、またも盛大に悪態をつく。
「くそったれ椅子野郎が、バーンズ村を襲うとは!! こいつ全く直ぐ倒れると来たもんだ。安物はこれだからいかん」
「この人、心配です」
「落ち着いてくれ、マクルーアン。他の人達にお前さんをきちんと紹介しにゃならん」
「確かに! その通りだ。失礼があってはならないからな!」
マクルーアンの言葉を聞いて、やれやれ、と村長がため息をつくのがアルにはわかった。
「みんな知っとると思うが、ワシの古い友人、グレートティンバー入植地総督、ダニエル・マクルーアンじゃ」
「よろしく頼む」それからひとりひとりに硬い握手をした。
「君は随分と若いな」
「アルヴィン・ウォーデンだ。アルでいい」
次にアニエスと握手したときに、彼がまたもや驚きの声を上げた。
「君は女かね!? しかも軍人のようだな!」マクルーアンは手を握ったままアニエスの深紅の燃えるような軍装をしげしげと見つめる。
「その通りです、閣下。お会いできて光栄ですわ」完璧な気品のこもった笑みでアニエスが答えた。
「マクルーアン、まだ紹介しておらんぞ。聞いたら飛び上がるぞ」村長は少し下品に笑うと説明を続けた。
「名誉をもって紹介いたそう。初代ポスナニア女公爵、アニエシュカ・クレメンティナ・ロタリンスカ閣下」芝居がかったバーンズの紹介も相応の敬意から来てるかのようにマクルーアンは受け取った。
「嘘だろ、レイカー? ああ、なんてこった。世が世なら女王陛下だぞ。どうか非礼をお許し下さい」途端にマクルーアンは巨躯を丸めてアニエスの足元にかしずいた。
マクルーアンは言葉は粗雑だが暗愚ではない。かつて大陸に存在し、戦火の中に消えたポスナニアという名の王国。首都を含む地域がラゴールに併合されたことも、王家が公爵家に格下げされたのも彼は知っていた。
「申し訳ねえ、ポスナニアの騎兵と聞いていたが、まさか忘れ形見の姫君がおられるとは。父王が亡くなってポスナニア公爵位は廃位されたと思っとったが」
「ポスナニアには女性にも爵位の継承が形だけ認めれられているんです。あとは領地を接収したラゴール側の政治的な思惑でしょう」
「これは重ね重ねとんだご無礼を……」
「いいえ。とても力強い挨拶で嬉しかったですよ」
「こんな事ならファンファーレでも用意しておきゃよかった……じゃなかった、ですよ! じゃない、ですだよ、? くそっ」
慌てて口調を直しても遅い。アニエスはクスクスと笑いながら慣れない彼に告げた。
「今は一介の騎兵中尉です。どうか今後もそのように扱って下さい」
「わ、わかった。中尉」しどろもどろになりながら、マクルーアンはゆっくりと後ずさりした。
マクルーアンは倒れた椅子を元に戻し、少しばかり咳払いをしてから、再び話を切り出した。
「大変だったようだな。村の事件は自分も聞いている」マクルーアンは部屋の窓へ歩み寄る。
「当分、村を再建するのは難しいだろうが、それまでの生活は全力で支援しよう」
「ありがたい。生きてさえいればどうとでも成るものじゃ」
「本国の議会は何も理解していないのだ。再三、ラゴール軍の侵犯行為に対して厳重に抗議するよう手紙を送ってもまるで相手にしないんだ」
彼は窓の外の風景を眺めていた。執務室は街の中でも要塞施設の中枢にある。なので彼の部屋から要塞の練兵場も見ることができた。
そこに映るのは我がアングリア植民地唯一の正規軍、第九二歩兵連隊だ。
連隊は四つの大隊から成る。ここナレッジヒルに駐屯する第一大隊と第三大隊は行進訓練をしていた。外国の軍服を着た士官が一人、巨大なコンパスのような道具をくるくると回して行進している五〇〇人ほどの兵士たちの一歩一歩を図っている。
少しでもずれようものなら彼の怒号が飛んだ。士官が直接、兵の訓練を行うのは異例と言ってもいいだろう。
「連中、俺が陸軍の増派を申請すると助けるどころか監視をよこしがった」
「例の行政長官じゃな」
「ああ、サー・ジェイムズには会ったな?」
「ああ、本国にいた頃を思い出したわい!」
「正直すまんかった。あの男は議会が派遣していきた男でな。元老院にとても顔が利くらしくワシ一人の権力では抑えきれない」
「総督はここでは絶大な権力を持っているのでは?」
それもアングリア女王のサイン入りの証書だ。
各入植地の長は本土の行政府から物理的にとても遠い場所にあるため、入植地の司法、行政は女王の指名する総督によって管理されていた。
「この街の中に関して言うなら二重権力状態さ! あいつは事もあろうに、議会の要請書を持っていた。曰く、この文章を読む者はサー・ジェイムズ・パケナムの任務を遅滞なく果たすべく最大限の便宜を図るよう議会の名において要請する、ってな!」
机をドンと叩いて怒りを露わにした。
