聖霊省
「飛鳥先輩。此方にいらしたんですか」
不意に聴こえてきた、自分の名を呼ぶ少女の声。
聖霊の話に引きずり込まれていた飛鳥の意識をハッとさせ、自分が学校の屋上に居たことを思い出させてくれたその声は、最近聴き覚えたばかりの声だった。
「え? あ、……アリ、ス?」
声の正体は先日、朱里に紹介されてファミレスで知り合った颯天 アリスだ。
突然、何の前触れも無く現れたアリス。彼女の姿に驚いて、飛鳥の舌が上手く回らないでいると、
「……どうして、疑問符がついたような言い方をするのですか? まさか、もう私の名前を忘れていたんじゃ……。だとした、先輩にはガッカリしましたと、肩を落とさざるをえないのですが」
西洋人形のような可愛らしい顔を拗ねた表情に変え、冷たい印象を与える色をした青い瞳を細めて、ジトッとした視線を此方に刺してきた。
「あ、いや! 別にアンタの事を忘れてた訳じゃないって! ただちょっと、なんというか……」
間が悪かった、としか言いようがない。
先程まで“強い殺意”やら“負の感情”やらなどと、まるで崖っぷちに無理矢理立たされたみたいな、気が滅入りそうな話に呑み込まれていたのだ。
そんな飛鳥にとって、アリスの突然の登場は本当に予期していなかったし、それに驚いて口篭ってしまうのも、無理もない。
『なぁなぁ、この可愛い女の子は誰だ? クソ餓鬼の知り合いか? なら、俺にも紹介してくれよ!』
紅い瞳をキラキラさせ、まるで欲しいものをねだっては親に駄々をこねる子供みたいに両翼をはためかせながら、カルエデスが聞いてくる。
……さっきまでのシリアスムードを何処へやった。女なら誰でも良いのか、お前は。あと、翼をバタバタさせるな、黒い羽根が散る。
「……凄い。本当に人の言葉を喋ってる。皆が言っていた通り」
そう言葉で驚きを表しつつ、アリスはカルエデスの近くまで寄って膝を折った。
「なんだよ、皆って?」
「今、学校中で先輩たちの事が噂になってるんです。『ずっと聖霊と契約出来なかった二年生にようやく聖霊がついた。しかもその聖霊は人の言葉を話す、とても珍しい聖霊だ』って。どの学年も、クラスも、先輩たちの事で持ちきりですよ」
そんなに知れ渡っているのか。
小さな学校でもないのに凄いスピードだ。
「ですから私、そんな先輩の聖霊に、お友達になって欲しくて、お二方を探していたんです」
『友達!? 俺と! なるなる! 君みたいな可愛い娘とお友達になれるなら、ぜひ!』
「良かった……ではお友達になってください。“この子”と」
アリスは肩に掛けていたカバンをカルエデスの目の前に置いた。
カバンのジッパーを全開にすると、中から白くてふわっとした、あの愛くるしい『氷兎』が顔を出した。
「是非、先輩の聖霊さんとお友達になっていただきたいのです。私の大切な家族のラフィスと」
ああ……そっちとですか。
眼に見えてガッカリと項垂れるカルエデスに、アリスとラフィスは揃って、クリッと首を傾げた。
「先輩の聖霊さん。よかったら、貴方のお名前をお聞かせ願えませんでしょうか。教えていただけたら嬉しいですと、期待で胸を膨らませます」
『ん? おお、いいぜ。でもまぁ、俺の名前を聴いたらきっと驚くだろうからな。ひっくり返ってもいいように、スカートだけは押さえておいた方がいいぞ』
片翼を嘴の前に当て、ウオッフォン! と、わざとらしい咳払いをして(実際の鳥は咳払いなんてしないだろうが)勿体ぶっている間に、
『俺の名前は――』
「……“ルゥ”だ」
『カ、るぅ!?』
代わりに飛鳥が答えた。
見せ場とばかりに間を溜めに溜めたカルエデスは、この飛鳥の暴挙に相当お冠だ。
『おいコラクソ餓鬼! 俺の見せ場を横から奪っていくんじゃねえよ! ってか何だよ“ルゥ”って! 勝手に名前を略すんじゃねえ!』
「あんなぁ……昨日みたいなデカイ状態だったらまだ分かるけど、ちっさい状態のお前に“カルエデス”なんて名前、仰々しくてとてもじゃねえが似合わねえよ。今のお前はルゥって名前の方がしっくりくるって」
『だからって略すな! ってか、ちっさい言うな!』
クワァ! クワァ! と、威嚇しながら翼をはためかせてぞんざいな扱いに抗議するカルエデス……改め、ルゥ。
「…………カルエデス」
その横ではアリスが反芻するように、その名前を口の中で転がしていた。
「アリス……? どうかしたか」
「え? ……あ、いえ、何でもありません。……そうですか、貴方はルゥ君というのですね。可愛い名前です。ラフィス共々、私達と仲良くしてやってください、ルゥ君」
だから違うんだ……。という嘆きが聴こえてきそうなくらいにルゥは首をガックリと垂れ下げた。
落胆するルゥを不思議そうに見やるアリスとラフィス。なんだか面白い構図だなぁ。と、飛鳥が呑気に眺めていると、この屋上にまた新しい客がやって来た。
「ヤッホー、アッつん! やっぱり屋上にいたのねぇ! 『馬鹿とアッつんは高いところが好き』という諺はよく耳にするけど、それを見事に体現してるわね! アッパレだわ!」
……何がアッパレだ、バカヤロー。
屋上に来るや否や、こちらの顔を視るが早いか。現れたのは人を苛つかせる天才の朱里だった。
挨拶代わりのおちょくり発言に、飛鳥のこめかみにギュッ! と摘めた十字の皺が浮かぶ。
朱里が現れたという事は当然、何時もの面子も揃う訳で。
「継野宮さん、それを言うなら『馬鹿と煙は高いところに上る』だよ。なにも飛鳥君を名指した諺じゃ無いからね?」
「マジレスしてやるなよ、ユウ。シュリっちはな、分かっていながら敢えて言ってる性悪なんだからよぉ」
呆れた様子を見せながら優人と昂祐も屋上に現れた。
「って、あーーっ! アリスちゃんじゃない!」
と、ここでお気に入りの後輩の存在に気づいた朱里が歓喜の声を上げる。
うんざりとした表情を浮かべる、飛鳥を含めた男三人集の冷ややかな視線を何のその。朱里はルンルンとした弾むような足取りで近付き、アリスの隣にベッタリと張り付いた。
「こんにちわアリスちゃん! アリスちゃんもここでお昼食べるの? メニューは何? 購買のパン? それとも手作り? もしかして私の分も有るとか? ひょっとして私に会いに来てくれたりとかあ!」
「……継野宮先輩。聞きたい事はせめて一つに纏めて頂きたいですと、そのマシンガントークに苦言を呈します。ついでに言うと、手作りですが、先輩の分は作ってませんし、先輩に会いに来た訳でもありませんのであしからず」
「辛辣っ!? でもそんなツンケンしたところがまた良いっ!」
嬉々としてニコニコする朱里の隣で、『この人には何を言っても逆効果か』と諦めたようにアリスはため息を吐いた。
腐れ縁とでも言うべきか。何処に居ても結局はこの顔ぶれが揃ってしまうのかと。飛鳥は倦みながらも、その居心地の良さに、ひっそりと笑みをこぼしていた。
「――それにしても驚きよねぇ。まさかアッつんに聖霊がつくなんて。私、絶っっっっ対に、卒業しても契約出来ないと思ってたからちょービックリ」
対面して座っている当人に向かって、朱里はなんとも失礼な言いぐさをかましてくる。
おまけに言い終わった後の、昼食用に買ってきたのだろう若干大きめなハンバーガーを幸せそうに頬張っている顔が憎たらしい程に太太しい。
「まぁシュリっちに同意する訳じゃねえが確かに驚いたわな。……けど良かったじゃねえか、アス。念願の契約聖霊が出来てよお」
「おめでとう飛鳥君。本当に良かったね」
そんな朱里とは真逆で、両隣に腰を下ろす二人の友人からの称賛と優しさがとても骨身に染み入った。
やはり持つべきものは友達だなぁ……それに引き替え朱里ときたら、
「ねぇねぇルゥちゃん。『こんにちわ』って言ってみ? お利口だから。言えたらポテトあげるよお~。ほら、こ~んに~ちわ~」
『俺を九官鳥みたいな扱い方すんじゃねーよ! ……けど“ぽてと”っていうのは欲しい、食いたい』
既に彼女の興味は飛鳥には無く、人の言葉を理解して話す、世にも珍しい聖霊へと移っていた。相変わらずこの女、自由すぎる。
それにルゥもルゥだ。朱里が目の前にぶら下げた、こんがり狐色に揚がったホクホクのポテトフライにすっかり夢中になっている。
……何を簡単に餌付けされているんだ。この節操無しのバカ烏め。
「っにしてもアスの聖霊ってホント珍しいよな。人の言葉を喋るなんてよぉ。……こんな芸当が出来る聖霊は、流石にあのバカでけぇ“宮殿”ん中にも居ねぇんじゃねーのか?」