「つまり、議会の認めた権力と女王の権力が拮抗しているのね」
「奴は売官制度を利用して民兵大尉の資格も手に入れ、騎兵隊を指揮してると来たもんだ!」
売官制度はアングリアの「伝統を重んじる伝統」と呼ばれる悪しき習慣の一つで、かつて国庫が破綻した時に男爵の資格を資産家達に金でばら撒いたのが始まりで、この制度は組織として若い海軍以外では、ありとあらゆる組織に蔓延していた。
陸軍でもある程度の階級までは、一定の金を積み、所定の期間経れば、勲功が無くとも昇進出来るようになっていた。
そして、そんな金のない者は死亡や昇進によって一階級上の人間に欠員が出来るまでは戦時でも無い限り、昇進は絶望的だった。
「売官で優秀な人間が高い地位についたのをワシは聞いた事があるが、今回はどうやら違うようじゃな」
「我々は、ポスナニア人はどうなるんでしょうか」アニエスが聞いた。
ポスナニア騎兵の扱いに関してはマクルーアンもやはり慎重だった。
「残念ながら、君らを街の中に入れるわけにはいかない。今はな。奴が目を光らせている上に街の住人も君らが突然現れたら驚くだろうしな」
渋い顔でマクルーアンが言った。皆が不安な顔になるのを見てマクルーアンが続けた。
「まあ、そう深刻そうにするな! 街の外ならヤツの権限は及ばない。ちょっと離れた所に今は使われてない農場がある。厩舎も十分な広さだ。修理すれば直ぐに使える」
「ええ、そうしていただけるなら、助かります」
「せっかく一緒にここまでやってきたのにバラバラになるのかよ」アルが不満そうに漏らした。
「仕方ないわ。ラゴールでもアングリアでも事情は同じ。私達は此処では異邦人なの。捕虜にされなかっただけでも十分だわ。武装は解除されないのですね?」
「無論だ。君のような高貴な人間から剣を取り上げることなぞ出来んからな!」そう言ってマクルーアンは椅子を揺らして一人で大笑いした。
アルはそのやりとりに、どこか見知らぬ村の明かりのような疎外感を感じた。
その原因はアルも分かっていた。ただ、彼はこれ以上面倒なことにも関わりたくなかった。今までどおり、森の奥深くでの狩りの日々に戻りたかった。
彼らが安堵するのは当然だ。短い放浪の旅も終わり、やっと屋根のある建物で温かい食事が取れる。その事がどれだけ貴重かこの二日間で全員が思い知ったのだ。
アルは都市というものが窮屈に思えて苦手だが、それでもしばらくの間、そんな暮らしも仕方ないと思っていた。
廊下を慌ただしく走る靴の音と共に一人の男がドアを乱暴に開ける音が部屋に響いた。
街に来るときにアル達を案内した男が、慌ただしくやって来た。
「なんだ? 今は客人が来ているんだけどなぁ」マクルーアンは自分の秘書を睨んだ。
「非礼をお許し下さい。閣下に至急お目にいれていただきたいものが……」
息も切れ切れに男はマクルーアンに一枚の紙切れを渡した。彼はそれを取り上げると、老眼鏡を取り出して読んだ。短い一文だったが、彼は書かれている内容が信じられないかのように二、三回文章を読み直し、その文章が意味するものを想像して、打ち震えた。
「マクルーアン、どうしたんじゃ?」
「みんなよく聞いてくれ。たった今入った情報だ。ラゴール王国がフォルブルートブルク公国に宣戦布告した」
「それが、どうした。アングリアではないんだろう?」
「フォルブルートブルク公国は女王陛下の出身国であり、同盟国じゃ」
「じゃあ、つまり……」
「昨日付けでラゴール王国とアングリア王国は交戦状態に入った。我が国の西部の植民都市にラゴールの外交官がそう告げたそうだ」
「今までの小競り合いとは違うぞ。これは大陸世界を巻き込んだ大戦争になるぞ」バージルが震えていた。彼は村が襲撃された時でもこんなには震えていなかっただろう。
「戦争か……」アルにとってその言葉は不気味さを感じさせた。
急に雲が垂れこめた黄昏時のような、先行きの見えない感覚にアルは襲われた。
不安と言う単語がふと思い浮かび、次には期待、という言葉が彼の脳裏に浮かんだ。そんなはずはない、自分は闘いを望んではいないと考えを打ち消した。
「戦争ね」アニエスにとって何度目か分からない言葉。
湧き上がる感情はかつて自らの国が滅んだ時と同じ。確実なのは人が沢山死ぬということ、そして多くの憎悪を見ることになるだろう。
でもあの時とは違う。今のアニエスには時間がある。
なにより力強い仲間がいる。
アルは視線彷徨わせ、不安を紛らわせる何かを探す。ふと二人の目線がお互いを捉えた。アニエスが柔らかに微笑み、アルはその瞬間に今まで感じなかった安堵を見出した。
その時、窓の外から開戦を知った兵士たちの、沸き立つような鬨の声が響いた。
――邪悪な意思に災いあれ。女王陛下万歳!