そう言って昂祐は持っていた握り飯の残りを口の中に放り込んで、南の空の方に視線を飛ばした。
飛鳥達の通う聖霊校から遠くに見える、しかし、離れているにも関わらず圧倒的な存在感を放つ建築物。
緑に囲まれた広大な土地の中央に建ち、四つの丸塔に囲まれた、中世の雰囲気と風を纏ったその佇まいは正に宮殿だった。
「昂祐君の言う宮殿って……聖霊省の庁舎のこと?」
口の中の飯を咀嚼して飲み込んだ昂祐は優人の問いに、首を縦に振って答えた。
「あそこには色んな部署があっからなぁ。ワリィ事をした術者を捕まえたり、ど偉い奴の警護を任されたりする、戦闘のプロ集団が集まった『執行部』。海外の聖霊術士や聖霊校とに橋渡し役で、伝達や移動能力に優れた『国際連盟部』に『教育部門』とかよぉ。他にもあっけど流石に聖霊と漫才出来るようなおもしれぇ奴はいねぇだろ」
……それってオレの事を言ってるんじゃないだろうな? 人を大道芸人的な言い方をする昂祐に、飛鳥は目を細めた視線で訴えた。
聖霊省は、聖霊術士で構成された機構であり、聖霊と共存する各国との外交や術士を取り締まる司法を持ち、世界中の国々にその施設が設けられている政府公認の組織である。
その活動内容は主に、悪事を働いた聖霊術士の捕縛や暴走した聖霊の鎮圧、及び保護(我を忘れて暴れまわる聖霊の殆どは契約者のいない宿主無し)。
対聖霊、聖霊術士専門の警察のような一面も持っている。それ以外にも役目はあるが、一般市民や聖霊校の生徒の認識はそれに尽きていた。
「フッフッフ……情報が古すぎるわね、天パー! 爪が甘い、甘過ぎるわ! カカオ百パーの板チョコを溶かして一気飲みするくらいに甘々だわ!」
……いや、朱里よ。むしろそれは苦いだろ。顔がひきつって歯茎が剥き出でるくらいに。
そしてポテト片手に立ち上がってドヤ顔しても何の迫力もないぞ。
「私、当校の新聞部所属にしてエースである継野宮 朱里様が掴んだ情報によると……居るのよ。コウの言う、おもしろそうな人が日本の聖霊省に! 最近、執行部にとてつもない大物が入ったらしいわ! それも二人もね! これ、確実な情報だから信じて良いわよ!」
得意げにそう言うと朱里は持っていたポテトを口に入れて、腰に手を当てる。
その隣では、貰えると思っていたポテトを目の前で食べられ、ショックを隠しきれないルゥが瞳を濡らして恨めしそうに朱里を睨み付けていた。
「まず一人目! 年齢、性別、名前、及び国籍不明。そして契約聖霊の正体も謎に包まれた、新進気鋭の若手執行部員! その異名は……『冰矛』!」
さぁ、驚き戦け! と言わんばかりに鼻をムフーと鳴らして自信有りげに胸を張る朱里。
だが不確定要素の多いそんな情報に、飛鳥を含めた男三人集が難色を示す。
「ひょうむ~? シュリっちよぉ、流石にその名前は無えわ。中二病じゃあるめぇしよお」
「それに『掴んだ情報!』って自信満々に言うわりには分かってない事の方が殆どだったしな」
「なんか、継野宮さんには申し訳ないけど信憑性無さすぎるよね」
――――ブチッ。
「…………『エルシュ』」
朱里がボソリとその“名”を口にした次の瞬間、ズドンッ! という重くて鈍い音が空に響き渡り、朱里の足元の地面がほんの少し砕けた。
まるで大きな拳が力一杯振り下ろされて出来たその円い窪みに、男三人は言葉を失い、アリスとルゥは目を丸くして驚き、ラフィスに至ってはあまりにも恐かったのか、アリスの膝の上でガタガタと震えていた。
「ゴぉメンなさぁ~い! アタシの聖霊ってアタシの事がだぁい好きで、アタシと違って気が短いのよぉ! この子ったら、今アタシが馬鹿にされたと勘違いしちゃったみたいでぇ。ホントごめんね~!」
「いや、今のはシュリっちが聖霊をけしかけたんじゃあ……」
「なぁに? 天パー?」
「……ナンデモナイデス」
顔は笑顔なのに目が笑っていない朱里の眼差しに、身の危険を感じた昂祐は直ぐ様その口を引っ込めた。
相変わらず沸点が低すぎる。おまけに何か気に入らない事があるとすぐに聖霊の力で有無を言わせないようにするところは一年前から変わらない。女番長、いまだ健在である……。
「そ、そうだ継野宮さん! 執行部にはもう一人、凄い人が入ったんでしょ!? ぼ、僕、その人の事も知りたいなあっ!」
流石は優人。場の空気を変えようと率先して口火を切ってくれた。頼りになる奴だ。自分には決して出来ない。……怖いから。
「ん? ……フッフッフ、まぁそこまで期待されたら教えないでも無いわ! なんてったってアタシ、優しいから!」
本当に優しい奴は自分で自分を優しいなんて言わねえよ。
と、誰もが抱いたであろう心の声を飛鳥はググッと胸の奥に無理矢理押し込んで、機嫌を良くした朱里の言葉を待った。
「これは本当に驚くわよ? 何故ならその人物は、数多くの凄腕聖霊術士を世に輩出し、何代にも渡って聖霊省に貢献してきた名家の次期当主……その名は、フェイル=ローグナー!」
今度はまともな情報だったなと感心する反面、フェイル=ローグナーという名に聴き馴染みが無かった飛鳥が一人首を傾げていると、
「ローグナーってあの名家の! 継野宮さん、それ本当なの!?」
「マジかよ! そりゃホントにスゲー大物じゃねえか!」
飛鳥とは真逆に両隣の二人が、その名を耳にした途端、響きだした。その反応に朱里はとても御満悦そうだ。
「なぁ、誰なんだ? その“ふぇいるろーぐなー”って?」
「「「えっ?」」」
何気無く疑問を口にしただけの飛鳥を『コイツマジかよ……』的な軽蔑を籠めた昔馴染み三人の、目を細めた冷たい視線が責め立てる。
いや、だって……知らないものは知らないんだから仕方ないだろ……? と、ちょっとばかし心が折れかけてきたころに、
「……フェイル=ローグナー。英国の聖霊校に在席する二年の男子学生です。ローグナー家の歴史は深く、初代当主は聖霊省を設立した初期メンバーの一人で、当家の省内での地位は確固たるもの。二年前、聖霊術士としての腕前を買われ、若冠十五歳という若さで英国聖霊省の執行部にスカウトされた……全国の聖霊省に居る聖霊術士の中でも指折りの実力者です」
まるで手元に人物手帳でもあるかのように、スラスラとフェイル=ローグナーという項目をアリスが読み上げていく。
その見事な説明に、飛鳥を除いた三人が『おぉ~!』と拍手と称賛の声をあげる。
「す、凄いなアリス。よくそんな事を知ってるな?」
「聖霊術士を目指す人なら誰でも知っている事です。恐らく、全国の聖霊校の中でも知らない生徒は飛鳥先輩だけですと、先輩の世間の疎さをほんの少しばかり非難してみせます」
「うぐっ……」
アリスからの蔑みに、今度は完全に飛鳥の心がポッキリと手折られた。
「あのねぇアッつん。相手は世界中にある聖霊校に在席する生徒の中でも『最強』と謳われている聖霊術士よ。それを知らないって言うのはちょっと……ねぇ?」
「あーあー! 悪かったよ! オレが悪うございました!」
最早、やけっぱちに言う、心の折れた飛鳥には恥も外聞も無かった。
『ププッ! ダッセェなぁクソ餓鬼』
「うっせえ! 焼き鳥にすんぞ! このバカ烏ッ!」
『んな!? 誰がバカだ! ってかカラスって呼ぶんじゃねえ! 聖霊虐待反対! 聖霊虐待はんたぁぁいっ!』
……なので、自分の聖霊に八つ当たりするのに、なんの躊躇も無かったです。
「っつーかさぁ、朱里。その、なんとか、って家の次期当主がさ、なんで日本に居るんだよ? 英国の聖霊省の所属なのに。そこんとこはどうなんだよ?」
「さぁ?」
「さぁ、って……えらくタンパクだなオイ」
「流石にそこまではアタシにも分からないわよ。……けど、わざわざ海を渡って日本の聖霊省に出向して来たって事は、それなりに理由があるはずよ。それも、大きな理由がね」
……確かに、なにかしら理由が無ければ日本にまで来るはずが無いだろう。何か訳があるはずだ。
「面白くなってきたじゃない。ジャーナリストとしての血が騒ぐわ! これから忙しくなりそうね!」
何がそんなに面白いのか。
急によく分からない使命感を燃やす朱里に、優人と昂祐は『頼むから変な事に巻き込まないでくれよ』と心の中でそう切に願っているような表情を浮かべていた。
(……冰矛に、フェイル=ローグナー、か)
飛鳥の頭にその二人の名がフッと過る。
この時の飛鳥は思いもしなかった。
飯時の雑談に何気無く出てきただけだと思っていた名の二人の人物が、
――これからの人生に欠かせない……大切な存在になるという事を。